Chapter1  現代の魔法使い ────────────────────── Chapter1-1 口は災いの素 「君はマーリンにでも成ったつもりかね」    課長室に入るなり、そんなことを言われて。ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、ただ一言、いいえとだけ答えた。  目の前のマホガニーのデスクに座っている禿頭の男は、ランドルフ=カヴェンディッシュ警視正。ロンドン首都警察──通称、スコットランドヤードの重犯罪対策局・殺人捜査部・西部地区課長サマだ。言葉には気をつけないといけない。ベンジャミンは笑いをかみ殺した神妙な表情のまま。黙って立っている。 「シェリンガム警視、私はこれでも君のことをずいぶん高く買っているつもりだ」  低く抑えた警視正の声には、怒気が含まれていた。 「君はオックスフォード出の秀才で、家柄も素晴らしいし、あのプレスコット下院議員は君の叔父だと聞いている。私が警視になったのは43才の時だが、君は38才でもう警視だ。実際、私の補佐役としてよく働いてくれているし、手際の良さにはいつも舌を巻く限りだ。しかしな」  一気に喋ってから、ギラリとした視線をベンジャミンに投げ打つ。 「今回ばかりは、君の考えが理解できない。一体どうして、ああいったことをしでかしてくれたのかね? 君はBBCの連中に借りでもあるのか」 「いえ、ありません。深夜にやっている“男のクッキング24時”は好きですがね」  ニヤと一瞬だけ笑みを見せて、ベンジャミンは相手が反応する前に言葉を続けた。 「私も、警視正と同じで、メディアの連中は大嫌いですよ。ヘドが出ますね。しかし、BBCはあれでも国営放送ですから、どこからか我々の情報力操作の及ばないところから、マハムード=アサディがあの場所に現れることを掴んだんでしょうな」 「他人事のように言うな!」  ドンッ、とカヴェンディッシュ警視正はデスクを叩いた。 「奴をなぜ、逃がしたんだ!? 理由を言え」    だが、ベンジャミンは冷たい視線を相手に据えただけだった。栗色の髪は、ラフにセットされており、サヴィル・ロウ※の老舗テーラー、ギーブス&ホークスのスーツを着ているにも関わらず、シャツの第一ボタンを開けネクタイを緩めている。一見だらしないように見えるのだが、それが妙にサマになっている。不思議な雰囲気のする男だった。 「逃がしたつもりはありません。彼が消えたのです。我々の前から、フッ、とね」  彼は堪えきれずに、クスッと笑う。 「土曜日、昼間のトラファルガー・スクエアがどれほど人で込み合うか、警視正はご存知ないようだ。まあ、要するに私が現場への指示をミスしたわけですから、処罰・処断、如何様にもなさっていただいて結構」 「シェリンガム、俺の立場も考えてくれ!」  とうとうカヴェンディッシュ警視正は、椅子を蹴倒して立ち上がっていた。 「我々が逮捕するはずだった容疑者が、ハイドパークの市民論壇場(スピーカーズコーナー)※に突然現れて、自分の無実を訴えたんだぞ。しかもそれをBBCが生中継だ! 悪いジョークにも程があるだろうが!」    ひょいと肩をすくめるベンジャミン。カヴェンディッシュ警視正は、それを見なかったことにして、椅子を戻し荒く息をしながら腰掛けた。 「マハムード=アサディの無実の訴えに、ロンドン市民は心を動かされてしまった。これで奴を逮捕することが難しくなった。捜査もまた一からやり直しだ」 「いいんじゃないですか。捜査をやり直すことに、私は賛成です」  しかし淡々と、ベンジャミンは言った。 「アサディに関する調査報告書に目を通しました。今のところ物的証拠が少な過ぎます。同じ状況で逮捕・起訴された人間は過去には一人も居ないはずです。過去の類似事件と違う点は、アサディがイラン出身のイスラム系移民であるということだけです。これは宗教・人種上の差別には当たりませんか」 「ま、待て、落ち着け、シェリンガム」  突然、部下が言い出した糾弾に、警視正は目に見えるほど狼狽した。ここは個室で、ほかには誰も居ないというのに周囲にキョトキョトと目線を走らせ始める。 「アサディを逮捕しろと言ってきたのは、MI5(国防情報局保安部)※で、報告書も連中が作ったわけで……」 「連中の言いなりになる必要がありますか、我々は警察ですよ。しかもMI5からテロ対策部ではなく、この殺人捜査部にお鉢が回ってきたということは、アサディを別件逮捕して取り調べるつもりだったんでしょうな。それぐらいのこと、貴方でもお分かりでしょう?」  カヴェンディッシュ警視正は、ひるんだように上体を反らせた。 「それに──」  たたみかけるように、ベンジャミンは続けた。 「私のことをマーリンと呼ぶのはやめた方がよろしいかと。私は魔法使いではありませんし、もし私がマーリンだとしたら……」 ────────────────────── Chapter1-2 超常犯罪調査部、略してUCB  そんなわけで、三日後の夕刻。  ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、かったるい、ウザいなどと悪態をつきながら、両手でダンボールを抱えて階段を降りている。スコットランドヤードのビルの中に、こんな場所が存在したのかと驚くほど薄暗い陰気な場所だ。階段の終点から少し行ったところの突き当たりに、古ぼけたドアがあった。張り出した札にあるのは──  『超常犯罪調査部(アンノウン・クライム・ブランチ)[UCB]』  ドアの前に立ったベンジャミン。両手がふさがっているため、肩でドアをノックし、中にいる人間にドアを開けてもらおうとしたのだが、彼は動きを止めた。中から女性二人の話し声が聞こえてきたからだ。 「……マジで? それヤバくない?」 「ヤバイわよ。それでもシェリンガムさんは、動じずに、ソファに座ったままタバコふかしてただけだったらしいわ」 「だって目の前に殺人鬼でしょ?」 「そうよ、殺人鬼よ。ドラッグキメてる殺人鬼よ」 「ウッソ、殺されちゃうじゃん」 「部下を信じてたらしいわよ。実際、そのすぐ後に西課の連中がカフェに踏み込んで、犯人を射殺したんだって。それでシェリンガムさんは、殺人犯の死体に向かって、“ヤードを恨むのは結構だが、他人を殺すのは罪だ”とか言ったんですって」 「カァッコィィ……」 「ヤードの中で、最もラフにギーブス&ホークスを着こなす男とも呼ばれてるらしいわよ」 「なんで、そんなスゴイ人がこんな部に回されちゃうわけ?」 「それよ、それ。マーリン発言よ」 「何それ」 「カヴェンディッシュ西課長にね、“君はマーリンか?”って言われたんだって。例のイラン人のアサディ生中継事件の件でね。……そしたら、シェリンガムさん。自分がマーリンだったら、貴方はアーサー王になるわけで、貴方にアーサー王は無理だとかなんとか言ったんだって。それで西課長、大・激・怒よ」 「ギャハハ、けっさくー」    ドンドン。 「君たち、ちょっとドアを開けてくれないか」  中から聞こえてきた女性たちの笑い声がピタリとやんだ。  外れて落ちてしまいそうなドアノブがキュル、と回り、ドアが開く。そこに立っていたのは、いずれも20代ぐらいの赤毛とブロンドの女性二人だ。  女性二人は呆けたように、ベンジャミンの顔を見上げる。 「シェリンガムだ。話は聞いてる?」 「は、はい」 「俺の机はどこ?」 「こちらです」  赤毛の方が身を引いて、部屋の奥に鎮座した味気ないステンレスのデスクを手で指し示した。日光が射さない地下のこの部屋の中は、昼間だというのに薄暗い蛍光灯が灯っているだけで、10個ほど並んだデスクには人影が一つもない。  どうも女性二人以外は、捜査か外回りに出かけているようだ。それにしても……。聞き及んではいたものの、人数の少なさに改めて驚くベンジャミン。こんな少ない人数で成立する“部”があるのか、と。  自分の新たなデスクにダンボールを下ろし、一息つこうとして、ベンジャミンは気配にサッと振り返る。すると女二人が顔を赤らめ、それぞれそっぽを向いたところだった。 「君たち、ちょっと」  ベンジャミンが呼ぶと、彼女たちは慌てたように彼の目の前に駆けつけ、ヘナッとサマにならない敬礼をした。 「ベンジャミン=シェリンガム警視だ。今日からこの超常犯罪調査部を預かることになった。よろしく」  何で俺から名乗ってるんだろ、などと思いながらもベンジャミン。デスクに手を付きながら言う。 「ヴィヴィアン=コーヴェイです!」 「シシー=デューモントです!」  女二人は競うようにして名乗った。まだ新人ですとか、この4月に入所したばかりですとか、まだ現場に出たことがありませんとか、電話番してるだけですとか、シェリンガムさんの下で働けて光栄です、とか、彼女たちはマシンガンのように口々に喋り狂った。 「ああ、分かった分かった。この部のことは明日にでも、ほかのメンバーも交えてゆっくり聞くから」  と、ベンジャミンはなだめるようにそう言うと、赤毛の女の方に向かって、 「ところで、シシー。過去にこの部で扱った事件のことを掴みたいんだが、資料は……」 「わたしはヴィヴィアンです。ヴィヴって呼んでくださって構いませんです!」 「あ、ごめん」  赤毛の方がヴィヴィアンだったか、と思ったら脇からブロンドのシシーが大声を張り上げた。 「資料の方は、わたしシシーの方が管理してます! 何でも聞いてください」 「何よ、アンタいつもインターネットして遊んでるだけじゃないの!」 「違うわ、あれは調査してんのよ!」 「まあまあ」  突然、噛み付くような言い争いを始める二人。ベンジャミンは、何でなだめてるんだろ、などと思いながら彼女たちの肩にポンと手を置く。 「資料の件も明日でいいや。悪いんだけど、そのダンボールの中の荷物、俺のデスクの中にテキトーにぶっ込んどいてくれる? ……ああ、一番上に乗ってる薬ビンがあるだろ。それは持って帰るからこっちに寄こして」  そう言いながら胸ポケットから携帯電話を取り出す。  女二人は、伝統的英国紳士風のルックスをした、いかにも上流階級(アッパークラス)の人間に見えるベンジャミンの口から、思いも寄らないフランクな言葉が飛び出てきたことに驚いて、またポカンと口を開けて彼を見つめている。  しかし、そうとは知らないベンジャミンは左腕に嵌めたタグホイヤーで時刻を確認すると、そろそろ行ってやるか、と呟いた。電話をかけようと携帯電話の画面を見つめていると、また女たちの視線を感じた。ブロンドのシシーの方がおずおずと薬ビンを彼に差し出している。 「ああ、ありがとう。シシー」  ベンジャミンは薬ビンをスーツのポケットに入れた。先日、医者にγ−GDP値※が高過ぎるがら、とにかくこれを飲んで肝機能を治せと渡されたものだ。 「シシー。それにヴィヴ。今日はちょっと行くところがあるから、これで失礼するよ。明日はちゃんと定時に来るから」  電話をかけながら部屋を出ようとして、ベンジャミンはふと女二人を振り返った。彼女たちは、なんと声をかけてよいものやらといった感じでモジモジしながら自分を見ている。 「あのさ」  ベンジャミンは携帯電話を持った手を下げ、彼女たちに微笑みかけた。 「“君はマーリンか”って言われたアレな」  ヴィヴィアンとシシーは噂話を聞かれたことを知り、驚きそして恥じたような苦笑いを浮かべてみせる。 「──君たちが言ってた話で大体合ってるが、正確には、俺はこう言ったんだ。“自分がマーリンなら、貴方はアーサー王になるわけで。貴方は部下9人と円卓を囲めますか? 円卓を囲んだら、‘お前たちは俺の言うことを聞いてりゃいいんだ’なんて言えなくなりますよ”ってな※」  プッと吹き出すように笑う女二人。 「“それでしたら、私はマーリンでなく、フーディーニ※で結構。奇術師ながらも同業者のイカサマを見破って暴いてみせますから”って最後締めくくったんだ。けど、あのカヴェンディッシュ警視正どのは、センス・オブ・ユーモアを解さない男だったらしく。そう、君たちの言う通り大激怒さ。顔を真っ赤にしてさ、見ものだったぜ?」  二人は、若い女らしくけたたましく笑いだした。腹を抱えて大笑いしている。英国の淑女はたぶん絶滅したのだろう、そう思いながらも、ベンジャミンは新しい異動先を後にした。 - - - - - - - - - - - - - - - ※ハイドパーク: ハイドパークという大きな公園がありまして。その角に市民が勝手に喋っていい「公開シャベリ場」があるのです。 ※サヴィル・ロウ : 紳士服スーツの老舗がズラリと並ぶ英国紳士ファッションの聖地。 ※MI5[国防情報局保安部] : 国内方面のテロ対策をする情報局。ジェームズ・ボンドが所属してるのはMI6で、あれは外交方面の活動をします。だからボンドは海外に行くのね ※アーサー王の円卓: アーサー王の円卓は、王も臣下もフラットな立場で話し合うために用意されたもの。円卓であるため、上座や下座がない ※フーディーニ: ハリー・フーディーニ。奇術師。心霊術などのインチキを見抜くことに熱心だったといわれている。ドラマ「TRICK」でも彼の名前出てきますよね? ※γ−GDP値: ガンマ・ジー・ディー・ピー値と読む。酒を飲みすぎだと、数値が高くなってくる。いわゆるオジサンたちがいつも気にしている数値。類似するものに“尿酸値”というものもある ※スコットランド ・ヤード: ロンドン首都警察。日本の警察が桜田門と呼ばれるような意味合いで、昔庁舎がスコットランド・ヤードという庭に面していたから、こう呼ばれているらしいです。 ────────────────────── Chapter1-3 魔法使いの弱点   所変わって、メイフェア地区の小さな公園。ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、一人の青年とともにベンチに腰掛けている。時刻は夜8時ごろ。そろそろお上品でないロンドン市民たちが街に繰り出してくる時間だ。  隣の青年は、20代半ばぐらい。ブロンドの長い髪を後ろで結び、マンチェスター・ユナイテッド※のユニフォーム・レプリカを着ている。背中の文字はルーニー。背番号は8。小型戦車と異名を持つ、やたら攻撃的なプレイスタイルを持つウェイン・ルーニー選手のファンらしい。  二人はじっと前方を見たまま、無言。青年の方は両手を組み合わせて、神経質そうに親指の付け根あたりを揉んでいる。 「ジェル、そろそろ帰れ」  ようやく切り出したのは、ベンジャミンだ。 「叔母さんが心配してるぞ」 「嫌だよ」  青年は小さな声でつぶやくように言った。 「俺、あの家に帰りたくないよ」 「子どもじゃないんだから、ワガママを言うな」 「だって、息が詰まりそうなんだもん。アレみたい。ハリー・ポッター並みだよ。俺、マグルの叔母さんにさ、苛められてるんだよ。ホントだよ。ジャムだって、あの様子を見たら絶対そう思うって」 「俺は何度もそっちを尋ねてるがな」  ぼそりと口を挟む。 「ジャムが来たときだけ、叔母さんはイイ顔するんだよ。そうじゃない時は“ジェレミー、今日はどこに行ってきたの?”とか、“フットボールを見に行くのは月に一度ぐらいになさい”とか、そんなことばっかり言うんだ」 「それは、お前がニートだからだろう」  大きくため息をつきながら、ベンジャミンは言った。 「ひどいよ兄貴、俺のことただの肉の塊だなんて、いくらなんでも言い過ぎだよ」 「俺はNEETと言ったんだ、MEATじゃない。──働かず、学生でもなく、教鞭を振るってもいない奴、すなわち、お前みたいな奴のことだよ!」    青年の名前は、ジェレミー・ナイジェル=シェリンガム。ありていに言うところの出来の悪い弟だ。25才にもなってまともな職に就いておらず、フットボール(サッカー)を見て騒いで物を壊したり、喧嘩したり、ドラッグを打ってラリッたりすることで、毎日を浪費している。  どうしようもない弟だが、ベンジャミンはこの年の離れた弟に対して少なからず責任を感じていた。  そもそもは22年前、彼らの両親が殺されたことから始まる。当時住んでいた彼らの邸宅に強盗が押し入り、両親と乳母(ナニー)を殺害し、宝石類を強奪して逃げたのだった。16才だったベンジャミンは3才の弟とタンスの奥深くに隠れて息を潜め、難を逃れた。  その後二人の兄弟は、母方の叔父であるサー・ダニエル=プレスコット下院議員の家に引き取られた。だが、ベンジャミンの方はすぐに全寮制のハイスクールに通うようになり、そのまま大学に進学したため、弟の面倒をほとんどプレスコット家に任せることになってしまったのだった。  ベンジャミンの方は、両親が死ぬ前に乳母(ナニー)に毎日毎日同じような不味い豆料理を食べさせられ、伝統的な上流階級(アッパークラス)の人間としての辛抱強さを身に着けることが出来たが、ジェレミーの方はそういうわけには行かなかった。  自由奔放で束縛を嫌う弟は、どうも決定的にプレスコット家と合わなかったようだった。  大学を中退し、サッカー観戦に明け暮れるようになったジェレミーを見て、ベンジャミンは弟を引き取ろうと何度も思った。現在の収入と、両親が残してくれた財産があれば、ジェレミーひとり養うのに全く問題はない。しかし、プレスコット家と叔父の面子のことを考えると気が引けたし、ちょっと前まではもう一人扶養家族もいた。スコットランドヤードの仕事も苛烈を極め、面倒を見てやれるかどうか自信も無かった。  結局、ベンジャミンに出来たのは、こうしてたまに彼に会い、力になってやることだけだった。  そこまで考えてベンジャミンは、今自分が置かれている境遇について、はたと思い至ることがあった。 「ジェル」  ちょっとした間のあと、ベンジャミンは弟を呼んだ。 「お前はどうして、さっきまで留置場にぶち込まれてたんだっけ?」 「えっと……、バーでケンカしたから」  公園の土に目線を落としながら、おどおどとジェレミーは答えた。 「そうだな、ご名答。なら、お前は何でこんなにすぐに出てこれるんだっけ? 理由を言ってみろ」 「ジャムが偉い警察官だから」 「それもある。けど、もう一つあるだろ?」 「叔父さんが下院議員だから」 「そうだ。お前はコネを使って罪から逃れてるわけだ」  ベンジャミンはギロリと弟をにらんだ。 「つまり世間的に見て、お前はいわゆるダメ人間ってヤツなんだよ」 「ひ」  息を呑んだジェレミー。兄の方を見て顔を引きつらせる。 「ひどいよ、ジャム……。あんまりだよ」  声が上ずっている。言い過ぎたかなと思ったが、たまには厳しく言ってやらないと。ベンジャミンは敢えて弟の顔を見ないようにした。 「もうケンカしないと約束しろ、ジェレミー」  ひとつずつだ。自分にも言い聞かせるようにベンジャミンは言った。ひとつずつ約束させて、守らせるようにしていこう。ケンカをやめさせたら、次はドラッグだ。そうやって一歩ずつ進んでいけば、この弟を真っ当な人間にすることができるかもしれない。 「今すぐ約束すれば、俺のマンションにお前の部屋を用意してやる」 「えっ!」  そこでやっと、兄は弟の顔を見た。驚きに見開かれていたジェレミーのグリーンの瞳がふにゃりと歪んで笑みに変わっていく。 「ジャム、マジで言ってんの?」 「ああ」  厳格な表情のままでいようと思ったが、つい表情が崩れてしまう。ベンジャミンも自然と微笑んでいた。 「ちょっとした問題やらかして、とばされた。もう殺人捜査部の刑事じゃなくなったんだ。次の部署はヒマそうだから、お前の面倒をもうちょっと見てやれそう……」 「約束するよ! 俺もうケンカしない!」  ぴょんと立ち上がって、兄を振り返りジェレミーは言った。人の話を最後まで聞きもしない。ベンジャミンは苦笑した。 「約束だぞ」  自分も立ち上がり、ベンジャミンは弟の両肩に手を置く。弟はヘラヘラとしまりのない笑みを浮かべながら何度もうなづいている。 「うん、俺、掃除も洗濯も料理もするよ」 「そうか。料理だけでもいいぞ。BBCの“男のクッキング24時”を見れば……」 「ノー・プロブレムさ、ジャム。俺、毎日その番組チェックしてるから」  仕方ない奴だ。苦笑しながら、弟の背中をポンポンと叩きベンジャミンは思った。──ま、世の中悪いことばかりじゃないな。  手を振り、おとなしく叔父の家へと帰って行く弟を見送ってから、ベンジャミンはタクシーを捕まえ帰路についた。そうだ、今日こそは医者にもらったγ−GDP値を下げる薬を飲むことを忘れないようにしないとな、などと、どうでもいいことを思いながら。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※マンチェスター ・ユナイテッド: イングランドのサッカークラブ。前にベッカムが所属してたアレ。いわゆる読売ジャイアンツみたいな位置づけ ────────────────────── Chapter2  ザ・ファースト・トリップ Chapter2-1 いわゆるオーヴァー・ドーズ  たぶん、とベンジャミンは手元に引き寄せたタオルで濡れた顔を拭きながら思った。たぶん、自分は職場のデスクで書類を読んでいたのだ。過去の事件報告書に目を通し分類作業をしていたのだ。それで──。 「あの、部長。それわたしの……」  若い女の声に我に返る。ベンジャミンは、部下の婦警シシー=デューモントの手を掴んでいた。 「あっ、ごめん」  慌てて、その手を離す。タオルだと思ったのは彼女のブラウスの袖だったのだ。  どうかしている。頭がぐらぐらする。  何故、こんな感覚が? まるで酒に酔ってるみたいじゃないか。お前は、酒を断って何年になるんだ、ジャム? もう何年も一滴も飲んでないだろ? 「ごめん、シシー」 やっと、ベンジャミンはそれだけ言った。「今日は気分が悪いから早めに帰るよ」  頭を押さえながら、足早にドアへと歩いていく。  廊下に出ようと、UCBのドアを勢い良く開けると、2人の若い女と鉢合わせした。クラブに踊りに行くような派手なルックスの10代後半の娘たちだ。 「あ」  驚いたように目を見開いたのは鼻にピアスをしている方。ベンジャミンの顔を指差し言う。 「お兄さんだ」 「ジェルのお兄さんだよね? ……おかえりなさぁーい」  ──バタン!  ベンジャミンは扉を閉じた。  え? 今の何? 俺は、スコットランドヤードの地下にある超常犯罪調査部[UCB]から外に出ようとドアを開けたところだったよな? なあ? なんで俺の家に──    ──ドンッ、ドンッ。  ──バリバリッ。ダダン!  剣呑な物音に、サッと振り返るベンジャミン。  ドアを突き破った白い手。次の瞬間にはドア自体が破壊され、何者かが部屋に乱入してきた。髪を振り乱したネグリジェ姿の女。まるでホラー映画から飛び出してきたような女は骨ばった手をかざし、顔を上げた。 「あんたのことを愛してたのに、愛してたのに愛してたのにィ……許せないわァッ!!」  叫んだ女の目は狂気一色。──アンタ誰? なんて質問を受け付けてくれる気配は一切、無い。  一歩、踏み出した彼女の身体が奇妙に波打つように躍動した。異臭。盛り上がる背中、手の爪が鉤爪のような凶器に変化していく。  まずい! そう思ったが遅かった。  山猫のように飛びかかってきた女の鉤爪が、ベンジャミンの右肩口に深々と突き刺さった。 「ぐっ」  デスクの上の書類やいろいろな備品を周囲に撒き散らしながらも、ベンジャミンは女の腕を掴んだ。自分の身体から凶器を引き抜こうとしたのだが、その怪力といったら! 女の腕はビクともしない。  女はベンジャミンに苦痛を味わわせようと、鉤爪をメチャクチャに動かした。 「死ね死ね死ねッ」 「おやめなさい!」   誰かの声。助けが来たのか? ベンジャミンは痛みに気が遠くなりそうになりながら、女の向こうに現れた人物を見る。それは、古風な黒いドレスをまとった若い女。  その顔を見た途端、ベンジャミンは頭をガツンと殴られたような衝撃を受け──  ──待て! そうじゃない。こんなことは有り得ない。  しっかりしろ、ジャム。どれが現実で、どれが現実じゃないのかを見極めるんだ。  物事を時系列順に並び替えて、分析するんだ。  起きるんだ、ジャム。目を開けろ。  ……。  パァッと明るい光が、差し込んだ。  ゆらゆらとゆらめく視界の中で、自分を覗き込むようにしている三つの顔。  あっ、見て。  お兄さん目ェ開けたよ!  ジャム、ねえ、ジャム!? 大丈夫なの? 返事してよ!  ベンジャミンは、跳ねるように飛び起きた。 「ジャム!」  すぐに両腕を掴んできたのは弟のジェレミーだった。大丈夫なの? 平気? そんなことを言いながら、身体を揺すっている。 「ジェル、ああ、だ、だいじょうぶだ」  言いながら、ベンジャミンはまず弟の顔を見た。ジェレミーは心配そうに自分のことを見つめている。その隣には派手な若い女性が二人、やはり心配そうに自分のことを見ている。  そこは自宅の洗面所だった。  白と黒のモノトーンのタイルが張り巡らされたモダンなデザインの洗面所に、彼自身は足を投げ出し座り込んでいる。どうやら今まで、彼はここに大の字に倒れていたらしい。なぜか床は水浸しだ。  ついでに、着ていたギーブス&ホークスも台無しになっていた。 「俺は、ここに倒れてたのか」  ベンジャミンは、ぽつりと言った。そうだよ、とジェレミーが答え、若い女性二人はうんうんとうなづいた。 「アタシたちがねぇ、お留守番してるところにお兄さん帰ってきてェ」 「それでアタシたち、ジェルの部屋でテレビ見てたからァ」 「お兄さん、ここで倒れてるの気付かなくてェ」 「ゴメンネ」 「ジャム、大丈夫?」  見事な連携プレーで、状況説明をしようとしている女性二人を尻目に、ジェレミーは近場に転がっていたトイレットペーパーの紙を手にとると、ベンジャミンの顔を拭き始めた。 「ごめんね。俺がここに錠剤(ピル)を置いといたのが悪かったんだ。ジャムがうっかり飲んじゃうとは思わなくて……」 「錠剤!? どういう錠剤だ?」  弟の手をやんわり弾いて、ベンジャミンは手を伸ばしタオルを引き寄せ──今後こそは、正真正銘のタオルだ!──それで顔を拭きながら尋ねた。やや詰問口調になりながら。  ジェレミーは一瞬ひるんだような目をしたが、おとなしく答えた。 「違法なクスリじゃないよ。成分は全部、法定水準を守ってるデザイナーズ・ドラッグだよ。少しだけいい気分になるだけなんだけど……」  言われて、ベンジャミンは今の今まで見ていた光景を思い出した。UCBで見た書類。ホラー映画から飛び出してきた女。そして──黒いドレスの女。  無言のまま、ゆっくりと立ち上がり、洗面台の蛇口の横にある薬ビンを確認した。今朝飲んだγ−GDP値を下げる薬の隣にもう一つ、非常によく似た薬ビンが増えている。 「俺が間違えたのか」  そうつぶやきながら、ベンジャミンは薬ビンを取ってジェレミーに差し出した。弟は怒られると思ったのか、上目遣いになって身構えるように、こちらを見ている。 「ちっともイイ気分にならなかったぞ。とんでもないバッド・トリップだ」  しかしベンジャミンは声を荒げなかった。心ここにあらずといった感じで、ふらふらと洗面所を出て行く。  拍子抜けしたのはジェレミーだ。……ジャム、どうしたの? ねえ、とその背中に声をかける。女二人は兄弟の様子を不思議そうに見つめていた。    自分の部屋に戻ったベンジャミンは、まずは着替えようとスーツを脱ごうとした。  しかしその途端、痛ッと声を上げて顔を歪める。右肩に激痛が走ったのだ。  肩? 肩といえばさっきの……。ベンジャミンは爆発的に嫌な予感がするのを押さえ、恐る恐るジャケットとシャツを脱いだ。  右肩には、青い痣が点々と出来ていた。もちろん、まったく身に覚えがない。覚えがあるとすれば、あの薬物で見た幻覚の中で、ホラー映画女に刺されたことぐらいしか── 「有り得ない、有り得ない。有り得ないぞ、ジャム。そんなことは」  口に出してつぶやいたベンジャミン。シャツを手に掴んだまま、ソファにどっかと腰掛ける。  そのまま彼は、思考を開始した。今日一日起こったことを、もう一度時系列順に並べて整理してみるのだ。そうすれば自分がどこで怪我をしたのか思い出すだろう。そしてあの黒いドレスの女と何処で出会ったのかも。  そうだ。自分は職場のデスクで書類を読んでいたのだ。過去の事件報告書に目を通し、分類作業をしていたのだ──。 ────────────────────── Chapter2-2 100分の5のホンモノ  そう、思い出した。  ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、スコットランドヤードの超常犯罪調査部[UCB]の自分のデスクで過去の事件報告書に目を通し、分類作業をしていたのだ。  ここに来てから二週間。彼は、たまに印鑑を押したり、たまに部下の話を聞いて、イエスかノーを言ったりする合間に、UCBの過去の膨大な事件報告書に目を通し続けていた。  今は夕刻。部下たちはほとんどが出払い、部屋の中は静かである。ときおり、ひそひそとお喋りに興じている婦警二人のどちらかが漏らす笑い声と、居残り組の刑事が苦情電話に対応している声。すぐ目の前のデスクで、巡査部長のクライヴ=コルチェスターがパチパチとキーボードを打っている音が聞こえてくるぐらいだ。  時は夕刻。ベンジャミンのデスクの上には書類の山が三つ、形成されていた。  ケース1。キャサリン=ベントリーは8月26日の夜20:00頃、家に侵入した何者かに金品を強奪された上、性的暴行を受けた。帰宅した夫が警察に通報。事情徴収によると、ベントリー夫人は、煙のように現れた夢魔(インキュバス)に被害を受けたと主張。UCBで再調査の結果、二階の窓から音もなく家に侵入したのはベントリー夫人の浮気相手、ジム=ベイツだと判明。彼の身柄を確保し、容疑を住居侵入と詐欺に切り替えて送検。  ケース2。園芸用品卸の株式会社ウォリック商会の社員が三名、帰宅途中に何者かに襲われ殺害される。凶器はスコップ。同じ場に居合わせた目撃者の証言によると、犯人は三ヶ月前に死亡したはずの元社員リサ=デービスだったという。リサは、社員間の陰湿な嫌がらせを苦に自殺しており、UCBにて再調査を実施。その結果、犯人はデービスの兄アランと判明。同社役員宅にて女装しスコップを振り回す犯人を、機動部隊(CTF)がやむを得ず射殺。自宅から証拠物件を押収。  この二件のような事件が、いわゆる大半を占める“よくあるケース”である。  ベンジャミンは読み終わった報告書を、一番右の山にポンと載せた。当然ながらこの山が最も高い頂を誇っている。  やれ夢魔が現れただの、吸血鬼に襲われただの、自殺した女が殺人鬼になって復讐しにきただの……。始まりが大仰な事件も、結果は尻つぼみに終わることが多かった。竜頭蛇尾というやつだ。  また、被害者にも、不愉快な共通点があった。彼らの社会的地位の高さである。“金持ちで偉い人たち”が被害者の大半を占めているのである。  つまり、「そんな馬鹿げたことが起こるわけがないでしょう?」などと、面と向かって言えない相手に対応するのが、このUCBの主な仕事だということだ。実際、動くときは他部署と連携し、主に被害者のケアを担当する。“奥方の苦情処理部”という蔑称まであるぐらいだ。  とはいうものの。  ベンジャミンは積み重ねた書類の山のうち、一番左の山に目を移す。  そこには件数は少ないものの、未解明な点の多い迷宮入り事件の報告書が積み重ねられていた。ごく少数だが、どうにも腑に落ちない事件が起きているのも事実なのだ。  単なる調査不足なのか、うまく証拠が集まらず未解決のまま時効を待つことになってしまった事件なのか……。例えば、次のような事件だ。  ケース3。フォード夫妻は、2004年3月14日未明のよく晴れた満月の夜、自宅に侵入した何者かに襲われる。夫妻は就寝中で、ケイト夫人はいきなり鉤爪のようなもので胸を切り裂かれ、ベッドの上で絶命。1階まで逃げ延びた夫ジョンはセキュリティ会社への直通電話をかけ、離婚した元妻のナンシーに襲われていると通報した。数分後、警備会社のスタッフが駆けつけたが、地下室のワイン蔵の中で心臓をえぐり出され死んでいるジョンを発見。地下室へと続く分厚い扉は、中央を真っ二つ割られ、物凄い力で破壊されていた。ワイン蔵に残されていたのは真珠のネックレス。ジョンがナンシーに送ったものだそうだ。そして、ジョンの心臓とナンシーの姿はどこにも無く、今でも見つかっていない。    ベンジャミンは、ため息をついて書類を机の上に置いた。──近隣の住民は銃声一つ聞いていない。武器を持たない女がどうやってこの写真のような分厚い扉を素手で壊したのか? こんな扉を壊せるような銃器に消音機をつけることは不可能だ。  UCBの当時の部長はこの事件の犯人に仮の名前を与えていた。狼女ナンシー。獣になる女、ナンシー。  馬鹿げていた。怪力、鉤爪、満月の夜。確かに三拍子揃ってはいるが、それじゃあ、まるで映画の世界じゃないか。   ──カサッ。   物思いにふけっていたベンジャミンは、報告書の山から何か書類が一枚、床に落ちたことに気付いてふと我に返った。いけない、と手を伸ばして書類を拾い上げる。   それは何か古ぼけた一枚の書類だった。タイトルには「業務委託に関する覚書」と書いてある。 「何だこれは?」   思わず口に出してつぶやいてしまった。裏を見てみても何も書いていない。また表に戻って日付と末尾の署名二つに目を走らせる。   日付は1907年8月20日。100年も前の書類ではないか。ベンジャミンは小さな驚きをもって、インクで書かれた筆記体に目を凝らす。   連名になっている署名の片方は、当時のスコットランドヤード犯罪調査局(CID)局長、もう片方は── 「王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)、事務総局長兼筆頭裁判官、カーマイン・クリストファー=アボット?」   奇妙な組織名だ。しかも……。ベンジャミンはその署名の横にある拇印に目を近づけた。茶色がかったその色は、どう見ても古くなった血液の色である。血判であろう。なんと古風な、と彼はその血判を指でなぞった。 「部長」  その時、名前を呼ばれてベンジャミンは書類から顔を上げた。電話の受話器を持ったヴィヴィアン=コーヴェイがこちらを見ている。 「お電話です。殺人捜査部東部地区課のコールマン警視です」 「コールマンか。いいよ、こっちにつないで」  ベンジャミンは相手の名前を反芻し、鳴り出した電話の受話器を取った。 「それで……、どういうわけで、君は武器を持たない相手を半殺しにしたんだ?」    穏やかな口調で、ベンジャミンは長身の男に問いかけるように言った。彼のデスクの前に立っているのは、レスター=ゴールドスミス警部補。がっしりとした体格を持ち、警察官というよりまるで軍人のようにいかめしい顔をした男だ。年齢は38才。ベンジャミンと同い年である。   “軍人”は、ぎょろりと視線をめぐらせて、ベンジャミンを見下ろした。 「現場にいなかったアンタには分からんよ」 「ずいぶんな言い方だな」  ぼそりと相手が漏らした言葉に、ベンジャミンはニヤと笑みを返した。部下に反抗的な態度をとられることは珍しくない。 「レスター。もう少し現場の状況を詳しく報告してみたら?」  その時、横から口を出してきたのは、エイドリアン=オースティン警部補。ぽっちゃりした体格の中年男だ。年齢は45才。警察官というより、クリスマスの日に鼻を赤く塗って、トナカイの着グルミを着て孤児院を訪問することが似合うような男だった。    レスターは、ぐっと口をつぐみ、ヘの字口を作った。それを見て、ベンジャミンは隣りのエイドリアンに目線を移す。