「北姑南雄──上海ツンデレ武侠伝」     夏静(シア・ジン)は十八歳。上海市に住み、中心街の北部に位置する普陀高級中学校に通っている。日本で言うところの高校三年生で、すらりと背が高く、顔立ちの整った美しい少女だ。   家族は父親が一人のみ。母と弟が居たが、夏静が十歳の時に大きな列車事故に巻き込まれて死んでしまった。彼女も頭や背中に大きな怪我をして死にかけたのだが、生還した娘に父親は言い放ったのだった。何でお前が生き残ったんだ、と。   警官をしていた父親は、妻と息子を失った悲しみを、酒と娘にぶつけるようになった。彼は跡取りが欲しくてたまらなかったのだが、酒浸りで娘に暴力を振るってばかりいる男に、嫁いでくるような女性は一人もいなかった。   夏静が普陀高中に進学した頃になると、父親は自分がどうあがいても再婚できないことを悟り、酒の量を日増しに増やしていった。ある日、深夜に帰宅した父親は突然、夏静を押さえつけ、園芸に使う枝切りバサミを持ち出して彼女の左手の人差し指を切断した。彼女が母の形見の指輪を身に着けていたことに腹を立てた結果であった。   ──お前は一生、結婚しないで俺と一緒に滅びるんだ。   父親は、傷みに失神しかけた娘に吐き捨てるように言い捨て、娘の指を打ち捨てた。それを拾い上げた夏静は泣きながら、指輪と一緒に母の墓の前に埋めた。   翌日から、彼女は黒い手袋を嵌めて学校に通いはじめた。何事もなかったかのように。その事件の後、彼女の表情からは笑顔は一切消えていた。 # # #  そして、今。夏静(シア・ジン)は四人の後輩たちを伴い、足早に北京東路を歩いている。夕刻を迎えた空は赤く、橙オレンジ色の淡い光が、彼女たちの姿を影のように浮き立たせていた。   普陀高中には制服がないので、夏静はいつも黒い衣服に身を包んでいる。黒いブラウスに黒いロングスカート。両手には黒皮の手袋。長い黒髪を風になびかせながら、歩くその姿はファッションモデルさながらの凛々しさだ。   後ろの四人の少女も、全員黒尽くめ。一言も話さずに、ただ夏静の後ろを整列して歩いている。──その様子は、侍女を連れた宮中の姫か、進軍中の軍隊のどちらかにしか見えず、華やかな女子高生たちの下校風景には、とても見えなかった。 「仙姑(シェンク)」   脇から、また新たな黒尽くめの少女が現れ、夏静の側に寄ってきた。小柄でほっそりした可愛らしい感じの少女ではあったが、年齢に不相応な強い目線を持っている。 「首尾は?」 夏静は足を止め、問うた。すると少女はそそと夏静の側に寄り、耳元で囁くように言った。 「今、羅森(ローソン)から出てきたところです」 「そう。確保は?」 「抜かりはございません」 少女はニヤと笑った。「仙姑、この丁蘭(ディン・ラン)に万事お任せくださいませ。……どうぞ、こちらへ」   少女、丁蘭は、うら若き姑娘が口にするには不似合いな言葉を並べると、恭うやうやしく夏静を案内するように、路地裏の影の中へと消えていった。   夏静も、無言でその後に続く。   日光の差さない狭い路地には、洗濯物を干した紐が幾重にも連なっている。その下を黒尽くめの少女たちは一言も言葉を交わさず、むしろ殺気立って歩を進めていく。   先頭を歩く丁蘭が、上から垂れ下がっていた白いシーツをバッと視界から取り去ると、そこには暴れている少年の姿が一人。離せ、離せと声を上げながら、背後から自分の両腕を締め上げている少女二人から、なんとか逃れようともがいている。 「徐(スー)」   彼の名を呼んだのは夏静。   少年はピタリと動きを止めた。目を見開き、ゆっくりと顔を上げる。 「“黒掌仙姑(ヘイチァンシェンクー)”……!」   高中で通っている二つ名で言葉を返され、夏静は笑みを浮かべた。視線に強い怒りを込めた、恐ろしい笑みを。   少年を押さえつけている少女二人に、彼を離すよう顎で指示して、続ける。 「徐、お前、黄楼飯店に行ったんだって?」   そう問うと、少年は青ざめて首を横に振った。滑稽なほど素早く。 「や、やめてくれ、俺は何もしていない!」 「──わたしが質問してるんだよ、答えな!」 「ひぃっ」 徐は、身をひるがえしてその場から逃れようとした。しかし両脇の少女よりも素早く腕を掴んだのは夏静だった。   腕を引きながら、右腕の手刀を少年の首筋に打ちこむ。バランスを崩した少年は後ろに倒れそうになったが、背後にいた少女に背中を蹴られ、再度、夏静の前に無防備な身体をさらす。   笑う夏静。右手の掌でガッと少年の胸倉を掴むと、強い力で引き寄せる。 「黄楼飯店で、わたしの父さんに会ったんだろ?」 息を呑む少年に、黒掌仙姑は怒りを抑えた静かな声で尋ねた。 「ぐ、偶然会ったんだよ、たまたま近くに……」 「しらじらしいんだよ!」 夏静は手を離し、膝で彼の腹を蹴り上げた。グェッ、とうめくような声を上げる少年。   しかしその一瞬のスキをついて、除は、夏静の脇をすり抜けて誰も居ない方向へ、前のめりになりながら走り出した。 「逃がすか!」 夏静は舞うように跳んだ。垂直の壁にタタン、と二、三歩足をつき、空中でくるりと回転。そして少年の目の前に優雅に着地する。 「ウァッ」 少年は恐怖に駆られ、夏静にむかってめちゃくちゃに拳を突き出した。黒衣の少女は唇に笑みを浮かべたまま、両手をなめらかに動かし攻撃をすべて外側へとはじき出した。その美しい軌跡は、彼女が熟練した“八卦掌”──掌法に長けた柔の武術の使い手であることを如実に現していた。   少年が攻撃を繰り出した腕を掴んだ夏静は、その威力を生かして少年の足を払い、地面に投げ伏せた。 「父さんはわたしのこと何て言ってた?」 彼の上げた悲鳴を無視し、右足でその背中を踏みつけると、屈んで少年の髪をわし掴みにする。恐ろしい笑みを浮かべながら、彼の頭を持ち上げて自分の方を向かせる。 「何て言ってたんだ? 言えよ」 少年は地面で鼻をぶつけたようだった。鼻血をたらしながら、惨めな目で夏静を見る。 「ブ、ブタ女って……」 ──ガンッ。言うか言わないかのところで、夏静は少年の頭をまた石畳に叩き付けた。 「嘘つくんじゃないよ、実の娘をブタ呼ばわりする父親がいるわけがないだろ? さあ、何て言ってたんだ、言ってみろよ」 もう一度髪を掴んで少年の顔を上げさせようとしたところで、仙姑、と声がかかる。それは彼女が一番信頼を置く、丁蘭の声だった。   何? と怪訝な目を向けると、丁蘭は夏静の後方を手で指し示した。それに従って振り返ると、路地の入口のところに赤いスーツを着た女が立っている。 「如(ルー)ねえさん」 夏静は少年の頭を離し、立ち上がった。 「静(ジン)、ちょっと付き合ってくれない。時間はある?」 よく通る透き通った声で女は言った。夏静はこくりとうなづくと、屈み込んで少年に、命拾いしたな、と声をかけてから丁蘭に目配せをした。   心得たというような丁蘭の笑みを見てから、夏静は手をパンパンと叩いて埃を払うと、赤いスーツの女の方に歩いていった。 「お待たせ」 夏静は路地裏から出て、光のまぶしさに目を細めた。見ると、出租車タクシーが一台とまっていて、運転手が煙草を吸いながらこちらを見ている。 「これから仕事なの」 夏静の視線を追って、女が言った。「車の中で話してもいい?」 言いながら、彼女は先に出租車に向かった。夏静もその後を追う。二人の乗った車が走り出した。 # # #  女の名前は朱如(ジュウ・ルー)といった。   夏静(シア・ジン)よりも二歳年上の彼女は、先ほどのリンチの光景にも全く動じた様子もなく、車が走り出すのを待ってから、ラメ入りのハンドバックからシガレット・ケースを出した。ゆっくりとした動作で一本引き出す。その爪はスーツと同じ真っ赤に塗られている。   彼女の容貌を見たら、上海市民の八割がこう判断するだろう。いわゆる水商売の女だ、と。 「如ねえさん」 夏静は落ち着いた声で問いを発した。 