“ぽっちゃりトナカイ”は、視線を受け、仕方ないといった風に口を開いた。 「コールリッジ夫人邸──別名、バナー通りの幽霊屋敷に出没していたという“幽霊”が、実は住み着いていた浮浪者たちだったということは、すでに聞かれてますよね」 「ああ。聞いたよ。 殺人調査部のコールマンからな」 「ええと、その浮浪者のリーダー格の男がですね、投降するときに怪しい動きを見せたんです。それでレスターは彼に殴りかかったんですよ」 「レスター? そうなのか?」  促すと、軍人はフンと鼻を鳴らした。レスター、と低い声でベンジャミンがもう一度彼の名前を呼ぶと、彼はしぶしぶといった感じで続けた。 「後ろに手を回して、銃か何かを準備してるように見えた」 「そうか」  ベンジャミンは、先ほど殺人調査部の同期、コールマン警視からかかってきた電話の内容を思い出している。  突然、浮浪者に向かって殴る蹴るの暴行を加えだしたレスターを止めたのは、たまたま近くで別の事件の捜査を行っていた、コールマンの部下たちだったのだ。コールマンとは親しくしてはいるのだが、どうも要らぬ借りを作ってしまったようだ。 「僕はここに来てから、まだ二週間だ」 ベンジャミンは言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。「当然、君たちの方がベテランだ。僕はただ教えて欲しいだけなんだ。本当に、その容疑者の浮浪者をこっぴどく痛めつける必要があったのかどうか。──過剰な暴力は、ともすれば、君たち自身を危険に貶めるぞ。そうは思わないか?」  レスターは、ジロリと剣呑な目を向けてきた。 「自分が殺された後に、後悔したって遅いんだよ。ただそれだけさ。クビや減俸、何でも受けて立つぜ。自分の命より大切なものはないからな。──もう、席に戻ってもいいかい? シェリンガム警視どの」  ベンジャミンは眉間に皺を寄せた。  フン、と鼻を鳴らしてレスターはゆっくりと席に戻った。エイドリアンの方は肩をすくめ、ジェスチャーをして“申し訳ない”と謝罪の意を表明する。  ベンジャミンはそれには手を挙げて答え、エイドリアンも席に下がらせた。  繰り返すが、言うことを聞かない部下は初めてではない。とくにベンジャミンのように才能とコネクションを併せ持ち、若くして高い地位に付いている男なら尚更だ。  とは言うものの。やれやれと。彼は心の中でため息をついた。過去の事件簿の整理の前に、足元にも目を向ける必要がありそうだ。   ベンジャミンは資料整理係のシシーを呼び、そして少し考えてから、ずっとパソコンに向かったきりのクライヴ=コルチェスターにも声をかけた。 「クライヴ、君も相談に乗ってくれるか?」     クライヴ=コルチェスターの階級は巡査部長で、28才。彼はありていに言うと太っている。肥満体だ。無口な男で、古風なデザインの銀縁の丸い眼鏡をかけている。   ただし、彼が席を立つことはほとんど無い。毎日、背中を丸めてパソコンに向かい、インターネット関連から回ってくる苦情を処理することが主な業務内容だ。ベンジャミンはこの二週間、彼と話したことはほとんどなかった。   シシーに対し、レスターに関する人事関係の書類を出すように命じると、ベンジャミンはクライヴの席のすぐ隣に立ち、彼を見下ろした。陰気な眼鏡の奥で、小さな瞳が上司を見上げている。 「実は最近、過去の事件報告書の整理をしてるんだが、君も手伝ってくれないか」   クライヴは微かに首を縦に動かした。表情は全く動かない。   ベンジャミンは自分のデスクに詰まれた山を指差し、ああいったアナログではなく、インデックスを作ってデータベースを作って整理をしたいといったようなことを説明した。   シシーが人事関係の書類を持ってくると、ベンジャミンは立ったまま、レスター=ゴールドスミスのここ3年の賞罰と給料表を確認し始めた。書類に目をやりながら、クライヴに指示を出す。   やがて、ベンジャミンは方針を決め、先の暴行を受けた容疑者に対するフォローと、レスターの減給の程度を決めた。本人を呼んで淡々と処分を伝えた後に、他部署に連絡し、手続きを取った。そんなことをしているうちに、日はすっかり落ちていた。 「レスターは、本当に殺されかかったことがあるのさ」  殺人捜査部への謝罪電話を終えた後、ベンジャミンが受話器を置くのを見計らったかのように、唐突にクライヴが言った。   気付けば、部署の中には彼と自分しか残っていない。時刻は19時を回っている。 「何? どういうことだい?」  ベンジャミンは彼に顔を向けて、尋ねた。 「本人から聞くのが一番愉快なんだがな。ま、アンタにゃ話さんだろうなあ」  昼間の無表情とは打って変わって、クライヴは、ニヤニヤと嫌な笑いを唇に浮かべ始めた。 「俺たちヤードの拳銃不携帯の伝統※に感謝すべきだぜ。そうじゃなきゃ、レスターは今ごろ2ケタぐらいの容疑者を射殺してることになる」  この部署には、上司に対する口の聞き方を知っている人間はあまり居ないらしい。ベンジャミンはそう思ったが、その程度のことで怒るほど狭量な人間でもなかった。   むしろ、無口なクライヴが語りだしたことに、がぜん興味が沸いていた。 「レスターは吸血鬼に噛み付かれた上、殺されかかったんだとさ。興味があるなら3年前のコード26475912番の事件報告書を見てみな。それを見れば“暴力刑事レスター”の誕生に立ち会えるぜ」 「ああ、あれか」  ベンジャミンはすぐに思い至り、一番低い山の中から該当の書類を見つけ出した。 「この事件は未解決じゃないが、確かに奇妙な点が多い」 「……アンタ、変わった奴だな」  くく、とクライヴは喉の奥で笑った。眼鏡の奥から陰気な瞳を向けてくる。 「2年もすれば、アンタは殺人調査部の西部地区課長になれるんだぜ? 上層部はカヴェンディッシュの我がままを期限付きで聞いただけさ。アンタの能力と政治力は奴より確実に上だ。こんな左遷先で頑張らなくたって、奴が昇進するのを2年待てば、アンタはその後釜に返り咲けるのによ」  フ、とベンジャミンも笑った。レスターの事件の報告書を手で持ちながら、 「そういう話はよしてくれ、クライヴ。俺は頑張るのが大好きな阿呆なんだ」 「そのようだな」  しれっと、クライヴはつぶやくと、ベンジャミンに自分のパソコンの画面を見るように顎をしゃくった。 「お望みのデータベースを作ってやったぜ。まだインデックスだけだがな。明日にゃ、アンタのパソコンから見れるようにしといてやる」  ベンジャミンは言われるがままに画面を覗き込み、へぇと感嘆の声を漏らした。仕事の早さは言うまでもなく、こちらの意図を正確に読み取り作られている。  この時になって初めてベンジャミンは、クライヴが見た目よりもずっと優秀であることに気付いた。 「ケースBの発生率はどれぐらいか、すぐに出せるかい?」  クライヴは、ちらりと上司の顔を見た後、手を伸ばしてキーボードを叩いた。 「5.1%。約5%だ」 「そうか。体感してたのと近いな」  ベンジャミンは満足した様子でつぶやく。本当は3%だと思っていたが、少し多い。  ケースBとは、ベンジャミンが分類した、例のどうにも腑に落ちない事件のことである。大抵が未解決だが、中には解決しているものもある。彼はその発生率を100件中、3件程度かと思っていたが、実際には100分の5の確率らしい。 「ありがとうクライヴ、助かったよ。君は仕事が早いな」  頷きながら、部下をねぎらう。クライヴはまんざらでもない様子でニヤリと笑った。  と、ベンジャミンはクライヴの机に載っている古い書類に気付いて、目を留めた。それは先ほど、コールマンからの電話を取る前に見ていた奇妙な書類だった。 「クライヴ、それ──」   ベンジャミンは、書類を顎でしゃくりながら言った。 「報告書の中に混ざってたんだが、何の書類だか分かるかい? 何だか100年ぐらい前の日付になってるようだし、えらく古い書類のようだが」    そう、言った途端。  クライヴはサッと顔色を変えた。笑みは消え、驚きに目を見開く。そして、彼に似合わない頓狂な声を上げた。 「──ヘェッ?」    クライヴの尋常ならざる反応を見て、え? とベンジャミンも声を漏らした。何か自分が妙なことでも── 「アンタ、これが読めるのか?」  クライヴはひどく遅い動作で書類を手に取った。 「ああ、読める、よ?」  ベンジャミンも少々面食らいながら続ける。 「100年ぐらい前の日付だが、シェイクスピアみたいな難解な言い回しが使われてるわけじゃないし。読めるよ。その、アボット卿ってのが誰なのか、君なら知ってるかと──」 「アンタ、眼鏡かけてないよな?」 クライヴは上司の言葉を遮って続けた。その目は真剣だ。「コンタクトレンズは?」 「つ、使ってないけど……」 「そうか」 「クライヴ?」  一度、うつむいて書面に目を落としたクライヴ。しばしの間のあと、彼は突然、肩を震わせて笑い出した。 「驚いたな。驚いたぜ、サプライズ・サプライズ」 「何?」 「ようこそ、シェリンガム部長。スコットランド・ヤードの掃き溜め。魔窟UCBへようこそ」  面くらっているベンジャミンを尻目に、クライヴは上機嫌な様子で、椅子の上で身体を反り返らせた。 「歓迎するぜ。アンタも来るべくして、この魔窟にやってきた人間のようだな」 「クライヴ、一体何を言ってるんだ?」  対して、相手のあまりに不可解な行動に、ベンジャミンはさすがに眉間に皺を寄せた。声にかすかな苛立ちが混ざっている。 「ああ、すまん。部長」  姿勢を元に戻すと、クライヴは椅子を回しベンジャミンの方をきちんと向いた。 「俺が知る限り、歴代のUCB部長の中でその書類を読めた奴は一人も居ない。それをアンタは読んだ。しかも裸眼で。だから驚いたのさ」 「何言ってるんだ。それ英語で書いてあるじゃないか」 「そういう問題じゃないんだよ」  なだめるように、クライヴは言った。 「その書類は“素養”がないと読めないんだよ」 「“素養”?」  くく、とクライヴは喉の奥で笑った。 「アンタ、本当に魔法使いなのかもしれねえな」  ベンジャミンはそれに対し、どう言葉を返してよいか分からず、ただあっけに取られてクライヴの顔を見ていた。 「嘘だと思うなら、レスターやエイドリアンにこれを見せてみな。ただの白紙だって言うぜ」 クライヴは、ニヤニヤと嫌な笑みを唇に張り付かせたまま、例の書類に目を落とす。 「まあ、いいさ。説明してやるよ」  陰気な男は眼鏡を直し、例の書類を見ながら一字一句を指差しながらベンジャミンに丁寧に説明を始めた。ベンジャミンもようやく近くの椅子を引き寄せ座りながら、クライヴの話に耳を傾けた。 「王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)ってのはな、驚くなかれ。れっきとした政府直轄の組織さ。MI5が出来る前、東洋人が魔術を使うと本気で信じられてたころに、そんな怪しい政府組織が存在したんだよ。もちろん今は解体されて存在してないがな。短い10数年の間、連中がやってたことを“業務委託”されたのが、うちの部──すなわち、超常犯罪調査部(UCB)ってことさ」   - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※スコットランドヤードの拳銃不携帯の伝統:スコットランドヤードは、設立当初から、刑事は拳銃を持たない伝統があります。テロ対策班や機動部隊などは武装をしていますが、基本的にロンドンの警官は武装していません。[大使館のHPにちゃんとそう書いてありました] ────────────────────── Chapter2-3 女の匂い  王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)か──。  ベンジャミンは、大英博物館近郊のオールドグロスター通りにある自宅マンションのエレベーターから降り立ったところだ。時刻は20時半ほど。青い絨毯の敷き詰められた廊下を歩きながら、物思いにふけっている。  先ほど、部下の刑事、クライヴに聞いた話は興味深い話だった。  100年以上前のロンドン。スコットランドヤードは存在したが、MI5(国防情報局保安部)やMI6(国防情報局諜報部)が無かったころの話だ。   当時のロンドンは世界の中心。凶悪犯罪の発生率も世界第一の大都市だった。スコットランドヤード、ロンドン市警、中央刑事裁判所(オールドベイリー)でも裁ききれない不可解で魔術的な凶悪犯罪。それを文字通り“裁く”ために、1888年に設立された内務大臣直轄の組織、それが王立闇法廷だというのだ。  王立闇法廷は、司法権を併せ持っていたという。対象は言うまでもなく、超常的な犯罪を起こしたとされる“化け物”なのだが、それは魔女裁判を政府が支援しているのと同じことだ。罪のない人間が、吸血鬼や人狼呼ばわりされて断頭台に送られたことも珍しくないのだろう。  ──当時、いわゆる魔物や化け物の類は“月妖(ルナー)”と呼ばれていたらしい。まあ、つまりは隠語の類だな。実際はほとんどが人間だよ──。クライヴは生半可でない知識を惜しげもなく披露する。  ヴィクトリア朝末期のロンドンは、空前のオカルトブームに沸いていた。1888年は、あの切り裂きジャックが娼婦の腹をナイフで切り裂いた年でもある。  あらゆるものがロンドンの霧と闇に隠されていた時代。ひとたび夜になれば、その闇を照らすものは微かなガス灯の光だけだ。いったいどれだけの無実の人間の血が流されたのか……。想像するだけでゾッとする。  物思いにふけりながら、ベンジャミンは自宅の451号室のドアの前までたどり着いた。21時になる前に、このドアノブを握ることは稀だったのだが、最近はそうでもない。UCBへの異動は、ほど良い休息になるかもしれない。  さて、弟は。ジェレミーはどうしているかな、そんなことを思いながらベンジャミンは鍵を使ってドアを開けた。  すると、向こうから顔を出したのは二人の女だった。  玄関前。開いたドア。ベンジャミンは、2人の若い女と鉢合わせした。クラブに踊りに行くような派手なルックスの10代後半の娘たちが、驚いたような顔をして彼を見ている。 「え? あ、失礼」  ベンジャミンは、咄嗟に部屋を間違えたと思い、身を引いた。しかしすぐに思いなおす、今、鍵を使って扉を開けたのは俺じゃないか。 「あ」  驚いたように目を見開いたのは鼻にピアスをしている方。ベンジャミンの顔を指差し言う。 「お兄さんだ」 「ジェルのお兄さんだよね? ……おかえりなさぁーい」  二人の娘たちは、安心したように目配せし合うと、次にはニカッと微笑んだ。サッとベンジャミンに近づいてきて、左の腕に鼻ピアス娘。右の腕にはヘソ出し娘がまとわりついた。彼女たちは口々に歓迎の意を表明し始める。   お兄さん、ミルクティー飲む? テレビ見る? チョコレートもあるよ? 娘たちは彼の両方の腕をぐいぐいと引っ張り、リビングルームに連れ込もうとした。  面食らったベンジャミンだが、さすがにその頃になると、状況を把握することができた。彼女たちは弟の女友達だろう。 「ジェレミーは? 出かけてるの?」 「そー。近くに買い物にでも出かけてるんじゃなーい?」 「あたしたちも一緒にいこうと思ったんだけどォ。“空飛ぶ奥様SOS 宇宙ニッキーマウスの大暴走”が始まっちゃうからお留守番してることにしたのー」  とりあえず、ベンジャミンに分かったことはそのケッタイなタイトルが最近人気のコメディアン、ニック=ウォルターズが一人コントを繰り広げる番組だということぐらいだ。   ベンジャミンが失礼でない程度にやんわりと、彼女たちの腕から自分の腕を引き抜くと。彼女たちは親しげにというか、馴れ馴れしく話しかけてきた。 「お兄さんさァ、アレだね。あんまりジェルと似てないねー。髪の色違うし」 「ねえねえ、お兄さんスパイなんでしょ。殺しのライセンスは持ってないけど、すごいエライ人だってジェル言ってたよ」 「俺が働いてるのは、スコットランドヤードだ」 「マジでー、庭師なの?」 「違うよ、ロンドン首都警察だよ!」  ムッとしたベンジャミンはすかさず言い返す。 「キャハハ、スゴイ! ボケたらツッコんでくれたよ」 「お兄さん、ヤルじゃん。ツッコミのセンスあるッて」  すると娘たち二人はけたたましく笑い始めた。う、と言葉につまるベンジャミン。これはいわゆるイジられているというやつでは? 「あのさ、君たち。俺は自分の部屋にいるから、ジェレミーが帰ってきたら教えてくれる?」 「いいよ」 「了解しました!」  ヘソ出し娘の方が、敬礼のフリをして言う。  ベンジャミンはため息をついて、じゃあ頼むねと言い残した。彼女たちに背を向けて、自分の部屋の方へ向かう。  やれやれと口に出して言いながら、指でネクタイを緩めて外し廊下を歩いていく。  今日はジェレミーをどこかレストランに連れていってやろうと思ったのだが。友達が来ているのなら一緒でもいい。しかし当初行こうと思っていたところでは、あの二人は納得しないだろうし、店員も納得しないだろうから、もっと若者向けのレストランにしないと……。  などと思いながらベンジャミンは、弟が帰宅する前にシャワーでも浴びようかとバスルームのドアを開けた。   すると、一転。ふわりと甘い香りがした。彼は思わず足を止める。   あのジェレミーの女友達が、ここを使ったのだろう。きれいに片付いてはいるが女特有の残り香が、まだそこに漂っていた。この家のシャワールームに女の匂いが漂うのは何年ぶりのことになるのだろうか。   リビングルームで笑っている若い娘の声が、遠くの方で聞こえる。   ベンジャミンは、今はもう居ない妻のことを思い出して目を伏せた。彼女のことを思い出すと、5年経った今でも胸を針で突付かれるような痛みを覚える。    彼女の名前はアイリーン。黒い宝石(オニキス)のように艶やかな黒髪に青灰色の瞳を持つ美しい女だった。彼女の職業は医師で、ベンジャミンが彼女に初めて出会ったのもセント・バーソロミュー大学病院の集中治療室の前だった。  その時治療を受けていたのは彼女の父親で、強盗事件の被害者だった。ベンジャミンは捜査の過程で、彼女と彼女の父親に話しを聞きにきたのだ。  アイリーンは、ガラス越しに病室の様子を見ていた。またたきをすることも忘れてしまったかのように。青灰色の瞳に強い光を宿しながら。  ──父はあと2時間ももたないでしょう。わたしは医師ですから分かります。  それがベンジャミンが聞いた、彼女の最初の言葉だった。  彼は思い出す。たぶんあの瞬間、自分は彼女に一目惚れをしたのだと。  アイリーンは笑顔を見せることはほとんど無く、病院でも看護婦たちに“氷の女”(アイス・レディ)などとあだ名されるような無愛想な女だった。しかし、ベンジャミンは、すぐにそれが表だけにしか過ぎないことを見抜いた。  彼女はとても寂しがり屋なくせに、物凄くシャイで、男性に対して傍にいて欲しいなどと、口が裂けても言えない女性なのだった。それが分かってから、ベンジャミンは自分が事件の捜査で使っている粘り強さや根気を駆使して、彼女にアプローチを続けた。  そして二人は結婚した。  彼女の職場に近いマンションに移り住み、二人は何の邪魔の入らない生活を始めた。  外では“氷の女”でも、ベンジャミンの前ではアイリーンはよく微笑んだ。──もう、からかわないでよ、ジャム。どうしてそんなに毎日おかしなことばかり言って笑わせるの?   ベンジャミンは、そんな彼女の笑顔を見るのが、何よりも好きだった。  短い数年の結婚生活の後に、アイリーンを殺したのは、子宮ガンという名前の病魔だった。人殺しや強盗は逮捕できても、病魔は逮捕することができなかった。痩せ細っていく彼女を前に、ベンジャミンは何もすることができなかったのだ。  しかし、彼女は医師だった。だから自分の病気のことを一番よく分かっていた。恐れず、悲しまず、ただ自分の死を受け入れたアイリーンの脇で、ベンジャミンは悲しみと絶望に打ちひしがれ、何を憎めばいいのか、何と戦えばいいのか分からない状態に陥った。  それは彼女がこの世からいなくなってからも、しばらく続いた。セラピストと職場の間を行き来する毎日。酒にも頼った。そう、頼り過ぎたぐらいだ。  わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。  彼女の遺言ともいうべき言葉を思い出して、ベンジャミンは苦笑する。食事は一日30品目。メニューは出来るだけ野菜中心にすること。一日の運動は20分程度。わたしが居なくなってもジョギングはやめないで。  ──大丈夫よ、ジャム。わたしはここに、あなたとずっと一緒にいるから。彼女はそう言って、ベンジャミンの胸を指差した。  彼は自分の左胸に手を当てる。  確かに、ここには彼女の残したものがある。しかし彼女はもう居ない。 「よせ、ジャム」  口に出してつぶやくベンジャミン。いくら思い出しても胸が痛くなるだけだ。  彼は気を取り直して、洗面所の前に立つ。金色の蛇口をひねって水を出すとそれでバシャバシャと顔を洗った。  タオルで顔を拭きながら、ふと脇に置かれた薬ビンに気付く。  例のγ−GDP値を下げる薬だ。ああ、そういえば昼に飲み忘れたような気がする。  ベンジャミンは薬ビンを手に取った。  毎食後に飲めと言われたが……さて。仕方ないので今飲んでおこう。彼はキュルキュルと音をさせて薬ビンを開けて中の白い錠剤を手にとった。  時間が時間だから、1個だけにしよう。  そう思い、彼は錠剤を一粒だけ口に含み、コップの水を飲んだ。  アイリーンと結婚するとき、彼女に頼まれたことがある。  ベンジャミンは鏡に映る自分の左胸の辺りに視線をやりながら、また彼女のことを思い出していた。  身体のどこでもいいから、ある刺青を入れて欲しいと言われたのだ。それは、彼女の母方のカールトン家に代々伝わる“お守り”なのだそうで、アイリーンも自分の左胸にその小さなコイン大の刺青を入れていた。  彼女曰く、その刺青を入れれば事故や災厄から逃れられるのだという。彼女の父はその刺青を入れなかったので、強盗事件に巻き込まれた。ベンジャミンはただでさえ業務に危険を伴う警察官だ。彼が刺青を入れてくれないのなら、自分は心配で、恐ろしくて結婚できない。  そうまで言われてしまうと、嫌だとは言えなかった。  彼女自身の手で入れてもらった刺青は、今もベンジャミンの左胸にある。曲がりくねった何かの草のような文様で、彼女の生家の紋章にも似ていた。  確かに、アイリーンと結婚してから事故や災厄に遭ったことはない。しかし彼女の死がきっかけで、健康そのものだったベンジャミンはアルコールや不摂生によりたびたび薬や医師の世話になるようになってしまった。  今の俺を見たら──。ベンジャミンは苦笑する。たぶんアイリーンは真っ赤になって怒るだろうな。身体には気をつけろって言ったのに! って。  彼は、死んだ妻の顔を思い出しつつも、ブルブルと顔を振ってようやくその思いを断ち切った。気合を入れるかのようにパンと頬を両手で叩く。  さて、じゃあ部屋に戻って着替えるか。そう思い、身体を反転させたとき。  ぐらり。世界が歪んだ。  慌てて、ベンジャミンはタイル壁にぶつかるように寄りかかった。何だ? ひどいめまいがする──。  グッと拳を握って、意識を保とうとするが無理だった。泥酔したときのように目の前がぐらぐらと揺れて平衡感覚を保てない。今、飲んだ薬がまずかったのか。薬ビンを確認しようと洗面台を見ようとした、その目が霞んだ。  身体が力を失っていく。倒れる、とベンジャミンは思った。  そうして彼に出来たのは、床で頭を打たないように腕で顔をかばうことぐらいだった。  ここで、ベンジャミンの世界は暗転した。   ────────────────────── Chapter2-4 狼女と貴婦人  ベンジャミンは夜のロンドンの街を歩いていた。  自宅マンションの洗面所で、突然めまいを感じて倒れたはずだった。しかし、彼はいつの間にか外を歩いていた。目を落とせば、石畳に彼自身の影が映っている。煌々と明るい満月の夜。  一体、いつ、外に出たのだろうか。そんなことを思いながら、あてもなく足を運ぶ。彼の靴がカツカツと硬い音を立てている。ベンジャミンが歩いているのは、夜の路地裏。狭い迷路のような道だ。  どこを歩いているのかもよく分からなかった。それよりも、ひどい頭痛が彼を苦しめていた。ベンジャミンはその痛みと戦うのにかかりっきりだ。  こめかみのあたりの血管がドクンドクンと波打って、頭痛を脳に送りつけてくる。ドクンドクン。ベンジャミンは顔をしかめた。  古ぼけたパブの前を通りかかり、店からこぼれる明かりと中の喧騒を聞くころになって、ベンジャミンの頭痛は治まってきた。そして彼は、ようやくここはどこだろう、と思い始めた。 密集する家々の間から時々見える青いオペラハウスの屋根からすると、どうせストランドの劇場街のあたりだろう──などと、彼は見当をつけた。自宅マンションからそう遠くない場所だ。  しかし、この街並みといったら。このあたりに、こんなに整備の行き届いていない地区があっただろうか。道はデコボコ、道の脇には泥とも何ともつかないものが貯まっており、なんともいえない匂いを放っている。  今歩いている通りが、あまりお上品でないところであることは明らかだった。早く大きな通りに出なくては……。ベンジャミンは足を速めた。  二軒目に通りかかったパプの前には、女が所在無さげに立っていた。が、ベンジャミンの姿を見ると女は顔を上げてニンマリと笑いかけてきた。襟ぐりを大きく開けた赤茶色の古風なワンピースを着ている。袖は大きく膨らんでおり、スカートも骨組みを入れて膨らませている。新手のコスプレか? まるでヴィクトリア時代の売春婦のようだ。などと思いながら、ベンジャミンはその脇を通り過ぎる。 「ちょっとォ、待ちなよ。旦那ァ」  少しも色気のないハスキーな声を張り上げると、女は足早に追いかけてきてベンジャミンの腕を掴んだ。 「遊び相手、探しにきたんだろ? ウチに寄っていきなよ」 「何だって?」  険しい顔になって、ベンジャミンは女を振り返る。 「若いのから年増まで、ウチならよりどりみどりサね。旦那が、ちょっとそっちの方を好みなら目が見えないの、口が聞けないのだって居るよ。“お人形さん”だってOKさ。安いのだったら60ペンスから……」 「待て。売春の話をしているな」  ベンジャミンは、女の腕を逆に掴み、相手を睨みつける。今どきこんなに堂々と、売春宿まがいの呼び込みをしているとは。驚きを通り越して呆れてしまう。 「誘いこむ相手を間違えたな。俺は警察官だ。売春斡旋の容疑で現行犯逮捕してやる」 言いかけて、ベンジャミンは、ハッとした。「──60ペンス? 60ポンドの間違いじゃないのか※?」  女の方もぽかんとしたが、途端に顔を赤くして烈火のごとく怒りだした。言葉の意味を理解するのに時間がかかったのだろう。女は髪を振り乱し、力まかせにベンジャミンの手を振り払おうとする。 「ケーサツカン? だから何サ? ピーラーごときが何だッてのサ!」 「ピーラー?」  ベンジャミンは手を離さなかった。ただ、女が使う言葉にいちいち違和感を覚えていた。60ペンスじゃ、紅茶を一杯飲めるか飲めないかぐらいだ。いくらなんでも安すぎる。それに、ピーラー? 何だそれは。下町訛り(コックニー)にそんなスラングがあるのだろうか。 「畜生! 変な恰好しやがって。離せよ、このマンドレイク野郎!」  ベンジャミンは腑に落ちないまでも、女の腕を掴んだまま、胸ポケットから携帯電話を出した。近くの署に応援を頼むことにしようと思ったのだ。  と、彼が携帯電話のフリップを開いた時。一人の女がふらりと店から出てきたのが、視界に入った。白い幽鬼のような姿は、スーッと足音もさせずに路地裏の方へ歩いていこうとする。  どこかで……しかも、つい最近にその女の顔を見たことがあるような気がして、一瞬。ベンジャミンは携帯電話のディスプレイから顔を上げた。今の女は──! 「ナンシーだ!」  ベンジャミンは慌てて振り向き、女の姿を目で追う。すると、水色の花柄のネグリジェを着た女が、まさに路地裏の闇に溶け込もうとしているところだった。 「待て!」  売春宿の呼込女の手を離し、ベンジャミンはネグリジェ姿の女の後を追って闇の中に飛び込んでいった。  女は、ナンシー=ディクソンに酷似していた。昼間、UCBの自分のデスクで読んだ未解決事件の容疑者である。離婚した夫とその妻を残酷に殺害し、逃亡をはかった女だ。事件が起こってから2年も経っているというのに、スコットランドヤードは彼女の痕跡すら掴めていない。  この売春宿の場所は分かっているし、後回しだっていい。ナンシーは、今捕まえなければ逃げられ、また姿をくらましてしまうだろう。ベンジャミンは闇の中に白くぼぅっと浮き上がる女の後姿を必死に追った。  幸いにして、女は後ろに気付かなかった。ほどなくして追いつくと、ベンジャミンは後ろから声を掛けた。 「失礼。ナンシー=ディクソンさんですね」  言いながら、女の前に回りこむ。  顔を上げる女。足を止めて陰気な目付きで、ぼうっとベンジャミンを見上げる。目の下には真っ黒な隈(くま)。間違いない。昼間、写真で見たナンシー=ディクソン容疑者だ。 「ディクソン?」  ぽつり。ナンシーは口を開いた。 「あたしは、ナンシー=フォードです。ディクソンは旧姓です」 「ディクソンさん。私はロンドン首都警察、超常犯罪調査部のベンジャミン=シェリンガム警視です」  ベンジャミンは彼女の言葉を無視した。ゆっくりと名乗って続ける。 「2004年の3月14日に、貴女の元夫にあたるジョン=フォードさんと、その妻ケイトさんが殺害されました。この件についてお話を伺いたいのです。私とご同行願います」 「ジョン? 死んだ? 妻?」  ナンシーは、ベンジャミンの顔を見つめた。元々半開きになっていた彼女の青白い唇が、だらりと開いていく。 「あたしが……ジョンの妻です」 「詳しい話は、近くの署でお伺いしま──」 「あたしがナンシー=フォードよ! ジョンは何処なの?!」  いきなり、ナンシーはベンジャミンの胸倉を掴んだ。まるで病人のように骨ばったやせた手が月明かりに浮かび上がる。ひどく禍々(まがまが)しい光景だった。 「落ち着いてください。ディクソンさん」  ベンジャミンは自分の両手で、ナンシーの手を掴み離そうとした。しかし女は意外にも力が強く、なかなか手を離せない。 「あたしはフォードよ、ジョン! 何度言ったら分かるのよ!」  ナンシーは目を見開き、唾を飛ばしながらわめいた。ベンジャミンに顔を近づけ物凄い形相で彼を睨みつける。たじろいだベンジャミンは肘を上げ彼女の身体を遠ざけようとした。その途端。  彼の身体は宙を舞った。  ダンッと、脇の壁に叩きつけられ、背中をしたたかに打ち付けたベンジャミン。女が自分を投げ飛ばしたのか? 驚きと痛みに顔をしかめながらも、彼は咄嗟に顔をかばった。間一髪。ウァァと何か言葉にならない叫びを上げながらナンシーが飛びかかってきて、爪でベンジャミンを引っ掻いた。何度も何度も。 「あたしよ、アタシなのよ、ナンシーよ何で分かんないのよ、何で知らんぷりするのよ。二人で幸せになろうって言ったじゃないのよ、何でよジョン何でなんでナンデ……」  完全にナンシーは狂乱状態に陥っていた。防戦一方のベンジャミンのスーツの袖が裂け、腕に痛みが走る。ベンジャミンは仕方なく、狙いすまして足を上げて女の腹を思いっきり蹴り飛ばした。  ナンシーは吹っ飛ばされたが、しかし倒れなかった。よろよろと2、3メートル後方に立つと大きく足を開いてフーッ、フーッと大きく息を吐いた。まるで獰猛な肉食動物が息を整えているかのように。  ベンジャミンは素早く携帯電話を取り出して、スコットランドヤードの殺人調査部にコールをかけた。コール音を聞きながら、路地裏を見回して武器になるものがないか探す。  バッと右後方に向かって駆けたベンジャミン。低い位置にかかっていた短い物干し竿をひったくるようにして外すと、ぶるんと一振り。そこにかかっていたシャツや布切れやらを跳ね飛ばした。電話はまだつながっていなかったが、そのままポケットに落とし込むと、物干し竿を剣のように両手で持つ。  ナンシーは俯いていて表情は分からなかった。路地に差し込む月の明かりが、肩を怒らせたその姿を映し出す。 「ジョン、あたし、あんたのこと愛してたのよ、心の底から……」  一歩、踏み出した彼女の身体が、奇妙に波打つように躍動した。  得体の知れない異臭がムッと鼻をつく。ナンシーの背中が不自然に盛り上がり、彼女の背がむくむくと増していった。だらりと下げた両手の爪は、長く長く伸び続けて鉤爪のような凶器に変わっていく。  ベンジャミンは自分の目を疑った。  骨ばった痩せた女の身体はみるみるうちに2メートルを越した。まるで風船を膨らませるようにパンッ、パンッと音をさせて両手の筋肉が盛り上がる。骨ばった手は刃渡り30センチほどの鉤爪に変化していた。  一人の女だったモノは、凶暴な目をギラリとこちらに向ける。それはどうひいき目に言っても人間には見えなかった。まるで──そう、“狼女”だ。  ナンシーは、もう一歩踏み出し一瞬、わずかに腰を落とした。 「あんたのことを愛してたのに、愛してたのに愛してたのにィ……許せないわァッ!!」  まずい! そう思ったが、異様な光景のあとで反応が遅れた。  獲物を狙うかのように飛び掛ってきたナンシー。ベンジャミンは咄嗟に棒で、横殴りに彼女の腹を狙った。ドンッと、にぶい音をさせて棒は彼女の腹部にめり込んだ。……しかし、ただそれだけだった。  狂った女はバランスを崩すこともなく、左手の鉤爪を真っ直ぐにベンジャミンに見舞った。凶々しい凶器は、彼の右肩に深く突き刺さる。 「ぐっ」  ベンジャミンは身体の均衡を失って、後ろに倒れた。棒も手から離れ、地面を転がっていってしまった。彼よりも大きな身体に膨れ上がっていたナンシーは、犠牲者を逃さんとばかりに、馬乗りになってくる。  倒れながらも、ベンジャミンは女の腕を掴んだ。自分の身体から凶器を引き抜こうとしたのだが、その怪力といったら! ナンシーの腕はビクともしない。   女はベンジャミンに苦痛を味わわせようと、鉤爪をメチャクチャに動かした。 「死ね死ね死ねッ」  悲鳴も上げることが出来ないほどの苦痛が、ベンジャミンを襲った。一瞬、意識が白みかけたが、彼は女の手を外そうと手に力を込めた。このままでは本当に殺されてしまう──。 「おやめなさい!」  その時、凛とした女の声が暗闇に響き渡った。  あまりの苦痛に歯を食いしばり耐えていたベンジャミンだったが、闖入者の声に我に返った。──女? こんな場所に女?  ナンシーの背後に見えていた満月。それを遮るように一瞬、何かが上空を通過した。シャッと風を切る音がして、狼女がグゥと喉を詰まらせるような声を上げる。  最後にベンジャミンの肩の組織を破壊しながら、ナンシーは鉤爪を抜くと、ガバッと身体をのけ反らせた。  狼女は、苦しそうな唸り声を上げながら、自分自身の首のあたりに鉤爪を這わせる。 「はぁっ」  声を上げまいと、ベンジャミンは血まみれになった自分の肩を押さえた。全身、汗だくで片目に汗が流れ込んできていたが、片目でだけで何が起こったのか見届けようとする。  狼女ナンシーの首に何か黒い布のようなものが巻きついていた。狼女はそれを取ろうと躍起になって、足元のベンジャミンのことには見向きもしない。  鉤爪の届く範囲から、逃げ出すチャンスだった。ベンジャミンは荒く息をしながら、肩を押さえ後ろに這うように後ずさった。  