「文卓(ウェンズオ)のことでしょう? 何かあったの?」 彼女が口にしたのは、自分の恋人の名前だった。朱文卓(ジュウ・ウェンズオ)。徐江高中に通う一つ年下の少年で、付き合うようになってから一年半が経っている。 「昨日、また怪我をして帰ってきたの」 細く、煙を吐きながら、朱如はチラと夏静の顔を見た。「両腕と顔に痣をつくってね」 「知らなかった」 夏静はその言葉を聴いて、彼女の血気盛んな恋人が、街の裏路地で喧嘩を繰り広げている様を思い浮かべた。そして、自宅アパートに帰り着いた怪我だらけの弟を、無言で迎える朱如の姿も。 「だと思ったわ。──ねえ、静」 朱如は煙草の火を消し、グッと顔を夏静に近づけた。 「あのコが心配なの。ずいぶん沈んでいるようだったわ。会いに行ってあげて」 「それはもちろんそうするけど……」 夏静は続けて言おうした言葉を飲み込んだ。朱如に、弟と話をしたかどうか聞きたかったのだ。しかし答えは分かっていた。彼ら姉弟は今やほとんど一言も言葉を交わさないのだ。だから問うのはやめた。   朱文卓はいつもこぼしている。二人は子どもの頃、仲の良い姉弟だったそうだ。郊外の農村にいたころ、二人はいつも畑を駆け回って遊んだり、見様見真似で武術ごっこをしたりしていたのだという。それは楽しい思い出の日々だった。   しかし文卓が初級中学校に通うようになってから状況が変わった。如は高級中学校に進学させてもらえず、上海市内の飲食店で働くように両親から言われた。弟が大学に行くまでの学費を稼ぐためだ。   飲食店といえば聞こえはいいが、いわゆる夜をまたぐ水商売だ。売春行為を強要されることはないとはいえ、金を稼ぐためには必要なことだった。朱如は持ち前の美貌を生かして何人もの男を渡り歩いて金を貯めていった。   如の服装が派手になるのと反比例するように、姉と弟の会話は減っていった。今では「おはよう」ぐらいしか交わさないそうだ。その原因が姉の方にあるのは言うまでもない。 「如ねえさんは、これから仕事でしょう?」 しばらく沈黙したあと、夏静は言った。「外灘(バンド)に寄ってもらえる? 文卓がたぶんそこにいると思うから」 「静」 朱如は微笑んだ。真っ赤に塗られた唇が、ありがとう、と言葉をつむぐ。 「いいのよ、ねえさん」   彼女は素敵な女性だった。どんなに服装が華美になっても、その中身までは変わらない。 # # #   外灘(バンド)というのは、清の時代に上海の港が外国に開放されてから出来た地区で、欧州風の荘厳な建物が今でも数多く残されている。上海の観光の一大スポットで、遊歩道や公園はいつも観光客で埋め尽くされている。   夏静(シア・ジン)が着いたころには、日は落ちて租界時代のビル群が照明の中に幻想的に浮かび上がっていた。カメラを手にした観光客たちが遊歩道を徘徊するように歩いている。みな視線を上へ、カメラも上へと向けているため、カメラのモニター画面がまるで蛍のように、人込みの中で淡い光を放っていた。   上海っ子の夏静(シア・ジン)が聞き取れない訛りのある言葉を話す観光客たち。それが出すゴミ目当ての屑拾い屋たちの間をすり抜け、彼女は恋人の姿を探した。   朱文卓は、この外灘が好きなようで、子分たちと一緒によくここに来る。夜景の美しさもさることながら、観光客の財布の中身も彼には同じぐらい魅力的なのだ。   しばらく歩いたところで、ようやく夏静はベンチに座っている朱文卓を見つけた。うなだれた様に首を垂れ、彼女が近づいてくることに気付く様子はない。脇に立っていた彼の子分の一人が、気付いて親分ボスの肩に触れる。 「文卓ウェンズォ」 「……静ジン!」   顔を上げた少年は、夏静の姿を見つけると、パッと一瞬に目を輝かせた。彼が朱文卓(ジュウ・ウェンズオ)。長めの髪を茶色に染め、Tシャツ・ジーパン姿という典型的な不良少年的ルックスをしている。   跳ねるように立ち上がった朱文卓は、人目も憚らず、彼女の身体を抱きしめた。 「最近、どうしてたんだ? 一週間ぐらい姿見せなかったじゃないか」 「ごめんなさい、ちょっと忙しかったから」 言葉を濁しながらも夏静は恋人の右目の下あたりにうっすらと痣が出来ていることを確認した。痛々しい痣の後だった。 「二人になれるところに行きましょう」     「静、静」 路地裏に入った途端、朱文卓(ジュウ・ウェンズオ)は夏静の身体を引き寄せ、首筋にキスをした。そのまま彼女の唇へ、自分の唇を重ね合わせる。 「会えなくて、寂しかったんだぞ」 一度唇を離して、そう言うとまた激しく夏静の唇を吸う。片手は服の上から彼女の乳房を愛撫し始める。 「駄目よ」 夏静は朱文卓から顔を離すと、黒い手袋をした手をくるりと返し、相手の腕を内側からやんわりと弾いた。しかし、腕を押さえられた彼が小さく呻いたのを聞いて、慌ててその手を両手で握った。 「大丈夫? 怪我──してるのね」 「ああ、ちょっとな」 怪我の痛みか、夏静に拒絶されたからか。朱文卓は大いに不服そうにしながらうなづいた。 「ごめんなさい、文卓。今日は話をしにきたの。そういうことは……」 彼女が弁解するように言うと、朱文卓は拗ねたように、 「“また今度”だろ? いいよ、分かってる」 少年は一拍置いて、夏静を上目遣いで見るようにして言った。 「……話って?」 「また喧嘩したの?」 「何だよ、どうしてそんなこと聞くんだよ」 文卓は聞き返そうとして、あ、と声を上げた。「……姉さんに聞いたのか」 夏静は何も答えず、じっと恋人の目を見た。   見つめられて、朱文卓は目を伏せた。小さな声でつぶやくように言う。 「勝てると思ったんだけど──やられちまった」 「そう」   また自分から仕掛けたのか。   夏静は内心呆れてしまった。朱文卓は少林拳の使い手で、少年武侠を気取り、他の強い少年と決闘するのが好きという困った性格をしていた。   彼は確かに、喧嘩にはめっぽう強かった。並ぶ者のないほどで、通っている徐江高中が中心街の南部にあることから“南天無雙((ナンティェンウショアン))”と渾名されるほどだ。   向かうところ敵なし。一年前、まだ一年だったころに、当時、高中武林に名を轟かせていた“迅雷虎”を倒してからは、帝王とまで呼ばれるようになった。夏静が、ある事件をきっかけに彼と付き合うようになったのもこの頃だ。   喧嘩に勝っているうちはまだ良かった。しかし昨年、彼は浦東高中の少年武侠、同い年の“龍殺青眼(ロンシァチンヤン)”こと方榮(ファン・ロン)に喧嘩を仕掛けて、逆に徹底的に叩きのめされた。帝王の地位も明け渡し、最強ではなくなったのに。それでも彼は喧嘩をやめなかった。   朱文卓は、強い少年たちと喧嘩する理由を、男の名誉だの面子だのと言った言葉で説明するが、夏静は、そんなもの糞食らえだと思っていた。   なぜ、負けるかもしれない勝負を挑むのかが夏静には理解できない。夏静が勝負を仕掛けるときは、八割方自分が勝つことが分かっている時だけだ。   勝たなくてどうする? 何て馬鹿なんだ男という奴は。夏静はその理不尽さに怒りを覚えながらも、恋人の顔をじっと見る。 「誰にやられたの? 教えて」 「静、いいんだ。俺のことは」 気にするな、そう言って朱文卓は愛おしそうな目で夏静を見た。彼女が自分に怪我を負わせた相手の名を聞いてきた、その意図を察したからだった。  恋人の手に視線を落とした朱文卓は、彼女の黒い手袋を片手ずつゆっくりと外した。路地裏に淡く差し込む街灯の光に、夏静の白い手が浮かび上がる。彼は目を細め、その手を──四本しか指のない左手を自分の頬に引き寄せ、かつて指があった場所に優しくキスをした。 「でも……」 途端に夏静は恥ずかしくなって俯いた。温かい手と頬。少年がこうした優しい表情を見せるのは、二人きりの時だけだ。自分の頬を桜色に染めながら、彼女は続けた。 「わたしの気が済まないわ。