すると、またもや驚くべき光景が目に飛び込んできた。  ナンシーの首に巻きついた黒い帯状の何かを手に、狼女の首をぎりぎりと締め付けていたのは一人の若い女だった。  数メートルほど向こうに立ったその姿は、まさに秀麗な貴婦人だ。黒髪を結い上げて目が少し隠れる程度のベールを身に着けている。ドレスは全てが黒かったが、レースなどで装飾された華やかなものだ。それは先ほど出会った売春宿の呼込み女のように、大きく襟ぐりを開けたドレスではあるが、肩から黒い羽飾りのついた長袖のケープをまとっている。決して下賤ではない、上品でエレガントな貴婦人の出で立ちそのものだった。  ベンジャミンが手の甲で汗をぬぐい、両目を開けた時。ちょうど月光が謎の貴婦人の顔を照らした。ベールの下の白い顔が浮かび上がる。    ──!!  いきなり心臓を冷たい手で触られたような感覚がした。ベンジャミンは息を呑んで、呆然と、女の顔を穴の開くほど見つめた。 「何をしているのです! 早くお逃げなさい!」  貴婦人が狼女の首を絞め上げながら、叫んだ。しかしベンジャミンは動けなかった。彼女の言葉が自分に掛けられたものだとは分かっていた。だが、彼は動くことが出来なかった。  月の下で、貴婦人は形の良い眉をひそめた。  彼女は身体の向きを変えると黒い帯を両手で持った。何か聞き取れないほど小さな声で何か呟くと、サッと右手を挙げる。  すると、黒い帯は貴婦人の手元に戻った。その勢いで狼女の身体も反転させられて、ベンジャミンに背を向けた格好になる。そこへ貴婦人はもう一度鞭のように黒い帯をナンシーの顔に当てた。ピシッといういい音がした。 「こっちへおいでなさいな。ワンちゃん」  狼女がウウウと唸った。ピシッ、もう一度、貴婦人はナンシーの鼻面に帯を見舞う。 「ほらほら、こっちよ」  言いながら、彼女は軽やかに駆け出した。ナンシーはもう前後の見境が無くなっている。背後のベンジャミンを放っておいたまま、ダンッと石畳を蹴って跳んだ。  貴婦人の姿が闇に溶け、それを恐ろしい勢いで追いかけていった狼女の姿も闇に消えた。ベンジャミンは身体を起こし、よろけながら立ち上がった。 「アイリーン」    喉が枯れて声が出せなかった。唾を飲み込んで、ふらつきながら一歩踏み出し、ベンジャミンは死んだ妻の名をもう一度口にした。今度は強く、呼び戻すように。  ベンジャミンの肩からは大量の血が溢れ出て、地面に血だまりを作っていた。しかし彼はそんなことには構わず、よろよろと歩きながら、何度も何度も妻の名前を呼んだ。  暗闇の中から現れ、ベンジャミンを助けてくれた貴婦人。彼はその顔をハッキリと思い出しながら思う。あの貴婦人はアイリーンだ。あんな服装をしているところは見たことがないが、この俺が見間違えるはずがない。彼女はアイリーンだ。彼女は自分に気付かなかったが、あれはアイリーンだ。絶対に間違いない……。  だが幾度呼んでも、暗闇は口を利かなかった。ベンジャミンただ一人を残して、辺りは静まりかえっている。まるで最初から何事もなかったかのように。まるで、先ほど起こったことが夢であるかのように。 「──そんな馬鹿なことがあるか!」    長い回想を終え、ベンジャミンはソファに座ったまま声を上げた。  そこは、オールドグロスター通りにある自宅マンションの、彼の私室である。大通りを走る自動車のエンジン音が遠くからかすかに聞こえてくる。現実世界のロンドンだ。もう夢の中ではない。  左手に脱いだシャツを握り締めたまま、ベンジャミンは顔を上げて窓の外に目をやる。見えるのは自分が暮らしていたロンドンの街だ。普段となんら変わることのない光景がそこにある。  自分は、今朝スコットランドヤードに出勤して書類の整理をし、部下のレスターが起こした暴力沙汰を片付け、クライヴと話をし、そして帰宅し、バスルームで弟の薬を間違えて飲んで昏倒した。ただそれだけのはずだった。  それなのに、これは何だ? ベンジャミンは、自分の右肩に目を落とす。そこには鉤爪でやられたひどい傷は無いが、その代わりに醜い痣が点々と出来ていた。  化け物のようなナンシー=ディクソンに襲われていた自分を助けてくれたのは、アイリーンだった。自分を助け、狼女の気を引いて闇に消えた貴婦人。その後姿を思い出し、ベンジャミンは目を見開いた。  彼女が危ない!  ベンジャミンは、意を決して立ち上がった。  一度脱いだシャツをもう一度着て、ボタンをはめながら部屋を出る。  自分に何が起こったのか全く分からなかった。何も分からなかったが、一つだけやらなくてはいけないことがあることは分かっていた。  ベンジャミンは廊下をつかつかと歩いて、弟ジェレミーの部屋の前まで来た。  コンコン、とノックはしたが答えは待たない。入るぞ、と言ってベンジャミンは勢い良くドアを開けた。ベッドに寝転がって雑誌を読んでいたジェレミーが顔を上げた。きょとんと目を瞬きして、兄の顔を見る。  ベンジャミンはその弟にすかさず言った。 「ジェル、さっきの薬をもう一度くれ」   - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※ペニーとポンド: イギリスの貨幣単位。11月現在、1ポンド=100ペンス=約220円。60ペンス=約130円。60ポンド=約13,000円 ────────────────────── Chapter2-5 ジェレミーのクスリ 「どうしたの? ジャム」    ベッドに寝転がっていたジェレミーは、耳からイヤホンを外し兄の顔を見た。彼はお気に入りのイングランド・オフィシャルチームの白いユニフォームレプリカ姿で、音楽を聴きながらサッカー雑誌を見ていたらしく、ベンジャミンが今言った言葉を聞いていなかったようだった。  ごくり。ベンジャミンは生唾を飲み込んだ。 「いや、何その……話があってな」  後ろ手にドアを閉め、そろそろとソファに腰掛ける。あの薬をくれ、と言いたい。言いたいのだが、どう切り出したものか。  ベンジャミンは視線を踊らせ、テーブル上のチョコレートの包み紙の切れ端を見つめるなどした後、おずおずと切り出した。 「あー、えーと。ジェル。お前は俺の弟だよな」 「なに、ジャム。改まっちゃってさ?」  ジェレミーは身体を起こし、ベッドの上に胡坐をかいた。兄の方をきちんと向く。 「お前が、ケンカして留置所にぶち込まれたときも、俺は何回も助けてやってるよな」 「う、うん。感謝してるよ」 「ソーホーのギャングに絡まれた時も……」 「──ストップ、ストップ! いいじゃないその話はもう。何なの? 早く本題に入ってよ」  足を解いて、ベッドの縁に腰掛けなおすジェレミー。身を乗り出し、きちんと話を聞こうという体制をとる。 「ああ、あのな……。ジェル。話があるんだ」  ベンジャミンは下唇を舐めてから、切り出した。 「それは分かってるよ」 「今から俺がする話に笑わないでくれ」 「うん」 「そんなの馬鹿げてる、もナシだ」 「うん」 「嘘だ、もナシだ。妄想だとか、有り得ない、とかもナシだ」 「うん、分かったよ。それで何なの?」  弟を混乱させてはならない。ベンジャミンは思った。自分は警察官だ。こういう時は、なるべく論理的に、詳しく、正確に、事情を説明せねば。  しばらく押し黙った後、ベンジャミンは思い切って口を開いた。 「お前の薬を飲んだら、アイリーンに会えた。彼女は化け物に追われていた。俺は彼女を助けなくちゃならん。だからジェル、あの薬をくれ」    その言葉を聞いて、ジェレミーは目を見開き、瞬きもせずに兄を見た。  目をそらさずに、何か言いかけてパクパクと口を動かしたが、それは言葉にはならなかった。彼はそのまま無言で立ち上がると、兄が座っているソファの前までのろのろと歩いて来て、隣りに腰を降ろす。 「ジャム。ヤバいよ、それは」  彼はようやく──言うべきことを整理したかのように間を空けてから言った。兄の顔を見ながら、二の腕を掴んで続ける。 「どうしちゃったの? ジャム。イッてるよ、ブッ跳んでたよ。今の発言。俺をビックリさせようと思ってそんなこと言ったの?」 「いや、そういうわけじゃない」  ヤバい、イッてる、ブッ跳んでる……。ベンジャミンは弟の語彙の多さを呪った。  しかし、兄から否定の言葉を聴いたジェレミーは、混乱したように目を白黒させている。 「そういうわけじゃないって──。じゃあ、俺にあのクスリを捨てさせようとか思って、そんなオドロキ発言しちゃったの?」 「そ、そんなに、オドロキ発言かな?」  おそるおそる言うベンジャミン。 「あ、そうか!」  兄の姿を見つめているうちに何か思い至ったのか、ジェレミーは急に顔を曇らせた。 「分かったよ。ジャムは本当は、俺にドラッグをやめて欲しくてそんなこと言ったんだね。アイリーンの話まで出して……。本当にゴメン、俺ジャムに心配ばっかりかけて」 「え? いやその……」  じわりと緑の瞳を潤ませるジェレミー。 「俺、ジャムがアイリーンのことでどれだけ傷ついたのか知ってるよ。ごめんね、ジャム。俺まともになるよ。あのクスリも捨てるよ。一粒残らず捨てるよ」 「バカ、捨てるな」  逆に、ベンジャミンがジェレミーの腕を掴みなおす。 「捨てたら、ここから追い出すぞ」  ジェレミーはギョッとして目を瞬いた。口は半開き状態だ。  それを見て、ベンジャミンはマズイとばかりに手を離し、にっこり微笑んでみせた。優しい表情を作ったつもりだったが、それはしまりのない妙な笑顔にしかならなかった。 「ジェル、俺が悪かった。アイリーンに会ったってのは冗談だ。だから、早くあの薬をくれ」 「嘘だ」  キッと表情を硬くして、ジェレミーは口を尖らせた。 「ジャムがアイリーンのことで冗談を言ったことなんか、今まで一度もない」 「ジェル」 「ちゃんと話してよ」  次には泣き出しそうな目をして兄を見る。それはまるで、捨てられそうになった犬のそれだ。 「ジャムが、ちゃんと話してくれなきゃ、俺、嫌だ」  弟の様子を見て、さすがのベンジャミンも真面目な顔に戻った。……確かに少し、話を省略しすぎたかもしれない。 「分かった」  うつむいた弟の肩に手を置いて、ベンジャミンは静かに言った。 「悪かったな。何があったか、最初からきちんと話すよ」  うん、と小さくうなづくジェレミー。ホッとしたように表情を緩め兄をちらりと見ると、また自分の手元に視線を落とす。  そんな弟の様子を見ながら、ベンジャミンはふと思った。この年の離れた弟に対して、叱り付けたり、ああしろこうしろと言うことはよくあったが、自分がこうして頼みごとをすることは初めてになるのではないだろうか。 「家に帰ってきたら、お前の女友達が迎えてくれて“空とぶ宇宙ニッキーマウス”を視るからどうとか……」 「ジャム、そこは省略していいところだよ」 「ああそうか、すまん」  ベンジャミンはジェレミーに、自分が薬を飲んでから視た不思議な幻覚のことについて詳しく説明を始めた。ナンシー=ディクソンの件は、迷宮入り殺人事件の容疑者ということをかいつまんで説明した。そして最後に肩に出来てしまった痣を見せると、弟も驚いて真剣な表情になって、じっと話に聞き入っていた。   話が終わったころ、部屋の時計が時報を鳴らした。時刻は11時になっていた。 「それは変だ」  ジェレミーは至極まっとうな感想を述べた。 「なんでヴィクトリア時代に、ナンシーが歩いてるの?」 「幻覚だからだろう?」 「なんで怪我が、痣になって残っちゃうの?」 「それは分からん」 「ん……」  ジェレミーは、顔の下半分に手をやって考え込むような仕草を見せた。ふらりと立ち上がってベッドのマット下からごそごそと薬瓶を──あの、見覚えのあるヤツだ──取り出して、机の上に置いた。 「俺も似たような幻覚で怪我することもあるけど、痣なんかできたことないよ。それに、効き始める時間も変だ。このクスリはそんなに早く反応するはずがない。少なくとも20分はかかるはずだ」 「そうなのか」  普段の、冷静なベンジャミンであったなら。弟がこうもクスリの効果について詳しく、断言をもって話すことに違和感を覚えたであろう。しかし残念ながら、今のベンジャミンの頭の中を占めていたのは死んだ妻のことだけであった。彼の目線は、まるで薬物中毒患者のように机上の薬瓶に釘付けだ。 「今日、何か他に口に入れたものは?」  視線に気付いて、パッと薬瓶を手にしたジェレミー。注意深く兄に尋ねる。  言われて、ベンジャミンは今日一日の食事を思い出してみた。  アイリーンが死んでから、彼の食卓は非常に簡素化されており、朝はピーナッツバターを塗ったトーストとミルクティーと決まっているし、ランチは食べないことがほとんどだ。 「いつもの朝食と……、昼は食べなかったな。あ、そうだ。だから薬を飲み忘れたのか」 「薬?」  ジェレミーが反応した。 「γ−GDP値を下げるやつだよ。毎食後に飲めって渡されてて……」 「それだ!」  勢いよく立ち上がるジェレミー。そのまま飛び出すように部屋を出て行くと、すぐに戻ってくる。その手にはバスルームから持ってきたベンジャミンの薬瓶を持っている。  両手に同じような薬瓶を手にしたジェレミーは、ラベルに書いてある成分を詳しく読んでいるようだった。 「これを朝に飲んだんだよね?」  そこに目を落としたまま、兄に問う。ああ、とベンジャミンが生返事をすると、ジェレミーはようやく目を上げて兄を見た。そして二つの薬瓶から一つずつ錠剤を取り出すと、手の平に載せて、ん、と兄に差し出した。 「二つ一緒に飲むんだ。それでたぶん、また行けるよ。ヴィクトリア時代のロンドンに」   「え?」 「強く、念じるんだ」  ゆっくり、諭すようにジェレミーは言った。 「いい夢を見ていたときに、途中で目が覚めちゃうことあるだろ? でもすぐに寝ればまた続きを見ることができる。ジャムの念じる力次第だよ。ジャムが、強く、思えば、また同じ夢の途中から見ることができるはずだ。さあ、これを飲んで」    ジェレミーの手の平。二つの白い錠剤。  ベンジャミンは、ごくりと生唾を飲み込むと、そっと弟から錠剤を受け取った。 ────────────────────── Chapter3 王立闇法廷 ────────────────────── Chapter3-1 黒ノ女王  ベンジャミンは、ハッと顔を上げた。  空は漆黒。雲の切れ間から見えるのは満月。その微かな光が、スポットライトのようにベンジャミンを照らしている。彼は夜の路地裏に、ひとり立っていた。  ここは? と、視線をめぐらせようとして、カラン。足元で転がったのは木の棒だった。何だろうと思い、彼はすぐにその正体を思い出す。棒は彼が“先ほど”武器として使用した洗濯用の竿であった。 「本当に……」  そう言いかけてベンジャミンは、地面に広がる赤い血溜まりに気付いた。慌てて、自分の身体を確認する。が、異常は見つからなかった。  というより、彼がジェレミーの部屋に居た時と全く変わらない格好でここに居ることこそが“異常”だと言えるだろう。何しろ、先ほどベンジャミンは狼女ナンシーに襲われて右肩にひどい怪我を負ったのだから。それが見た目にはどこにも残っていない。  見た目には──。試しにベンジャミンは左手で右肩に触れてみた。途端に鈍い痛みが走る。痣だけは残ったままのようだ。 「本当に来たのか」  ようやく、ベンジャミンは口に出して言った。  怪我は痣になったが、地面の血溜まりは残ったままだ。妙な気分のまま地面を見下ろすのもつかの間。ベンジャミンは、突然、自分がここにいる理由を思い出した。  彼女を──アイリーンを助けなくては。  狼女と化したナンシーと、それに追われていたアイリーン。妻を助けなければ!  ベンジャミンは足元の棒を拾い、 闇に向かって走り出した。  彼はパブリックスクール※、大学に通っていた学生の頃から刑事になるまで、随分長いことテニスをやっていた。通っていたイートン校ではベスト8の成績を残していたし、昔は体力に自信があったものだった。  今は警視になり、現場には出ないし走ることもほとんど無い。しかしベンジャミンは昔のカンを取り戻すべく走った。急く気持ちを押さえながら。  二度目の角を曲がったときだろうか。前方、暗闇の中から何かが空を切り裂く音や、重いものが地面にぶつかる鈍い音が聞こえてきた。  ──近い! ベンジャミンは棒を構え直し、闇に向かって走りこむ。  彼が、路地裏の小さな広場に踏み込んだ時。  柔らかい月の光が広場をぼんやりと照らしたその一瞬。  目の前に現れた二つの影がパッとぶつかり、弾けるように左右に飛んだ。  ベンジャミンは慌てて、小さい方の影を目で追った。影は広場に面した家の二階の窓へ。その桟に足をかけて、体制を整えていた。 「アイリーン!」  その姿は、黒いドレスをまとった貴婦人だった。左手に掴んだ黒い帯のようなものを煙突に絡み付かせて、自分の身体を支えている。  キッと彼女は、反対側の壁に目を向ける。  そこには、不自然に長い手足を持った女らしきものが壁にへばり付いていた。みっともない姿ではあったが、こちらは両手の鉤爪を壁にめり込ませて自分の体重を支えている。恐ろしいほどの怪力だ。  狼女のナンシーであった。 「アイリーン!」  ベンジャミンはもう一度、彼女を呼んだ。  そこでやっと、貴婦人は彼の存在に気付いたようだった。こちらを振り向くと驚いたように目を見開く。 「貴方、なぜ!」  逃げなかったの? と、彼女は言おうとしたが途中で口をつぐんだ。彼女の上空を、月の光から遮るような大きな影が一閃。ナンシーが飛んだのだ。  貴婦人は窓から跳び、敵に向かって振り向くように両手から帯を放った。ナンシーの身体に帯が絡みつく。  ──ガガガガッ。  宙で狼女はバランスを崩し、石壁に叩きつけられた。壁を破壊しながら横転する。  タンッ。  間髪入れず、貴婦人は壁に足を着いて跳んだ。そのまま空中で彼女は両手を振り下ろす。すると帯が鞭のようにしなって、狼女の身体を地面に叩きつけた。  ドォン、と重い音を立てて巨大な身体が石畳にめり込む! 「うわっ」  ベンジャミンの目の前だ。彼は咄嗟に後ろに飛び退いた。  もうもうと土煙が立ちこめている。あれだけの衝撃だ。普通の人間なら内臓が破裂して命を落とすだろう。しかし相手はどう見ても普通の人間ではないのだ。  ナンシーがまた起き上がってくるかもしれないと、ベンジャミンは棒を構え、土煙が引くのを待った。 「──先ほどの怪我は、どうなさったの?」    するとすぐ隣で声がした。アイリーンだ。ベンジャミンは嬉しそうに目を輝かせて振り向いた。  果たして、黒いドレスの貴婦人が、手の届きそうなところに立っていた。その姿は彼の死んだ妻そのものだった。 「アイリーン」 近寄ろうとして、ベンジャミンはハッと前方に意識を戻した。「待って。まだコイツが起き上がってくるかもしれないから」 「わたくしの質問に答えてください」  土煙は晴れた。狼女ナンシーは変に捻じ曲がった奇妙な格好のまま地面に倒れている。 「質問って?」 「先ほど、貴方がその人狼(ワーウルフ)に受けた怪我をどうしたのかと聞いたのです」 「分からない。直ってた」  狼女がピクリとも動かないのを見て、ベンジャミンはそこでやっと貴婦人に視線を戻した。  予想に反して、彼女は険しい目をしていた。警戒心とわずかな敵対心を青灰色の瞳に込めて。 「月妖(ルナー)の命を助けてしまうとは。──わたくしも、無駄なことを」 「アイリーン?」 「どなたと間違えているのか存じませんが、わたくしはそんな名前ではありません」  突然、彼女は口笛のようなものを吹いて、手を上げた。するとその腕から黒い帯のようなものがシュッと夜空に飛び、闇に溶けた。  近くで見て初めて、ベンジャミンはその帯のようなものが布ではなく、何か黒い粒子のようなもの──影そのもので出来ていることに気付いた。 「わたくしは──」  言いかけて、彼女はベンジャミンを睨んだ。 「名乗る名前がありませんが、同業者たちは、わたくしのことを“黒ノ女王(ブラック・クイーン)”と呼称しています。あなたのような月妖(ルナー)に知り合いは一人もいません」 「黒ノ女王(ブラック・クイーン)? 月妖(ルナー)?」  一瞬何のことを言われているのか分からなくて、戸惑ったようにベンジャミンは相手を見た。しかしすぐに部下の刑事、クライヴから聞いた言葉を思い出した。まさに電撃のように。  ──当時、いわゆる魔物や化け物の類は“月妖(ルナー)”と呼ばれていたらしい。まあ、つまりは隠語の類だな。実際はほとんどが人間だよ。 「俺が、化け物だって言ってるのか?」  驚くベンジャミン。  ツン、とそっぽを向いた貴婦人、黒ノ女王は、地面に倒れたナンシーに一瞥をくれるとベンジャミンに背を向けた。 「今日のところは見逃してあげます」 白い横顔を見せながら、「次に会ったときは、貴方の命もありませんよ」 「何を言って……」 「そこの人狼(ワーウルフ)のように成りたくなければ、貴方もおとなしくしていることですわ」  そう言い終えて、タンッ。黒ノ女王は飛び上がった。信じられないほど高いところで、姿は闇に溶け、そして消えた。 「アイリーンじゃ、ない、のか?」  ベンジャミンは、手に棒を持ったまま。呆けたように貴婦人が消えていった闇を見つめていた。  確かにアイリーンがヴィクトリア時代にいるはずがない。彼は今さらながらにそのことに気付いた。  加えて、あの謎の貴婦人──黒ノ女王。確かに言われて見れば、あのひどい怪我が一瞬で治ってしまったのだ。月妖(ルナー)呼ばわりされても当然かもしれない。  自分は何をするつもりだったんだろう……。ベンジャミンは手にした棒に目を落とす。  自問したものの、答えは分かっている。自分はアイリーンを助けたかっただけなのだ。彼が今ここにいるのは弟のドラッグと、自分の薬を合わせて飲んでしまったことによる副作用で、薬物トリップに過ぎないのだ。ただの幻影に過ぎないのである。それは分かっている。しかし──。  どうして、あの黒ノ女王はあんなにアイリーンに瓜二つなのだろう?  あんなに似ていては……別人に思えないではないか。    その時、雲の切れ間から月明かりがベンジャミンの背中を照らした。彼は、ぼんやりと石畳に映る自分の影を見た。そして、その後ろで、むくりと盛り上がる黒い影も。  ──! 振り返るベンジャミン。  ガツッ。  棒が、洗濯竿が、めり込んでいる。顔だ。毛むくじゃらの、とても人間とは思えないような女の顔。爛々と輝く金色の瞳のすぐ下に、ベンジャミンの一撃がヒットしていた。  ベンジャミンの手から、するすると棒が離れていった。  ゆっくりと、狼女は身体を起こしていく。顔に棒をめり込ませたまま。ベンジャミンは息を飲む。次の瞬間。  ベンジャミンは見事なスタートダッシュで広場から逃げ出した。  猛然と駆けながら、彼は出来るだけ遠くに逃げようと路地裏の出口を探した。狼女ナンシーは、死んではいなかったのだ。  あんな物凄い勢いで叩き付けられても死なないような化け物を相手に、ただの人間の自分が勝てるとは思えなかった。狼女の怪力や、鉤爪の威力は先ほどすでに実体験済みである。  あれをくらうのは、二度とごめんだ──。ベンジャミンは現実主義者だ。だから現在自分が最大限に出来ることを実行したのだ。  すなわち、逃げること、である。  背後で、クァァッと、何か唸り声のようなものと、足音が聞こえた。当然、ナンシーも彼のあとを追いかけてくる。  ベンジャミンは脚力には自信があった。テニスにのめり込んでいた時は、ボールに追いつくその足の速さと瞬発力を自慢に思っていたものだった。  しかし、テニスボールを追いかけることと、化け物に追われるのはワケが違う。  力の限り走ったが、みるみるうちに足音が近づいてくる。背中に生臭い息の気配を感じた。すぐ後ろに、ナンシーが迫っている!  あの角を曲がったら──! ベンジャミンは目の前の角を曲がったら身を伏せて彼女をやり過ごそうと、そう思った。しかし。  パッ、と物陰から白い影が飛び出した。  影はベンジャミンとすれ違い、彼の背中をポンと物陰に押しやると路地裏にすっくと立った。  ニッと笑う、その顔は──。 「ジェル!」    見間違えるはずもない、イングランド・オフィシャルチームの白いユニフォーム姿の弟ジェレミーは、兄から狼女へと視線を移す。  呆然とした顔の兄を尻目に、ジェレミーは一瞬だけ腰を落とした。もう一度、弟の名前を叫ぶベンジャミン。弟がどうしてここに? と、彼は混乱した頭で思った。しかし答えにたどり着く前にジェレミーが動く。  後ろで一つに結んだ長いブロンドの髪を揺らし、フッ。その身体が一瞬消えた。 「ジェル!」  ──ズシャァッ。  狼女が地面に投げ出されるように、倒れこんだ。当然、石畳を破壊しながらである。  サッと立ち上がるのはジェレミー。  彼は、あの狼女ナンシーに対して、それこそウェイン・ルーニーも顔負けの強烈なスライディングを放ったのだった。  砂埃の中、パラパラと落ちる小石の音が静まりかえった路地裏に響く。  ジェレミーは振り返って、兄の姿を確認すると、グッと親指を立ててみせた。 「ジャム、大丈夫?」 「お、お前どうして!?」 「……面白そうだったから」 ペロリと舌を出して、弟は微笑んだ。「俺もクスリ飲んじゃった」 「何だって!?」  ベンジャミンは、思わずジェレミーを睨んだ。 「何が起こるか分からないのに……」 「固いこと言わないの。ジャムだって危ないところだったでしょ」  言いながら、ジェレミーは涼しい顔で、両手の指を組み合わせてポキポキと鳴らしている。  弟までもがヴィクトリア時代にトリップしてきてしまうとは。一体どうなっているのだ……。ベンジャミンがそう思った時、黒い影が弟の背後に立ち上った。 「ジェル、後ろ!」  ザザァッ、と繰り出された鉤爪は宙を空振りした。  ジェレミーは身を屈め、ナンシーの一撃をやり過ごしたのだ。  間髪入れず、彼はステップを踏むように死角に入り込むと、がら空きになったナンシーの右肩を踏みつけるように蹴った。  それはまさに、チンピラ蹴りだった。狼女はバランスを崩し、またも路地に横転する。  どうよ? 見てよ、これ。と言わんばかりにジェレミーは誇らしげに兄を振り返る。ぽかんとそれを見つめていたベンジャミンは遅れて思い出す。  バーやパブでケンカばかりしていたジェレミー。ベンジャミンは留置場に弟を何度も迎え行っているのだが、確かに……弟はいつも軽傷で、怪我などしているところなどほとんど見たことがない。  ひょっとして、ジェレミーはケンカに強かったのか? ベンジャミンは思った。 「あっ! しまった!」  すると突然、ジェレミーは声を上げて兄を見た。 「俺、もうケンカしないって約束したんだった!」  グゥゥとうなり声を上げて、ナンシーが立ち上がる。地面に転ばされてばかりで逆上しているのだろう。血走った恐ろしい目つきでジェレミーの背中を睨みつけている。 「ゴメン、ジャム、咄嗟だったから……。俺、もうケンカしないよ。平和主義者だもん」  ウォォォーンと、狼女は吼えた。裂けたような口からヨダレがぽたり、ぽたりと地面に落ちた。 「ジェル!」  ベンジャミンは走った。弟を助けなければ! 「それはもういいんだ!」 「えっ? ケンカしてもいいの?」 「──いいから、伏せろ!」    しかし、弟は兄の言うことを聞かなかった。  手を上げてベンジャミンを制すると、くるり。ジェレミーは狼女の方を向いた。  彼の目の前に何か黒光りするものが現れた。虚空に現れたそれは──。  ダンッ、ダンッ。  二発の銃声がした。  狼女は身体をくの字型に折り曲げて、フッ飛ばされた。路地裏に仰向けに転がる彼女の身体に二つの銃痕。細い煙が二本、うっすらと立ち昇っている。  ジェレミーの手にはリボルバー式の拳銃が。彼はおどけたように、銃口から昇る煙をフッと吹いて見せた。 「ヤッといた方がいいんだよね、コイツ」 「ジェル」  今度こそ本当にあっけにとられたベンジャミンだったが、彼はやっとのことでは弟の隣にまで来て、その手にある拳銃を見た。 「ジェル、それは何だ?」 「え? スタームルガー・ブラックホーク※」  きょとんとして答えるジェレミー。 「そうじゃない! お前それどこから出したんだ」 「どこからって……」  兄の詰問をものともせず、ジェレミーはしょうがないことを聞くなあと言わんばかりに肩をすくめて見せた。 「どっかからだよ」 「どっか?」 「驚くようなことじゃないでしょ、俺たちトリップしてんだから。ジャムにだって出来るよ」  ジェレミーは言いながら、地面に倒れたナンシーを顎でしゃくる。 「ほら、早くヤッちゃわないと、また起き上がってくるよ。どうすんの? アレ」 「待て、ジェル。──あれは容疑者で」  混乱したままのベンジャミン。数多くの刑事事件に関わってきた彼だが、こんな状況に遭遇することは生まれて初めてだ。しかも実の弟が虚空から拳銃を取り出して、犯人射殺の許可を求めてきている。この事態をどうしろというのだ。 「出来れば逮捕したいが、やむを得ない場合は射殺……」 「うーん。でも、あれどう見ても、やむを得ないよね?」  二人は地面に倒れた狼女を見る。ナンシーは、またもむくりと身体を起こして立ち上がろうとしていた。その腹からポンッ、ポンッと鉛弾が零れ落ちる。先ほどの銃弾であった。  ため息をつくベンジャミン。仕方なく弟に向かってうなづいて見せた。 「オーケー。さすがに頭を撃ち抜きゃ、イクよね」  親指で撃鉄を起こして、ジャキッ。信じられないほどキレイなフォームでジェレミーは拳銃を構える。 「なあジェル、お前それどこで覚えたんだ?」 「“バイオ・ハザード”だよ」  狼女は身体を起こし、唸った。今すぐにでも飛びかからんと体制を整えた。  ジェレミーは相手の頭に狙いを付け、拳銃の引き金に指をかけた。 「そこまでだ!」    まさに、ジェレミーが引き金を引く直前。背後から男の声が響いた。  驚いた二人はパッと後ろを振り返った。そこに居たのは──。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※パブリックスクール: 全寮制の学校。13才〜18才が対象なので、日本で言うと高校に該当しますが、イギリスの教育制度は6・3・3みたいに決まった年数が無いので(信じられないことですが)あまり関係がないかもしれません。ベンジャミンが通っていたイートン校は男子校で名門中の名門校です。ほかにもハロウ、ラグビー、ウェストミンスター、ウィンチェスターなどの名門校があります。 ※スタームルガー・ブラックホーク: リボルバー(回転)式拳銃。競技用に使われることが多いそうです。 ────────────────────── Chapter:3-2 月妖ブラザーズ  シェリンガム兄弟は、同じ動き(ユニゾン)で振り向いた。  狼女と反対側。路地の入口のところに影が二つ。シルエットの形からして男性と女性のペアだ。  そこまでだ! と言ったのは男の方か? 二人がそう思った時。男は気取った仕草でトップハット※を外し、傍らの女にそれを渡すと、一歩踏み出して月光の下に姿を晒(さら)した。  それは栗色の髪をした若い男だった。紺色の礼服のような古風なスーツの上に黒いマントを羽織っている。きちんと手袋をはめた手にはステッキだ。伝統的なヴィクトリア時代の紳士の装いである。  ゆらり。何も言わずに男は、ステッキを上げて先端を二人に向けた。カチッという何かの音。刹那。  ──シュッ。  ベンジャミンと、ジェレミーの間を。二人の頬をかすめて何かが飛んだ。 「えっ!?」  ハモッた二人。背後のギャッという悲鳴に振り返る。  狼女は顔を押さえ、慌てて2、3歩後退していた。 「殺してはならん。どんな月妖(ルナー)でも、裁きを受ける権利を持つのだからな」  やっと男はそう言うと、ゆっくりとした動作でステッキを元に戻した。──仕込み銃か? ステッキから何か銃弾のようなものを発射したようだ。 「通りかかって見て見ぬ振りも出来なかったのでな。何か因縁があるようなら、話を聞いてやろう」  そう言い終えて、傍らの女から自分のトップハットを手に取る。 「……レベッカ、頼む」 「はい。マスター」  彼の背後にいた女の影が、跳んだ。  信じられないほど高く跳躍した影は、二人のすぐそばに着地した。それは地味なワンピースを着た艶やかな黒髪の少女だった。ザッ。体制を整えた彼女は、色のない目でベンジャミンとジェレミーをそれぞれ一瞥し、眉を上げて前方を見た。そこに居るのは、狼女のナンシーだ。 「子犬ちゃんかよ」  ボソリとつぶやく少女。その、らしからぬ低く抑えた声色にギョッとするのもつかの間、少女は長い黒髪を揺らして二人に視線を戻した。ビュッと腕を伸ばすと袖から飛び出てきたのは──鉄の鎖。 「おい」  可憐な少女は鉄の鎖を両手で持ち、ドスの効いた声で言った。 「そこでおとなしくしてろよ、オマエたちは後回しだ」  ぽかんとするベンジャミン。ジェレミーは咄嗟に身構えている。 「レベッカ、いいから、人狼の方を!」  すると、後ろの男が叱咤するような声を上げた。少女は背筋を伸ばし、はいッと威勢の良い返事をした。彼女は慌ててナンシーの方を見たが、狼女は四つん這いになって逃げ出すところだった。 「マスター、追いかけます」 「頼む」  短い言葉のやりとりのあと、少女は無骨な鎖を手にしたまま狼女を追いかけていった。少女とは思えないほどの脚力で、である。 「さて」  男は二人に近づいてきて、値踏みするように兄弟の顔を見た。はっきりした目鼻立ちをもった美男子である。年齢は30代前半ぐらい。映画俳優で言うならば、オーランド・ブルーム※といったところか。  居住まいを直すベンジャミン。拳銃を手にしたままのジェレミーが、前に出ようとするのを手で制して止めた。 「君たちから話を聞きたい。おとなしく付いてきたまえ」  ゆっくりとした口調で男は言った。胸ポケットから金色の時計を出し、時間を確認しながら、である。 「あんたは警察官か?」 「いや違う」 「なら、逮捕権はないはずだ。俺たちは行かない」  ベンジャミンは胸を突き出し、まっすぐに相手を見据えながら言った。男は、フンと興味深そうに鼻を鳴らす。 「ヤードにだったら行くのかい?」 「行ってもいい」 「なぜだね?」 「俺が、ヤードの刑事だからだ」  ほう、と男は声を上げた。 「君は警察官か。名前は?」  小さく舌打ちするベンジャミン。……仕方ない。彼は一瞬の逡巡のあと、口を開いた。 「シェリンガム。階級は警視。こいつは俺の弟だ」 「シェリンガム?」  聞き返した男の声が、なぜか奇妙に上ずっていた。──おや、と思いベンジャミンは相手の顔を見る。しかし表情を読まれる前に、相手はまた柔和な笑みを浮かべてそれを隠した。 「あんたは?」 ベンジャミンは鋭く訪ねる。「俺たちだけに名乗らせておいて、だんまりかい? それとも名前はジョン・ブル卿か?」 「分かったよ」  クスと笑って、彼は目を上げた。二人の顔をたっぷり時間をかけて見比べて。それからはっきりとした声で言った。 「僕は、アボットだ。王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)の、カーマイン・クリストファー=アボット。君たちのような月妖が悪さをしないか見張っている機関の責任者だよ」 「──何だって!?」  声をハモらせて。二人の兄弟は驚いて顔を見合わせた。  昼間、自分が職場で見た書類。「業務委託に関する覚書」。日付は100年前。クライヴの言葉。月妖。政府。魔女裁判……。様々な言葉が浮かんでは消え、ベンジャミンの頭の中で乱れ飛んだ。  その中で、最後に残ったのはクライヴの言葉だった。  