あんたをそんな目に遭わせた奴を八つ裂きにしてやりたい」 「静、本当にいいんだ。俺の問題だから」 朱文卓は彼女の手を頬から離し、両手で包み込むように握ると、力無く首を横に振る。夏静はその様子を見て、おや? と思った。 「そんなことより、これからメシでも食いに……」 「分かった。“龍殺青眼”ね。あいつにやられたのね!」 夏静は察した。朱文卓が相手の名を言いたがらないのは、それが現在の高中武林の帝王だからだ。“龍殺青眼”こと方榮。少林拳と同じく打撃中心の武術──華拳を使いこなす強敵である。   朱文卓は返事に窮していた。その様子に夏静は自分の推測が正しいことを確信した。   夏静も、方榮とは一度だけ果し合いをしたことがある。朱文卓が半殺しにされた三ヶ月後、工事中のビルの中で一対一の勝負をした。事実上の“彼氏の敵討ち“である。方榮もそれを理解してか、勝負を避けなかった。   結果は引き分けだった。夏静は手を、方榮は足を痛め、勝負を続けられなくなったのだ。  夏静は、もう一度彼と勝負しても負けない自信があった。 「いいわ、文卓。すぐにあいつを見つけ出して、あんたの仇を討つわ。丁蘭に頼めばすぐに居場所が分かるから」 「駄目だ。お前だってあいつには敵わなかったじゃないか。お前まで酷い目に遭わされたら、俺は……」 彼女の手を、朱文卓は強い力で握った。夏静は恋人の目を見る。復讐計画を断念するつもりはなかったが、彼が自分の身を本気で心配してくれていることが分かり、この上なく嬉しかった。   気を取り直して微笑む夏静。 「ありがとう。そうね、あんたの怪我を治すのが先ね。そうしたら、またどうするか考えればいいわ。勝てるまで挑むのだって悪くないし」 「静……」 急に朱文卓は、頭を垂れて地面を見た。今、何かいけないことを言ったのだろうか。ハッとして夏静は相手の顔を覗き込む。 「俺もう駄目だよ……。だってこれで三回目だぜ? 昨日たまたま、福州路を自転車で走ってるあいつを見かけたから、人民広場で待ち構えて戦ったんだよ。けど、あの目。あの視線で睨まれたら、また前みたいに腕を折られるんじゃないかと思って──怖くなったんだ。“鳳凰跳脚”も無理だった。あの技を使ったら、また足をやられるんじゃないかと思って、俺、飛べなかった」   夏静は無言で、恋人の手を労わるように撫でた。 「俺、本当はあいつが怖くて仕方ないんだ。お前も敵わないような相手に挑むなんて、もう無理だよ」 「文卓」 「俺って、弱い奴なんだ」 お前みたいに強くなれないよ──。朱文卓はつぶやくようにそう言った。 「そんなことないわ」 夏静は優しく声を掛けたが、当の少年の耳には届いていないようだった。 「静だって、俺のこと嫌になるだろ?」 向けられたのは弱々しい瞳だった。彼女も朱文卓がこんな目をするのを見たのは初めてで、胸をギュッと掴まれるような思いに囚われた。 「こんな弱音ばっかり吐いてる俺のことなんか、嫌いだよな。な、そうだろ?」 もう一度、同じようなことを言い、同意を求めるように彼女の顔を見つめる朱文卓。   どう答えろというのだ。   夏静の心に一気に怒りが沸き上がった。こんなにも自分が想っているのに。嫌いになったといえば満足するのか。 「馬鹿!」 堪らず放った言葉に、朱文卓が目を見開いた。 「馬鹿! 文卓の馬鹿! あんたなんか知らない!」 夏静は恋人の手を振り払って、路地裏から駆け出した。静、静、と呼ぶ声が聞こえたが、無視した。     地下鉄の駅に飛び込んで、はぁはぁと息を切らしながら夏静は思った。この鬱積した気持ちにどう始末をつけてくれよう。答えは一つしかなかった。冷たい瞳を持った少年──方榮の顔を思い浮かべ、彼女は怒りに歯を軋らせた。彼女の大切な文卓を痛めつけた張本人に、彼と同じ気持ちを味あわせてやる。   夏静は凄みのある笑みを浮かべ、黒いスカートを翻して駅の階段を下りていった。 ────────────────────── 「お嬢ちゃん、おじさん知ってるよ。それ“走園”だろ?」   時刻は七時ごろ。黒いブラウスとストレッチパンツ姿の背の高い少女が、空き店舗になった二階建てのカフェの屋上で演武を行っている。その武術は八卦掌。彼女の名前は夏静(シア・ジン)。上海市中心街の高級中学生の間で“黒掌仙姑(ヘイチァンシェンクー)”と呼ばれ、恐れられている少女である。   突き出した掌で空を切り、八歩で円を描くように回りながら一連の演武を行う。額にうっすらと汗をにじませた夏静の姿を、二つの眼が眺めている。屋上の塀に腰掛けたボロを纏った乞丐こじきの老人であった。左手にペットボトルが数本入ったゴミ袋を下げ、欠けた前歯を見せ、ニカッと微笑んで目の前の少女の演武を見つめていた。 「なあ、お嬢ちゃんのソレ、八卦掌だろ? な、そだろ?」 「うるさい。黙ってな、ジジィ」 透けるように白い掌を打ち合わせ、パンと音をさせてから夏静は吐き出すように言った。 「あんたは“奴”が真下に来たときに、わたしに合図してくれりゃあいいんだよ」 「あ、そ」 「五元、欲しくないのかよ?」 「欲しいけどさ」 老人は子どものように口を尖らせた。最近の若いもんは年長者に対する口の聞き方を知らん、と付け加えながらつまらなさそうに夏静から目を離す。 「おじさん、早くおうちに帰りたいなー」 言いながら、乞丐の老人は下の路地を見ようと屋上から身を乗り出した。   誰も歩いていない路地裏。上海の街は必要なところにしか街灯は無い。百公尺メートルほどもある路地には街灯が真下に一本だけしかない。歩く人の姿もない。あたりはシンと静まり返っている。   カツ。右方の曲がり角に靴音。老人はそちらを見る。薄暗い道に一人の少年が現れた。 「来たよ、お嬢ちゃん」 老人は額に手を当てながら大仰な仕草で続ける。「ああ、うん。色白な男の子だね。背はお嬢ちゃんと同じぐらい。いい服着てるけど、薄いピンク色のシャツだね。趣味悪いね。……彼で、合ってる?」 「そいつだ」 夏静は、演武を止めずに目を閉じた。心を鎮めて、自分の殺気を消すためである。 「奴が、そこの街灯の真下に来る五秒前から数えるんだ。小声でな」 「分かったよ」 老人は少しだけ身体を引っ込めて、路地を歩いてくる少年の姿を見た。足音は軽やかで、これから先のことを予期できるすべもなく、歩を進めている。 「五」 老人の言葉を聴き夏静は動きを止めた。息を整え丹田に意識を集中させる。 「四」 目をカッと見開く。 「三、二」 タッと、屋上を走り出す夏静。目標は街灯の明かり。 「一」 屋上の縁を踏んで、夏静は跳んだ。ひらり。その後姿から五元札が一枚、宙を舞う。 「零!」  空中で身体を回転させた夏静は、真下を歩いていた少年めがけて蹴りを放った。まさに稲妻のような鋭い軌跡を描いて、必殺の一撃が少年に迫る。   突如、上空から出現した殺気に少年は目を見開いた。目線が合い夏静はニヤリと笑う。   この至近距離まで殺気を隠したのだ。避けられるはずがない──! 「死ね、方(ファン)!」  ガツッ。  その鈍い音がするのと、ビルの屋上で老人が五元札を掴んだのは、ほぼ同時だった。   夏静の蹴りは、少年の交差させた腕の上にあった。その絵が見えたのは一瞬だけ。次の瞬間には夏静は身を翻して、彼の後方へ跳び、少年は彼女の動きに反応しつつも、片方の膝を折った。 「夏(シア)か」   すぐに膝を戻し、低い声で少年は言った。彼の名前は方榮(ファン・ロン)。“龍殺青眼(ロンシァチンヤン)”と呼ばれる冷たい瞳を持つ少年で、華拳の達人である。ロシア人の母親を持つ混血児で、その肌の白さが暗闇の中に浮かび上がるようであった。そしてその鋭い眼光も。   夏静はすぐに構えをとった。方榮は、老人が言った通りのピンク色のシャツ姿だ。左腕をさすっているのを見ると、うっすらと血がにじんでいる。あの一撃をまともにくらったのだ。しばらく両腕は痺れて使い物にならないに違いない。   