月妖呼ばわりされた人間がたどるのは、悲惨な末路──。 「ほう。君たちは我が王立闇法廷のことを知っていたようだな」 「待て!」  真剣な面持ちでベンジャミンは声を上げた。彼の認識が正しければ、王立闇法廷は月妖を秘密裏に裁き絞首台に送り込む組織なのだ。そのトップと道端で遭遇してしまったのは不運としか言いようがない。そして、この状況は──非常にまずい。 「俺たちは月妖なんかじゃない」  誤解を解かなければ。隣にいる弟をちらりと見ながら、ベンジャミンは相手を威圧するように睨みつける。  ──ん?  ベンジャミンは、弟にまた視線を戻した。一瞬だけ見た弟の表情に、違和感があったのだ。なぜか、どういうわけか。ジェレミーは感激したような目をして、兄とカーマインとを交互に見比べていた。 まるで贔屓にしているサッカー選手にでも出会ったような、そんな目つきである。 疑問を感じるベンジャミン。何だ? どうしてジェレミーはそんなに嬉しそうにしているんだ? 「みんな最初はそう言うんだよ」  男、カーマインは、兄弟の様子には無頓着な様子で続けた。 「他人を八つ裂きにして心臓を喰らった後に、“俺は月妖じゃない”と叫ぶ者もいる。貴婦人の喉に喰らい付いてその命を奪っておきながら“彼女が血を吸って欲しいと言ったんだ”と主張する者もいる」 「俺たちは、正真正銘の普通の人間だ!」  内心焦りながらも、鋭く言い返すベンジャミン。 「それは笑えない冗談だな」 カーマインは淡々と返してきた。「何もない空間から拳銃を取り出したりできるのか? 普通の人間に?」 「アハ、言えてる」  うぐ、と言葉に詰まった兄の横で、ジェレミーがあっけらかんと笑った。兄をチラチラと見て、目で何か伝えようとしている。“ほら、ジャム。分かんないの? アレだよアレ”といった具合に。 「君は悪夢(ナイトメア)だな」  カーマインはジェレミーを見ながら言った。悪夢? と首をかしげているジェレミーから、ベンジャミンに視線を移し── 「君の方は、まじない師だろう?」 「はぁ?」 「いや、言霊師(スペルキャスター)という言い方をした方が良いか」 「あんた、何の話をしてるんだ?」  急にうさんくさい話になってきた。相手が何を言っているのか分からず、ベンジャミンは眉を寄せた。自分たちに言い掛かりをつけて魔物呼ばわりして、そのまま絞首台に送る気か? 「自覚がないのか」  ふむ、と言いながらカーマイン。 「刺青は? 刺青はどうだ。君は身体のどこかに刺青を入れてやいないか?」 「何?」  刺青? 刺青だって!?  さすがのベンジャミンも驚いた表情を隠せなかった。何故、初対面のこの男が、妻のアイリーンに入れてもらった胸の刺青のことを知っているのか。得体の知れない恐怖を感じ、彼は慌てて問い返した。 「ど、どうしてそれを知ってるんだ」 「ははあ。呪文の使えない言霊師(スペルキャスター)か。面白い。」  ヴィクトリア時代の青年紳士は、ゆったりと腕を組みながら笑う。ベンジャミンの反応を面白そうに見つめている。その仕草は、癇に障るほど上品で優雅である。 「君の質問に答えてやろう。僕には少々の魔術の心得がある。だから君たちの能力も大方分かるし、君たちがまだ血の匂いをさせていないことも分かるんだ。よって、君たちを拘束するつもりはない。ただし」  一度言葉を切って、男は語気を強めて続けた。 「こんな時間にこんな場所を、帽子も手袋も身に着けずに出歩くようなスコットランドヤードの警視は、僕の知り合いには一人も居ないということも付け加えさせてくれたまえ」 「……俺たちをどうする気だ」  言い逃れするにはタイムオーバーのようだ。そう思いながら、低く押し殺した声でベンジャミンは問うた。ジェレミーを守りながら、この状況をいかに脱出するか、最もリスクの低い戦術は? 「おいおい、よしたまえ。くどいようだが、僕は君たちから話を聞きたいと言っただけだぞ?」  カーマインは落ち着き払った様子で、腕を解き肩をすくめてみせた。 「いきなりニューゲイト監獄に連れて行くなんてことはしないさ。そこに僕の車を停めてある。ティータイムには遅すぎるが、僕の私邸に君たち兄弟を招待しよう」  そう言いながら、彼は手袋を嵌めた手で表通りに停まっている馬車を指し示した。少しでも距離が離れると、みな霧に包まれてその輪郭を隠してしまう。ぼんやりとしたランプの明かりが馬車からぶら下がって揺れているのが見えた。 「付いてきたまえ」  カーマインは、くるりと兄弟に背を向けて歩き出した。その様子にベンジャミンは少し驚いた。この状況で自分から背中を見せるとは……。度胸があるのか、命知らずなのかどちらかだ。  よく見ると、彼は左足を引き摺るようにして歩いていた。どうやら少し足が悪いらしい。ステッキは武器やファッションとしてだけでなく、彼にとっては歩くために必要なものなのであろう。  ベンジャミンは、隣りを見た。  弟は、やはり期待に満ちた表情で、兄を見、そしてカーマインの背中を見た。付いて行く気満々といった感じである。  小さく舌打ちをしたベンジャミン。仕方なく青年紳士の後を追って歩き出す。するとジェレミーもステップを踏むような足取りですぐ隣りを付いてくる。 「すごいね、ジャム。アボット卿だよ。ウワァァ感動するぅ」 「???」  弟の小声に、ベンジャミンは大いに眉をひそめた。どういうことだ? 「お前、あいつを知ってるのか?」 「エッ、ジャムは知らないの? あのアナ・モリィが」 「──君たち」  カーマインが二人に声をかける。馬車のステップに乗り、御者の手を借りながらこちらを振り返っている。 「早くしたまえ」  急かされ、二人は会話を中断し、いそいそと馬車に向かった。馬が首をめぐらせ荷が増えることを嫌がるかのようにヒィンと短く鳴いた。タクシーよりはずっと高いところにあるステップを踏み、シェリンガム兄弟は馬車に乗り込む。  乗りながらベンジャミンは弟の言葉の意味を考えていた。──アナ・モリィ?  アナ・モリィと言えば、かのアナ・モリィ=シェリンガムのことだろう。しかし、ここでどうして彼女の名前が出てくるんだ? - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※トップハット: いわゆるシルクハットのことです。 ※オーランド・ブルーム: ロード・オブ・ザ・リングで、エルフのレゴラスを演じた俳優 ────────────────────── Chapter:3-3 彼女は悪夢  アナ・モリィ・グウェンドリン=シェリンガムとは、二人の兄弟の曾々祖母にあたる人物である。  120年前ほどにシェリンガム家の当主を務めていた女性であり、家を継いだ当時はベルフォード男爵位も保持していた。いわゆる女男爵だ。  男子の兄弟に恵まれず仕方なく跡目を継いだアナ・モリィだったが、彼女には一つの才能があった。  文章の才である。彼女は小説と評論を得意としていた。  そして才能と資産に恵まれた彼女は文学界を通して、痛烈に上流社会を批判することに人生を捧げた。ジョージ・バーナード・ショーをはじめとするフェビアン協会※の面々とも交流があり、彼女の名はその著作よりも文壇の世界における良きパトロンとして名高い。今でもシェリンガム家の親戚には労働党の関係者が多く、二人の兄弟の叔父にあたるダニエル=プレスコットなど最たる者で、彼は労働党の議員である。  ただし、アナ・モリィは少々革新的過ぎるきらいがあった。ガーディアン紙※に連載した小説に実在の人物を模した様々なキャラクターを登場させたおかげで、中産階級の友人には恵まれたが、貴婦人としての上流社会の居場所を失った。あげくの果てには、新大陸で新しい事業を興すと息巻いた事業家に自分の男爵位を売り払ったりもした。  すなわち彼女は、男性との付き合いよりも創作とその支援活動を優先したのである。シェリンガム家随一の女傑、アナ・モリィは生涯結婚をしなかった。  にもかかわらず彼女には一人息子がいた。それが曾祖父のアーサーである。  アーサーの父親が誰なのか、アナ・モリィは口を閉ざしたまま最後まで語ることはなかった。それは彼女の著作の中でも同様である。  ベンジャミンは、弟をちらりと見る。──そのアナ・モリィの話が何だって?  ジェレミーは、兄をきょとんと見る。──ジャムはどうしてあの話を知らないの?  兄の後ろに着いて部屋に足を踏み入れたジェレミーは、ぐるりと首を巡らせた。  そこは、椅子とテーブルと様々な凝った調度品が置かれている部屋だった。暗いランプの光の中に浮かび上がるのは、大理石か何かで出来た大きな暖炉。中で炎が赤々と燃えていた。そのマントルピースの上には陶器製の置物と、古くて高価そうなパイプが数本飾ってある。暖炉のすぐ横には分厚い本の並んだ壁付けの本棚があって、部屋の主役の座を暖炉と二分していた。  これは客間だな。と、ジェレミーは思った。彼らが子供のころ住んでいたロンドン郊外の邸宅に雰囲気がとてもよく似ている。  横目にチラリと見ると、ベンジャミンは難しい顔をして二人を部屋に招きいれた張本人、カーマイン=アボットを鋭い目つきで見ている。いや、睨みつけていると言ってもいいだろう。 「まあ、座りたまえ」  道端で自分たちを呼びとめ、ここまで連れてきた青年紳士は、にこやかに二人を長椅子に座るように促した。館の主人らしい優雅な振る舞いを見せながら。 「今、飲み物を用意させよう」  そう言うと、ドアのそばに立っていた黒いスーツの男に目配せをする。おごそかに一礼した執事はドアを開け、明かりの届かない暗闇の向こうへと姿を消して行った。  カーマインはステッキをつきながら長椅子とは反対側の椅子に腰掛けた。ロココ調の細足の椅子である。ベンジャミンも無言で長椅子に腰掛けた。ジェレミーが入口のすぐ横にあったウォールナット製(胡桃)のキャビネットの中に飾ってある人形に気を取られていると、おい、ジェル、ここに座れ、と声を掛けて呼びつける。  ジェレミーは、戸棚を開けたい気持ちをひとまず抑えて、おとなしく兄の隣りに腰掛けた。  ──結局、シェリンガム兄弟は馬車に乗ってからまともな会話をしていない。というより、カーマインが常にそばにいるため、兄弟はお互いが持っている彼に関する情報をやりとりする時間をとることが出来なかったのだ。 「さて」 カーマインは、ゆったりと足を組んだ。「お茶は、しばらく時間がかかるだろうが、僕は非常にせっかちでね。さっそく質問をさせてもらっていいかな、ベンジャミン」 「構わんよ。俺たちのターンを用意してくれてるんだろうからな」  きちんと背筋を伸ばしたまま、答えるベンジャミン。 「もちろんだ。有り難う。では、僕の方から先に聞かせてもらおう」  二人の視線が真っ直ぐにぶつかった。その場の空気がみるみるうちに緊迫していく中で、間に入れないジェレミーはそわそわと落ち着かない様子を見せ始めた。長椅子の艶やかな袖木を撫でてみたり、首を伸ばすなどして窓の外へ視線をやったりする。 「一つ、君たちはどこから来た?」  カーマインはベンジャミンだけを見据えながら言った。 「二つ、君たちは何故、あの人狼と戦っていた?」  ふーっとスコットランドヤードの警視は長く息を吐いた。 「俺たちはイングランド人だし、れっきとしたロンドン市民だ。それからあの女は、未解決の殺人事件の容疑者だ。だから逮捕・拘束を試みていただけだ」  ……アイリーンの話はしないのかな? ジェレミーは二人の顔を代わる代わる見ながら思った。 「いい答えだ。君は優秀だな」  カーマインは微笑んだ。言いながら、どうぞ、と手の平をベンジャミンに向け、質問を促した。  ベンジャミンは、よどみなく言葉を発する。ジェレミーは知らなかったが、それはまさに彼が容疑者の取り調べの時に見せる顔つきそのままだった。 「今年は、西暦何年になる?」 「1888年だ」  ガチャリとドアが開いて、先ほどの執事がティーセットを持って入ってきた。二人が口を閉じ、シン、と静まり返った室内。テーブルに置かれるカップが立てる音がいやによく響く。  このティーセット、きっとマイセンか何かだ。ジェレミーは執事の顔を覗きこむようにして見る。ハロッズ※で売ってるやつだ。……あ、執事のおじさん何か嫌そうな顔してる。 「では、次は僕の番だな」  ジェレミーの視線を受けながら執事が一礼し、扉を閉めて去っていく。それを目だけで見送ったカーマインはなぜかニッコリと微笑んだ。そして鋭く、次の質問を言い放った。 「さて、それでは教えてくれ。君たちは、何年後の世界から来たんだ?」   「──ええっ!?」  いきなり核心を突くような質問に、びっくり仰天とばかりに驚いてしまったのはジェレミーだ。彼はちょうどティーカップの細い取っ手に指をかけようとしていたところで、紅茶をこぼしそうになる。 「ど、どうして、それが分かるの!?」  思わず声を上げると、隣りでベンジャミンがジーザスと呻きながら額を押さえていた。  しかしジェレミーは、途端に笑顔になって身を乗り出した。 「そうそう、そうなんだよ! 俺たち未来のロンドンから来たんだよ。いわゆる未来人ってやつ? 俺の持ってるドラッグと、ジャムの持ってる胃薬が反応して、つまり俺たちはラリッてるわけなんだけど、なぜか時間を越えてこの時代に……」 「あれは胃薬じゃなくて肝臓の薬だ」   面倒くさそうに突っ込むベンジャミン。しかしジェレミーの耳には届かない。 「スッゲー! やっぱり頭いいんだね。俺知ってるよ。カーミィは法廷弁護士(バリスター)※なんだもんね?」 「え?」  他の二人は、驚いたようにジェレミーを見た。いきなりの弟の発言に、ベンジャミンなどは滑稽なほど目を見開いている。 「カーミィとは僕のことか?」  「うん」 「ジェレミー。君は、僕の何を知ってる?」 「待て! 俺たちが質問する番だぞ!」  二人の視線の間に身を乗り出すようにして、ベンジャミンはその言葉を止めた。振り返り、弟を睨みつける。お前は黙ってろ、と。 「ベンジャミン。君の方こそルール違反だ」  しかし冷静さを取り戻したのはカーマインが先だった。乗り出した半身を戻してまた笑顔になる。 「君たちは僕の先ほどの質問に答えていない。いいか、もう一度問う。君たちは今から何年後の世界から来たんだ?」 「……」 悔しそうな顔をするベンジャミン。仕方なく、のろのろと答えた。「118年後だ。俺たちは2006年のロンドンで生活してる」 「なるほど。では、あの人狼は2006年のロンドンにおいて殺人を犯した女なのだな」  したり顔で、うなづく青年紳士。  客観的に見れば、118年後のロンドンから来たなどという荒唐無稽な話を政府の役人が信じるはずがない。そんな話をすぐ信じるのは馬鹿かキ印だけだ。目の前の男を信用するのは危険だ、と、冷静なベンジャミンなら思っただろう。 「はい、次。俺が質問したい!」  しかし彼はたび重なる弟の発言に判断力を失った。止める間もなく、ジェレミーは嬉々とした様子で質問を言い放った。 「カーミィは、アナ・モリィを知ってるよね?」 「何?」  すると一転、カーマインは眉間に皺を寄せ、怪訝な目をしてジェレミーを見た。その後には不自然な沈黙が続く。  カーマインが浮かべたのは、まるで、遊びに熱中していた子どもが、帰る時間を聞かされたような表情である。今までとは種類の違う表情だ。 「……知っているよ。ちょっとした有名人だからな」  ようやく答える。その態度は動揺の表れだったのかもしれない。ベンジャミンは最初に名乗ったときのカーマインの反応を思い出した。  シェリンガムと名乗った時に、何か知っている様子ではなかったか?  なぜだ? なぜ、この男が俺たちの曾々祖母のことを話すときにこんな反応をするんだ? アナ・モリィは1859年生まれだから、今が1888年なら29才のはずだが……。 「知ってはいる。知ってはいるが、君たちは彼女の何なんだ?」  まさか! ベンジャミンは一瞬にして恐ろしい考えに思い至った。 「曾々孫だよ」  カーマインに、けろりとジェレミーが答える。 「曾々孫? ということは彼女が子どもを産むのか?」 「そうだよ。一人だけ」  カーマインは真剣な眼差しになった。 「待ってくれ。まさか、その父親というのは──」   「待て! 言うな、ジェル!」    突然、ベンジャミンは机を叩き、叫んだ。その大声と剣幕に驚いたジェレミーは、ひゃあと情けない声を上げて縮こまった。  テーブルの上でガシャンとティーカップが騒動を起こした。が、それがやがて静まっていき、部屋の中にはまた静寂が訪れる。  無言のカーマイン。はあはあと息を付きながら弟を睨みつけるのはベンジャミンだ。ジェレミーは上目遣いになって、申し訳ないと身体全体で意思表示しながら兄を見る。 「大声は立てないでくれ」  十分な間を開けてから、静かにカーマインが言った。 「すまなかった」 「面白いな、君たちは」  真顔だった青年紳士は、フ、と笑い表情を崩した。 「そこまで言われれば分かるよ。彼女の子どもの父親は僕なんだな?」 「ちち違う。違うよ、そんな話は俺はひとつも聞いたことがない」  珍しくドモりながら言い繕うベンジャミン。さすがの彼も話の展開に動揺しまくっている。彼の中ではどうしてこういうことになってしまったのか全く分からないのだ。 「滅多なことを言うな、ジェル。可哀相じゃないか。彼が、お、驚いてるんじゃないか」 「動揺してるのは君だけだよ」 カーマインは兄に鋭く突っ込みを入れながら、片目を弟に向けてつむってみせる。「なあ、君もそう思うだろう? ジェル。君は僕とモリィのことを誰から聞いたんだ?」 「ダニエル叔父さん」  兄の方を恐々と見ながら言うジェレミー。ひるんだままのベンジャミンの様子を見て、視線をカーマインに戻し話し始める。 「アナ・モリィが付き合ってた男はカーミィぐらいしかいないんだって。カーミィは法廷弁護士(バリスター)で、アボット家は代々ウェントワース伯爵の称号を継承してる名門貴族だって聞いたよ。だから叔父さんは、シェリンガム家には優秀な血が流れているんだからお前もそうならなくちゃならんって」 「何だ、ゴシップの類か」  半ば安心したように、ベンジャミンが口を挟んだ。話の出所が叔父のダニエルだということが分かり、話の信憑性の程度を彼なりに把握したのだろう。 「俺たちの親父やお袋は、そんな話を一言もしてなかったぞ。叔父さんは、そういった話が好きだから、お前にそんなことを……」 「いや」  と、そこで言葉を挟んだのはカーマイン当人だった。 「あながちゴシップとは言えんな。残念ながら」 「えっ、じゃあやっぱりアナ・モリィと付き合ってんの?」  間髪入れず、質問したのはジェレミーだ。  すると、彼はニヤリと笑った。何か悪戯を仕掛けるときのような、そんな笑みだ。二人の兄弟の顔を代わる代わる見ながら続ける。 「紳士と淑女の関係で交際しているのかという意味の質問だったら、答えはノーだ。しかし、そういう意味でないのなら、答えはイエスだ。僕も彼女のことは嫌いじゃないし、彼女も僕のことを好いているようだ」 「ど、どうしてそう言い切れるの?」 「僕が彼女の身体のどこに触れても、彼女が嫌がらないからだよ」  また額を押さえるベンジャミン。ジェレミーは、スゲーを連発した。 「確かに、僕以外に彼女とそういった関係になれる男はまず居ないだろう。あの風体に加え、彼女は“悪夢”だからな。並の男じゃあ歯が立たん」 「あの風体?」 「おい。悪夢(バッド・ドリーム)とは、どういう意味だよ」  ムッとしたように言い返したのはベンジャミンだ。本当にカーマインが曾々祖父なのかどうかは分からないが、アナ・モリィのことまで悪く言われるのは非常に心外だったからだ。  彼の様子を見てカーマインは自分の失言に気付いたのか、なだめるような口調になった。 「そうじゃない。“夢魔(ナイトメア)”だと言ったんだ。彼女には他人に白昼夢を見せたり、眠ってる人間の夢に潜り込んだりできる能力があるんだよ」 「そんなバカな!」  ベンジャミンは怒ったように言葉を荒げた。半ば尊敬すらしている先祖、シェリンガム家の誇るアナ・モリィに対して、妙な言いがかりをつけるなんて。 「俺たちの先祖を化け物扱いする気か!? いくら何でも──」 「──ベンジャミン!!」  しかし、彼を上回るような恐ろしい声音を放ったのは、カーマインだった。 「そういった言い方はやめろ」    それは彼には珍しい強い言葉だった。さすがのベンジャミンもその剣幕に押されて口をつぐむ。言ってはいけないことを言ってしまったようだったが、そもそもアナ・モリィを侮辱するようなことを口走ったのはカーマインではないか?  釈然としないベンジャミンの様子に、カーマインも怒りを抑え、自分が声を荒げたことを恥じたようだった。気持ちを落ち着けるように、長く息を吐いてしばらく。  少しの間を開けてから、彼は静かに顔を上げた。 「いいか? 人間が誰しも道を踏み外し犯罪に手を染める可能性があるように、人間は誰しも月妖になる可能性があるんだ。それを化け物だとかいう短絡的な言葉で片付けて欲しくない」  鋭い目をベンジャミンに向ける。 「君も、そして僕も、人々の恐怖の対象に成り得るということだ。それを忘れるな」   「──じゃあ、俺は?」    にらみ合っていた二人は、ふと視線を解いた。横ではジェレミーがニコニコしながら自分の顔を指差している。 「俺も月妖なんでしょ? さっきそう言ってたよね」  ジェレミーはその場の雰囲気などおかまいなしに、右手の掌を開いて見せた。その上にティーカップがパッと現れる。テーブルに載っていたはずのマイセンだ。 「ね? これが夢を見せてるってことなんでしょ」  一瞬の間があった。そんなジェレミーを見て、フッと最初に頬を緩めたのはベンジャミンだった。それにつられてカーマインも表情を和らげる。 「そうだな」  椅子の背に背中をつけて、この館の主は最初のときのように微笑んだ。ジェレミーの他愛のない一言で、一瞬にして雰囲気が和んでしまった。ベンジャミンも自分の膝を掴んでいた両手を弛めて、背を伸ばしながら弟を見て微笑む。 「せっかくの紅茶が冷めてしまう。アボット邸では冷めた紅茶しか飲めないと言われたら僕の恥だ。さあ、口をつけてくれたまえ」  と、カーマインはニヤりとしながら付け加える。 「そうそう、少しばかり毒を入れてあるが、君たちなら耐えられるさ」 「参考までに、どういう毒が入ってるのか聞いてもいいか」  言いながらベンジャミンもティーカップを初めて手にした。もう態度に険はない。 「飲むと月妖になるんだよ」 「アハ。それなら、もうなってるから大丈夫だね」  三人は声を上げて笑った。 *** 「さて、そろそろもういいだろう。改めて、僕のことを話させてくれ」  紅茶を飲み終えたジェレミーが、棚の中の人形を見たいと言うのを許可したあと、カーマインはゆっくりと組んでいた足を解いた。息をつきながら袖木に寄りかかりベンジャミンの顔を見る。  もはやその態度は完全にリラックスしている。まるで身内に対して話しているような口調だ。 「この際、君たちと僕が血のつながりがあるのかどうかといったことは脇に置いておこう。僕が君たちを招待したのは、何かの繋がりのようなものを感じたからだ」 「繋がり?」  触れたくない話題を避けてくれるのは、有難かった。ベンジャミンは静かに問い返した。 「文学的に言うなら“運命の糸”だ」 片目をつむってカーマイン。「要するに君たちの顔にピンと来たんだよ」 「ん、俺も感じたよ。なんかピンと来たね」  そう言われても……、と返事に窮しているベンジャミンの代わりにジェレミーが椅子に戻って来ながら言った。手にはロシア風の服装をした木彫の人形を持っている。  ジェレミーの手から、ごく自然に人形を取り返すカーマイン。 「僕が何の仕事をしているか知っているだろう?」 「王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)。月妖を見張る機関だと、さっき自分で言っていた」 「そうだ。こういった話はジャムの方が良いようだな」 「おい、気安く呼ぶなよ」 「その王立闇法廷なんだが」  カーマインは、ベンジャミンの抗議を全く意に介さず続けた。手にしていたロシア風人形をテーブルの上に丁寧に置く。 「この組織は、月妖が絡んでいる凶悪犯罪に対し、政府として対策に乗り出すために三ヶ月前に設立されたばかりなんだ」  彼は上品な仕草でカップの紅茶を手に取ると、一口飲んだ。 「確かに僕に与えられた権限は絶大でね。僕と、王立闇法廷の構成員には逮捕権と司法権を与えられている。説明しなくても分かるな? 問題を起こした対象をその場で裁いても構わんということだよ。法の外に生きる月妖たちであっても、国民であることには代わりはない。だから政府は、王立闇法廷を設立して、月妖を必要最低限の──オンボロで穴だらけの法の傘の下に入れてやろうと考えたのさ。だがな」  皮肉めいた言葉のあとには、ひょいと肩をすくめて見せる。 「僕たちは、今だに専用の法廷すら持っていない。中央刑事裁判所(オールドベイリー)を夜間だけ間借りしているんだよ。信じられるかい? とはいえ問題はそこではない。一番の問題は、優秀な人材が慢性的に不足しているということだ。仕事は危険を極めるし、行方不明になる者や任務から逃亡するものも珍しくない。最初に集めた100人強の構成員が、今や半数近くに落ちている。これは僕の予想を完全に上回っていたよ」  そこで言葉を止め、二人の兄弟を見る。 「さて、僕が何を言いたいか分かるんじゃないか。賢明なるベンジャミン?」  ジェレミーは兄の顔を横目で見た。ベンジャミンは紅茶のカップをソーサーに置き、だんだんと嫌そうな顔になっていく。 「待てよ」  チラと弟の顔を見る。 「俺たちは暇じゃない」 「時間については、君たちの余暇を使ってくれれば構わないと思っている」 「その余暇がないと言っているんだ」  さすがのジェレミーも話の流れがわかってきた。しかし彼は、別にいいんじゃないの? というように二人の顔を見比べている。 「断るのか?」 「断る」  愉快そうに余裕の笑みを浮かべながら尋ねるカーマインに、ベンジャミンははっきりと答えた。 「そうか。なら、アナ・モリィを拒絶してやる」 「エェッ!」  そこで驚いたように声を上げたのはジェレミーだ。 「アナ・モリィが僕を訪ねてきても、もう二度と会わない。手紙の返事も出さんぞ」 「そんな! さっきその話は脇に置いておくって……」 「ああ。だから今、手元に戻した」 「困るよ、カーミィ」 「困るなら、僕の仕事を手伝ってくれ」 「俺はいいよ」 「君だけじゃ駄目だ」  と、ゆっくりと視線を兄に戻す。ベンジャミンは歯軋りでもせんがばかりに相手の顔をにらみつけている。先ほど和んだ雰囲気は、すでに台無しだ。  この辺りになって、彼はようやく自分がどういった性格をした相手の家に招かれたのかを知った。王立闇法廷の事務総局長兼筆頭裁判官とは、なかなかどうしてこしゃくな男ではないか。 「それは脅迫か」 「そうとも言う」 「あんたがアナ・モリィの子供の父親だという証拠はない」 「確かに。証拠は無いな」  そう言い終えると、言葉を切り沈黙するカーマイン。ただ無言で、相手の顔を見ながら微笑んでいる。自分から続きを言う気はないのだ。しばらく相手の目を見ていたベンジャミンは、観念したように大きく息を吐いた。  憎々しげにカーマインに尋ねる。 「俺たちに報酬はあるのか?」 「シェリンガム家が滅びないで済む」 その言葉を聞いてベンジャミンが抗議しようとする前に軽く手を挙げて、「まあまあ、それだけじゃない。何でもいいから君たちの望みを言ってみろ。あのモリィの子孫なら金には困っていないだろう? 知りたいことがあればいくらでも教えてやろう」  ──知りたいこと?  視線を床に落とすベンジャミン。知りたいことならいくらでもある。しかしそれはカーマインのような男に聞いて良いこととはどうしても思えないのだ。 「ねえ、ジャム」  ジェレミーはジェレミーで、そんな風に物思いにふけった兄の横顔をじっと見つめていた。 「アイリーンのこと、聞いてみたら?」 「ジェル!」 小声だが叱咤するようにベンジャミンは言った。眉間に寄せた皺を撫ぜるようにして、下を向く。「その話はよせ」 「アイリーンとは誰のことだい?」  カーマインはそっと尋ねた。するとジェレミーが兄を指差し、小指をチョイと立てて見せた。兄は剣呑な目つきになって弟を睨むが、時すでに遅し。その前でカーマインは、ああと声を上げていた。 「恋人か」 「妻だよ」 「失踪したのか?」 「死んだんだよ」  ──死んだ。  その言葉を使うたび、ベンジャミンの心に痛みが走る。アイリーンが死んだと言うたびに彼女と離れていくような気がして、辛い気持ちになるのだ。 「それなら、なぜ探す必要が?」  とは言え、カーマインはそんな彼の心の内を知らずに、顔を伏せたままのベンジャミンに尋ねた。  ベンジャミンの脳裏に蘇るのは、夜空を駆けた黒衣の貴婦人の姿だ。黒ノ女王と名乗ったあの女性は一体何者なのだろう? それを知りたいとは思っていたが、このカーマインという男に聞くつもりはなかった。  自分たちが絞首台に送られる可能性は低くなった。しかしあの黒ノ女王もそうとは限らないのだ。ベンジャミンはここはシラを切ろうと決めた。 「あのね、ジャムはそっくりさんを見たんだよ」  しかしいきなり、ジェレミーが口を開いた。 「さっきの狼女、ナンシーって言うんだけど、彼女と戦ってたらその女の人が助けてくれたんだって」 「ジェェェェルゥゥ!」  ベンジャミンは弟を絞め殺したくなった。なぜ余計なことばかりベラベラと! 怒りのあまり片手でガッと首を捕まえ押さえつける。たまらず、苦しいヤメテヤメテと叫ぶジェレミー。 「何でお前はそうやってスグ喋っ……」 「よしたまえ」  まさにもう一方の手を添えてやろうとベンジャミンが手を挙げたとき、グッとステッキの先でカーマインがそれを弾いた。 「人が力になってやろうと言っているのに、見苦しいな君たちは。紳士らしく振舞えよ」 「力になってやるのは俺たちの方だろうが!」  ベンジャミンは弟の首から手を離し、顔を紅潮させながら続けた。 「警戒するのはもっともだが、少しは信用してくれ。身内だろう? ジャム」 「ベンジャミンだ!」 「誰か探しているのなら言ってみろ」  カーマインは両手を広げて、彼に続きを促した。涼しい顔である。 「──黒ノ女王と名乗っている貴婦人を探したいんだ」  もはや観念したように、ベンジャミンは言った。隠したところで、何だ。この男ならジェレミーを使うなりしてこの程度の情報ならいくらでも引き出してしまうだろう。 「探してどうする?」 「話をする」 「なぜ」 「アイリーンに瓜二つだからだ」  ふん、とカーマインは鼻を鳴らした。 「黒ノ女王か、いいね」 「知っているのか?」  その口調に、ベンジャミンは身体を起こした。 「要注意人物の一人だよ」 カーマインは淡々と話し始めた。「ああいう風に月妖を退治することを生業にしている連中のことを月狩人と言うんだが、彼女の場合は同業者ともほとんど付き合わないし、身元も分からず、意図も不明なんだ。ただ一つ分かっていることは、彼女は自分が戦った月妖をいつも確実に殺す。それも残酷にな」  そう言い終えて、パン、と彼は手を鳴らした。 「よし、いいだろう。決まりだ。ジェルはあの人狼を。ジャム、君は黒ノ女王のことを調べたまえ」  カーマインは打った手を合わせて揉みながら、まずはベンジャミンの顔を見た。 「君の報告次第で、彼女をどうするか決める。もし、君が捜査を嫌がるならそれでも構わんよ。その場合は僕の部下が、彼女を捕まえてニューゲイト監獄かベツレヘム癲狂院に収容するだけだ」 「何だと?」  ベンジャミンは歯を軋らせ、恐ろしい目つきで相手をにらみつけた。あの貴婦人に、死んだアイリーンにしか見えない黒ノ女王に危害を加えるつもりか。彼は怒りに拳を握り締め、ぶるぶると震わせた。  隣りでジェレミーが恐れをなしたように、そそ、と兄から数センチ離れた。 「それも脅迫か」 「違うよ。これは提案だよ」  何食わぬ顔をしてカーマイン。ベンジャミンの態度など歯牙にもかけないという様子で微笑みすら浮かべている。 「さあて、やるのか、やらないのか」    クソッ、とベンジャミンは吐き捨てた。 「そういったセリフは選択肢を用意してから言え!」   - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※フェビアン協会: 1884年にロンドンで設立された社会主義団体。ジョージ・バーナード・ショウや、ウェッブ夫妻などが所属していたことでも有名。イギリス労働党と現在でも密接なかかわりを持つ。ちょっと「変わり者」の中産階級の若い知識人集団とでも思っておいてください。 ※ガーディアン紙: 中道左派と言われる日刊新聞。現在でも労働党の機関紙かと言われることしばしば。日本だと……毎日新聞みたいな位置づけでしょうか。 ※ハロッズ: ロンドンにある高級百貨店。日本にもありますよ。 ※法廷弁護士: 要するに弁護士です。イギリスには二種類の弁護士が居て、裁判所における法廷弁論権を持つ法廷弁護士と、訴訟を行う権限を持つ事務弁護士というのがいるのです。あ、ちなみにモーツァルトみたいなかつら被ります。 ※ベツレヘム癲狂院: セント・メアリ・オヴ・ベツレヘムが正式名称。通称べドラム。ロンドンで一番大きな精神病院。 ────────────────────── Chapter:3-4 アウェーは白? 「貴方ともあろう人が!」  朝っぱらから聞く初老婦人の声は、頬を引っ叩かれたかのように、ベンジャミンの耳にガンガンと響いた。 「伝統あるシェリンガム家の当主たる貴方が、何たることを!」  場所はジェレミーの部屋。ソファに腰掛けているベンジャミンの目の前には、少し太り気味の初老の婦人が仁王立ちして、彼を見下ろし非難の叫びを上げ続けている。  朝だった。ヴィクトリア時代にトリップした夜の次の朝だ。  当のベンジャミンは、困り果て、そして申し訳なさそうな顔で婦人を見上げるだけで、言葉もない。 「おお、亡くなられたご両親や、姉に、わたくしは何と申し開きをすればよろしいのでしょう? 当主たる貴方が、警察官である貴方が薬物などに手を出すなどとは──」 「ボーモントさん、まあ、その……勘弁してくださいよ」  頭を掻きながら、ベンジャミンはようやく婦人に言った。 「何をどう勘弁するのです!?」  と激昂する婦人。ベンジャミンは、まあまあと彼女をうまくなだめようとする。その背後で、ジェレミーが窓を開け、わあ今日はよく晴れてるなどと声を上げているのが目に入った。  婦人の名前はオードリー=ボーモントといった。  ベンジャミンは彼女にマンションの鍵を渡しており、一週間に二度ほど来てもらって掃除や、食事の用意などを頼んでいた。要するに彼女は、ハウス・キーパーである。  そして同時に彼女は、彼ら二人の兄弟の両親と一緒に強盗に殺害されてしまった乳母のジョイス=リードの妹でもあった。ベンジャミンにとっては幼いころに世話になったジョイスに瓜二つのボーモント夫人は、まさに母親のような存在であった。  アイリーンが死んだ時。ベンジャミンはよく覚えていないのだが、叔父だか誰かがはからってくれて、ボーモント夫人はこのマンションにやってくるようになった。プロの家政婦たる彼女の仕事ぶりは磨き抜かれたもので、密林状態になっていたこの家を一週間で元の人が住める家に戻したのだった。  そんなわけで、数年前から彼女は毎週二回、せっせと定刻どおりにこのマンションにやってくるようになったのである。古めかしい価値観と、多大なるおせっかいを頭の中にパンパンに詰め込んで。 「ワザとじゃないんですよ。