それでも方榮は無言で、腰を落とし構えをとる。 「よくも、文卓を酷い目に合わせてくれたわね!」   タッ、と軽やかに舞うように夏静は地を蹴って間合いを詰めた。弧を描くように、突き出した掌を唸らせて方榮に襲い掛かる。   方榮はチッと舌打ちすると、身体を回転させて夏静の死角に入り込んだ。一瞬、背中合わせになる二人。そのまま放ったのは、素早い回し蹴りである。夏静は身体を縮め、地面に両手をついて蹴りをかわし、石畳の上をニ、三回転して間合いを取った。体制を整えて、サッと立ち上がる。 「夏、もうよせ」 対する方榮は、落ち着いた声で言うと構えを解いた。 「こんな戦いは意味がない」 「黙んな! アンタには意味がなくても、わたしには意味があるんだよ!」   両腕を大きく開いて夏静が構えをとっても、方榮は動じた様子もなく、ただ立ったまま彼女を見つめている。   途端にムカムカと相手に対する怒りが湧き上がってきた。夏静は方榮を睨みつける。いつも落ち着き払っていて、言葉を荒げることも感情を表に出すこともない。親は共産党の幹部でエリートだ。本人は意識していないのかもしれないが、その態度が上から見下ろされているようで、何から何まで鼻につくのだ。  ──そうだ。   夏静は、方榮の弱点を思い出した。“龍”と呼ばれるだけあって、彼は逆鱗を持っていると聞いている。そこに触れられると方榮は激怒するのだ。彼女の恋人の朱文卓はそれを言って、この少年に半殺しにされた。   夏静は方榮が怒りに我を忘れるところなど見たことがないが、どんなことを言ってやればいいのかは知っていた。両親のことである。とくに母親のことを悪く言ってやればいいのだ。 「方、アンタのロシア人の母さんが……」 「お袋の話をしても無駄だぞ」 だが、強い口調で止められた。 「朱の野郎も、そればっかりだ。さすがに慣れるよ。ムカつくことはムカつくがな」 ムッとしたのは夏静だ。 「馬鹿にしやがって!」 拳を振り上げた彼女は、また間合いを詰めようとした。が、方榮は軽やかに後方に跳び退く。 「お前もこんな無益なことに八卦掌を使うなよ」 「畜生! ロシアのデブ女から生まれたくせに! ロシア語でも喋ってろ」  ぐ、と方榮が言葉に詰まった。   夏静は苦し紛れに放った言葉が効いたのを見て、これはと思った。方榮は言い返す言葉が見つからない様子で、目を白黒させている。   ──おそらく、彼の母親は本当に太っているのだ。だから言い返せないのだ。   そう悟った夏静は、勇ましくも高らかに、方榮に向かって言い放った。 「毎日、ボルシチでも食べてりゃいいわ、おデブちゃんはさぞかしお料理がうまいんでしょうよ!」 「クソッ」   いきなり方榮は悪態をつくと、夏静と反対側に走り出した。耳をふさぎながら、である。怒らせることは出来なかったが、相当嫌がっているのは確かである。夏静は嬉々として、方榮を追いかけた。 # # #  武術で鍛えた内気を駆使して、軽やかに夜の街を駆けていく方榮(ファン・ロン)。自分の耳に人差し指を突っ込み走るその少年を、同じように軽やかに追いかけるのは黒衣の少女、夏静(シア・ジン)である。口にするのは方榮のロシア人の母親のことである。彼女がいかに太っているかを叫びながら、夏静は相手を追いかける。   表通りに出て、食料品店の明るい電光に照らされながら二人は走る。   会社帰りの若い女二人の脇をすり抜け、また暗い路地裏へ。古い木造の家が立ち並ぶ通りに入ると、ランニングシャツ姿の中年男たちが、裸電球をつけて、家の前に出したテーブルを囲んで麻雀を楽しんでいる。   そこへ方榮がテーブルの上を踏んで麻雀の牌を跳ね飛ばすと、夏静は牌を空中で掴み、男たちに放ってやりながら少年を追う。 「待ちな、方(ファン)! 逃げるなんて卑怯だよ!」 「うるさい、闇討ちしてきたお前は、卑怯じゃないのかよ!」 言い返しながら、方榮は駆けて行く。夏静は、ゴミ捨て場に落ちていた皿を拾って少年の足めがけて投げつけたが、相手も跳んで華麗にかわす。ガシャン、と大きな音を立てて皿が壁に当たって割れた。 「畜生、ちょこまかと!」 罵声を浴びせながら、夏静。   方榮はタッとステップを踏むように角の向こうに姿を消していく。それを追いかけようとして夏静も角を曲がったが、いきなりドン、と何かにぶつかってしまった。そこに誰かが立っていたのだ。   夏静はその男に激突し、道に投げ出されてしまった。   きゃっ、と声を上げて後ろに尻をつく。衝撃に顔をしかめたものの、方榮を逃がすわけにはいかない。 「邪魔よ!」 すぐにキッと顔を上げて立ち上がろうとして、夏静はそこに立っている相手の顔を見て凍りついた。 「こんなところで何をしてる?」 「……お父さん」  そもそも気功を使って駆けていた彼女に体当たりをされて、無事でいられる者などそうそういないのだ。曲がり角に立っていたのは夏静の父親。夏徳華(シア・ドーファ)であった。濃い緑色をした警官の制服を身に着けており、明らかに仕事中といった様子である。   彼は、上海市の公安警察に所属する警官であり、巡邏パトロールを兼ねて、いつも夜の街を闊歩している。   逃げる方榮を追って、うっかり父親の居るこの街区──旧上海城界隈まで来てしまったのだ。夏静は自分のうかつさを呪った。 「静」   夏徳華は言った。娘の指を切断した男は、眉一つ動かさず冷たい視線を夏静に向けている。 「門限は七時だと言わなかったか?」   感情のこもっていない言葉だった。しかし夏静は次に何が待っているかを思い描き、恐怖に囚われた。方榮のことは完全に心の中から消し飛んでいた。 「お父さん、あの、わたし……」 「お前は俺が仕事してるのに、遊び歩いてやがるんだな」 震えながら立ち上がった娘の腕を、父親は掴んで引き寄せた。軽く捻り上げるようにである。夏静はその痛みに耐えながら身体を縮めた。鼻につくのは酒精アルコールの香り。いつだってそうだ。夏徳華の身体から酒が消えることなどないのだ。それは仕事中のときだって同じである。 「昨日、お前の“友達”が俺のところに来やがったぞ」 淡々と夏徳華は娘に向かって話し始めた。 「お前が普段、何をしてるかとか、誰と付きあってるとかそんなくだらない話をしにな。いわゆる告げ口をしに来たわけだ。静、いい友達を持ったな」 同じ普陀高中に通う男子生徒、徐スーのことである。畜生、と夏静は心の中で悪態をついた。だから今日の夕方、あの少年を叩きのめしたのだ。だが、彼をリンチしたところで、父親が得てしまった情報を消すことはできない。 「お前が俺の教えてやった夏式八卦掌で餓鬼どもをぶちのめすのは構わん。あれは夏家が清の時代から受け継いできたものだからな、実践で鍛錬しなければ上達しない。しかし」 ギリ、といっそう腕に力を込める夏徳華。 「男遊びをしていいとは一言も言ってない」 「お父さん、違うの、わたしは」  「静、朱文卓とかいう餓鬼を俺のところに連れてこい」 「お父さん」 少女は自分の声が震えていることに気付いた。 「赦して……」 夏徳華は娘の腕を放したが、代わりにその胸倉を掴んで引き寄せた。 「赦して、だと? 父親に紹介できないような男なのか、そいつは」 「彼をどうするの?」   恐怖におののきながら夏静は小さく尋ねた。すると夏徳華は笑った。まるで猛獣のような恐ろしい笑みだった。 「手始めに足を折ってやる。そいつが二度と歩けないようにな」   息を飲む夏静。絶望に言葉も出なかった。目をつむり首をゆるゆると横に振る。 「静、静──聞け!」 乱暴に娘を揺すりながら、夏徳華は声を荒げた。 「お前の彼氏はどこだ? 隠しても無駄だぞ。俺を誰だと思ってる? すぐに調べはつくんだ」 問われても首を横に振り続ける夏静。父親は娘の身体を離したかと思うと、彼女の頬を打った。   パン、と乾いた音が路地裏に鳴る。   人通りの決して少なくない通りではあったが、回りの人間は見て見ぬ振りをしていた。   固い石畳の上に膝をついて、夏静は頬を押さえうずくまった。どうすればいいか分からなかった。父親の言う通りだ。名前が分かれば警察官である父親は、ほどなくして朱文卓を見つけ出すことができるだろう。   彼との交際を続けていく上で、最も恐れていたことが現実になりつつあった。方榮よりも何よりも、夏静が一番恐れていたのは、自分の父親だったのだ。 「静、立て」   夏静がそのまま座り込んでいると、夏徳華はその頭に手を伸ばし髪の毛をわし掴みにして、彼女を無理やり立たせた。痛い、やめてお父さんという娘の言葉を無視して、父親は娘を引きずるようにして連れていこうとする。  コツン。     その時、夏徳華の頭に何かが当たった。彼は娘の頭から手を戻し、当たったものを手にとった。一元貨(コイン)だった。 「誰だ!!」   声を荒げた夏徳華は、一元貨が飛んできた方向を見た。物音をさせて誰かが走り去っていく音。タタンッ、と彼は踏鞴たたらを踏んで、走り去っていく相手を見極めようとした。だが、路地を駆けていくのは汚らしい乞丐こじきが一人だけだ。   夏徳華は首をかしげたが、ハッとして娘のいた方を振り返った。すると、ちょうど夏静が誰かに腕を引かれて、路地の暗がりに姿を消すところだった。彼の鋭い感覚は、娘と一緒にいた誰かの気配を察知していた。   追いかけようと思ったが、やめた。何しろ彼女は自分の娘なのだ。 「逃げるなら、逃げるがいい。静」 夏徳華は暗がりに目を凝らしながらつぶやく。唇に寒気のするような笑みを浮かべてみせながら。 「お前はどこまで逃げても、俺の娘だ」 # # #  はぁはぁと息を切らしながら、いくつかの角を曲がったところで方榮(ファン・ロン)は夏静(シア・ジン)の腕を離した。二人とも焦って走ったせいで、気功など使っている余裕もなく、すっかり息が上がっていた。   夏静は、身体を曲げて息を切らしながらも隣の少年の顔を盗み見た。方榮も息を整えながら、正面にある料理店からこぼれる光に目を細めている。 「方、なんであんた、わたしを助けたの?」 たまらず、夏静は傍らの少年に話しかけた。 「何でって……」   方榮は、ちらと横目で少女を見た。「かなりまずい状況に見えたからな。あの警官にしても、相当の使い手に見えたし、放っておけないだろ」 「何でよ」 納得いかないと夏静は怒ったように続ける。 「わたしはあんたを闇討ちしようとしたのよ、何で助けるのよ!」 「いいじゃないか。気まぐれだよ」 なだめるように方榮は言う。 「夏シア、火鍋は好きか?」 「何?」 「火鍋だよ」 顎で目の前の料理店を指しながら方榮。店の看板には火鍋屋と書いてある。 「メシ食いに行くところだったんだ。寄っていこう」 「嫌よ、あんたとなんか」 「分かった。貸し借りはチャラにしよう。一緒にメシは食うが俺は奢らないし、お前も奢らない。それでいいだろう?」   言われて夏静は、じっと目の前の少年の顔を見た。悔しいし不本意だが、助けてもらったのは事実だ。ここで断れば方榮の面子をつぶすことになるだろう。 「いいわ」   つん、と顔を背けて、夏静は先に道路を渡って火鍋屋に向かった。少し遅れて方榮。ホッとした様子で彼女の後を追う。 「……あの警官は、わたしの父親よ」 火鍋店の硝子ガラス戸を開けながら夏静が小声で言うと、方榮は驚いたように彼女を見たが、何も言わなかった。   店内に入り一息つくと、唐辛子の匂いと熱気に迎えられた。時間が遅くなったため客の姿はまばらだ。方榮(ファン・ロン)は、さっさとテーブルに着くと、店員の方を向いて手短に言った。 「選ぶのが面倒だから、適当に二人分持ってきてくれ。……それから可口可樂(コカコーラ)を二つ」 方榮は、そのまま夏静(シア・ジン)を見上げ、座るように顎をしゃくった。彼女も仕方ないといった素振りで同じテーブルの反対側に腰掛ける。   周りの大人たちが立てる話し声や食器の音が騒々しく鳴った。白い蛍光灯の下。真ん中に仕切りのついた大きな火鍋を挟み、二人は目を合わせたりそらしたりしながら沈黙した。店員が可口可樂(コカコーラ)を持ってくると、同時に手を伸ばし、ごくりと飲む。   続けて、店員が野菜や春雨、茸などを盛り付けた皿と、肉と貝類がのった皿を二つ持ってくると、方榮は無言でそれを鍋に入れ始めた。真ん中で仕切られた赤い辛味湯の部分と白湯と、具をきちんと均等に分けている。   方榮は意外に几帳面な性格なのかもしれない。夏静はそんなことを思いながら相手の動きを見ていたが、途中でハッとして箸を掴み、そのまま皿をはっしと掴んだ。 「なんだよ?」 手を止められて方榮は眉を顰め、彼女を見返した。 「貝は入れないで。嫌いなの」 「……」 言われて方榮は、皿の上の貝を見て、プッと噴き出すように笑った。「お前みたいな奴でも嫌いなものあるんだな」 「どういう意味よ?」 箸で掴んだまま皿を奪い、それをテーブルに落として夏静。 「ゴメンゴメン、冗談だよ」 夏静が険しい顔のままでいると、方榮は緊張が解けたように鍋をかき回し始めた。機嫌が良いようだ。“龍殺青眼(ロンシァチンヤン)”は、こんな朗らかな顔をする男だったのだろうか。夏静は異様なものを見るような目つきで相手の様子を伺った。 「実はさ、一度、お前とゆっくり話をしてみたいと思ってたんだ」 夏静の目つきを気にもせずに、方榮は続けた。 「お前の八卦掌、すげえなと思っててさ」 「世辞は要らないわ」 「……俺はお世辞を言うような男じゃない」 静かに言う方榮。 「最近になって分かったんだよな」 「何がよ」 「いや、ずっと分からなかったんだ。あの時、何でお前がわざと足を滑らせたフリをしたのか、がな」 「何の話?」 「とぼけるなよ。前に廃ビルで戦ったときのことだよ」 少年は鍋の湯気の向こうで、笑みを浮かべたようだった。遅れて、夏静は相手が“前回の果し合い”のことを言っていることに気付いた。 「……俺は足をやられてたし、あの決定的な瞬間に、お前に踏み込まれれば喉元にガツンと強烈な一撃をくらってただろうな。立会人たちは分からなかったかもしれないが、俺はあの時、本当は負けてた。お前が足を滑らせたフリさえしなけりゃ、な」 「何言ってるのよ」 夏静は眉を潜めながら、可口可樂缶を握った。何だか変な話になってきた。 「朱のためだったんだな」 だが方榮は話を続ける。穏やかな目で相手を見つめながら。 「あいつに花を持たせようってんで、俺にワザと勝たなかったんだな。……だから俺の脚を執拗に狙ったんだ。お前は最初から俺に勝つ気はなかった。引き分けに持ち込めばそれで良かったんだ」 「変なこと言わないでよ」 夏静は、ぎりと歯を噛み締めた。図星を当てられ、続く言葉もない。文卓ウェンズォならいざ知らず、当の敵に心を見透かされてしまった。こんなことなら、喧嘩を仕掛けられた方がよっぽどマシだ。 「最強の小侠はお前だよ。夏静。俺でも朱でもない」 静かにそう言うと、方榮は煮立ってきた火鍋に興味を移した。皿を取ると手際良く具を取り分け始める。茸や白菜を入れた後、豚肉をバランスよく盛り付けて、夏静に向かって差し出す。ほら、お前から食え、と言わんばかりに。   渋々と夏静は皿を受け取った。やはり不本意だったが、ここは素直に相手を立てることにした。   それにしても、と夏静は考えをめぐらせる。この少年をどうしたら黙らせることができるか。朱文卓や自分のことで余計なことを高中武林に触れ回られたら、たまったものではない。やはり先ほどのことはチャラにして、店を出たら、改めて喧嘩を売るべきか。 「それにしてもさ」 向かいに座った少女が物騒なことを考えているとは露知らず、方榮(ファン・ロン)は一息ついてから続けた。 「お前も苦労してるよな。実のところ同情してるよ。アイツが……朱がもうちょっと気の利いた奴だったら良かったのにな」 「何だって?」 