本当に」 スコットランドヤードのエリート警視とはいえど、“母親”に対する口調は一般人のそれと変わらない。「ジェレミーがバスルームにクスリ瓶を置いていたもんですから、それで僕が間違えて飲んでしまっただけなんです」  彼女が来る日を忘れていたことを。そして彼女が来る時間までジェレミーの部屋のソファで寝ていた自分の愚かさを呪いながらも、ベンジャミンは言葉の間隙をぬって応戦しようとした。 「では、なぜこの部屋のソファで横になっていたのです!? 貴方の部屋でなく」  ひるがえって、容赦ない追撃を加えるボーモント夫人。 「ジェレミーに、問い正そうとしたんです」  鋭いところを突いてくる、と汗ばみながらもベンジャミン。 「ここに来た途端、めまいがして──いやはや、ひどい目に遭いましたよ」  ふん……。と、納得できないような様子で鼻を鳴らすボーモント夫人。犯人に探りを入れるときのミス・マープル※のような顔つきで、ベンジャミンの目をしばらく見る。 「まあ、いいでしょう。貴方がそう言うのなら」  ふん。夫人はもう一度、鼻を鳴らし言った。ベンジャミンは内心ホッと胸をなでおろす。ボーモント夫人は、こうしたことにかけては何か強迫観念めいたものを持っていて、ベンジャミンを“正しい大人”にすることにかけて異様なほどの執念を持っているのである。もう彼が、すっかり大人になっているというのに。  それはそれとして、とにかく許してもらえて良かった。彼は心底ホッとして、シャツの第一ボタンを開きながら、やっと一息つくことができた。 「ジェレミー」  すると、ボーモント夫人は、打って変わって柔らかい口調になり、窓の方にいる弟を呼んだ。まるで歌うような声である。 「錠剤はわたくしが預かりますよ。さあ、朝ごはんを食べましょう。コンソメスープと炒り卵をいただきましょうね──貴方はソーセージもつけるんでしたわね?」 「うん」  跳ねるように飛んでくるジェレミー。  調子のいい奴め。内心で舌打ちするベンジャミン。普段ドラック三昧のジェレミーが怒られないのに、ちょっとドラッグを飲んで寝てしまっただけで、自分がこんなにもガミガミ言われることに理不尽さを覚える彼であった。  やれやれ。  どうも昨夜の睡眠は十分ではなかったようだった。  そんなことを思いながら、ベンジャミンはスコットランドヤード内のカフェに足を踏み入れた。時刻は12時10分。いわゆるランチタイムだ。カフェは何故だかいつもよりも人が多く、込み合っていた。  早朝からボーモント夫人の叱咤攻撃にさらされたとはいえ、彼はいつもの日と同じようにスコットランドヤードに出勤し、きちんと仕事をこなしていた。  ただ、どうにも気が乗らなかった。それは昨夜の出来事と無関係ではないのだろう。  ──あれは何だったのだろうか。  一息つけば、すぐにヴィクトリア時代のことが彼の脳裏を支配してしまう。  彼にとっては、あれがただの薬物トリップなのか、本当に過去に時間旅行なのかどうかは、正直言ってどうでも良かった。  自分は、アイリーンに似たあの“黒ノ女王(ブラッククイーン)”という貴婦人と、ただもっと話をしたいだけなのである。それなのに、何という巡り合わせか。王立闇法廷(ロイヤル・コート・オヴ・ダークネス)のカーマイン=アボットに道端で捕まってしまった。そのあげく、話を聞いてみれば彼が自分の曾々祖父らしいということまで判明してしまった。これはベンジャミンにとっては二重に衝撃的な事実であった。  ──決まりだ。ジェルはあの人狼を。ジャム、君は黒ノ女王のことを調べたまえ。  しかも、彼は非常にしたたかな男だった。まんまと言いくるめられてしまったベンジャミンとジェレミーは、王立闇法廷の仕事を手伝わされてしまうことになってしまった。  確かに、黒ノ女王を探したかったことは事実なのだから、利害は一致しているがしかし……。  あいつが気に食わん。  一言で言い表せば、それなのだ。  必ずや、あのカーマインの鼻を明かしてやる。奇妙な闘争心に駆られ、ベンジャミンは自分の計画をシミュレーションし直していた。  まずは、部下のクライヴに頼んで、徹底的にカーマイン=アボットのことを調べるつもりだった。よくよく考えてみればこちらの方が未来なのだから、ベンジャミンの方が有利なはずだ。弱みを見つけたら、お返しとばかりにつけ込んでやるつもりだった。  奴め。覚えていろ。  そんなことを思いながら、彼はカフェをぐるりと見回した。  店内は開放的な空間になっており、激務に追われる警察官たちが少しでもくつろぐことができるようにと、ありがたい配慮のされた作りになっている。しかし……。ベンジャミンはカウンターに並んだメニューを見ながら思う。そういったありがたい配慮は、メニューの味の方にこそ反映してもらいたいものだ。  注文をすると、厨房内の太った中年女性はポイと皿を食器洗い機の中に放り込んでから、色のない目で彼を見返した。そのまま彼女は、レタスのしなびた不味そうなサンドウィッチと、紙コップのミルクティーを無造作に彼のトレイに置いた。  ありがとう。そう言って、グリーンのトレイを手にしたまま振り返るベンジャミン。カフェ内をぐるりと見回して、どこの席に行こうかと思案したとき。その視線が窓際の席で止まった。  窓際の2人席で、仏頂面の男が一人。スパゲティを不味そうに食べているのを見つけたのである。  おや、と声に出したベンジャミン。次には口に微笑みを浮かべていた。  そのまま、彼はグリーンのトレイを手に持ったまま、まっすぐ窓際の男のところに歩いていった。  カフェに据え付けられた大きな液晶テレビの中では、白いユニフォームを着たサッカー選手たちが画面の中を所狭しと飛び回っていた。──ああ、そういえば今日はイングランド代表チームがベルリンに赴いてドイツ代表チームと親善試合をしているんだったな。ベンジャミンは国民的行事を今さらながらに思い出した。だからカフェ内にいつもより人が多いのだ。警察官とはいえ、試合の結果は皆、気になるのだ。それが人間というものである。  ドイツ代表のシュートが決まると、カフェ内の人間たちは、このナチ野郎が、などと警官が口にするには問題のある言葉を口々にテレビに向かって放っていた。 「レスター」  まるで第二次世界大戦中のような発言が飛び交う中、ベンジャミンは窓際のテーブルの前に立った。 「ここに座ってもいいかい?」  そこに座っていた人物は、ベンジャミンの部下、レスター=ゴールドスミス警部補だった。彼はゴールの瞬間を見るために上げていた顔をそのままベンジャミンの方へ向けた。  途端に、身構えるような色が黒い瞳に浮かぶ。  彼の答えを待たずにベンジャミンは、サンドウィッチの乗ったトレイをテーブルに置き、オレンジ色の椅子を引いて腰掛けた。  レスターはジロリとベンジャミンを見ると、何も言わずにまた背を丸めてパスタと格闘し始めた。どうやったらそんな色になるのかと思うぐらいドギツイ赤色のボロネーゼを、フォークで口に運んでいる。 「君の報告書を読んだよ。三年前のやつを」  声をかけると、レスターは面倒くさそうに顔を上げた。  無言だった。数秒間だけ上司の顔を見つめた“暴力刑事”は、首をひねってコキと鳴らしたあと、またパスタに視線を戻す。  ベンジャミンも表面がカサカサに乾いたサンドウィッチを一口かじって、その味を誤魔化すようにミルクティーをすすった。 「2003年9月28日の夜。ベルグレイヴィアの元ローリングス子爵邸で、君は強盗に入った男と対峙した。強盗は一人。そしてメイドを人質にしていた」  そう言いながら相手の様子を見るが、レスターの視線が行くのはパスタとテレビの試合だけである。彼は上司を無視しようと決めたようだった。構わずベンジャミンは話を続けた。 「強盗はメイドの首に噛み付いて、その血を吸い尽くすと、煙のように姿を変え天窓から逃げていった。そうだったな?」 「俺は休憩中だぞ」 するとレスターは顔を上げないまま、怒ったような声で言った。「メシ食ってるんだ。見りゃ分かるだろう?」 「UCBの仲間が駆けつけた時、君は満身創痍だった。銃の携帯を許可されていたのに、君は両手を負傷して一発も撃てなかった」 ベンジャミンはレスターの言葉を無視して続けた。「君は吸血鬼と戦ったのか?」 「何だって?」  レスターはフォークを置き、もう一度ベンジャミンを睨みつけた。それを見て、ベンジャミンはゆったりと微笑んだ。余裕の態度である。 「どうやって? 何を使って戦ったんだ?」 「あんた俺をからかってるのか」  濃い眉を寄せ、いかつい顔をさらに険しくするレスター。口の端についた赤いボロネーゼソースまでもが彼の怒りを代弁しているかのようだった。 「──俺は、物干し竿を使ったよ。洗濯ものを干すアレだよ」 しかしベンジャミンは穏やかな口調のままで続けた。「襲われた場所が路地裏だったんで、武器がそれしかなかったんだ」  レスターは目を瞬いた。 「何度か、竿で引っ叩いてみたんだが、全然効かなくてな」 「あんた──何と、戦った話をしてるんだ?」  口を開いた暴力刑事の声は抑えたものだった。彼は周囲にサッと視線をめぐらせる。少しだけ、その態度が変わっていた。 「殺人犯だよ」 とはいえ、ベンジャミンの方は全く調子を変えない。「あれは人狼(ワーウルフ)という言い方をするらしいな」 「ふん」  鼻を鳴らしたレスターは、急に立ち上がった。ねめつけるようにベンジャミンを見下ろした。 数秒後、彼は紙ナプキンを乱暴に手にとって口を拭いた。 「メシが不味くなったから、俺はもう戻る」 「そうか、悪かったな」  うなづきながらも微笑みを崩さないベンジャミン。元々こんなことで動じるようであれば部長など務まらない。 「……なあ、レスター」  窓の外から見える空は、どんよりと曇っている。それもいつものことだ。ベンジャミンは、もう一度、部下の名を呼んだ。  食べ残しのパスタの乗ったトレイを掴んで立ち去ろうとしていたレスターは、ちらとこちらを振り向いた。今だ探るような色を黒い瞳に浮かべて。 「以前から気になってたんだが。君は、誰か俳優に似てるって言われたことはないか? 何かの映画で君に似た俳優を見たことがあるような気がするんだが……」  そう言われると、レスターは奇妙なものでも見るような目つきになった。 「ヴィニー=ジョーンズ※じゃないのか?」 「──ビンゴ!」  ベンジャミンは、ひょいと身体を起こして、嬉しそうに言った。 「そうだよ、そうそう。ヴィニー=ジョーンズだ! 元ウィンブルドンFCの選手で、“ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ”※に出てたアイツだ。君、そっくりだぞ」 「よく、そう言われるんだ」  するとレスターは、微かに──ほんの少しだけ口の端に笑みを浮かべて見せた。ベンジャミンが笑みを返すと、彼は我に返ったように元のしかめ面に戻り、じゃあ、と言ってトレイを手にして去って行った。  ふうと息を付くベンジャミン。見送るレスターの背中は気のせいか、怒っているような様子には見えなかった。 「話って何だよ」  くちゃくちゃと、ガムを噛みながらクライヴは言った。  ベンジャミンが変な匂いのするタマゴサンドをミルクティーでムリヤリ胃に流しこんでから数分後。レスターと入れ替わりで彼の席に現れたのは、巡査部長のクライヴ=コルチェスターだ。太った身体を、ちんまりとしたオレンジの椅子にもたせかけ、銀縁の眼鏡の向こうから相変わらず陰気な色の瞳をこちらに向けている。 「俺に用がある時は、IPメッセンジャーを使えって言ったろ? 文字でやりとりした方が人に聞かれる心配も無いし、好都合だろ?」 「いや、このことは口頭で話した方がいいと思ったんだよ」  ベンジャミンは相手の目をじっと見ながら言った。  ランチタイムはまだ長いが、イングランド対ドイツの試合は残るところあと数分のようだった。彼がキョロキョロと周りを見回しても、カフェ内の人々はテレビに集中して腕を振り上げたり、唸ったりしていた。  よし。とベンジャミンは下唇を舐めた。これなら目立たない。 「あの、あれな。王立闇法廷。カーマイン=アボットのことだよ」 「ああ。それが?」  クライヴは眼鏡を直しながら問い返した。部下とは思えない横柄な態度は相変わらずだ。  実際のところ、ギーブス&ホークスで身を固めた上流紳士然したルックスのベンジャミンと、肥満体で容姿には全くと言っていいほど気遣いのないクライヴの姿は何とも目立つ組み合わせであった。しかし当のベンジャミンは国民的行事はそっちのけで、さらに身を乗り出した。 「書面あったろ? 業務委託の覚書」 「なんだよ、じれったいな。早く本題に入ってくれよ。俺だって人並みにイングランドが勝てるかどうかが気になってるんだ」 「試合結果なんかあとで分かるだろ。仕事中ならインターネットで見ればいい。何なら俺が許可するよ。そんなことより──」 と、言いながら声をひそめ、「俺があの書類を読めた理由が分かった」 「ハン?」   ベンジャミンの言葉に、クライヴはようやく眉を上げ、話題に興味を持ったようだった。 「アボットは俺の曾々祖父らしいんだよ、どうやら」 「マジかよ?」 「分かるか? クライヴ。アボットは、俺の爺さんの、そのまた爺さんってことらしいんだ」 「あんたの先祖ってことか?」 「そうなんだよ」  クライヴは眼鏡を直しながら、まじまじと上司の顔を見た。 「じゃあなんで、昨日の時点ですぐ分からなかったんだ? しかもあんたの家はずっと昔からシェリンガムだろ? あの、なんつったか、作家の──」 「アナ・モリィ=シェリンガムだ。俺の曾々祖母だよ」 「……っていうと、つまり?」 「カーマインと、俺の曾々祖母は非公式に交際をしてたらしい」 「ワォ。非公式ねえ」  そこでクライヴは、くく、といつもの調子で喉の奥で笑った。 「だから、あの業務委託書を読めたと、あんたはそういう論法で考えたいわけだな」 「そうだ」 「なるほどな。それも有りかもしれねえな」  クライヴはつぶやいて、その小さな瞳をさらに細めた。 「ところで、部長。何でそんなことが急に分かったんだい?」 「実は昨日、本人から……」    ワァァァ……ッ!  その時、カフェ内の観客たちが一斉に沸いた。MFのオーウェン=ハーグリーブスが、ゴール前の味方に決定的なキラーパスを放ったのだった。ボールを受け取ったのはFWのウェイン=ルーニーだ。小柄な彼はこの決定的なチャンスをモノにしようと、身を翻すようにしてドイツ代表チームのゴールにシュートを放つ。  白いボールが、突き破らんばかりにネットにめり込んだ。  さすがにその瞬間はベンジャミンもクライヴも画面に釘付けになった。画面には1−2の文字が出て、2の数字が黄色く点滅する。 「残り10分だ。この試合ウチらの勝ちだな」  落ち着いてからクライヴが言った。試合終了まで10分での追加点だ。確かにこの試合はイングランドの勝利に終わるだろう。と、ベンジャミンもそう思った。    おや?  ベンジャミンは、テレビ画面の中で抱き合うルーニーとハーグリーブスを見て思った。この試合はアウェーだよな? 連中はドイツに行ってるっていうのに。何で赤いユニフォームじゃないんだ? 「なあ、クライヴ」  最後に残ったミルクティーで喉を湿らせてからベンジャミンは言った。 「何で、イングランド代表は白いの着てるんだ。アウェーなら赤だろ?」 「なに?」  クライヴはくちゃくちゃと口を動かすのをやめて、ベンジャミンの顔を見た。 「あんた何寝ぼけてるんだ。イングランドはホームの時しか赤は着ない。そんなこと5才のガキでも知ってるぜ?」 「そ、そうだったか? ホームが白で、アウェーは赤じゃなかったか?」  相手に断言されてしまうとベンジャミンも自信がなくなってくる。しかし彼の常識と、クライヴの発言は真っ向から食い違っていた。……そして今放映しているテレビの画面も。 「あれ……あんた知らねえのか。初めてフットボールリーグが開催された時の、フーリガン乱入事件のこと。いわゆる世界初のフーリガンってやつかもしれねえが。あの有名な話を知らねえのか?」 「なんだそれ、初耳だよ」 「あんた意外にものを知らないんだな」  クライヴは諭すような口調になって続けた。 「いいか? フットボールリーグが始まったのは1888年。それこそヴィクトリア時代のことだ。リーグに不埒な若者が乱入して試合を一つ台無しにしたのさ。そいつが白いユニフォームを着てた。だから、イングランドは伝統的にホームタウンでは白を避けることになったんだよ」 「えっ」  彼は一瞬、自分の頭が真っ白になるような感覚を覚えた。 「よせよ、クライヴ。そんな冗談」 「冗談じゃない」 ぴしゃりとクライヴは言った。「俺が冗談なんか言ったことあったかよ?」  ベンジャミンの中で爆発的に嫌な想像が膨れ上がり、炸裂した。  白いユニフォーム──。1888年。世界最初のフーリガン。  そんなバカな。有り得ない。有り得ないぞ、ジャム。イングランドのアウェーは赤色のはずだ。赤だ、赤のはずだ。白なんて有り得ない。  そうだ、アレはただの薬物トリップのはずだ──! 「そいつの髪の色はブロンドか?」  自分の声が震えていることが分かった。 「そんなことは調べないと分からねえが──って、どうしたんだ? 顔が青いぜ?」  ガタン。  ベンジャミンは椅子を蹴倒して立ち上がっていた。 「クライヴ」  彼はそのままテレビ画面を食い入るように見つめながら言った。 「気分が悪い。今日はこのまま早退する」   - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※ミス・マープル: ミステリ作家アガサ・クリスティーの作品に登場する探偵役のオールドミス。血なまぐさい殺人事件もたちまち解決してしまう名探偵オバサンだが、話がくどい。 ※ヴィニー=ジョーンズ: 元サッカー選手の俳優。顔が怖いので悪役方面が多いようです。ショットガンをかつぐ姿が妙にサマになる。 ※ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ: 1999年のイギリスの犯罪映画。冬城カナエのバイブルの一つ。紹介レビュー(http://talkingrabbit.blog63.fc2.com/blog-entry-139.html) ────────────────────── Chapter:3-5 世界はパラダイム  まじまじとベンジャミンの顔を見つめた可憐な少女は、突然プッと吹き出した。そしてげらげらと笑い出す。身体をくの字に折って腹を抱え、少々品の無い声で笑い続けた。道を歩きながらで、ある。 「……何がおかしいんだ?」  夕方のハイドパークは、人通りはまばらである。ベンジャミンとレベッカは公園の中の道を二人で歩いていた。  隣りで大笑いしている少女の様子を見て、さすがの彼もムッとした様子で言い返した。  ちょっと気になっていたことを聞いただけなのに。こんなに大笑いされる筋合いもない、それが彼の言い分だ。 「だってさ、それ」  レベッカは──王立闇法廷の構成員にして、アボット家に仕えるメイドの豪腕少女は、クルとベンジャミンの方を向く。 「お前“ホモ野郎”って言われたんだよ、その売女に」 「何だって?」 途端に顔をしかめるベンジャミン。「マンドレイクってのは男色家のことなのか?」 「そうだよ」  レベッカはようやく笑うのをやめて、答えた。黙っていれば、すべすべした白い肌に綺麗な黒い瞳を持つ、人形のように可愛らしい少女なのに。その口から飛び出してくる単語は“ホモ野郎”だとか“売女(ビッチ)”だとか、全く彼女に似合わないものだ。 「他にもいろんな言い方あるけど、知りたいか?」  ベンジャミンはため息をついて、首を横に振った。最初にトリップした夜に、売春宿で聞いた耳慣れぬ言葉。その正体はひとまず分かった。まあ──大方想像通りだったわけだが。  あっそう、とレベッカは笑ってまた足早に歩き出した。目的地に向かって。 「じゃ急ぎなよ、マスターに会えなくても知らないよ」   さて、また状況を整理しなければならない。  なぜ、ベンジャミンがこの夕方という時間帯に1888年にまたトリップして、カーマインのメイドと一緒にハイドパークを歩いているのか。そして彼らは何をしに、ここにやって来たのか。  時は、ベンジャミンがランチタイムにサッカーの試合を見た数十分後にさかのぼる。 『……だって、面白そうな試合してたんだもん』  弟のジェレミーは受話器の向こうで、のんきな声を上げた。スコットランドヤードの目の前で拾ったタクシーの中。ベンジャミンが唾を飛ばすような勢いで、携帯電話に怒鳴り散らした数分後である。 「だからって、現地の試合に飛び入りすることないだろ! お前が試合を邪魔したことで──イングランドの代表チームのユニフォームの色が変わっちまったんだぞ」  そうベンジャミンが大声で言うと、じろり、とタクシーの運転手がバックミラーの中でこちらを見た。 『……大丈夫だよ。そのジャムの部下の人が物知りなだけじゃないの? 俺の友達たちにも聞いてみたけど、みんなアウェーのユニフォームが白い理由なんて知らなかったよ』 「本当か?」  咄嗟にベンジャミンは携帯電話から耳を離し、バックミラーを見て運転手の視線を捕まえた。ふと身を乗り出して、彼は運転席と客席を隔てている透明プラスチックの壁をコンコンと叩く。 「なあ、ちょっと、運転手さん。イングランド代表チームのユニフォームの話なんだけど」  タクシーの運転手は、突然話し掛けてきたベンジャミンを見て眉を潜めた。しかし当の本人はそんなことにはおかまいなしだ。 「連中がアウェーの時しか白いのを着ない理由、知ってるか?」 「知りませんよ」 即答である。「ご友人、何かのクイズ番組にでも出てるんですか?」 「本当か? 本当に知らない? 世界最古のフーリガンの話」 「……クイズ番組で、何か事件でも起こったんですか?」 疲れたように運転手は答え、会話を早く切りたいと言わんばかりに首を伸ばし前方を見た。「刑事さん。もうすぐ、そのスポーツ・バーに着きますよ」 「ああ、そう」  『……ねえ、ジャム。そんなことより聞いてよ。ユニフォーム交換しちゃったんだよ。ダービー・カウンティ※の選手と。スゴクない? ジャムにもあとでそのユニフォーム見せてあげるよ。なんてゆうかプレミアつくかも……』 「分かった。分かったから、いいなジェル、そこを動くな。絶対に動くなよ。もうすぐ着くから。──ああそうだ。それから例のクスリを用意しとけ。あのカーマイン・ファッキン・アボットにこのことを問い正さなきゃならんからな。お前は飲むなよ、絶対に飲むな。クスリを飲むのは今日は俺だけだ。お前が飲むと何をしでかすか分からんからな」  受話器の向こうで弟が興奮した様子で何か言っていた。が、ベンジャミンはさっさと通話を切った。バックミラーを見ると、運転手と目が合った。  運転手は一瞬だけ哀れそうな色を浮かべて、車を止めた。 「刑事さん、着きましたよ」 と、ベンジャミンから運賃を受け取りながら、彼は小声で付け加えるように言った。「安心してください。さっきの、わたしは聞かなかったことにしますから」  ──え、何が? と聞き返す前に。スコットランドヤードの警視はタクシーから追い出されていた。  ぽかんと口を開けて、ベンジャミンはタクシーが走り去っていくのを見送った。 「──マスターはクラウドっていう男に会いに行ってるんだよ」    古風なデザインのユニフォームは見たが、すぐにジェレミーに返した。ここはバーのトイレ。白い壁には“ここに電話して!”という文字と電話番号。二種類のクスリを飲み込むのに使うのは、ビールジョッキに入った生ぬるいスタウトだ。イングランド人なら、ビールは生ぬるいスタウトに決まってる。マーガレット=サッチャーだってそう言ってたぐらいだから、たぶんヴィクトリア時代だってビールは生ぬるかったに決まってる。そんなことを思いながら便器に腰掛けているベンジャミン。トリップするときは着く場所を選べるんだろうか。だんだんとゆらめくような気分を味わいながら、もう一口スタウトをごくり。アボット邸はメイフェア地区にあるのだが、このバーのあるソーホー地区にトリップしたとしたら歩くには少し遠い。待てよ、ヴィクトリア時代にバスはあるのだろうか……。 「──だから、マスターは、クラウドっていうオッサンに遭いに行ってて、ここには居ないんだよ。何、同じこと二回言わせてんだよ、このマヌケ」    トリップするときは場所を選べるようだった。それは小さな発見だった。ベンジャミンはアボット邸の目の前にいつの間にか立っていた。  息せききってアボット邸のドアを叩いたベンジャミンを出迎えたのは、黒髪のメイドだった。あの、最初にカーマインに出会ったときに一緒にいた少女、レベッカである。  夜は鎖を振り回していた彼女も、昼間は館の掃除などをしているらしい。彼女の手には無骨な鎖ではなく、ホウキが握られていた。  頭がハッキリしないまま質問をしたので、同じことを二回も聞いてしまったようだ。レベッカは綺麗な眉を寄せて不機嫌そうにベンジャミンの顔を見上げている。 「ごめん。君は俺のこと分かるかい?」 「昨日、マスターが連れてきた兄弟の、何にもできない方だろ?」  かなり直接的にズバリと、レベッカは目の前の人物を評した。ベンジャミンは少し傷ついたが、それを取り繕おうとは思わなかった。  そんなことよりも、今はすぐにでもカーマインに会いたいのだ。  歴史が変わってしまったことを、2006年のロンドンに起こってしまったことの意味を問いただしたいのだ。──そして、出来ればその修正方法も。 「クラウドってのは誰だ? どこにいる? 頼むよ、すぐにでもカーマインに会いたいんだ」  ふー、と長く息を吐くレベッカ。仕方ないね、と口に出して言う。 「クラウドってのは、よく分からないオッサンだよ。マスターは定期的にそいつを訪ねてるんだ。この時間ならハイドパークで物乞いしてるはずだ」 「物乞い!?」  なぜカーマインがわざわざ公園の物乞いに遭いに行くのかさっぱり分からなかったが、とにかくベンジャミンは彼にすぐにでも会って話をしたかった。 「ハイドパークのどの辺にいるんだ? 池の方か、宮殿の方か?」 「チッ、仕方ないね。いいよ。連れてってやるよ」  詳しいことを聞こうとしたら、レベッカは意外にも案内を申し出てくれた。え、いいの? と言うと、彼女は何食わぬ顔でうなづいた。 「あたしは新人には優しいんだ。……ちょっと待ってな」  笑顔も浮かべずにそう言うと、レベッカはそそくさと奥に引っ込んだ。奥で誰かと話している声が聞こえてくる。──今お越しになったお客様が、旦那様にお会いになりたいとおっしゃっているので、わたしがハイドパークまでお連れしようかと思います。つきましては、玄関の掃除についてなのですけれど──。  ああ、なるほど。  すぐに戻ってきたレベッカを迎えて、ベンジャミンは苦笑いした。  そんなわけで、ベンジャミンとレベッカは夕方のハイドパークを二人肩を並べて歩いていた。  会話が無いのも何かと気まずいと思い、ベンジャミンは彼女に“マンドレイク野郎”の意味を尋ねてみたのだ。結果、無愛想だった彼女は、とたんに大笑いして教えてくれた。  少々不愉快な思いをしたものの、その会話のおかげで、彼女は前よりもベンジャミンを身近に感じてくれるようになったようだった。お前、いくつなの? とか、100年後ってどんな感じになってんの? だとか、他愛のない質問をしてくるようになった。  ベンジャミンは彼女の質問に丁寧に答えてやった。彼女はなぜか、二人の年齢を正確に知りたがった。 「ふぅん、弟とは13才も離れてんのか」 「ああ。だから子供のころはあまり接点がなくってね」 「へええ、兄弟ってのはそういうモンなのかね──って、あ、アブねッ」  と、その時いきなりレベッカは目を見開いて、ベンジャミンの腕を引いて後ろに引き戻した。 「な、何!?」  少女と思えない強力で引かれ、驚いた彼の目の前をヒュッ。何か白く丸いものがよぎった。何だ? とその物体を目で追うと、それは放物円を描いて芝生の上に落ち、ころころと転がっていった。  ──ゴルフボール、だった。 「危ないじゃないか!?」  突然の災難に、ベンジャミンは声を荒げて、ボールの飛んできた方向に身体を向けた。  人が歩いているというのにゴルフの練習をするなんて、危ないにもほどがある。せめて人が居ない方向にボールを飛ばすべきではないか。  10メートルほど向こうに、身なりの良い老紳士がクラブを持ち立っていた。こちらを見ると、何食わぬ顔でまた新しいボールを芝生にセットしている。ベンジャミンの言葉が聞こえている様子は全くない。 「おい、聞こえてるのか!?」 「よせって」  腕を掴んだままのレベッカが、そのままもう一度ぐいと彼の腕を引いた。 「ほっとけよ。あたしも、思わず腕引いちまったけど、よくよく考えりゃあアイツの打ったボールなら、飛んできたって当たるわけねえし」 「何?」  少女の不可解な発言に、ベンジャミンはその顔をまじまじと見下ろした。ボールが当たらないとは一体どういう意味だ? と、彼が思った時だった。  カン! いい音をさせて白いボールが飛んできた。ゴルフボールはベンジャミンの目の前でレベッカの横顔にぶつかったと思いきや、そのまま飛んでいき、地面に落ちた。  まるで、レベッカがそこに存在しないかのように、ボールが彼女をすり抜けて飛んでいったのだ。 「えっ、ええッ!?」 驚いたのはベンジャミンだ。「ボ、ボールが、すり抜け……」 「バァカ、なに驚いてんだよ。あんなパンピーのボールがあたしらに当たるわけねえだろ」 「どうして?」  彼には、今の現象が全く理解できなかった。なぜ、ゴルフボールがレベッカをすり抜けたのか。しかし、彼女の方は彼女の方で、ベンジャミンが混乱している理由が分からないようだった。 「何だよ、お前、月妖(ルナー)だろ? 自覚ねえの?」 「俺も月妖?」 「そうだよ。だから、あのオッサンには、お前もあたしも見えてないんだよ」 「見えてない?」  ますます理解不能になってきた。ベンジャミンはこめかみに手を当てた。 「それは一体どういうことなんだ?」 「それは──」  レベッカが何か言おうとした。 「つまり、あの紳士の世界に、君たちが存在しえないということさ」    その時、ふいに脇から聞こえてきた男性の声。  ギョッとしたベンジャミンは周りを見回した。一体誰が声を発したのか、慌てて探すと──居た。前方の椎の木の下に男が一人座っており、その背中が見えていた。  襤褸(ぼろ)を着ているところを見ると、浮浪者のたぐいなのだろうが……。本当に、彼が今の言葉を発したのか? 「あ」  レベッカが口をぽかんと開ける。何? とベンジャミンが小声で訪ねると、彼女が答えた。  あれが、クラウドのオッサンだ、と。 「アボット卿は帰ったが、彼に君のことを聞いたよ。ベンジャミン=シェリンガム君」  横顔を見せ、浮浪者は朗々たる声で言った。 「こっちへ来たまえ。一緒に話をしよう」  その口調には溢れんばかりの知性と品格が備わっていた。外見はともかくとして、一角(ひとかど)の人物であることは明らかだった。  相手の雰囲気から一瞬にしてそれを見抜いたベンジャミンは、思わず襟を正した。そして、ゆっくりと彼──クラウドの方へと向かった。  クラウドは木の根元のところに座っていた。手にした古新聞を膝に置き、ベンジャミンを見上げた。初めて目が合う。 白髪の混じった短い髪。よくよく見ると六十才手前くらいの初老の男だった。目はくすんだグリーン。冬の公園のくすんだ芝生の色をそのまま映しているようだった。 短い間。男は、かすかに微笑んだ。 「私はクラウドと名乗っている者だ」  言いながら、彼はベンジャミンに芝生に座るように促した。ベンジャミンはカーマインを探していたことを忘れ、素直にその場に腰を下ろした。そして自分からも礼儀正しく、きちんと名乗った。 「ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムです」 「知っているよ。アボット卿から君のことを託されたばかりだ」 「──託された?」  クラウドはニッコリ微笑んだが、その問いには答えなかった。所在無さげに立っていたレベッカにも手招きをして、やはり近くの芝生に座るよう促した。さすがの彼女も逆らわず、おとなしく芝生に腰掛ける。  それを見てから、クラウドはまたベンジャミンに視線を戻した。 「ベンジャミン。君は道端に落ちている石を気に掛けることがあるかい?」 「……え?」  突然の質問にまごつくベンジャミン。 「同じさ」  クラウドは構わず、ゴルフの練習にいそしむ老紳士の方を見やる。涼しい視線だ。 「彼にとって君の存在は、君にとっての道端の石と同じなんだ。──取るに足らない。どうでもいい。自分とは関係のないことなんだ」 と、視線をベンジャミンに戻し、「だから、彼にとって君は存在しないのと同じこと。彼と君の世界は重なり合ってはいるが交差しない。多次元的世界(パラダイム)にあるのさ」  ベンジャミンは眉をひそめた。彼の言っていることが理解できなかったのだ。 「失礼。貴方の言っている話の意味がよく分かりません」 「そうか」  クラウドは破顔した。 「すまないね。私は、このお嬢さんにゴルフボールが当たらなかった理由を説明しようと思ったんだよ」 「いえ、こちらこそ申し訳ありません」 真っ直ぐに相手を見つめるベンジャミン。「私は、まだこの時代に不慣れなものですから。理解力のない私にも分かるように、お話していただければと思ったのです」 「君は、誠実な男だな。気に入ったよ」  初老の男は笑みを浮かべたまま、視線を広場の噴水の方へとやった。 「あのアボット卿とベルフォード男爵夫人の子孫なら、それも当然うなづけるがね」  ベンジャミンは微かに顔をしかめた。ベルフォード男爵夫人というのはアナ・モリィ=シェリンガムのことである。そう言われると、どういう顔をしてよいか分からない。  クラウドは彼の様子を見て、声に出して笑った。 「そんな顔をするな。彼らはとても似合いの二人だぞ。──さて」  彼は居住まいを直し、きちんとベンジャミンの方を向き直った。 「では君に、この世界の摂理を教えてあげよう」   ***  太陽はいつでも照っているわけではない。知ってのとおり、太陽が隠れれば昼は夜に変わる。  都会の人間は「時間が経過した」ことで、地球が自転し、夜になると理解している。ある意味これは当然のことだ。  しかし、アフリカのとある民族の解釈は違う。彼らは、昼と夜が交互にくることを、自分たちの存在している場所が変わったと解釈しているのだ。彼らは、時間の経過によって昼と夜が切り替わるのではなく、「昼」という場所と「夜」という場所を自分たちが行き来しているのだと信じているのである。 ***  また、古代ギリシアの哲学者ゼノンは「飛んでいる矢は静止している」と言った。いわゆる有名なゼノンのパラドックスである。飛んでいる矢は、瞬間をとらえれば静止している。矢は静止の連続で飛んでいるように見えるだけである。ゆえに実際には矢は静止していると、彼は主張したのだ。 ***  こういったことと同じなんだよ。と、クラウドは言った。  彼曰く、実際にはこの世界に“時間”は存在しないのだそうだ。時間の代わりに存在するのは無限に重なり合う世界──“次元”である。この細切れにされた“次元”が無限に連なって、時の流れを作っているだけなのである。  そしてそういった次元を意識し、感じるのは知覚者たる人間である。それぞれの個人が感じ、知覚している世界が無限に重なり合っているのが、この多次元的世界(パラダイム)なのだという。    