いきなり夏静(シア・ジン)は声を荒げた。こいつ聞き捨てならないことを、今──。   バン! 机を叩いて夏静は立ち上がっていた。 「今、なんて言った? おい」 「お、怒るなよ、そんな」 さすがの方榮も彼女の豹変振りに驚いた。椅子を揺らし仰けぞって少女を見る。 「まるで……まるで、文卓ウェンズォが、馬鹿で無能みたいな言い方しやがって!」 「言ってない、言ってない」 滑るような動きで、方榮も席を立った。「落ち着けよ、確かに今のは言葉が過ぎたよ。悪かった、謝る」 「文卓を侮辱したな!」 しかし夏静は拳を握りしめ、相手を睨みつけながら机の脇に踏み出す。方榮を追うような格好だ。 「文卓は、エリートぶったお前みたいな野郎とは違うんだよ! 文卓は、素直だし、優しいし──」 「そこまでだ、黒掌仙姑(ヘイチァンシェンクー)!」   その時突然、後ろから甲高い声とともに拳が飛んできた。   背後ではあったが、夏静は気配と殺気を一瞬のうちに読んでいた。サッと攻撃をかわし、闖入者の腕を掴んでそのまま引いて床に投げ倒す。 「痛ッ」 前のめりに倒れ込んだ襲撃者は一人の少女だった。高中生であろう、凛とした目を返し、こちらを振り返ると体制を立て直そうとした。夏静はそれを素早く打とうと掌を向け──。   しかし、サッと少女の姿を隠すように割り込んできた影があった。   それは、龍殺青眼(ロンシァチンヤン)こと方榮だった。   まさに龍を殺すような恐ろしい眼光を見せ、夏静を睨み付ける。この娘に手を出したら殺す、と言わんばかりだ。夏静は躊躇し、掌を引いて追撃を思い留まった。   すると、方榮は一瞬にして元のような穏やかな表情に戻った。フゥと息を付き、夏静に声を掛け直す。 「すまん、夏(シア)。彼女は俺の連れだ」 と、後ろの少女に視線を流す。 「梅(メイ)。夏に謝れ」 「何でよ」 少女は不服そうに立ち上がった。彼女の名前は杜梅(トー・メイ)。肩まで髪を伸ばし、くりっとした大きな瞳を持つ、あどけない容貌の少女であったが、夏静を睨みつけるその目は、敵意丸出しである。 「榮兄に殴りかかろうとしてたじゃん」 「違うよ、俺たちは一緒に火鍋食ってただけだ」 方榮は杜梅の手を引き、彼女の頭をやんわり掴んで、夏静に向って下げさせた。 「分かったわよぅ。ゴメンナサイ」 杜梅は方榮の手を振り払うと、隣のテーブルから椅子を拝借して、サッと腰掛けた。 「何なのよ、この生意気な女は」 自分も座りながら、夏静は憎々しげに言った。最後に腰掛けた方榮の動きを目で追いながら、はたと気づく。 「ああ、そうか……女が出来たのね」 「そうよ!」 方榮より先に、杜梅が答えた。 「榮兄に何か良からぬことしようとしたら、わたしが承知しないからね!」 「何言ってんだよコイツ」 「梅、いいから火鍋でも食おう」   夏静は方榮に、お前の彼女の方がよっぽど頭が悪そうじゃないか、と憎まれ口を叩こうとして、言葉を飲み込んだ。   あの龍殺青眼が、すっかり険をなくし少女をなだめている。先ほどの鋭い眼が嘘のようだ。今の目つきでは龍はおろか蟻すら殺せないだろう。しまりのない笑みを浮かべて杜梅の手を握っている。   ──ああ、そうか。男ってこういう生き物なのね。 「えーっと、何の話してたっけ?」 「別に」 夏静はニヤニヤしながら答えた。いいことを思いついた。この杜梅とかいう女を、今度ひっ捕まえて痛めつけてやる。方榮へのいい嫌がらせになるだろう。 「梅、ホラ、これ食いな」 「わぁっ、榮兄ありがとう。榮兄にもいっぱいとってあげるね」 方榮が盛り付けてくれた皿を、杜梅は嬉しそうに受け取ると、今度は方榮の皿を奪い取って鍋の中の何かを山盛りに盛り付けて渡す。仲睦まじい様子である。 「はい榮兄」 「ありがとう」 「ね、榮兄、口開けて。あーんして、あーん」 「だ、ダメだよ」 海老を箸で掴み、方榮の口元へもっていこうとする杜梅。少年は恥ずかしそうに夏静に目をやる。武士の情け、自分の姿を見てくれるな、と瞳からメッセージが伝わってくる。彼女はフンと鼻を鳴らして、自分の皿に目を落とすと、そ知らぬ顔で箸をつけ始めた。 「えへ。ちゃんと着てきてくれたんだ、そのシャツ。わたしゼッタイ榮兄はピンクが似合うと思ってたの」 「そ、そうか?」   海老を強引に方榮に食べさせたあと、杜梅は椅子を寄せ、これ見よがしに方榮の腕に自分の腕を絡めさせた。ちらりと送ってくる視線は挑戦的だ。彼女も夏静に嫌がらせをする気満々のようだった。   と、その笑顔が、方榮の袖についた血により消え失せた。 「……って、それどうしたの? 榮兄、腕から血出てない?」 「ん、ちょっとな」 白菜を掴んだ箸から目を上げると、ちょうど杜梅と視線が合った。彼女は、お前がやったな、と目で詰問してきた。夏静は目で、そうだと返してやった。嫌味を込めた笑みと一緒に。 「ちょっと転んだだけだって」 「転んだだけでそんな怪我になるわけないじゃん!」 「なるって……。そんなことよりさ、梅。な、茸好きだろ? 茸」 苦し紛れに方榮は自分の皿にあった茸を箸で持ち上げる。「あーんしてごらん、あーん」   一転、杜梅は嬉しそうに口を開けた。パク、と茸を食べると大仰な仕草でもぐもぐして見せる。 「おいしいー。榮兄と一緒だとすっごく美味しい。もっと食べたいなー」 「え?」 方榮は鍋を見た。具はほとんど無くなってきている。それを見た方榮は追加の注文をしようと店員の姿を探したが、杜梅はテーブルの脇に退けてあった大皿に目を留めた。貝の入った皿である。 「あ、美味しそう。これ入れていい?」 杜梅はその大皿を迷うことなく手にとった。そして方榮と夏静が止める間もなく、ザラザラッと中身を鍋にぶちまける。 「あ……」   彼も、夏静もそれを呆然と見ていた。 「夏が貝は嫌いだって……」 「畜生!」 ダンッ、と椅子を蹴倒し夏静は立ち上がった。怒りからか顔が紅潮している。方榮が鍋を変えてもらおうなどと言いながら腰を浮かせたが、杜梅が素早くその袖を引っ張って思いとどまらせた。   夏静は皺だらけの五元札をテーブルに叩きつけた。 「勝負は預けといてやる、方。それにそこのお前、あとで絶対泣かしてやるからな」 などと捨て台詞を吐いて杜梅を睨みつける。対する少女は、べーと舌を出して応戦してきた。小さい子どもを怖がらせるような表情で、である。   ぷい、と顔を背けると、夏静は憤然とした様子で店の外へと出ていった。いつかこの二人に仕返しをしてやると心に誓いながら。 # # # 火鍋屋の硝子ガラス戸を開けて外へ出て、すぐだった。   ぬっ、と大きな手が脇から伸びてきて、夏静(シア・ジン)の腕を掴んだ。その強い力に驚くと同時に、彼女は腕の持ち主に気付いて、心臓をわし掴みにされたように縮み上がった。  「お父さん!」 ──────────────────────   「来い」   腕の持ち主は当然のことながら、夏静(シア・ジン)の父親、夏徳華(シア・ドーファ)であった。警官の制服を着たままの彼は、娘の腕を引っ張り、また暗い路地裏の中に引き込んだ。   彼女の腕を、跡がつきそうなぐらい強く掴みながら夏徳華は足早に暗闇の中を歩いていく。ガツ、ガツと彼のブーツが重い音を立てていた。街路灯が無くとも、この界隈は彼にとって自分の庭も同然。足取りも確かに前へ前へと進んでいく。   足をもつれさせそうになりながら、紫色の夜空を見上げ、夏静は嘆息した。今まで何度もこういった状況に遭遇してきた。いつも結果は同じ。彼女の性根を叩き直すという名目で、父親は夏静が立てなくなるぐらいまで暴力を振るうのだ。深刻な怪我にならない一歩手前まで。 「静」 袋小路になった路地までたどり着くと、やっと父親は娘の腕を放した。観念した夏静はじっと父親の顔を見上げる。   ──わたしが何を言ったって、わたしを殴るんでしょう?   口には言葉をのせず、目に言わせた。   そんな目付きを向けただけでも、暴力の呼び水になったはずなのに。夏徳華はただ娘に言い放った。  「静、朱何某のことが好きか」 「えっ?」 「お前は男と遊びたいのかと聞いている」 夏静は顔をしかめた。そんな言い方をしなくても、と抗議の声を上げようとした矢先に平手が飛んできた。   パァン、と暗闇に響く音。夏静は衝撃によろけながらも姿勢を正した。 「答えろ」 「……別に、彼氏なんか要らないわ」 頬を押さえながら、父親を上目遣いに見る。 「言い寄られたから付き合っただけなの。お父さんが、許してくれないんだったら、わたし別れるわ」   それを聞いて、夏徳華は突然笑いだした。夏静はギョッとして押し黙る。父親がそんな風に笑ったのを初めて見たからだ。とはいえ、好意的な笑いでは決してない。半ば自嘲的な、卑屈な笑いだった。 「静、嘘をつくな」 夏徳華は笑みを浮かべたまま、ゆっくり数歩後ろに下がった。  「三手、返してみろ」  ぽかんとしている夏静。その娘の様子を見て、夏徳華はもう一度言った。 「俺の攻手を三手、夏式八卦掌の手で返してみろ。出来たら、その朱何某との仲を認めてやる」 「ほ、本当なの?」 思わず、問いを口に出してしまう。   今まで父親がこんなことを言い出したことは一度もなかった。身体の中の酒精アルコールが彼に言わせたのだろうか。分からなかった。しかし、彼の攻撃を三手防げば、朱文卓に危害が及ぶことはなくなるのだ。彼女は拳を握り締めた。──彼を、文卓を守らなくては。   夏静も数歩下がり、構えをとった。 # # #  父親を好きか嫌いかと問われれば、答えに窮してしまうものの、彼女はこうした状況下で、今まで彼に反撃したことも拳をよけたことも一度もなかった。ましてや、構えをとったことなど初めてである。   目を細める夏徳華。指を折り拳を閉じ、そしてまた開く。開いた掌を斜め上に上げ、ぴたりと止める。   ピリピリと伝わってくる殺気に夏静は気を引き締めた。負けられない。  夏徳華が動いた。たったの二歩で跳ぶように一気に間合いをつめてきた。夏静は彼の掌が描く円の軌道から外れようと、後ろに飛びのいた。   だが、ぐんぐんと父の手が伸びてくる。──避けきれない! 夏静は身体を半回転させながら相手の腕を側面から掴もうとした。だが、見事に読まれてしまった。夏徳華は娘に側面を許さず、身体の向きを変えながら彼女の肩口に掌を放った。 「あぐッ」 衝撃に跳ね飛ばされそうになりながらも、夏静はその勢いを生かしたまま舞うように身体を回転させる。すぐに備えないと追撃から逃れられないからだ。   次の夏徳華の攻手は、正面に向かって放たれた左手の掌だった。   これならかわせる! 夏静は両手の掌を顔の前で交差させて、父親の手を絡め取った。そのまま太い腕を両手で掴み、横向きに投げ飛ばした。   夏徳華は空中で身体を丸め、くるりと回ると危なげなく地面に着地する。 「まずは一手よ!」 凛々しい声を上げ、夏静は父親をまっすぐに見た。   夏徳華は無表情に娘を見つめ返した。返事もない。その目を見て夏静は寒気を覚えた。そこに浮かんだ表情を読めなかったからだ。   一瞬の間。   フッと身体を縮めた夏徳華は、跳んだ。脇の壁を蹴って思いも寄らぬ方向か夏静に攻撃を仕掛ける。右の肘を使った攻撃だ。   これを受けるのは無理だ。とっさに判断にした夏静は身体をよじるようにしてかわそうとするが、いきなり胸に重い衝撃を受けて後ろに投げ飛ばされてしまった。   宙で夏徳華が肘をやめ、蹴りを放ってきたのだった。何があったのか速過ぎて見えなかったのだが、夏静は軽やかにステップを踏むように体制を立て直す。そこに父親が拳を放ってきた。   ブンッ。   鋭い稲妻のような拳だった。風を切りながら迫る拳を見て、夏静も素早く手を伸ばした。横から肘を掴み威力を外へ逃がすのだ。   タッ。   拳に絡ませるように夏静の手が夏徳華の肘を捕らえた。グンッとその威力に乗って彼女は父親の懐に入り込む。八卦掌は攻守一体の武術である。攻撃を防ぐときは、すなわち相手への攻撃に転ずる時である。   夏静は左の掌を父親の喉に向けた。致命的な打撃になり得る位置に入り込んでいる。この斜め下からの一撃。もし決まれば父親は脳震盪を起こして昏倒するだろう。   夏静は動きを止めなかった。しかし、父親の身を案じたその一瞬の間が、命取りになった。 「──遅い!」 父親のもう片方の肘が目の前に。まるで突如出現したかのように、夏静の顔面を打った。 「ッ……!」   あまりの痛さに、声も出ない夏静。地面に投げ出され、顔を押さえる。痛みに目には涙が溢れ、手に生ぬるいものがポタリと落ちた。……涙だけではなかった。血だ。鼻からポタボタと血がしたたり落ちてくる。どうにも出来ず、彼女は堪えながら、血を袖で拭う。 「立て」 父親は相変わらず無表情で娘を見下ろしている。 「今のは認めてやろう。……あと一手だ」 「お父さん」 夏静は思った。父の言葉にはいつものような怒りがない。燃え上がる炎のように怒り狂い、彼女を滅多打ちにする夏徳華。あの鬼神のような目。それが今はない。 「わたし……」   立ち上がりながら夏静は小さな声で言う。   急に怖くなったのだ。指を切断してまで自分を縛ろうとする父親が、穏やかにこちらを見つめている。何を考えているのか分からなかった。彼の言う通り三手防いだら、一体何が起こるのか。それを思い彼女の心は不安でいっぱいになった。 「いいの、お父さん」 消え入りそうな声で彼女は続けた。なぜだか、戦いを続けない方が良いと思ったのだ。 「こんなことしなくても……、お父さんが彼に酷いことをしないでいてくれたら、わたしそれで満足だから」 「……何だと?」  空気がピンと張り詰めたようだった。  夏静は青ざめた。彼女の意に反して、父親が向けてきた目には、はっきりと怒りが宿っていた。さきほどまで感情を浮かべていなかったその瞳に、強い怒気が一瞬のうちに現れたのだ。 「俺に情けをかけるつもりか!」 言うなり、夏徳華は動いた。彼が発した言葉の意味を理解する間もなく、夏静は顔を打たれ、何回転もしながら石畳の上に投げ出された。 「お父さ……」 声を上げたときには髪の毛を掴まれて、引きずり上げられていた。もはや武術の組み手ではない。怒りに我を忘れた夏徳華は娘の白い首をガッと掴んだ。   ──ダンッ。   そのまま世界がひっくり返るかのように投げ飛ばされ、彼女は背中を床でしたたかに打った。   痛みに気が遠くなりそうだった。しかし夏徳華は容赦なく、また娘の髪の毛を掴んで持ち上げた。夏静のぼんやりした視界の中に、父親の怒りに満ちた目が飛び込んでくる。混乱した彼女の頭の中で、とにかく彼の怒りを静めなければと声が上がった。 「お父さん」 か細い声で彼女は言った。 「わたし、お父さんとずっと一緒にいるから。だから、赦して──」  次の瞬間。にぶい衝撃とともに、夏静の身体は宙を舞った。  高く、高く、夜空に近付きながら、夏静は思った。このあと地上に落下すれば、頭を打って命を失うかもしれない。目を閉じながらぼんやりと、そんなことを思う。   その時だった。   横から飛び出してきた影が、空中で彼女の身体を受け止めた。まるで豹のようにしなやかに、壁を蹴って、ひらりと着地する。夏静は目を開けた。 「文卓!」 # # #   恋人を抱きとめた茶髪の少年は、落ち着いた様子で夏静(シア・ジン)の顔を見た。立てるか? と尋ね、彼女がええ、とうなづくと、そっと彼女を地面に下ろした。   そして朱文卓(ジュウ・ウェンズオ)は、暗闇に立つ彼女の父親──夏徳華に視線を移す。 「お前か」 低く、唸るように夏徳華(シア・ドーファ)は言った。怯えた夏静が何か声を上げようとするのを、朱文卓は手で制して止めた。彼女をかばうように背中に隠し、じっと強い視線で男を睨みつける。 「お前が朱文卓か」 その言葉に、少年はこくりとうなづいた。