つまり、ゴルフの練習をしていた老紳士の知覚する世界の範囲には月妖は存在しない。だから彼は吸血鬼に襲われることもないし、舞台や三文小説で吸血鬼に襲われる人間を見て、おお怖いと肩をすくめるだけで済む。  反対に、ベンジャミンのような異なる時代からやってきた存在も同じなのである。彼が知覚している世界にも、あの老紳士は存在しないのだ。  だから、老紳士とベンジャミンは互いに干渉しあうことが出来ない。ゴルフボールも当たらないし、ベンジャミンが彼に触れたとしても、すり抜けてしまうのだそうだ。  しかし実際には、このように全く干渉できないという関係の方が珍しい。  個人個人は、それぞれの世界の一部分を共有していることがほとんどなのだという。家族や恋人であれば、たくさんの共通認識を持つのだと聞けばうなづける事象である。個人の世界は、その人物自身の体験や思いにより形成されるのだ。 「すなわち、吸血鬼の存在を信じる人間が多いから、この世界に吸血鬼が実在するわけだよ」  クラウドは、厳かにそう結んだ。 「そして、彼らは実際に強力な力を持っている。……そういう風に、信じられているからね」 「お聞きしたいことがあります」  恐る恐る、ベンジャミンは言った。  何だね、と相手が自分に目を向けるのを待って、彼は疑問を口にする。 「あそこでゴルフの練習をしている男性と私が、存在している世界が一致しないから、お互い干渉できないということは理解できました。しかし、なぜ私は彼の姿を見ることができるのに、彼は私の姿を見ることができないのですか?」 「いい質問だね」  初老の男は、ゆったりと腕を組む。どうも静かだと思ったら、彼の向こう側でレベッカが木の幹を背にして、すやすやと居眠りをしているのが見えた。 「それは、光の見え方の現象と同じなんだよ。あの老紳士が“光”で、君が“闇”だ。……夜間に、外の暗がりから明るい窓を見ると中の様子がよく分かるだろう? しかし、その明るい部屋の中からは外の暗闇は伺い知れない。それと同じさ。世界の核に近い方からは、核から遠い──君や、私のような存在は“希薄”だから、うまく認識できないのだよ」 「なるほど、分かりました」  ベンジャミンはクラウドの答えに納得して、頷いた。正直言って、分かったような分からないような気分だったのだが、こういったことには馴れて、感じとるしかないのかと思ったのだった。 「さて、それを君が理解したのなら、お次は、君が飲んだという薬の話だ」 「え? あの薬のことまでご存知なのですか?」  慌ててベンジャミンは、身体を起こした。恐らくクラウドは、カーマインに“自分の子孫にいろいろ教えてやってくれ”と頼まれたのだろうが、あの薬のことまで話題に上がるとは。  一体、この男が何を知っているというのか。  俄然、興味が沸いてベンジャミンは身を乗り出した。あの薬なら、何錠かずつ持っているはずだ。彼はごそごそとポケットに手を入れ薬を出そうとする。 「……少し待ってください。何錠か今、持っています」 「出さなくていいよ」 苦笑してクラウド。「私は、ちょっとした推測から、一言君に注意をしてあげようと思っただけだ。私だって、その薬のことはよく分からないんだ。むしろアボット卿の方が専門だろう」 「カーマインが? 何故です?」 「知らないのかい。彼は神秘魔術家(オカルティスト)だぞ。法廷弁護士(パリスター)にして神秘魔術家という、世にも奇妙な才能の持ち主が、君の祖先だ」  そう言われて、ベンジャミンは最初にカーマインに会ったときに、彼が魔術の知識がどうのと言っていたことを思い出した。とはいえ、オカルトと言われて彼が咄嗟に思い出したのは、暗い部屋で霊媒師と称する女が、口から何か妙な白い物体を吐き出している写真ぐらいだったが。 「──まあ、それはともかく、その薬のことなんだがね。だいたいのところはアボット卿から聞いたよ。君と、君の弟は、その薬を飲んでこの1888年に具現化しているのだそうだが、それに間違いはないかね?」  構わず、クラウドは話を続けた。ベンジャミンがうなづくと、ふむ、と一言。 「その薬を、君一人で飲まない方がいいと、私は思う」 「……と、言いますと?」 「弟と行動を共にした方がいい」  ベンジャミンは首をかしげた。それは何故と、訪ねようとすると、先手を打つようにクラウドが言った。 「弟と、離れ離れになりたくないだろう?」 「どういうことですか」  クラウドは少し間をおいて、未来からの来訪者(ビジター)を見つめた。 「君たちは、その薬を飲むたびに新しい異次元に移動(シフト)しているんだよ。……いや、越境(オルタネイト)していると言い換えた方が正確だな。決して、1888年と2006年を行き来しているわけではないのだよ」 一度、言葉を切って、「……つまり君は、2006年αから1888年αに行き、1888年αから2006年βに越境しているのだ。元のαの世界に戻っているわけではない。君は、薬を飲むたびに新しい次元に飛んでいるということなのだよ」  その言葉に驚いて、ベンジャミンはすぐさま質問を返した。 「と言うことは、今、この薬の効果時間が切れて、2006年に戻ったらジェレミーに遭えないということですか?」 「いや、そうとまでは言わない。しかし、無数に重なり合う次元のうちどれかに行くわけだから、何かが少しだけ違っていることが大いに有り得る。例えば、弟がこの1888年のことを知らなかったりするかもしれない」    何かが少しずつ違った世界。  一緒に薬を飲まないと認識のズレが生じる。  ──アッ!  ベンジャミンは、あることに思い至って、声を上げた。霧が晴れたように、今までクラウドから聞いたことが理解できたのだ。 「わ、分かりました! やっと貴方の言っていることが分かりました」  息せききってベンジャミン。 「イングランドのオフィシャルチームのアウェーのユニフォームが“赤い”世界と、ユニフォームが“白い”世界が同時に存在するのですね。それで、私や弟は薬を飲むことによって、ユニフォームが赤の世界から、白の世界に来てしまったというわけなんですね?」  クラウドはうなづいた。 「薬を飲むだけではなくて、君たちが何をしたかということも影響するはずだよ」 「ああ──そうなんです。弟はフットボールの試合に乱入して、それで目立ってしまったようなんです、だから2006年でユニフォームの色が白に」 「ふむ。君たちは来訪者(ビジター)で、月妖だから、知覚できる人間は少ないはずなのだけどね」 「戻れるんですか? ユニフォームが赤の世界に」  ふと、ベンジャミンは尋ね──ふるふると自分で首を振った。 「──いや、愚問でした。戻れないのですね。だから、弟と行動をともにした方がいいと、貴方はおっしゃってくれたのですよね」 「そうとも言い切れないよ、ベンジャミン」  空を見上げ、初老の男は優しく言った。夕焼けはとうに消え、そろそろ夜の帳が下りてくるころだ。ランプが必要になる時間である。 「この世界が無限に重なり合った次元で構成されているように、可能性も無限だからね。多次元的世界(パラダイム)を形作る原動力は、可能性に他ならない。何が起こるかなんて誰にも分からないのさ」  そう言い終えて。さて、とクラウドは居住まいを直す。 「もうそろそろ夜が来る。私も他に用事があるからね。君にアレを教えてから、失礼するとしよう」 「??」 「──言霊術(スペルキャスティング)だよ」 「呪文、ですか?」  きょとんとしてベンジャミン。薄暗くなる中で、相手の顔をまじまじと見つめる。また今度は一体何を言い出すのやら、と、不思議そうな表情を浮かべた。  それを見て、クラウドはため息をついたようだった。おもむろに左手を上げて、手のひらをベンジャミンに見えるように開いてみせる。  そこには、鳥が羽ばたくような紋章の刺青があった。 「これは……あッ!」  ベンジャミンは、それが自分の胸にある刺青と──アイリーンが入れてくれた刺青と同種のものであると気付いて声を上げた。  理由は無かった。形も色も違う刺青だというのに。ベンジャミンは何故か、それが何か同じ種類のものだということに気付いたのだった。 「君も、こういった刺青を入れているんだろ」 「はい」 素直に彼はうなづいた。「妻が、左胸に入れてくれたんです。これを入れていると、災難に遭わないお守りになるんだと言っていて」 「君の奥方は、どんな職業を?」 「医師です」 「なるほど」 クラウドは左手を見せるのをやめて、かぶりを振った。「奥方は、私のように言霊術師(スペルキャスター)の家系の出身なのだろうな。君が暮らす世界では言霊術(スペルキャスティング)が廃れ、刺青の神秘性だけが残ったのだろう。──複雑な気分だよ」 と、彼は気を取り直したように顔を上げ、「いいかね、ベンジャミン。その刺青はお守りではない。“力源(パワー・ソース)”と言って、魔術を使うために編み出された特殊な刺青なんだよ」 「魔術、ですか?」  またもや、ベンジャミンの脳裏を、先ほどの口から白い物体を吐き出す女性の像がよぎる。 「アボット卿が使うような神秘魔術とは少し趣きの違うものだよ。言うなれば即興魔術、かな。……ほら、こうして使うんだ」  と、言い終えたクラウドの左手がポゥッと光った。驚いてベンジャミンは目をみはる。何も手にしていないのに、手が光っている。 「これは?」 「そんなに驚くな。君にだってすぐに出来る」  笑顔になったクラウドは、片目をつむってみせる。  そういえば弟ジェレミーも、何もないところから銃を取り出したりできる。あれに似たようなものなのだろうか。ベンジャミンは半信半疑で、クラウドの顔と、光っている手を交互に見た。  するとクラウドはパッと光を消し、尋ねてきた。 「──そういえばアボット卿から聞いたが、君は“黒ノ女王”のことを調査しているのだったな」 「! そ、そうです」  とにかくこの男の口からはベンジャミンをドキリとさせる言葉ばかり飛び出てくる。アイリーンの話が出たらと思ったら、次は彼女の瓜二つの謎の貴婦人“黒ノ女王”の話である。  ベンジャミンは彼女の顔を思い浮かべながら、うなづいた。 「人探しだな。それなら、まずは、風の読み方を教えてあげよう。私が得意なのは“風”と“水”を操ることなのでね。風を感じ、風を読み、風に溶け、風を操る……。君ならそう難しいことではないだろうさ」    刺青が魔術用のもので、自分に素質がある?  ベンジャミンには、もう何がなんだか分からなかった。しかし彼は信じることにした。  アイリーンとしか思えないようなあの貴婦人に会うために魔術が必要であるならば。  魔術を覚えることで、彼女に早く会えるのであれば。   「よろしくお願いします」    公園が闇に覆われるその時。ベンジャミンは、目の前の男に頭を下げていた。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※ダービー・カウンティ: ダービー市に本拠地を置くフットボールチーム。世界最初のフットボールリーグに参加したチームのうちの一つ ────────────────────── Chapter:3-6 ジェレミーの独白  古い古い、錆びた鉄柵の鍵を自ら開けてカーマインは振り返り言った。  ああ、そうそう。ジェル。僕のことはCCと呼びたまえ。   月に照らされた夜。ジェレミーは廃墟じみた屋敷の門前に立っている。隣りにはカーマインと、彼に仕えるメイドの少女レベッカがいた。  カーマインが振り返って、身体を戻したところを見ると、これは俺が先頭に立って進むべきなのかな。ジェレミーはそう思い、錆びた鉄柵をギイギイと音をさせてゆっくり開けた。 「入るよ」  彼が鉄柵を開けて侵入すると、カーマインとレベッカもついてきて、すぐにジェレミーの両脇を歩き出す。 「あれ、CC。あんたは帰らないの?」  さっそく、本人に推奨された呼び名を使ってみるジェレミー。青年紳士は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。 「いいぞ、君は素直だ。さっそく僕のことを愛称で呼んでくれたな。──僕は、入口まで付き合って、そのあとは消えるよ」 「……だよね」 ジェレミーはうなづいた。「CC、ケンカとかあんまり強そうじゃないし」 「まあ、そういうことだ」  目前には、使われていない廃墟の屋敷がそびえ立っている。窓は割れ、明かりは一つもついていない。ここが放置されてから数年が経っているのだろう。手入れをされていない雑草だらけの草むらを10メートルほど歩けば、重い扉のついた玄関にたどり着ける。  レベッカは、カーマインがいるとなぜか借りてきた猫のようにおとなしい。必要が無いとあれば一言も喋ろうとせず、黙々と歩いていた。 「この館は、ノーフォーク公爵ヘンリー=フィッツアラン・ハワード卿の持ち物だ」  チャラ、と手の中で鍵の束を揺らして。カーマインは、やんごとなき人物の名前を口にした。 「分かるな? 鍵を手に入れるのにも少し苦労した。あまり派手なことは、しないでくれよ」 「んー。それは分かるけどさ。ナンシーが、暴れちゃったらどうするの」 「何とかして捕獲したまえ。それが君の仕事だ」 「死んじゃマズいって言ってたよね」 「死人では法廷に立てないからな。──ジェル」  ふと、カーマインは足を止めてポケットから何かを取り出してジェレミーに見せた。手の平に乗ったそれは銀色の弾だった。へぇ、と彼が声を上げると、弾は呼応するようにキラりと光る。 「銀の弾丸だ。これを使うといい」 カーマインは子孫の手にそれを押し付け、「6発ある。4発で勝負をつけろ。2発は予備だ」 「4発?」 「手足を撃ち抜くんだ。大抵の人狼は驚異的な再生能力を持つが、その銀の弾の威力であれば、しばらくは身動きできなくなる。あとはレベッカに任せろ。彼女が人狼に鎖をかけて拘束する」 「はは、なるほどねー」  あくまであっけらかんとした様子で、ジェレミーはもらった銀の弾を、どこからともなく取り出したリボルバーに一つずつ装填した。 「じゃあ、ナンシーに腕が4本あったら予備なしだね」 「そうだな」  カーマインもニッと笑う。3人は再度歩き出した。  ベンジャミンが追っていた殺人犯、ナンシー=ディクソン──人狼(ワーウルフ)になった女の行方が分かったのは、あれから二日後だった。  このロンドンの月妖の生き方たる“大魔都の作法(グレート・バビロンズ・スタイル)”を分かっていない人狼が一匹、現れた。……そういった噂が、月妖の世界の中で広まるまでには一日とかからなかった。  カーマイン曰く、このロンドンでは堂々と人殺しをするような月妖の方が珍しいのだという。  何しろ殺しは目立つ。警察が動くのはもちろんのこと、月狩人(ムーン・ハンター)たちが動き出してしまうからだ。彼らは殺人者を嗅ぎ付ける嗅覚と、それに物理的な制裁を加える力に長けている。しかもロンドン中には様々な秘密結社が存在し、人数も多いときている。  つまり、月妖(ルナー)にとって殺人は“足のつく危険な行為”なのである。  殺さない程度に人間から生き血や精力を吸い取り、闇の中でひっそり生きる──。それがヴィクトリア時代の月妖のスタンダードな生き方らしい。それが“大魔都の作法(グレート・バビロンズ・スタイル)”というわけだ。  月妖といえど、ある程度の秩序の中で暮らしているのさ。と、カーマインは結ぶ。  だから、無差別に殺人行為を行う月妖は仲間からも見捨てられる。ときには、王立闇法廷(ロイヤルコート・オブ・ダークネス)に、殺人を犯した吸血鬼を捕らえて欲しいと、吸血鬼から告発が入ることもあるそうだ。  例えば、今回のナンシーのケースのように。  ……ナンシーは昨日、路上でごろつきを一人殺害した。その様子を何人もの月妖が目撃している。そして彼女がどこに逃げこんだのかということも。  以上のような事情で、ジェレミーはノーフォーク公の私邸だった廃墟で、初仕事に挑もうとしている。兄のベンジャミンは修行だか何かの用事で、ここ二日ほど別行動をしていた。 「なんか似てるんだよね」  長く伸びた雑草を踏みつけながら、ジェレミーはぽつりと言った。  何がだい? とカーマインが尋ねると、青年は顎で屋敷を指し示した。 「俺らが子どもの時に住んでた、あの家に似てる」 「ああ。つまりアナ・モリィが今住んでいる邸宅のことだな」  カーマインは、ひょうひょうと答える。 「そう。今はオールドグロスター通りのマンションに住んでるから、俺も1、2回ぐらいしか行ったことないんだけどね。……って、あれ? CCは行ったことないの?」 「僕はないよ」 その声にはこれからの大捕り物を予想させるような緊迫感は微塵もない。「前に言わなかったか? 毎晩、彼女の方が僕の寝室にやって来るのさ」 「寝室?」 「彼女は君と同じ“夢魔(ナイトメア)”だからな」 「何それ、意味分かんないよ」  チラ、とカーマインは何か含みのある笑みを浮かべながら、隣りのジェレミーの顔を見た。 「うん、まあ、安心したまえ。まだ彼女と行為に及んだことはないから」 「え!? ちょっと何の話してんの?」 「モリィは僕をぎゃふんと言わせたくて、毎晩僕の寝室に忍び込んでくるのさ」  ギョッとするジェレミー。しかしそれを気にする様子もなく、カーマインは続けた。 「君のご先祖様は少々悪戯が過ぎてたんでね。それで僕が直々に魔術で懲らしめてやったことがあるんだよ。半年前ぐらいの話なんだが、彼女は今だにそれを根に持ってるようでね」  青年紳士はそう言うと視線を前に戻したが、横顔はほころんだままであった。まるで、少年がどこか野山に遊びに行ったときの思い出を話しているような、そんな口調だった。 「……彼女は、僕にひどい悪夢を見せてやろうとしていたらしいんだが。毎晩、遊んでやっていたら、どうやら諦めたらしくてね。……ああ、僕が彼女の小説を褒めたからかな? 理由は分からんが、とにかく最近はずいぶんしおらしくて可愛くなってきたよ。いつも二人で遅いティータイムを楽しんでるんだ。彼女の連載小説の話をしたり、政治や経済、植民地政策の話などをしたりな。いや、本当に──」  と、そこで彼は言葉を切り、夜空を見上げた。 「モリィは、政治や文学の話なら、並の男じゃ太刀打ちできないほどの才女なんだがね。こと恋愛にかけては全く経験がないようなんだよ。つい昨日、馬車の中でキスしたら、それだけで怯えて震えてたからな。あの様子からすると、彼女は確実に処──」 「あー、やめてやめて」 慌ててジェレミーは大声を上げて、先祖の言葉をシャットダウンした。「生々しいからそれ。さすがの俺でもいたたまれなくなるよ」 「そうか? 自分のルーツに関する話じゃないか」 「だからってさー。なんてえの? もう、頑張ってくださいしか言えないよ俺」  思わず赤面しながら、手持ち無沙汰になったのか。ジェレミーは手にした銃の調子を確かめるように弾倉のチェックをし始めた。  ザザァッと、風が吹き庭の木々を揺らした。館のドアまではまだ距離がある。 「なら、少し話を戻してもいいか?」  カーマインの方は、何ら変わらない様子で、動揺もしていない。いつものようにステッキをつきながら、左足を引き摺るようにして歩きながら言う。 「君とジャムは、どうしてモリィの邸宅に住まずに、ロンドンに別の家を買ったんだ? そんなに遠い距離でもあるまいに」 「あ、そうか。この話をCCは知らないんだね」  手にした銃をカシャン。手馴れた手つきで調整すると、ジェレミーはそれを背中のベルトのところにグッと挟み込む。 「俺たちの両親は二人とも、あの家に押し入ってきた強盗に殺されちゃったんだ」  そう聞くと、王立闇法廷のトップは顔から微笑みを消した。 「俺はまだ3才だったけど、ジャムは16才でしょ? ジャムは俺といっしょにタンスの中に隠れたんだよね。そこで息を潜めて、じっとしてて……俺たちは二人は助かったってわけ」  黙っていたレベッカも、ちらりとジェレミーの顔を見上げた。話に興味を持った様子で、目をパチパチやっている。 「タンスのすぐ外でね……その、ママが強盗にメチャクチャに刺されてたんだ。強盗のうちの一人がとんでもないサイコ野郎でさ、そいつはママが死ぬまで何分間もママを刺し続けたんだよ。でも、ジャムはママの悲鳴を俺に聞かせないように、ずっと俺の頭を抱きしめてて、耳をふさいでいてくれたんだ。だから」  ゆっくり息を吐いて、ジェレミー。 「分かるでしょ。ジャムはあの家に住めなくなっちゃったんだ」    少しの間があった。  ふむ。と言ったのはカーマインだ。 「……キミは3才だったんだろ? まるでその場で第三者として見ていたかのような発言だな」 「うん。そうだね」 ジェレミーはその指摘を素直に認めた。「変な話なんだけどね、ドラッグ噛んでて、一度すっごいリアルな幻覚を見たことがあってさ。うん、4年前ぐらいのことなんだけどね──聞きたい?」 「聞こう。僕にとっても重要な話だ。人狼の方を後回しにしてもいいぐらいにな」」  真面目な顔をしてうなづくカーマイン。  話が長くなる。そう思って、ジェレミーは足を止め、思い出話を始めた。 ***  そうだね。じゃあまずは俺たちのことから話すよ。  俺たちさ、13才も年離れてるじゃん? ジャムは事件のあとすぐにパブリック・スクールに行っちゃったしさ。俺は叔父さん家に預けられてて、実はほとんど兄貴と会うことって無かったんだよ。子どもの頃は特にね。  俺は正直、ジャムのことをずっといけすかない兄貴だと思ってた。勉強も出来るし、いい子ちゃんでさ。警察官になってバンバン出世しててさ、綺麗な奥さんもらってたし。  ジャムを見て、俺はスネてたんだ。兄貴はスゴイのにお前は……って、いつだって言われたからね。そんなこと言われ続けてりゃ、誰だって気が滅入るだろ?  俺も大学には一応行ったんだよ。けど、何やったって大して楽しくなかったし。他にすることもないから、毎日ドラッグパーティーやったりして過ごしてたよ。  そう。それでね。4年前ぐらいになるのかな。俺、ヘマやっちゃってさ。サツのお世話になっちゃったわけ。ガン患者から分けてもらったクスリをさ、別の薬と──あ、詳しくは聞かないでね──それを、再配合して売りさばいてたら見つかっちゃったんだよね。  叔父さんは火が付いたみたいに怒ったさ。“お前は何てことをしでかしてくれたんだ”、“警察官の兄貴にどれだけ迷惑をかけているか分かってるのか”ってね。  結局、俺は叔父さんやジャムの力ですぐに釈放されたんだけどさ。自分が兄貴のお荷物ぐらいにしか思われてないのかと思ったら、もう、なんかどうでも良くなっちゃってさ。  それで、俺、家出したんだよ。  2日間ぐらい、ダチの家に泊めてもらったけど、居場所がバレるのがイヤだったから、次の日からオールナイトの映画館で寝泊りした。ずっとポルノ映画やってるようなところでさ。蛍光灯が煙草のヤニで黄ばんでて明かりが黄色いんだ。その時はずっとラリッてるような状態だったからさ。映画の内容もどこをどうフラついたのかもよく覚えてない。  手持ちのドラッグが心細くなってきたな、と思ったら、俺はいつの間にかシェリンガムの実家に行ってた。あの家は管理会社に預けてるんで、家具は少ししかないんだけど、人が住める状態にはなっててね。  俺はあの家で、人生最後のドラッグパーティーをしようと思って、残ってたありったけのドラッグを飲んだんだよ。もうどうでも良かった。死んだらそれまでだな、と思ってた。  ママが殺されるときのリアルな幻覚を見たのはその時さ。  サイコ野郎に刺されてるママ。泣きながら俺を抱きしめてくれてたジャム……。  あんまり真に迫ってたんで、俺は意識を取り戻した。  そしたら驚いたね。部屋の入口にジャムが立ってた。兄貴が俺のことなんか探しに来ると思ってなかったから、俺は幻覚だと思った。  けど、違った。それは本物のジャムだったんだよ。ジャムはぶるぶる震えながら、床に座り込んでた俺を見下ろしてた。  俺はジャムが無言だったから、てっきり怒りのあまり震えてるんだと思ったよ。そのまま立ち上がった俺に、ジャムは物凄いストレートを叩き込んできたしね。  でも、それはいつものジャムじゃなかったんだ。  ジェレミー、どうしてこんなところに来ちまったんだよ。こんなところに来たら殺されちまうじゃないか。ナイフで切り刻まれちまうじゃないか。お前まで死んじまったら俺は生きていけない。  ……その後は、もう何言ってるのか聞き取れなかったよ。  あの、ベンジャミンが。俺の兄貴が、だよ? ボロボロ涙流して、俺のことを抱きしめて離さないんだ。  ジャムはさ、事件の時のショックで、あの屋敷に近づくと耳鳴りや吐き気が酷くなって、まともな精神状態でいられなくなるんだよ。しかも後で聞いたら、ちょうどアイリーンがガンで余命いくばくもないって知った頃だったらしいんだよね。  それなのに兄貴は、俺のことを助けに、屋敷の中にまで足を踏み入れて。俺のところまで来てくれたんだ。  だから、俺は確信したよ。  さっき幻覚で見たものは、本当にあったことなんだと。  ベンジャミンは3才の俺を、身を挺して守ってくれたんだってね。 *** 「ふーん」  階段を登りながら、レベッカが相槌を打った。 「それでお前ら、ベタベタしてんのか」 「ベタベタ、かなあ?」  頭の後ろで手を組みながら、ジェレミーは微笑んだ。 「それで、その……強盗はどうなったんだよ?」 「ああ、うん。ジャムが逮捕したよ。時効が成立する直前にね。──終身刑になったんじゃなかったっけかなあ?」  二人は既に館の中に入り込んでいる。足元の階段には藤色の絨毯が敷き詰められているが、踏みしめると、ギシ、ギシ、とありがたくない音をさせていた。 「ま、どっちにしろ、あの実家での一夜から、なんか俺らの関係が変わったのは確かだね」  言いながら、ふとジェレミーは傍らの少女の顔を見下ろす。室内に差し込むのは淡い月の光だけだ。その下で少女の顔の白さが浮き上がるようだった。 「ってーか、レベッカが聞きたいっていうから、昔の話をしたのに。……面白くなかった?」 「何言ってんだよ。あたしは聞きたいなんて言ってねえぞ」 「アレ、そうだったっけ?」  ジェレミーは首をかしげた。彼の家族が強盗に襲われた事件のこと。取り乱したベンジャミンの話。誰かが聞きたいと言ったから、自分は長々と話をしたのだが……?  おや、そういえばこの屋敷に入る前にもう一人誰かと一緒だったような気がするのだが、なぜか思い出せない。鍵は誰に開けてもらったんだったっけ? 「ま、話は面白かったけどよ」  ぼそりと言うレベッカ。え? とジェレミーが聞き返そうとすると、シッと指を口に当てた。 「──静かに!」  鋭い目つきになったレベッカは、視線だけを巡らせて気配を探ったようだった。 「奥の部屋だね」 押し殺した声で言う。「行くよ」  ジェレミーも、頭を切り替えた。背中のベルトに挟んでいた拳銃を手にして、レベッカの後ろをそろそろと着いていく。  これから初仕事をこなさねばならないのだ。  ガリ、ゴリ、ゴリリ。  廊下の突き当たり。開け放たれたドア。月の光が漏れている中で、何かのシルエットが蠢(うごめ)いている。 「あれだ」  シャラン、とレベッカは袖から覗かせた鎖を構えた。 「一気にいくよ。お前の攻撃が失敗するまでは、あたしがフォローに回ってやるから有難く思いな」 「りょーかい。成功させたら、レベッカがそれで拘束するんだよね」 「そうだ。──よし!」  単純明快な作戦会議を終え、レベッカとジェレミーは部屋の中に踊り込んだ。 「覚悟しな、犬畜生!」    ただっ広く、何もない部屋には、大きな窓があった。  そこから差し込む白々しい月光。窓の向こうでは風に木々が揺られている。  大きな窓の前には、大きな獣が座り込んでいた。  長いシルエットを伸ばし、こちらに背を向けたまま。毛むくじゃらの獣は、動きを止めた。そして、ゆっくりと鼻先を上げて後ろを振り返ろうとする。  獣の向こう側には、人間の腕がにゅっと突き出していた。  床に誰かが倒れている、のだ。  それに気付いて、さすがのジェレミーもゾッとした。ゆっくり振り向いた人狼──ナンシー。グチャグチャと口を動かし、何かを咀嚼している。  何を口に入れ、何を味わっているのか。  その想像が脳に達したと同時に、ジェレミーは撃っていた。  乾いた音。人狼は仰け反るように顎を上げた。その喉から勢いよく噴き出した赤い液体は──血だ。  パッと手が動いて、獣は自分の喉を押さえる。噴水のような血の放出を止め、人狼は、一歩よろけただけで倒れずに体制を整えた。  その長く裂けた口の端から、何かの肉片がずるりと落ちる。ビチャッと嫌な音をさせて、涎にまみれたそれが床にへばり付く。 「うっわ、グロ!」  ジェレミーは言いながらトリガーに指をかけ、レベッカの気配を隣りに感じながら声をかける。 「思わず急所に撃っちゃった。マズかった?」 「まだ死ななそうだから、OKだろ。片手だって塞がってるし、まずまずなんじゃねえの?」  袖から出した鎖を、頭上で回転させるレベッカ。ジャッ! と、それを操り、ナンシーの鼻先すれすれのところに放つ。獣は、驚いて、もう一歩後退した。退路を断とうというのだ。 「殺れ! ジェル」  もう一本、鎖を準備したレベッカは凄惨な笑みを浮かべて叫んだ。  ダンッ。 「ちょっと待ってよ」  片手で真っ直ぐに銃を構えたジェレミー。銃声。  ウォオン、と獣が悲鳴を上げた。今度、血が噴き出したのは彼女の足だ。片足を撃ち抜かれ、がくりと膝を折るナンシー。 「──殺しちゃまずいんでしょ」  ジェレミーは、さっと角度を変えて人狼のもう一方の足を打ち抜いた。片手で銃を構えた美しいフォーム。落ち着いた態度。それはまるでプロのマフィアのような仕事ぶりだった。 「両肩もいちおう撃っとけ」  鎖を構え、レベッカ。その言葉に、チャキと銃を手元に戻したジェレミーは眉を寄せた。 「もう、いいんじゃない? 死んじゃうよ?」 「相手は人狼だぞ。すぐに再生しちまうんだよ──早く!」  レベッカに睨まれ、仕方なく銃を構えなおすジェレミー。  その時だった。窓に黒い影がサッとよぎったのは。  ──ガシャン! 派手な音をさせて窓ガラスが割れ、床に誰かが降り立った。  その人物は、顔を守っていた腕を解き、すっくと立って先客たちをねめつけるように見た。それは一人の若い女性だった。スカートの後ろを大きく膨らませたバッスル・スタイル※の黒いビロードのドレスをまとい、黒い髪を高く結い上げている貴婦人。まるでこれから夜会にでも出かけるようなその姿は、奇妙なほどこの場の雰囲気に合っていた。 「わぁ! ほんとだ。アイリーンそっくり」  ぼそりとつぶやくジェレミー。  名乗ってもらわなくても、彼女のルックスが全てを物語っていた。そしてこの登場のタイミングも。  乱入者の名前は“黒ノ女王(ブラック・クイーン)”。兄ベンジャミンの亡き妻に瓜二つの、月狩人(ムーン・ハンター)であった。   彼女はジェレミーの発言を聞きつけ、目を細め鋭い目つきで彼を睨みつけた。見慣れない格好をした彼を一瞥すると、フンと上品に顔を上げて侮蔑の視線を送りつける。 「どこの誰だか存じませんが、その人狼はわたしの獲物です」  彼女が両腕を開くと、その腕から水がしたたるように黒いもの──闇そのものが粒子のように零れ落ち、帯のようなものを形成していく。 「邪魔をするなら、貴方たちにも容赦はしません」 「何でいつもこのタイミングに、割り込み入るかなあ」 「ケッ、やってみろよ」  そこで威勢の良い声を上げたのは、やはりレベッカであった。 「お前のツメが甘ェから、そこに転がってるチンピラが内臓を食い散らかされたんだよ。罪の意識でも感じてんだったら、そこで黙って祈ってな。このビッチ」 「うわあ。言うねえ、レベッカ」  少女の罵声に感心しながらも、ジェレミーはパッと左手を開いた。その上に現れたのはもう一丁のリボルバーだった。  ギョッと目を見開く黒ノ女王。  すかさず、ジェレミーは虚空に生み出した新たな銃を構え、黒ノ女王に向けた。 「レベッカが彼女を縛り上げるから、それまでじっとしてて。──動いたら、撃っちゃうよ?」 「貴方たちは何者です?」  淡々とした口調で、黒ノ女王は言った。かなり怒ってるな、とジェレミーは相手の怒りを感じ取りながらも答えた。 「王立闇法廷のジェレミー。この人狼は、法の裁きを受けるんだってさ」  ダンッ。  目線を黒ノ女王に据えたまま。ジェレミーは右手の銃を撃った。ギャッとナンシーが悲鳴を上げた。銀の弾が肩に当たったのだ。 「だから、おとなしくしてて。アイリーン」   - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※バッスル・スタイル: 骨組みを入れて、スカートの後ろの部分をふくらませたスタイルのこと。日本では鹿鳴館スタイルとしてよく知られているのだそうです。ヴィクトリア時代末期に流行したとのこと。 ────────────────────── Chapter:3-7 彼女の疵 「アイリーン?」  ジェレミーに銃をつきつけられながらも、黒衣の貴婦人は美しい眉を寄せていた。 「あなたも、昨日の男と……」  彼女は自分を耳慣れない名前で呼ぶジェレミーの顔をまじまじと見た。アイリーン。黒ノ女王は、自分のことをそう呼ぶ男にもう一人、昨夜出合っていた。 「昨日の男? あ、ジャムのことだね。アレ俺の兄貴」  ダンッ。ジェレミーはひょうひょうとした口調で言いながら、チラと狼女の方を向いて、右手のリボルバーの引き金を引く。悲鳴が上がり、狼女ナンシーが仰け反るように上を向いた。  ジェレミーは言われたとおりに、銀の弾をナンシーの両肩と両足に撃ち込んだのだった。四肢の自由を奪われたナンシーはウォォォンと啼き、そして苦痛に呻く。  そう、彼はメイドのレベッカとともに、今まさに王立闇法廷(ロイヤルコート・オブ・ダークネス)の初仕事として狼女の捕縛にとりかかっていたのだった。当然ながら、ジェレミーは乱入してきた黒ノ女王を、どうこうする気は無い。業務が終わるまで静かにしていてもらえれば。そんな軽い気持ちで銃を向けているだけである。 「よし、でかした!」  レベッカが叫び、鎖を放つ。まるで生き物のように波打った鎖は狼女の身体に巻きつき、その身体を締め付けるようにまとわりついていく。  ギンッ。少女が鎖を引き絞って引くと、狼女はどうと床に倒れた。 「一丁上がりだ、ジェル。ずらかるぞ!」 「う、うん……」  声を掛けられ、ジェレミーは右手の銃を下げつつ、もう片方の銃を向けた黒ノ女王をどうしようかと、困ったように見る。 「王立闇法廷……。あなた方はその人狼をどうするつもりなのです?」  静かに問う黒衣の貴婦人。 「法廷で裁くんだよ」  するとレベッカが鋭く、口を挟むように答えた。 「裁いた後は?」 「ニューゲイト監獄か、ベツレヘム癲狂院行きだよ。どっちも月妖用の独房が、ちゃあんと備わってンのさ」 言いながら、レベッカは黒ノ女王を顎でしゃくってみせる。「お前だって、人殺しすりゃあ同じ運命だぞ」 「わたくしは人殺しではありません」    いきなり、黒ノ女王が動いた。  ジェレミーの銃から逃れるように、横に飛んだ彼女は、両腕を目の前で交差させるように影を放った。レベッカとジェレミーは反応することが出来なかった。──というより、自分がターゲットでなかったために彼ら二人は動けなかったのだ。  くぐもった悲鳴を上げたのはナンシー。  狼女の口に、影の帯が刺さっていた。いや、口から影が侵入していたと言い換えた方がよいだろう。黒ノ女王の武器である影の帯が、ナンシーの内臓を破壊するためにどんどんと体内に入っていく。  ナンシーは白目を剥いた。 「わっ」  その様子を見て、さすがのジェレミーも顔をそむける。 「や、やめろ!」  