一文字に結んだ唇には言葉はない。拳を握り締め、力強い少林拳の構えをとる。 「ハッ、そうだろうと思ってたよ。静に男が出来たって聞いたときにな。俺は真っ先にお前のことを思い出した」 もう一年ぐらいも前になったっけな。そう付け加えながら、ジリ、と夏静は構えもとらずに一歩踏み出した。   逃げて、と背後で夏静が囁くのを聞き、朱文卓は首を横に振りながら唾を飲み込んだ。全身から猛烈な殺気を放っている夏徳華を見ていると恐怖で身体が震えだしてしまいそうだった。   彼の言う通り、朱文卓が夏徳華に会うのはこれが二度目である。喧嘩に強い女侠・夏静に勝ちたくて、彼女を追い掛け回していたときに、偶然こうした場面に出くわしたのだ。   見ていられなくて、父娘の間に割って入った朱文卓は、夏徳華の夏式八卦掌の洗礼を受けた。少年の武術は、本物の武道家である彼にはまったく歯が立たなかった。   今回だって同じである。また、あの時のように自分はボロ布のように痛めつけられるのだろう。それは分かっていた。  しかし、男には引けないときがあるのだ。 「お前、いい時に来やがったな」 もう一歩、両手をだらりとさせながら夏徳華はこちらに近付いた。 「……見ての通り、俺は今すこぶる機嫌が悪い」 掌を握ったり開いたりしながら、もう一歩。朱文卓は視線を動かさないまま、背後の夏静に、俺から離れろと告げた。 「……お前を半殺しにしても、まだ足りないぐらいだ」 ザッ。足を開き、舞うような掌の動き。夏徳華は構えをとった。 「生きて帰れると思うな。朱文卓!」  八卦掌特有の、美しく舞うような足裁きで、夏徳華は二つの掌を繰り出した。サッ、サッと朱文卓と夏静は両脇に跳んでかわす。   怪我だらけの娘が膝を折って地面に手をついたのを確認すると、夏徳華は身体の向きを朱文卓に向けた。   対する少年は、直線的な拳を放ってきたところだった。ニヤと笑った夏徳華は拳を避け、その肘を掴みながら一瞬のうちに彼の背後に回った。   あっ、と朱文卓が声を上げる前に、夏徳華は飛び上がりながら両足での蹴りを少年の背中に放った。ゴッと鈍い音がして、朱文卓はみっともなく地面に投げ出された。   次には、息もつかせず、踏みつけるように足を繰り出してくる。少年は転がりながらそれをかわし、そのまま両足を天に向かって回転させて立ち上がろうとした。   ──ガッ。   だが突如、腕に猛烈な痛みを感じて思考が止まった。   文卓! と夏静が悲鳴を上げる。夏徳華がブーツで朱文卓の腕を、その肘を踏みつけている。   ギリ、と男は足に力をこめた。 「まずは、腕を一本、もらおうか」 骨がきしんだ。朱文卓は歯を食いしばって痛みに耐えようとした。無理な姿勢のまま下半身の蹴りを夏徳華に当てようとするが、軽く右腕の一閃であしらわれてしまう。 「やめて、お父さん!」 夏静が駆けた。父親の身体にしがみついて止めようとするが、夏徳華はそんな娘を振り払おうともせず、無視した。代わりに踏みつける足にますます力を込める。   決意を固めて、夏静が身を翻した。掌を構え、父親の足に狙いをつける。それに気付いた夏徳華は、驚いたように娘に顔を向けた。   その時。自分の肘を踏みつける力が弱くなったことに気付いて、少年はハッとした。見上げた夏徳華の顔を見る。男は、今まさに自分に手を上げようとしている娘を見ていた。   ──今だ!   ぐるんと、両足を回しその威力で夏徳華の足を外すと、朱文卓はタッと自分の両足で地面に立った。 「静!」 朱文卓は叫びながら、跳んだ。目を見開いた夏静は、父親の両腕をグッと掴み掌を封じた。   静、と夏徳華も叫ぶ。   頭を伏せた夏静。その向こうから飛んできたのは、朱文卓の蹴りだった。飛び上がりながら放った、天に舞い上がるような美しい軌跡。美しさと威力のこもった蹴りが目前に迫っていた。   ひどく重い音が路地裏に響き渡った。   朱文卓の脛が、夏徳華の顎に決定的な打撃を与えた瞬間。時が止まったように夏静はその光景を目に焼き付け、息をのんだ。   その一瞬のあと、蹴り抜けた朱文卓は足を綺麗にピンと伸ばし、宙を舞った。そして夏徳華は顔を仰け反らせ、放物円を描くように跳ね飛ばされていく。 「文卓! お父さん!」 夏静は駆け、もう一度父親の両腕を掴んだ。ビクンと身体を震わせ、後頭部を石畳にぶつける寸前に動きが止まる。彼女は父親の身体をできるだけ衝撃がかからないようにして地面に寝かせた。スタッと着地した朱文卓も慌てて駆け寄ってくる。   二人を恐怖に陥れていた男、夏徳華は意識を失い地面に倒れている。夏静は手早く脈をとった。そして心配そうにのぞきこむ朱文卓にうなづいてみせる。 「大丈夫、脳震盪を起こしただけよ」 # # #   父親の腕を胸の上にきちんと置いてやり、手の甲を撫でてから、夏静(シア・ジン)は立ち上がった。 「早く、行きましょう」 「いいのか?」 彼女の手をそっと握りながら、朱文卓(ジュウ・ウェンズオ)。 「親父さんをこんなところに放っておいて」 「平気よ。同僚の曾(ジァン)さんに連絡しておくから」 と、夏静はパッと顔を輝かせ、朱文卓を見上げた。 「それより、文卓、さっきのあれ……“鳳凰跳脚”ね!」 「あ、ああ」 彼女の微笑みに、朱文卓は照れたように笑う。「あれしかない、と思って。咄嗟だったから」   跳び上がりながら天を突く。炎の中から蘇り羽ばたく鳳凰のような蹴り。その威力には、誰もが恐れをなす。朱文卓を“南天無雙(ナンティェンウショアン)”と言わしめる技が、今ここに復活したのだ。 「文卓」 夏静は飛びつくように朱文卓の胸に飛び込んだ。背中に手を回しギュッと抱きつきながら、彼の首筋に接吻キスを浴びせた。何度も何度も。 「もう大丈夫よね。自分のこと駄目なヤツだなんて言わないわね」 「ああ」 しっかりとした声で朱文卓は答え、彼女の顔を見下ろす。優しい目だった。 「ゴメンな。俺、もうお前を悲しませるようなことは言わない」 彼は腰を屈めて、彼女の唇に軽くキスをすると、自分のTシャツの裾で夏静の鼻血の跡を拭いてやった。それからジーンズのポケットから黒い手袋を取り出し彼女に差し出す。 「これ、忘れていったから、返さなきゃと思って、必死にお前を探したんだ」 「ありがと。……わたし、ひどい顔してるでしょう?」 「いいや。お前は、いつも綺麗だ」 「もう……、何言ってるの?」 夏静は照れたように顔をそらし、手袋を受け取った。だがそれは身に着けずズボンのポケットにねじ込んだ。素手で彼の温もりを感じたい。そう思った彼女は、朱文卓の腕に自分の両腕を絡めて、路地裏の外の方へ彼を促した。 「ねえ、文卓。お腹すいてない?」 「ん? ああ。まあ、確かにちょっとな。何か食べたいものあるか?」 「そうね……。そうだ、火鍋がいいわ」 夏静はふと思いついたように言った。 「火鍋?」 朱文卓は眉を寄せる。「なんで? 火鍋なんかB級グルメじゃんさ? もっと豪勢なモン食おうぜ」 「イヤよ。イヤイヤ。今日は火鍋がいいの。二人で食べたいの!」 首を振り振り可愛らしく言う夏静を、朱文卓は目をパチパチやりながら見たが、フッと肩の力を抜いたように微笑んだ。 「いいよ。お前がそう言うなら火鍋にしよう」 「ありがとう、嬉しいわ」 自分の胸を朱文卓の腕に押し付けながら夏静。なるべく身体が密着するようにして歩きながら、そっと一言。  「だから好きよ。文卓、とっても優しいから」  少年は、途端に顔を赤らめた。うう、とか、ああ、とか意味を成さない言葉を発しながら、前方に歩いていく。彼の横顔を見つめ、夏静は幸せそうに微笑んだ。一人の少女の顔だった。そんな彼女の表情の中には“黒掌仙姑(ヘイチァンシェンクー)”の凄みや、父親への怯えは微塵も存在していなかった。   そして、二人は路地の向こうに姿を消していった。楽しそうな笑い声とともに。   ■■■     by 冬城カナエ 2006,06,12