ようやくレベッカが反応し、鎖を引いた。だが無駄だった。  影の帯はナンシーの体内に侵入しているのだから。  ぐちゃ、びちゃという嫌な音が。影の帯が狼女の内臓を食い荒らす音がして──。  びくん。ナンシーは身体を硬直させ、そして静かになった。    影の帯はスーッと消え、そして黒ノ女王の手元に残っているだけになった。  しん、という静寂が3人の間に訪れる。 「どういうことなんだよ、これは」  低い、低い声だった。  黒髪の少女は俯いたまま手にした鎖を手元に引き寄せた。その手は力を入れすぎて、いつもよりもっと白く、白く。血管が白く浮き上がるほど強く、鉄の鎖を握り締めていた。 「わたくしはいかなる月妖であるとも、見逃したりはしません」  対する黒ノ女王は淡々と言った。冷たく、そっけない声だった。 「いい度胸してるな、おい」  レベッカはさらに鎖を引き寄せ、狼女の死体からそれを回収した。シャラシャラと音を立てながらゆっくりそれを構える。 「覚悟しな、雌犬(ビッチ)。脳みそブチまけてやる」  ブゥンブゥンと、レベッカは鎖を振り回しながら凄みのある笑みを浮かべた。月光の淡い光の中で、可憐な少女はその容貌に似合わない武器と、表情をもって正面に立つ貴婦人を見る。  黒ノ女王は無言だった。ベールの中の顔は怯えたり恐れるよう素振りを見せない。二対一というこの戦局を、不利とは感じていないのか。 「月妖に存在理由などありません。あなた方には、ただ死あるのみです」 「ええッ!? ちょっと待って。俺も入ってんの!?」 驚いて声を上げるのはジェレミーだ。「嘘でしょ、何で?」 「お黙りなさい、“夢魔(ナイトメア)”め!」  ぴしゃりと言う貴婦人。 「お前のような存在を滅するために、わたくしは存在しているのです」  言いながら、彼女は真横に跳んだ。  おそらくはジェレミーの銃撃を避けるためであろう、右手の帯を広げて障壁にするように自分の前に張り、左手の帯をレベッカに向かって放つ。 「甘めェんだよ、クソが!」  鎖と帯が絡まり会い、ガキィィン! と音をさせて空中で止まった。ニヤと笑うレベッカ。一瞬だけ力を抜いたかと思うと、くるりと反転して鎖を背負うようにして黒ノ女王の身体を引き寄せようとする。  表情をこわばらせた黒ノ女王だったが、少女の怪力に勝てなかった。彼女はバランスを崩し、前のめりに数歩踏み出していた。  しかし、ジェレミーは動かない。黒ノ女王は彼にとっては義姉に瓜二つの女性である。攻撃することなどもってのほかだったのだが、当の本人はそんなことを知る由もない。敵の一人が動かないのを見て、彼女は勝機を掴んだのか、強い視線をレベッカに向ける。 「死ね!」  少女が左手の鎖を放った。相手を縛るためではなく、直接打撃を加えるためである。鎖は真っ直ぐに黒ノ女王の白い襟ぐりに向かった。  ──まずい! 傍観者であったジェルがそう思った時だった。 「残念ながら、わたくしの方が手をたくさん持っているようですわね」  ブワッ。突然、黒ノ女王の背中から無数の細い影の帯が溢れ出た。影の帯はレベッカの鎖をアッという間に空中で掴み取った。そして残りの帯は間髪入れずレベッカに襲い掛かる。両手の塞がった彼女にである。  可憐なメイドは目を見開いた。咄嗟に鎖から手を離そうとするが、それも間に合わず──。  銃声が二つ、鳴り響いた。  鎖が千切れ、飛び散っていた。しかしジェレミーの救出が間に合わなかったのか。  愛らしいメイドの身体には、無数の影の帯が突き刺さっていた。  月の光が、微笑む黒ノ女王の横顔を映し出す。──その冷たく、鋭利な刃物のような微笑みを。 「ひゃー、ビックリしたな、もう」    ジェレミーは腕に抱いていたレベッカの身体を床に降ろす。狐につつまれたような顔の少女。  振り向き、黒ノ女王は驚いたように、自分の技が仕留めた敵が居た場所を見た。確かに影の帯はメイドに刺さった。そう思ったのだが、目の前にあるのは無残に破壊された椅子があるだけだ。 「おのれ──!」  月狩人たる彼女はすぐに思い至った。これは“夢魔”の能力の一つだ。 「やるじゃねェか、ジェル」  遅れてレベッカも、ジェレミーに助けてもらったことを察して声を上げる。  彼女に礼を言われて。彼は、ようやく今、自分が行ったことに気付いた。呆然と自分の手を見つめて目をしばたたかせるジェレミー。  自分は確かにレベッカに影の帯が突き刺さるのを見た。心に思い浮かんだのは、“ちょっと待って、タンマ!”という言葉だった。二人がこんなことで殺しあっちゃいけない、レベッカが死ぬなんてことはあっちゃいけない。そう思ったら、彼女が自分の腕の中に居たのだ。 「夢魔め、わたくしの身がどうなろうとも、貴方を滅ぼします!」  自分にどんな力が……。ジェレミーがまだ状況の半分もつかめていないというのに、黒ノ女王は待ってはくれなかった。むしろ彼女の戦闘意欲はエスカレートの一途を辿っている。  慌てて、彼は彼女の方に向き直った。 「ね、あのさ。俺あんたと戦いたくないんだ。ホントに。やめない?」  レベッカと黒ノ女王の間に割り入るようにして、ジェレミーは言った。自分の気持ちを落ち着けるためにも、言いながら長く息をつく。 「二対一だよ? やめようよ。また出直せばいいんじゃない?」 「出直す? このわたくしが? そんな屈辱を受けるのなら死んだ方がマシです!」  だが、残念ながら。この発言が黒ノ女王の怒りの炎に油を注ぐ結果になった。  黒衣の貴婦人はパッと後ろに跳び退くと、顔の前で両手を組み、何やらブツブツとつぶやき始めた。  何やら不穏な動きを察して、鎖を手に身構えるレベッカ。  ジェレミーは、アレこれヤバくない? と思った。映画やゲーム馴れしている彼からしてみると、黒ノ女王の行動は、まさに最終的な必殺技を出す直前の動作に見えた。RPGだったら、バックミュージックがラスボス用に変わるところである。  彼女の周りの空気が震え出した。何やら影が渦のような瘴気となって黒衣の貴婦人の身体の周りを旋回し始めている。 「!」  さすがのジェレミーも眉をひそめた。何だこの禍々しい瘴気は。この空気に触れていると、腹の底から吐き気と不快感が湧き上がってくるようだ。 「レベッカ、逃げよう」 ──これはまずいぞ、本当にまずい。咄嗟に傍らの少女の腕を掴むジェレミー。何でだよ、と叫ぶ彼女を制するように、「あの人と戦う理由がないよ!」  くるり。貴婦人に背を向け、彼らが窓に向かって猛ダッシュをかけようとした瞬間。背後から、ぞわりとした瘴気が二人を襲った。  悲鳴を上げたのはレベッカが先だった。  見れば、彼女の腕がみるみるうちに紫色に変色していく。瘴気に触れて急速に腐り始めてしまったのか、しゅうしゅうと何かの蒸気まで発しているではないか。  ──いけない!  ジェレミーは先ほどのように、強く念じた。今の出来事を無かったことに──。 「滅せよ! わが闇」  黒ノ女王が叫ぶ。彼女の闇がわななくように蠢いた。  しかし、レベッカの腕は元に戻っていた。 「ジェル!」  代わりに膝を折ったのはジェレミーだ。  レベッカ、と彼は少女の名を呼び、微笑んだ。彼は自分でも何が起こっているのか分からなかった。夢魔の力とやらを使い過ぎたのか。身体から力が抜けて立っていることすらままならない。  床に両手を着き、ジェレミーはゼェゼェと息を切らした。  その彼を庇うように立つのは、鎖を構えた少女だ。 「やられてたまるか、死ぬのはテメェだ!」    そう叫んだ、レベッカの姿が消えた。  貴婦人が背後に気配を感じたのはほんの一瞬。──ゴガッ! 前のめりに投げ出された彼女は悲鳴を上げる間も無かった。  しかしその彼女の身体は床にぶつかることは無かった。  背後で、恐ろしい勢いで腕を振り回すメイドが無数の鎖を操っている。部屋中に鎖が飛び交い、黒ノ女王の足元からその身体に巻きつき、首へ。  無骨な鎖は、ぎりぎりと彼女の細い首を締め上げ、その身体を部屋の中央に掲げていく──。黒ノ女王のまとっていた瘴気は、ふつりと途切れ、霧が晴れるように徐々に希薄になっていった。  あとに残ったのは、無数の鎖で出来た塔。鎖が一人の貴婦人の首を締め上げているという光景だった。  元々白い貴婦人の顔が、さらに白く蒼白になっていく。  彼女はその細い手で戒めを取り除こうともがいた。しかしその手もやがて力なく下にだらりと下がり──。 「──アイリーン!」    その時、鎖の塔を光が一閃した。  何か刃のようなものが無数の鎖を斬ったのか。突然、鎖が引きちぎられ、バラバラと党が崩壊していく。  何ィッ! と声を上げるレベッカだったが、彼女は見た。  窓から飛び込んできた人物が貴婦人を受け止め、重力を無視するようにふわりと目の前に降り立つのを。 「お、お前は……!」  ギーブス&ホークスのスーツを着こなした栗色の髪の男。彼はくるりとレベッカを振り向いた。  言うまでもない。それはベンジャミン=シェリンガムだった。 「テメエよくも邪魔を……」 「──ジェル!?」  レベッカは突然現れたベンジャミンに詰め寄ろうとした。が、彼がギョッとして弟の名を呼ぶのを聞いて、立ち止まった。  ん? と自分の傍らに視線をやると、そこにはジェレミーが倒れていた。身体中を鎖に巻きつかれ、四肢を絡め取られて完全に気を失っている青年が。 「うわあ! ジェル、ヤッちまった!」  慌ててレベッカは相棒の拘束を解きにかかった。ベンジャミンの方は弟の顔色を見て、大事に至っていないことを瞬時に察すると、もっと深刻な状態にある者の方に意識を移した。  すなわち、腕の中の黒ノ女王に、である。 「アイリーン」  ベンジャミンは息ひとつ乱さず、優しく貴婦人に声を掛けた。長いまつげがひくりと動く。  彼女は目を閉じたまま身じろぎし、自分を抱えている男の背中に手を回した。 「……血が、血が止まらないわ、兄様」  うわごとのように呟く貴婦人。白い胸が彼女が息をするたびに上下する。何を言っているのだろう。ベンジャミンは眉を寄せ、彼女の意識を取り戻そうとその頬に手を触れた。 「……兄様、嘘よ、兄様がそんな、血が、──やめて!」 「アイリーン」  ベンジャミンはこの女性があまりにも自分の死んだ妻に似ているせいで、他の名前で彼女を呼ぶことが出来なかった。しかも苦しそうに何かつぶやいているではないか。  彼は自分の胸がしめつけられるような気分を味わった。 「アイリーン、もう大丈夫だよ。しっかりして」  黒ノ女王はその目を開けた。  ベンジャミンがよく知っている青灰色の瞳だった。 「ジャム……」    彼女の口がぽつりと、彼の名を呼んだ。  目を見開くベンジャミン。 「アイリーン?」  ──今のは一体!?  ベンジャミンは意識が白くなりかけるほどの衝撃を受け、腕の中の女性の顔を見た。  彼女は微笑んでいた。  これは俺の幻想か。ベンジャミンは周りが全く見えなくなった。そこにいるのは死んだはずの妻、アイリーンだった。  ジャム、と彼女はもう一度、彼の名を呼んだ。  この声、この青灰色の瞳、この表情。  なぜ、なぜ、ヴィクトリア時代に生きる彼女が自分の愛称を知っているのだ。  アイリーン。本当に君なのか。 「──ジャム!」    誰かに肩をこづかれて、ベンジャミンは我に返った。腕の中のアイリーンから顔を上げると、前に礼服姿の男が立っていた。  それはカーマイン=アボットだった。  今まで一体どこに居たのか。どこからともなく現れた彼は、ステッキの先をベンジャミンの肩に置いたまま、しっかりしろ、と言った。  何が、と言い返そうとした時、カーマインは強引にステッキを使って、黒ノ女王の身体をベンジャミンから離した。 「なっ……!」  自分の腕からこぼれ落ちるように床に倒れる貴婦人。  ベンジャミンは怒りの声を上げ、手を伸ばした。すると室内だというのにあらぬところから風が吹き、貴婦人の身体をそっと床に下ろす。 「言霊(スペル)は使えるようになったようだが、油断のし過ぎだ」 カーマインが鋭く言った。「君は今、魂を抜かれそうになっていたぞ」 「何だと?」  ギラとベンジャミンは先祖を睨んだ。  その一瞬の隙だった。ハッと身体を起こした黒ノ女王は、何かつぶやいて両手を広げた。途端に闇が生まれ、彼女の身体を覆い尽くす。 「しまった!」  ベンジャミンが手を伸ばしたが遅かった。闇が消えるとそこには貴婦人の姿も無くなっていた。 「アイリーン!」  まさに目を血走らせ、ベンジャミンは闇に向かって叫んだ。彼女が消えた床を見下ろし、理性を失ったように頭をかきむしっている。  その後ろに、メイドの少女とそれに助け起こされたジェレミーが立った。弟は心配そうに兄の様子を伺っている。 「……あれは厄介だな」 そんな中、ぽつりと言ったのは、カーマインだ。「彼女は虜囚(プリズナー)だ」  ベンジャミンは何度目になるか分からないほど、強い目つきで彼を見た。 「カーマイン、俺に分かるように説明しろ」 「ハ、先祖に命令か。君も偉くなったものだな」  しかし王立闇法廷のトップは、ステッキで床に転がった鎖をこづきながら、落ち着いた様子で言った。 「いいだろう。端的に説明してやろう。君がこれからすべきことも分かるだろうしな」  ベンジャミンの方に向き直り、カーマインは言った。  まるで判決を言い渡すかのように。ゆっくりと。重々しい声で。 「彼女は──あの黒ノ女王は、元々は君と同じ言霊師(スペル・キャスター)のようだが、力を欲するあまり、良からぬ力を得て、その力の虜囚になってしまっているのだ。僕の見たところ、あと2回だ。彼女はあと2回、あの黒い瘴気を放ったら自滅する。……魂を闇に飲み込まれ、輪廻することも無く。彼女に力を与えた悪魔に魂を食い荒らされてしまうのさ」   「あれはアイリーンだぞ!」 声を荒げるベンジャミン。「俺の名前を呼んだ。あれは俺の妻だ!」   「──惑わされるな!」    恫喝するようにカーマインが言った。びくりと肩を震わせるベンジャミン。 「あれは連中の常套手段だ。君が最も欲する幻想を見せただけに過ぎない。──いいか、ジャム」  グッとカーマインは、ベンジャミンの腕を掴んだ。 「彼女を助けたいか?」 「当然だ」 「なら、彼女の凶行を止めろ」  青年紳士は、コツと床をステッキで付いた。 「彼女が恨んでいる相手を探せ。彼女の復讐を邪魔しろ。彼女の目の前で、復讐相手を拘束し逮捕するんだ。……分かっているな? 彼女に、あの黒い瘴気を使わせずに、君が復讐相手を無力化するんだ。出来るか?」  ベンジャミンは無言でカーマインの顔を見た。  言葉の意味を理解し噛み砕くまで、少し時間が必要だったのだ。 「俺がやればいいだけだろう?」 「そうだ」 ニッとカーマインは笑い、ようやく子孫の腕を離した。「分かればいいんだ。それじゃあ屋敷に帰るとするか」    ベンジャミンの様子を見て、カーマインはにこやかに微笑みながら視線をメイドに移す。レベッカはペコリと頭を下げたが、彼は今回は仕方が無かったな、と言いながら彼女の頭を撫でてその労をねぎらった。  そして隣りのジェレミーに、さきほどの戦いでの君はなかなかの働きぶりだったぞ。将来有望だな、と声をかける。ジェレミーは、えっどこで見てたの? と驚きの声を上げた。  あれは本当に……。  弟たちの声を聞きながら、ベンジャミンは深い思考に入っていた。  カーマインの言う通りなのだろうか。あれはアイリーンの幻なのだろうか。死んだ妻。ベッドの上のやせ細った手。もういいのよ、ジャムわたしのことなんて。と言ったあの声。アイリーン。  ジャム、と彼女が自分の名前を呼んだ時、彼の魂が震えた。  幻なのかもしれない。しかし彼の心が震えたのだ。  俺はもう一度、君に会いたい。  カーマインたちに気付かれないよう、ベンジャミンは強く、強く、そう願っていた。 ────────────────────── Chapter 4 彼女の悪夢 ────────────────────── Chapter:4-1 貴婦人メイベル  今日は休日である。  ベンジャミンは、一人でタクシーに乗っていた。黒のスラックスに、グレーの薄手のニットというリラックスした私服姿である。座席の横には菓子折らしき長方形の箱が置かれている。  向かう先は、ロンドンの北部の街、エンフィールドである。十五世紀頃のたたずまいを今でも見ることのできる古き良き街だ。ベンジャミンのマンションからだと、車であれば40分ほどかかる所にある。  ベンジャミンは、そこに住む人物を尋ねるためタクシーを走らせていたのだった。  ここ数年は手紙のやりとりだけで、会うのは数年ぶりになるのだが、さて。元気にしているだろうか。  そんなことを思いながらも、ベンジャミンは窓の外に目を。流れる景色をぼんやりと見つめながら、ここ数日のことを思い出していた。  死んだ妻、アイリーンに瓜二つの女性が、自分の愛称を呼んだことを、である。 「彼女が俺をジャム、と呼んだんだ!」  あの後カーマインの私邸に戻った後も、ベンジャミンは頑固に、そう主張した。 「見知らぬ人間だったら、俺の愛称を知っているはずがない。どういうことか分からないが、彼女はアイリーンなんだよ」  やれやれと額に手をやるカーマインに、椅子に座ったまま心配そうな顔で兄を見つめているジェレミー。  王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)のトップは、窓の外の暗闇を見つめながら、左手を背中に回し息を吐いた。 「ジャム」 ちらりと子孫を振り向き、「君は頭のいい男だが、彼女のことになると冷静な判断力すら失うようだな」 「余計なお世話だ」 「結構。今の状態の君には、説明する気すら起こらん。──今夜はモリィも来ないようだし、明日の夜にでも出直したまえ。言霊術(スペルキャスティング)を習得した君なら、彼女を探すことなど造作もないだろうしな」 「! そうか!」  言われて初めて、思い至ったように。ベンジャミンは顔を上げて部屋の出口に向けて歩き出そうとする。  それを振り返り、苦虫を噛み潰したような顔をするカーマイン。待て、と低い声で言う。弟のジェレミーも、ジャム、と控えめに声をかけた。 「待て」  が、先祖と弟の言葉をまるで無視し、ベンジャミンは部屋の出口へと、つかつかと足を運んでいった。 「──待て、と言っている。ベンジャミン」 「……」  渋々と、彼は足を止めた。カーマインの声は重く、有無を言わせないものが込められていたからだ。  振り返ると、カーマインは強い目でベンジャミンを睨んでいた。そのまま、ステッキをついて椅子に近寄り、ジェレミーの前に座った。言葉は無い。そして彼にも前に座るよう促す。  やはり、渋々と椅子に腰掛けるベンジャミン。目線が同じ位置に来るのを待ってから、カーマインはじっと相手の顔を見つめた。  そして充分な間を開けて、彼は口を開いた。 「ジャム。……あの人狼のナンシーを覚えているな?」 「? ああ。それが?」  唐突に、何を言い出すのだろう。ベンジャミンは眉を潜めた。 「冷静に考えてみたまえ。あの女は、君が2006年の世界で追いかけていた容疑者なのだろう? それが何故、1888年のロンドンに出現したのか。君にはその理由が分かるか?」  そう問われて、ベンジャミンは答えに窮してしまった。  じっと瞬きもせずにこちらを見つめているカーマインを前に、スコットランドヤードの警視は自らの顎に手を触れながら、居心地が悪そうに居住まいを直した。 「──ナンシーも、ドラッグ飲んでたんじゃない!?」  気まずい雰囲気に耐えられなかったのか。横のジェレミーが、大きな声で言った。兄に助け舟を出したつもりなのだろうが、カーマインはゆるゆると首を横に振っただけだった。 「二種類の薬物を、同時期に手に入れ同時期に服用したということは考えにくい。しかもベンジャミンが一番最初に1888年に来た時と彼女の出現は同時なのだぞ。これを、どう結びつける?」  本業たる弁護士口調で、カーマインは淡々と言った。 「答えを教えてやろう。──ベンジャミン。君があのナンシーを生み出したのだ」    ──!  兄は目を見開き、弟は、ウソォ! と声を上げた。 「ど……どういう意味だ?」 「言葉通りだよ。ジャム」  皮肉を言うように、カーマインは口の端を歪めた。 「君が、ナンシーの存在を“信じた”から、彼女はこの時代のロンドンに現れたのだ。分かるか? 君の強い思い込みが、ナンシーを具現化させたのだ」 「そんな馬鹿な?! 俺が彼女をタイムスリップさせたってのか?」  驚くベンジャミン。 「ふむ……。そうとは言い切れない。あの人狼ナンシーが君の妄想の産物なのか、それとも本当に時代を超えてきたのかは分からない。しかし、彼女がこの時代の人間を一人殺したのは事実なのだ。──つまり、君の思いは、世界をこんな風に少しだけ変えられる力を持っているということさ」  カーマインはテーブルを指で、コツ、と叩く。  ベンジャミンはベンジャミンで、眉間に皺を寄せながら俯いた。  無理もない。自分が生み出したというナンシーが人を殺し暴れまわったというのだ。にわかには信じがたい話なのだが、もし本当なら、非常に不本意だし後味の悪い話ではないか。  相手の様子を見て、カーマインも長く息を吐く。 「──さあ、賢明なるベンジャミン。僕が何を言いたいのか、分かるな?」 「いや、分からん」  即答するベンジャミン。何? とばかりに、カーマインは滑稽なほどに眉を寄せた。 「分かった!」 そこで間髪入れず声を上げたのはジェレミーだ。「あんまりアイリーンアイリーンって言ってると、あの黒ノ女王がアイリーン化しちゃうぞって言いたいんだね? CCは」 「アイリーン化?」  ベンジャミンは弟を見、そして先祖に視線を戻した。 「どういう意味だ? しかも彼女はアイリーンだってさっきから言ってるだろ」 「……ジーザス」  王立闇法廷のトップは、神の御名をつぶやきながら自分の額に手をあてた。 「分かった。もういい。君が判断力を失ってるということが、ようく分かった」  深くため息を付き、彼は二人の子孫の顔を代わる代わる見ながら続けた。 「ジャム。とにかく今夜は自分の時代に帰って休みたまえ。あの黒ノ女王は今夜はもう現れんだろうし、君の術は“風”を媒体にするから、彼女が風のない場所──まあ要するに室内だな。屋内にいたら居場所は掴めんはずだ。そうだろう?」 「さすがは、よく知ってるな。そうだよ」 「誤解しないでもらいたいのだが」 と、カーマインは前に身体を乗り出し、言った。「僕は君たちが自分の子孫であることを“信じて”いるし、身内だと思っている。君たちに会えたことも、とても嬉しく思っている」  俺も俺も! と脇でジェレミーが声を上げる。にっこり微笑んだカーマインは、君の気持ちは分かっているよと言わんばかりに軽く手を挙げてから、続けた。 「──だからこそ、この件は慎重に取り扱いたい。黒ノ女王を破滅から救うには、彼女の魂を捕らえ、力を与えている悪魔を探し出さねばならない。そして、彼女があの禍々しい力を使うことを阻止せねばならない。そもそも彼女があの力の危険性を自覚しているかどうかも分からん。それにな、彼女は一体誰を追うために、あのように執念を燃やしているのか……。なあ、ベンジャミン。僕は思うのだが」 「何だ?」 「まずは君の時代で、彼女のことを調べてみたらどうかと思うのだ。おそらくかなりのことが判明するはずだぞ」  そう言われて、ベンジャミンは目をパチパチとやりながらカーマインの顔を見た。 「?? 彼女の名前が分からないのに、どうやって現代で彼女を調べるんだ?」 「あ、そうか!」  ジェレミーが、ふいに声を上げて隣りの兄の肩を叩いた。 「マクシーン婆ちゃんだ。ジャム、婆ちゃんに話を聞いてみればいいんだよ!」 「え? え?」  何を言われているんだが全く分からないといった具合に、ベンジャミンは困った表情を浮かべて見せた。なぜそこで義母の名が、アイリーンの母親にあたる老婆の名前が出てくるのか、彼にはさっぱり理解できなかったのだ。 「ジャム、僕が説明してやろう」 カーマインは、手を挙げ、続けた。「……君の刺青は言霊師(スペルキャスター)が受け継ぐものだ。君はその刺青を妻のアイリーンに入れてもらったと言っていなかったか? 彼女の家に代々伝わるお守りだと聞いた。なあ、そうだったな……?」  ──あっ!  ベンジャミンは思わず立ち上がって叫んでいた。 「そうか! 彼女はアイリーンの……!」    かくして、二日後の朝。  ベンジャミンはアイリーンの母親、すなわち義理の母にあたるマクシーン=カールトンを訪ねるつもりで、タクシーをロンドン郊外に飛ばしていたのだった。  彼女は夫を亡くしてからずっと一人で暮らしている。彼女の夫でありアイリーンの父親は、陸軍大佐であった人で、退役してから閑静な郊外の町で暮らしていた。それがたまたまロンドンで退役軍人の集まりがあったときに、強盗に襲われ命を落とすという凶事に見舞われたのだ。  彼が死んだ時は、すなわちベンジャミンがアイリーンに出遭ったときと重なる。  あれから、もう12年も経ったのか……。ため息をつきながら窓の外を眺めるベンジャミン。車はロンドンの北に位置する大きな公園、リージェンツ・パークの横を走っているところだった。  犬の散歩をしている老婦人の横を通り過ぎた時、前触れもなく、タクシーが突然減速しはじめた。  おや、と身体を起こすベンジャミン。タクシーは、そのまま道の脇に停車してしまった。 「どうしたんだ? 何かあったのか」  彼は、透明プラスチックの向こう側の運転手のうなじを見ながら、コンコンとノックした。しかし運転手はこちらを振り向かず、無言だった。  バックミラーの中で一瞬だけ、ベンジャミンの目を見、そして目線をそらす。 「奇遇だな、シェリンガム警視。こんな所で出会うなんて」    その時、ガチャ、とドアを開けて、タクシーの中を覗いた男が一人がいた。スキンヘッドの大柄な男で、ファーのついたこげ茶色のコートを着こんでいる。ありていに言って、ごつい、50代ぐらいの、到底カタギには見えない男である。  道端でベンジャミンのタクシーが来るのを待ち構えていたのだろう。  似合わないフレンドリーな笑みを浮かべてこちらを見るその顔に、ベンジャミンは露骨に顔をしかめてみせた。見知った顔である。しかも休日には特に会いたくない類の人種の一人だ。 「今日は休日のはずだがな、ミスター・ドリスコル」 冷たい口調でベンジャミン。「どうしてあんたが俺のタクシーを停めるんだか、全く理解できん」 「ハハ、まあそう言うな。あんたと俺の仲じゃないか」 男は笑いながら、自分の大きな身体をタクシーの中に押し込んだ。「ちょいと、話があってな」  彼はそのまま透明プラスチックをコンコンとノックして、運転手に車を走らせるように促した。 「悪いな、警視。話はすぐに終わるから、少し付き合ってくれ」  と、タクシーが走り出したのに、ベンジャミンから返事がないのを見て、男は再度口を開いた。 「──弟さんは、あれから元気にやってるかい?」 「余計なお世話だ」  ベンジャミンは鼻を鳴らして不快感を顕わにする。 「話があるなら、早くしてくれ」 「そう来なくちゃな」  ニィッと、彼は笑った。  彼の名前はセオドア=ドリスコル。通称、スキニー・テッド。ロンドンの中でソーホー近辺に縄張りを持つマフィアのボスである。ベンジャミンとは、何かと“仕事上の付き合い”のある相手だが、実際のところ取調室をはじめスコットランドヤードの中で相対することは少ない。マフィアのボスとはそういうものだ。  ベンジャミンは過去に一度だけ、ジェレミーが問題を起こした時に、この男の手を借りたことがある。以来、借りは倍にして返しているにも関わらず、スキニー・テッドはこうして友達面して彼にコンタクトをとってくるのである。   「警視、このあと誰かを訪ねるのかい?」 「あんたとは関係ない」 「ヒャア、連れないねえ」  スキニー・テッドはリラックスした様子で、大きな身体をシートにもたせかけ、足を組んだ。黒いピカピカした靴の先は鋭く尖っている。 「分かった。じゃあ単刀直入に行くぜ。──ビッグ・モスのクソ野郎のことさ」  ベンジャミンは前を見たまま、小さくうなづいた。ビック・モスというのも、やはりマフィアのボスの一人である。スキニー・テッドがタクシーに乗ってきた時から、大方察してはいたが、本日の彼の用件はタレコミのようである。連中はこうして飽くなき闘争を繰り広げているのだ。 「あの野郎が、クソみたいな小劇場をポコポコおっ建ててるのは知ってるか? 今まであったクラブを潰して、クソくだらないコメディアンに明け渡してやがるのさ。クラブを小劇場にだぞ? 信じられるかよ」  ベンジャミンは無言で話を聞いていた。痩せているわけでもないスキニー・テッドが、そもそも“スキニー(痩せ)”と呼ばれているのは、彼よりさらに一回り大きな体格と縄張りを持つベン=モリスン──ビッグ・モスが存在するからだ。 「なんつったか、若い女にやたら人気があるニック=ウォルターズとかいうコメディアンを雇ってだな。そいつやその手下どもに公演させてるんだ。奴の劇場にはいつでも満杯だっていうんだから」 「結構なことなんじゃないか?」 「馬鹿言うなよ。あれだったら俺がポルノ小屋を開いた方がマシだぜ? 少なくとも世の中の半分の人間は喜んで、俺に感謝するだろうさ。あんなクソコメディアンのネタで笑うのは犬ッコロだけだ」  話を聞きながら、以前ジェレミーが家に連れてきたティーンエイジャーの少女たちが口々にニック=ウォルターズの番組の話をしていたことを思い出した。 「そうか? かなり人気があると聞いているがな」 「そりゃ、あそこに通ってるのが雌犬(ビッチ)だけだからさ」  ニヤリと冗談を言いながらも、スキニー・テッドは身を乗り出す。 「ベンジャミン、ここから先が話のキモだ。奴が若い女ばかり集めてるのには理由があんのさ」  マフィアのボスは馴れ馴れしくファーストネームで呼びかけながら、大仰に腕を広げてみせた。 「──ドラッグさ」 「まさか」 ベンジャミンは短く言葉を挟む。「ビッグ・モスは、ドラッグには手を出さないはずだ」  お前さんとは違ってな、と続く言葉を飲み込んで、ベンジャミンはようやくスキニー・テッドの顔を見た。 「そう思うかい? 息子がヘロインで死んだから、奴はドラッグには手を出さない? ──ベンジャミン。今は、トウモロコシの燃料で車が走る時代だぜ? 時代は絶えず動いてんのさ」  ようやく話に食いついてきたか、と満足げにスキニー・テッド。 「疑うなら、調べてみろよ」  とは言いながらも、彼は運転手に向かって、合図をするように透明プラスチックをコンコン叩いた。  運転手は心得たようにすぐさまタクシーを減速し、停車させた。  リージェンツ・パークの周辺をちょうど一回りしたあたりで、そこは最初に車が停車した位置とほぼ同じところだった。  手を軽く挙げ、話は終わったとばかりに車から出て行こうとするマフィアのボス。 「それじゃあな」 「ドリスコル」  それをベンジャミンは呼び止めた。 「知ってるだろうが、俺はもう殺人調査部の西課長補佐じゃない。左遷されて、今は奥サマ苦情係のトップだ」 「知ってるよ」  スキニー・テッドは、大きな身体をひとまずタクシーの外に押し出してから答えた。 「だが、俺は知ってるぜ。あんたの帰還を待つデカどもが──失敬。あんたがたくさんの部下に恵まれてるってことと、あんたが俺から聞いた話をそのままにするような男じゃないってことをさ」 振り返り、最初と同じようにニィッと笑う。「じゃあ、またな。ベンジャミン」  言い終えて、バンッ。マフィアのボスは扉を勢い良く閉めて去っていった。  残されて、一人舌打ちするベンジャミン。 「馴れ馴れしく呼びやがって……」    奇妙な同乗者を迎えたベンジャミンだったが、もともと時間に余裕を持って出かけていたためと、あの後に運転手に対して使った言葉が功を奏したのか。彼は予定通りの時間に義母の家を訪ねることが出来た。  久しぶりに会ったマクシーンは、当然のように喜んでベンジャミンを迎えてくれた。  背筋のしゃんと伸びた初老の婦人は、変わらず元気に暮らしていると話し、死んだ娘の夫を居間に案内した。確か今年で61才になるはずだった。  ベンジャミンが近況を尋ねると、マクシーンは、庭の薔薇がよく咲くようになったこと、近所の子どもたちに歌を教えていること、街に野良猫が増えて避妊手術をすべきだという話が持ち上がっていることなどを話してくれた。  代わりにベンジャミンは自分があまり忙しくない部署に異動になったことなどや、ジェレミーと一緒に住むようになったことなどを話した。  他愛のない日常の話だった。  ベンジャミンの印象では、マクシーンは元々は女学校の教員をしていたこともあって、男性のようにサバサバした性格の職業婦人だった。それが、ずいぶん柔らかい雰囲気を持つようになったものだ。彼は素直にそう思う。  さて、それはそうと。例の話をどう切り出すか。  話を聞きながらベンジャミンがタイミングをはかりあぐねていると、何かを感じ取ったのだろうか。マクシーンの方が話を振ってくれた。 「ねえ、貴方は、何かわたくしに聞きたいことがあって来たのでしょう?」 ティーカップに三回目に口をつけた時に、マクシーンは微笑みながら言った。「遠慮なさらずにどうぞ。アイリーンのことか何かのことではなくて?」  ベンジャミンはうなづきながらも紅茶を飲んでから答えた。 「その通りです。その──ええと、彼女に胸に入れてもらった刺青のことなんです」  と、言い切ってしまってから、唐突だったかなとベンジャミンは口を濁した。 「なんといいますか、私には紋章額の知識がなくて、自分の胸にあるものの意味が分からないものですから。これがどういうものなのか急に気になったと申しますか、ええと、どういう意味なのかなと思いまして……」  彼の言葉が終わるか終わらないうちに、ふふふ、とマクシーンは笑った。 「やっぱりね。そのことだと思いましたわ」 「え?」   「その刺青は“力源(パワー・ソース)”です。もう貴方はそんなことご存知なんでしょうけど」    いきなり答えをズバリと言われて、さすがのベンジャミンも面食らって義母の顔を見た。“力源(パワー・ソース)”という言葉が彼女の口から飛び出したことに仰天したのだ。  師匠の老人クラウドと同じことを言うマクシーンを前に、彼はにわかに1888年にいる気分を味わい始めていた。 「正直言って」  と、マクシーンはそこで言葉を切り、アイリーンと同じ青灰色の瞳で、真っ直ぐに彼の顔を見つめ返した。 「貴方が今さらになって、そんなことを聞きに、わたくしのところに来たことに驚いています」 「申し訳ありません」  思わず、ベンジャミンは頭を下げてしまう。 「アイリーンは、そういった話を私に一切しなかったのです」 「まあ、そうでしょうね」 老いた貴婦人はティーカップを口に運びながら、ため息をついた。「わたくしもあの子に刺青の意味を正確には伝えていませんでしたからね」  目線を窓の外の木々に移し、しばらく間を置くと、彼女はベンジャミンの方を振り向かずに続けた。 「それはそうと、貴方一体、どうなさったのですか。それは」 「? 何がです?」 「──わたくしが、どうして貴方とあの子の結婚を許したと思います?」 物憂げな横顔を見せながら老婦人。ベンジャミンが、何と返答してよいものやらと言葉を捜している最中に、「貴方から魔術や月妖(ルナー)の匂いが全くしなかったからですよ」 「エッ!?」 「……それが今はどういうことです? 身体中に風をまとわりつかせて……」  口元に笑みを浮かべて。老婆はようやくベンジャミンを見る。 「まるでわたくしの若い頃みたいじゃありませんか」 「あ、貴女は──」  この言葉を口にして良いのだろうか。驚愕したままベンジャミンは、おずおずと言った。 「言霊師(スペル・キャスター)なのですか?」 「ええ」  何の躊躇もなく、マクシーンはうなづいた。 「わたくしの母も、祖母も、みな言霊師(スペル・キャスター)でしたよ。何を驚いているのです。貴方も少しは魔力を隠すことをお覚えなさい」  ここは1888年なのだろうか。いつの間にかまたクスリを飲んでしまっているのだろうか──。ベンジャミンは混乱しながらも、申し訳ありませんと、また謝った。  ずっと見知っていたマクシーンが、別人に見えてくるような、そんな気分であった。 「いろいろ事情がありまして──それは後できちんとお話しますが、私もつい先日、とある方から言霊術(スペル・キャスティング)を習ったのです。それは、お義母さんのご先祖の方々と関わりのあることのようで、実はそのことを詳しくお尋ねに参りました」  ベンジャミンが居住まいを直し、ゆっくりとそう説明すると、老婦人はなぜか嬉しそうに微笑みながらうなづいてみせた。 「いいでしょう。聞きますわ」  ごくりと唾を飲むベンジャミン。 「お義母さんやご先祖の方々の、主流は“闇”ですか?」 「いえ、違います」  マクシーンは不思議そうに義理の息子を見ながら答えた。 「わたくしたちは、貴方と同じ“風”ですよ。──“闇”を主流にしたのは、メイベル=カールトン。一族の始祖にあたる者だけです」 「メイベル?」 「──レディ・メイベル・ヘレナ=カールトン。吸血鬼の結社と戦い壮絶な最期を遂げたとされています」 「切り裂きジャックの時代に、ですよね」 「そうです」  ビンゴだ。  ベンジャミンは脳裏にあの“黒ノ女王”の姿を思い浮かべながらうなづいた。  ──ん? 待て!?  「そ、壮絶な最期、ですか?」 「ええ。ですから、わたくしたちは彼女の闇を封じ、“風”を選んだのです」  マクシーンは、また言葉を切り、じっとベンジャミンの顔を見つめた。 「……ベンジャミン。貴方の事情を先に話してくださらない?」 「構いませんよ」  ベンジャミンも身体を乗り出す。話が長くなるのだろう。彼はようやく落ち着いた普段の調子になり、そしてティーカップを口に運んだ。  そんな彼を見ながら、老婦人の瞳に、ふっと憂いの色が宿る。 「わたくしがお話することは、少々複雑です。貴方の話を聞いてからですが、おそらく貴方には“あれ”を見せることになるのでしょうね」 「?」 「手記です」 ふと立ち上がりながら、マクシーン。「メイベルと、そして“パメラ”が書き留めた、手記のことですよ」 「パメラ?」  聞き返すと、老婦人は腰を屈め銀色の盆にゆっくりとティーポットを乗せた。 「話が長くなりますわね。お茶を入れ直しましょう」   ────────────────────── Chapter:4-2 言霊師パメラ ***  ──親愛なるサラへ。 ***  最初の1ページには、ただその一文だけが書いてあった。  ベンジャミンが、ついと目を上げると、マクシーンは目でうなづいた。  そのまま、次のページをめくるように促しながら、彼女は──ベンジャミンの義母にあたる初老の女は言った。サラとは、わたくしの祖母のことです、と。  ほのかにカビの匂いのする書斎に義母と二人。ベンジャミンは、秋の弱い日光の差し込む窓際に立ったまま、手にした古い手記のページを、ゆっくりとめくる。  レディ・メイベル・ヘレナ=カールトン──あの“黒ノ女王”が残した手記である。約120年の年月を生き残った本は、紙は黄ばんでいたが保存状態は良い方だった。  夫にも見せたことがないのですよ、と付け足しながらマクシーンはベンジャミンにその本を渡してくれたのだ。  彼がこの数日の出来事を話した後に、である。初老の婦人は微笑みながら、全てを聞いてくれた。  ──わたくしには何が起こっているのかよく分かりませんが、貴方が“風”をまとって現れたのが何よりの証拠です。  マクシーンは目を細め、ベンジャミンに先を読むように促した。  濃い青色のインクで書かれた筆跡が生々しくて。ベンジャミンは脳裏にあの黒衣の貴婦人をまざまざと思い浮かべながら文字を追う。 ***  サラ、この本は貴女だけが読みなさい。  そして、クロエとダドリーに話すかどうかは貴女が判断して決めなさい。貴女が必要でないと思えば、この本の内容を妹たちに話すことはありません。 ***   「祖母は、16才の誕生日の日に、この手記を見たのだそうです」 マクシーンが静かに口を開いた。「メイベルに、そう言い含められていたのだと聞きました。彼女の死後、祖母はこの手記の内容を初めて目にしたのです」  ベンジャミンは小さくうなづいた。そして、かさりと乾いた音をさせながら、次のページをめくった。 ***  もしかすると、この本を手にする頃、わたくしは貴女の母親ではなくなっているかもしれません。メイベル・ヘレナ=カールトンではない別の人物──。悪魔に身体を乗っ取られ魔女のような女になっているかもしれません。  ですから、わたくしの意識がしっかりしている間に、貴女にわたくしの身に何が起こったのかを正確に記しておきます。  わたくしが自分の身に起こった異変に、はっきりと気付いたのは半年ほど前になります。  正確に年月を記せば、1888年の5月22日。チェルシー・フラワー・ショー(※)に夫と共に出向いた日のことでした。  園芸祭に出品された色とりどりの薔薇や蘭を楽しんだ後、夫は隣りのロイヤル・ホスピタル(※)に友人を訪ねるということでしたので、わたくしは彼と別れ、ゴームリー夫人と一緒にお芝居を観に行ったのです。  ですが、わたくしが覚えているのは、劇場へ向かう馬車の中で、夫人と他愛もない話をしていたところまでなのです。  気が付くと、辺りは暗くなっていて、わたくしは自分の部屋の窓のところに立っていました。煌々と照る月の下、窓も開け放したままです。  そして、見ればドレスの裾がボロボロに裂けているのです。まるで荊(いばら)の中を歩いたかのように。もちろんわたくしにはそんな記憶は全くありません。  メイドは、わたくしが部屋にいるのを見て非常に驚きました。彼女はわたくしが館に戻るのを見ていなかったというのです。  どうやら、わたくしは彼女に気付かれずに、館に戻ったようなのです。  次に、わたくしはフラワー・ショーから劇場まで付き添っていたはずの使用人のロジャーを呼びました。彼ならわたくしに何が起こったのか分かるはず……。そう思ったのですが、彼は青ざめて首を振るだけで、何も答えません。  それでもわたくしは根気強く尋ねました。彼が職を失うことを畏れているのではないかと思い、その心配がないことも伝えました。すると彼はようやく心を開き、話してくれました。  ロジャーはこう言うのです。  ──奥様ご自身が、このことを誰にも言わないように強く言いつけて、私の前から姿を消されたのです。  姿を消した? わたくしはロジャーに尋ねました。わたくしが貴方に追いつかれないように走り去ったということですか? ……彼は首を横に振りました。  消えたのです。奥様。  貴女様は夜の闇に溶けるように、私めの前から姿を消されたのです。    わたくしは訳が分からなくなってしまいました。  ロジャーは正直な男です。彼が嘘をついていることは有り得ませんし、人間が消えるなどということがあるわけがありません。  彼は何かの幻を見たのだろうと、思い直しはしました。しかし、恐ろしいのはわたくしが全く身に覚えのない言葉を彼に言ったということです。  これはどういうことなのでしょうか。    わたくしはロジャーに、もう一度その日の様子を詳しく聞くことにしました。  フラワー・ショーの会場から、わたくしとゴームリー夫人は彼女の馬車に乗ってコヴェントガーデン劇場(※)まで行きました。そのいきさつは、わたくしも覚えています。  しかしロジャーによると、わたくしは具合が悪いとゴームリー夫人に告げて、途中で中座したそうなのです。  そして劇場の外で、一人で帰るからと、ロジャーの前から消えたとのことでした。  あのストランド街の界隈は、華やかなところですが、一つ道を間違えば無頼漢がうろついているような場所です。わたくしのような者が夜に一人で歩くような場所ではありません。  一体、あの街でわたくしは何をしていたのでしょうか。 *** 「ストランド街」  口に出してベンジャミン。思い起こせば、最初にクスリを飲んでトリップした場所もストランド街ではなかったか。  客の呼び込みをしていた売春宿の女。場末のパブから出てきたナンシー。  確かに貴婦人が一人で歩くにはふさわしくない場所であり、非常に危険な場所でもある。奇妙な符号にベンジャミンはその情報を脳にしっかりと刻み込んだ。  そして、傍のマクシーンの顔を見る。 「実は、私もメイベルらしき女性に、ここで初めて会ったのです」  彼女に黒ノ女王に会ったという話はした。しかし彼女がアイリーンの瓜二つであるという話はまだしていない。  マクシーンはうなづいた。 「そうなのでしょうね。彼女は、あの街で死んだのですから」 「え?」  ぎくりとするベンジャミン。 「その先を読んでご覧なさい」  促され、ページをめくると、その先は別の日に書いたのか、インクの色あいが少し違っていた。 ***  それから、こうして半年が経ちました。  しかし恐ろしいことに、最近、記憶の空白の時間が増えているように思うのです。  それが起こるのは決まって、夜間です。  真夜中であることもありました。不思議なことに、一緒に休んでいる夫に全く気付かれることもなく、わたくしは寝室を抜け出しているようでした。  そして、わたくしが意識を取り戻すのは、いつも自室の窓の傍でした。  いつもわたくしは窓の外の月を見上げているのです。それまで眠っていたはずが、外出着に着替えて、服の裾をボロボロにして。  このまま、わたくしは一体どうなってしまうのでしょう。    不安になったわたくしは、昨日もう一度、あのストランド街に行ってみました。ロジャーを伴い、昼間にあの界隈を歩いてみました。  何も手掛かりはありませんでした。  半年前は恐ろしくて、あの街に近寄ることすら出来なかったのです。でも、こうして自分が自分でなくなるような思いをするくらいなら。そしてサラ、貴女たちに不安な思いをさせてしまうのなら……。わたくしは勇気を出して、あそこへ行きます。  諦めずに、あの街で手掛かりを探してみようと思っています。   ── およしなさい。   ── メイベル、貴女はあの場所に近寄ってはならない。 *** 「筆跡が……?」  最後に付け加えるように書かれた二行。ベンジャミンは驚いて顔を上げた。  そこだけが明らかに違う筆跡で書かれている。まるで、違う人物が書いたように。 「パメラ、ですよ」 「パメラ?」  マクシーンは無言で、次のページをめくるように促した。 ***   ── メイベル、貴女は何の心配もしなくていいの。   ── 貴女は娘たちや夫の身を気遣って、平和な生活を過ごしていればいいの。   ── 何も心配しなくていいのよ。   ── きっと、すぐに終わるから。  あなたは誰なの!?  どうやって、この本に書いているの?   ── わたくしはパメラ。   ── わたくしはずっと貴女の傍にいた人間。そして貴女の味方です。   ── ストランド街には行ってはいけない。 ***    かなり、メイベルの文字が乱れてきている。  こらえきれずにベンジャミンは素早くページをめくった。 ***  サラ。  今日もわたくしはストランド街に行きました。  そして見つけました。ある紳士クラブです。名前をN……というところで、わたくしはその建物を一目見ただけで、何か胸が跳ねるように不快な気分になりました。  あそこに、何かがあります。  サラ、わたくしがわたくしで無くなったのなら、きっとあそこに手掛かりがあります。 ***  紳士クラブの名前のところは、ペンで黒く塗りつぶされている。  かろうじて、“N”らしき頭文字が見えるぐらいだ。  ここまで読めば、さすがのベンジャミンもなんとなく推測がついた。  パメラだ。謎の女パメラが、メイベルの娘のサラがクラブの名前を特定しないように、この部分を黒く塗りつぶしたのだろう。 ***   ── メイベル。親愛なるメイベル。   ── どうか、このパメラの言うことを信じて。   ── 貴女はあのクラブに二度と行っては駄目。   ── そして、あの黒いビロードの首飾りをつけた男を見たら、逃げるのよ。   ── 貴女の身に危険が迫っている。 ***  そこからは、数ページの空白があった。  空白の次からはパメラの筆跡で書かれていた。 ***  サラ。  わたくしはパメラ。貴女の母親、メイベルの友人であり、味方でもあります。  メイベルの代わりにわたくしがこの先を記します。  辛いことだけど、貴女もメイベルの身に何があったのかを知るべきだと思うの。  だから、わたくしもここにメイベルのことを書いておきます。  メイベルには、幼い頃、兄がいたのです。  貴女たちは初耳かもしれないけれど、本当の話なの。メイベルには実の兄がいた。  聞いたことがないのも当然かもしれないわ。  彼女の兄は、死んだことになっているから。  兄の名前は、デニス。彼女や貴女のように黒髪と青い瞳を持った美しい青年でした。  彼は少し変わったところがあって、恵まれない人たちといつも一緒にいようとしたの。メリルボンにあるような救貧院に出向いて、彼らに仕事を教えようとしたり、彼らをどうにか貧しさから助け出そうしていた。心優しい青年だったのよ。  両親や同じぐらいの年齢の友人たちは、彼のことを、やり過ぎだと言って馬鹿にしたわ。  でも、メイベルはこの8才年上の兄のことが好きだったし、尊敬していた。  さすがに一緒に救貧院にいくことは無かったけれど。彼女は兄と、彼の行いをとても好いていたのよ。  だけど、ある日。その救貧院の庭でデニスの死体が見つかった。  服はボロボロにされ、身体中は傷だらけ。そして首を斧で切断されていたの。  犯人はすぐに分かったわ。その救貧院で、デニスがいつも仲良くしていた人たちよ。  彼らとデニスの間で何があったのか、わたくしもよく知らないの。でも、彼らはすぐに名乗り出て告白したの。  大勢で無抵抗のデニスを殺したことをね。  彼らは涙を流してデニスを殺したことを悔いた。もちろん殺害に関わった全ての人間がニューゲイト監獄に送られたわ。  でもね。  その人たちが絞首刑になることは無かった。  全員が、監獄の中で殺されたの。デニスの手によって。  そう、デニスよ。  メイベルの兄は生き返って、自らの復讐を遂げた後、彼女の前に現れた。  生き返ったデニスは、もう以前の彼ではなかったのです。  デニスは、もう誰も愛せない人間になっていました。  そして、デニスはメイベルにとても酷いことをしたの。  だから、メイベルは兄のことを忘れることにしたのよ。  いい思い出だけを胸の中にしまって。    サラ。親愛なる、サラ。  わたくしはデニスを止めなければ、ならないの。  メイベルは非力だけれど、わたくしには力があります。  魔術と、そしてこの力。  力は永久に使えるものではないけれど、でもわたくしはやらなければならないの。  もしかすると、貴女の母親は貴女のもとに帰ってこないかもしれない。  でも、メイベルは心から貴女のことを愛しています。   ── わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。 ***   「……」  最後のページを読み終え、ベンジャミンは眉間に皺を寄せた。 「お義母さん、メイベルはどのような最期を遂げたのですか?」  目を伏せたまま。静かな質問だった。 「彼女が見つかったのは、ストランド街の路地裏です」  マクシーンも義理の息子を見ようとはせず、ただ自分が組んでいる手をじっと見下ろしているだけだった。 「仰向けに倒れた彼女の身体には、胸に──ちょうど心臓のところに大きな穴が開いていたのだそうです。そこから床のレンガが見えるほどにね。どんな凶器を使ったのかは分かりません。しかし、その傷が彼女への致命傷になったことは明らかです」  ベンジャミンは、ゆっくりと息を吐いた。想像したくはなかった。しかし、彼の脳裏にはあの黒ノ女王が。死んだ妻アイリーンに瓜二つのあの貴婦人が、レンガの上に倒れている姿が浮かび上がっていた。  ゆるゆると、彼は首を振ってその幻影を追い払おうとする。  そして、一つの推測を口にした。 「メイベルと、そしてパメラは同時に命を落としたのですね」    マクシーンは厳かにうなづいた。 「ええ、そうです。厳密に言うならば、言霊術(スペルキャスティング)を駆使して、月妖と戦ったのはメイベルではなく、パメラ。彼女はメイベルと身体を共有する、もう一つの人格だった、とも言えます」 「サラが、そのことを?」 「ええ」  しゃんと背筋を伸ばしたまま、初老の婦人は、ようやくベンジャミンの顔を見上げた。 「サラはその手記を読んで、母親の身に何が起こったのかを調べたのです。娘としては当然ですわね。そして、彼女はある言霊師(スペルキャスター)の老人から、彼女の顛末を聞くことが出来たのです」 「ある言霊師の老人、ですか」  と、おうむ返しにベンジャミン。 「その方によると、パメラは吸血鬼(ヴァンパイア)の結社の本拠地に乗り込み、彼らと刺し違えるようにして命を落としたということでした」  淡々と語るマクシーンの顔には、これといった表情が浮かばない。 「おそらく、デニスがそこにいたのでしょうね。想像するしかないことですが、彼女との戦いでそこにいたほぼ全員のヴァンパイアが命を落としたということですから。おそらくデニスも、その時に死んだのだとわたくしは思っています」 「……そうですか……」  うなづきながら、ベンジャミンは頭の中で情報を整理した。  一つの身体に二つの人格。現代でも、たまに存在が取り沙汰される二重人格というやつだ。少し難しい言葉で言うなら“乖離性同一性障害”。ベンジャミンも職業上、そういった事例に遭遇する機会は多く、ヴィクトリア時代といえど、存在していてもおかしくはない症例ではある。  彼は法廷の聴講をしているときに、弁護士やエセ精神科医が口にしていた言葉を思い出しながら考えをまとめていった。  パメラはメイベルの存在を知覚しているが、メイベルはパメラを知覚していない。そしてパメラの方がより多くの情報を持っている。この場合、パメラの方が“上位人格”と言える。  そしてパメラは、自らの兄を倒すために言霊術(スペルキャスティング)を身に着けた。  しかし、そうだとしてもいくつかの謎が残る。  疑問一、なぜパメラが突然、現れたのか。何かのきっかけがあったのか。  疑問二、パメラはどうやって半年であそこまでの言霊術を身につけたのだろうか。この手記のメイベルの記録が正しければ、パメラが現れたのはたった半年前。ベンジャミンの目からしても半年であれほどの力を身につけるのは難しい。  疑問三、手記にある“力”とは、カーマインが言っていた悪魔から得た力なのだろうか。だとしたらパメラに良からぬ力を与えた者とは一体誰なのか。文脈からすると、彼女に言霊術を教えた人物とイコールとも読み取れるが……?  しばらく押し黙った後、ベンジャミンは一つ一つ噛み締めるように切り出した。 「メイベルは、きっとその5月22日に、ストランド街でデニスの姿を見かけたのでしょうね。それがきっかけとなって、彼女の奥底に眠っていたパメラが現れた」 「そうですね。わたくしもそう思います」  疑問一は、ひとまず推測が成り立つ。 「そして、パメラは誰からか言霊術を学び、デニスを倒そうとするわけですよね。つまり、サラにメイベルの顛末を話してくれたという言霊師の老人が、彼女に言霊術を教えたということになるのでしょうか?」 「いいえ。それが違うようなのです」  彼の予想に反して、マクシーンはかぶりを振った。 「実は、パメラがどこでどうやって言霊術を学んだのかは誰も知らないのです。サラに話をしてくれたのはギブソンという方で、当時の言霊師たちの中でも最高齢で、長老のような位置におられた方なのですけども、その彼もパメラの師匠が誰であるかを知らなかったそうです」 「そうですか」 「サラは、そのギブソン氏から言霊術を習いました。当家の言霊術は、そこから継承されてきたものなのです」  ベンジャミンは嘆息した。有り得る話ではある。メイベルとパメラとデニスの愛憎劇。彼らの関係は完結しているようでいて、何か欠けているところがある。  そう。パメラに力を与えた者の存在である。  こうした手記の中でも存在を悟らせないところが、逆に不審さを強めるのだ。用心深く身を隠した謎の人物──。  あとは過去の時代で調べるしかないのだろうか。 「何か、役に立つことは分かりましたか?」  ベンジャミンが黙っていたので、マクシーンが尋ねてきた。彼は思考の中から義母に意識を戻すと、半ば慌てて、すみません、と謝った。 「もちろんです。こんなに貴重なものを私のような者に見せていただいて、本当に感謝しています」 「いいえ」  マクシーンは、そこでうっすらと微笑みを浮かべて見せた。この部屋に入ってからは初めての笑みだったのだが、それは少し寂しげなものでもあった。 「まあ、歴史は変わらないのでしょうけど。わたくしはデニスやメイベル、そしてパメラの魂が少しでも安らかでいられるように願うだけです」 「そうですね」  うなづきながらベンジャミン。  しかし彼は知っていた。歴史は変えられるのだ。今なら、パメラを破滅から救うことができる。他でもない自分が、ヴィクトリア時代にトリップして彼女を助けることによって。  ベンジャミンはもう一度、手記のページをめくり、内容を読み直してみた。何か気付かなかったことはないか。重要な情報を見落としてはいないか。刑事らしい慎重さを見せて、彼は一枚一枚のページを丹念に見直していった。  確かにパメラとメイベルは明らかに筆跡が違う。  言ってしまえばメイベルの方が流れるような筆記体で書かれており達筆だ。パメラは少し幼い感じも匂わせたブロック体である。ただしインクは同じものを使っているようで、色も匂いも変わらないように思える。  そして、ベンジャミンは最後の文章を読み終えて、手記を閉じようとした。   ── わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。  ──!  その時、身体中に電撃が走ったような感覚がして、ベンジャミンはカッと目を見開いた。  まさか、そんな馬鹿な!  あまりの衝撃の強さに本を取り落としそうになったが、手を伸ばし、かろうじて落とさずに済む。  マクシーンが彼の異変に気付いて、何か気遣うような言葉を口にしたが、ベンジャミンはそれをまともに聞き取ることすら出来なかった。  わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。  この文章だけ、筆跡が違っていた。  パメラの筆跡に似せてあるが、別人が書いたものであった。  ベンジャミンには二つの筆跡の区別が明らかに見えた。筆跡というより、言葉そのものに聞き覚えがあったからだ。    あの病室。  病気の進行が止まらず、白いベッドに横たわったアイリーン。  やせ細った彼女の手を握ったとき、彼女が口にした言葉だ。  医師であった妻。アイリーンはベンジャミンの身体を気遣って、そう言ったのだ。  続く言葉も覚えている。  ──大丈夫よ、ジャム。わたしはここに、あなたとずっと一緒にいるから。  そう言って、彼女は彼の胸を指差したのだ。  マクシーンが何かを言っている。  しかし、彼の耳には届かなかった。  ベンジャミンは自分の手の震えをしばらく抑えることが出来ず、まるで魅入られたかのように手記の文字を見つめていた。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※チェルシー・フラワー・ショー: 毎年5月にチェルシーにあるロイヤル・ホスピタルの庭で行われる園芸祭。王立園芸協会の主催で行われ、薔薇などのコンクールなどもある。もちろん現代まで続いており、開会式には女王も来るほどの由緒正しい式典。 ※ロイヤル・ホスピタル: イギリス陸軍の元兵士の隠居所。65才以上の元軍人が500名ほど入所している。軍人向けの老人ホームみたいなもの。 ※コヴェントガーデン劇場: 中流から上流の人たち向けの劇場。現在は「ロイヤル・ハウス・オペラ」という名前になっています。 ────────────────────── An interrude 地下室の密談  彼は笑っていた。  暗闇の中。パソコンのモニターの青い光が、彼の眼鏡にチラチラと映り、その瞳を隠している。  くくくく。  窓のない室内には、彼の他には誰も居なかった。きちんと蛍光灯の照明が備わっているというのに、この部屋の何と暗いことか。  くくくく。  彼は非常に太った男であった。  年齢は若い部類に入る。おそらく20代後半である。髪は短く、服装もシャツにスラックスというごくありふれたものだ。清潔ではある。しかし、彼からにじみ出る雰囲気は、とても健康的といえるものでは無かった。  くくくく。  その声は小さく。床の上を這いずるゴキブリの羽音に匹敵するほどだ。だがこの静寂が、彼の声をベンジャミンに届けてくれた。    そう。ベンジャミン。  ベンジャミン・ハロルド=シェリンガム。スコットランドヤードの超常犯罪調査部(UCB)の部長であり、38才の男やもめにして、本編の主人公でもある彼は、扉を背に、ごくりと唾を飲み込んでいた。  ベンジャミンがこの部屋──地下に存在するUCBの、ホームタウンともいうべき場所に足を踏み入れてから数秒が経過していた。その視線は、当然パソコンに向かう肥満体の男に注がれている。 「そこで何してんだ? 部長」    沈黙を破ったのは、肥満体の方だった。彼の名はクライヴ=コルチェスター。階級は巡査部長。いわゆるベンジャミンの部下の一人だ。  彼は目線を、自分のパソコンから動かさず。ただ笑うのをやめて、ベンジャミンに声を掛けていた。 「ああ、クライヴ。その──」  ホッとしたようにベンジャミンは口を開く。彼は、要するに部下に話しかけるタイミングを逃していたのだった。  止めていた時間を、動かすように。  ベンジャミンは、ゆっくりとクライヴの席に近付いて行った。机の角を回りながら、腕のタグホイヤーをちらりと確認すれば、時刻は20時半だった。 「悪いな。残ってもらって」 「話って何だよ」  隣りに立つ上司を見もしないクライヴ。ベンジャミンは、彼の態度にはもう慣れていたので、何も言わなかった。  彼のテーブルの上には黄色いMのマークの付いた、アメリカ発祥のジャンクフードの袋が置いてある。ストローの刺さったコカ・コーラと思しき紙コップからは水滴が滲み出し、テーブルにわずかな水溜りを作っていた。 「あー、クライヴ。どこかレストランで食事でもしながら……と、思ってたんだが」 「あんたはまだメシを食ってないのか。そりゃ気の毒だな」 クライヴは顎で、ジャンクフードの袋をしゃくってみせた。「俺はもう済ませた。話はここでしてくれよ」  にべもない口調である。  そう言われ、少し困ったような顔をしながらベンジャミンは指で自分の頬を掻いた。 「うーん、少し話は長くなるんだが……。クライヴ、こう言っちゃあ何だが、もっと美味いものを食べたらどうだ?」  彼は頭の中で、クライヴの経歴を思い出していた。彼はこう見えてもかなり由緒正しい家柄の出身である。決して食費に困るようなことは無いだろうに。 「……美味い肉料理の店を知ってるんだが」 「──あんたはアメリカが嫌いなのか?」  急にクライヴが言った。え? と聞き返すベンジャミン。 「ああ、俺もそうだよ。俺もアメリカが嫌いだ」  返事を待たず、彼は続ける。 「だが、俺はマクドナルドのハンバーガーを愛してる。心の底からだ。とくにハンバーガーとコークは黄金のペアだ。肉汁も出ないような薄っぺらな肉を、コークのカフェインで胃袋に流し込むのがたまらねえんだよ。俺はこの二つがないと生きていけないんだ」  言葉を切り、ようやくクライヴは顔をこちらに向けた。陰気な小さな瞳が、ベンジャミンの顔を捉える。 「見てみろよ」  と、彼は目線を動かし、上司にパソコンの画面を見るように促す。  何を言い出すのだろう。目をパチパチやりながら、ベンジャミンは言われたとおりにモニターを覗き込んだ。  パソコンの小さな画面の中では、動画の小さな窓が映っていた。  その中では、中世の鎧でコスプレした痩せた男が、ごつい銃を片手に何やら叫んでいる。パソコンの貧弱なスピーカーからは、ときおり、ドッと上がる笑い声が聞こえていた。 「──ニック・ウォルターズのコントだ」  これは何? と、聞く前にクライヴが回答をくれた。 「あんたが遅いから、ユー・チューブで配信されてるのを見てた」 「そ、そうか。悪かったな」  ベンジャミンは隣りのデスクに寄りかかりながら、思わず苦笑する。  ニック・ウォルターズは、最近ロンドンの若者に大人気のコメディアンである。テレビ番組にも出演しているし、市内の小劇場でも絶大な人気を誇っているらしい。 「これは“リチャード三百跳んで十六世”だ。リチャードが、政敵のリッチモンドを聖なるアサルトライフルで蜂の巣にするところだよ」 「ひょっとして、“馬をよこせ、代わりに我が王国をくれてやる!”のところ?」 「そうだよ。リチャード三百跳んで十六世は、馬の代わりに銃を所望したのさ。だからリッチモンドも、あっけなくあの世行きだ」 「ははは、面白いね」  古典パロディの類か。失笑するベンジャミン。  チラリ。クライヴが彼を見た。 「面白いか? 俺はちっとも面白くない」 「えっ……」    二人の間に沈黙が訪れた。 「──で?」  クライヴの短い言葉で、ベンジャミンは口にしようとした言葉を飲み込んだ。さっき笑ってなかったっけ? 部屋入ってきた時、笑ってなかったっけ。くくくくって。 「いや、実は、クライヴ。君に相談したいことがあったんだ」  だが、ベンジャミンはすぐに気持ちを切り替えた。そこはそれ。彼はこう見えてもスコットランド・ヤードの中でも最年少の警視なのである。どんなシチュエーションにも今まで柔軟に対応してきたのだ。このぐらいどうってことはない。  その上司の姿を、クライヴは小さな瞳でじっと見つめた。右手でマウスをカチッとクリック。ニック・ウォルターズをオフにした。 「──カーマイン・クリストファー=アボットのことか? あんたの曾々祖父の」 「察しがいいな。だが、それだけじゃないんだ」  にこりと微笑んで、ベンジャミンはテーブルの上にしっかりと腰掛ける。それを見て、クライヴも、太った身体を上司の方に向け話を聞く体制をとった。  が。  いよいよ、話し出そうとして、ベンジャミンは唾を飲んだ。ごくりと咽喉が鳴る。 「あ、その……。本題に入る前にな、その、まずはお願いがあるんだ」 「お願い? なんだよ、それ」  言葉の代わりに、思わず苦笑いするベンジャミン。  ベンジャミンは、ここ数日の間に自分の身に起こったこと、それらを全て、今こそ、クライヴに話すつもりだった。しかし──。彼は信じてくれるだろうか。あのトンデモ体験のことを。気が狂ったとでも思われたら、どうする?  下唇を舐め、彼は口火を切った。 「クライヴ。今から俺がする話に笑わないで欲しいんだ」 「──ああ」 「そんなの馬鹿げてる、もナシだ」 「ああ」 「嘘だ、もナシだ。妄想だとか、有り得ない、とかもナシだ」 「分かったよ。まどろっこしいな。それで、一体何なんだよ?」  部下を混乱させてはならない。ベンジャミンは思った。自分は、この超常犯罪調査部の部長なのだ。こういう時は、なるべく簡潔に、要点をかいつまんで説明せねば。  しばらく押し黙った後、ベンジャミンは思い切って口を開いた。   「弟のドラッグを飲んだら、ヴィクトリア時代に行けたんだ。そこで俺は亡くした妻に会えた。それだけじゃない、魔術すら使えるようになっちまったんだ」   「……」  その言葉を聞いて、クライヴは目を細めた。元々、小さな瞳が見えなくなるほど。 「──ドラッグ、だと?」  ゆっくりと、言う。 「そうなんだよ、ドラッグだ」  思わず辺りを見回しながら、スコットランド・ヤード最年少の、エリート警視は声を潜めた。 「弟のソフト・ドラッグと、俺が処方されていた肝臓の薬を一粒ずつ飲んだら、ヴィクトリア時代に行けるんだよ。ほ、本当なんだよ。信じてくれ」 「……」  また少しの間があった。  クライヴは止めていた息を吐き出すように、長く息をついた。  肺の中の空気を全て外に押し出してから、じっと上司の目を見る。それから、話の先を促すように、手の平を天井に向けてみせた。  全くの無表情だ。 「そ、それで、亡くした妻だと思ってたのは、実は彼女の先祖らしいんだ。その貴婦人は回りからは“黒ノ女王”っていう通り名で呼ばれていて……。だから、彼女は俺の妻とはあくまで別人のはずなんだ、だけど──」  言いかけて、ふいにベンジャミンは言葉を切った。  相手が笑っていたからだ。クライヴは眼鏡の奥の瞳を細め、いつの間にか口をUの字にし、にんまりと笑っていた。 「クライヴ、笑うなって──」 「おう、そうだったな。すまんすまん」  ムッとしたような顔をしたベンジャミンに、クライヴは大げさに両手を挙げてみせた。  そのまま、ニヤニヤという笑いを口に張り付かせたまま、彼は眼鏡を外した。いつも掛けている古風な丸眼鏡を、である。 「驚いたな。驚いたぜ、サプライズ・サプライズ」  今度こそ、サイコーに驚いたぜ。ドラッグかよ、と。クライヴはゆっくりと眼鏡ケースから布を取り出し、丸眼鏡を丁寧に拭き始めた。 「さすがだな、部長。只者じゃねえとは思ってたが、まさか生身で行くとはな」  何を言っている? ベンジャミンは首をかしげた。 「──この俺だって、モニター画面越しでしかねえんだぜ?」 「え」 「1888年だろ? あんたが行ったのは」 「──え?」  口をぽかんと開けるベンジャミン。 「切り裂きジャックが娼婦の腹を切り裂いた年。そして、王立闇法廷が設立された年だ」 「クライヴ?」 「分かんねえのかよ、ニブいな」  フン、と彼は鼻を鳴らした。 「俺だって、行ったことがあるんだよ。ヴィクトリア時代のロンドンにな」   クライヴは真っ直ぐに上司の顔を見ながら、コン、とパソコンのモニターを指で叩いて見せた。「──こいつを使っての話、だがな」  目をパチパチさせるベンジャミン。  相手の言った言葉の意味を反芻する。  ──パソコン越しに行った。どこに? ヴィクトリア時代に。  そして最後に、彼は大きな声を上げた。 「え、えええッ!?」    ***  二人がお互いの話を終えたのは、それから二時間後のことだった。  最初に話をしたのはベンジャミンの方だ。  弟のドラッグと、自分の肝臓の薬を一緒に飲んだことで、初めてヴィクトリア時代にトリップした夜のこと。  未解決事件の容疑者であるナンシー=ディクソン──現代人であるはずの彼女が、なぜかヴィクトリア時代に現れ、それを逮捕しようとしたベンジャミンが、狼女のように凶暴化した彼女に襲われたこと。  そのナンシーを、“黒ノ女王”と呼ばれる貴婦人が魔術を使って殺害したこと。  “黒ノ女王”がベンジャミンの妻アイリーンに瓜二つであり、且つその正体は、彼女の先祖にあたるレディ・メイベル・ヘレナ=カールトンであること。  義理の母であるマクシーンに相談して、メイベルの手記を読ませてもらったこと。  それによると、メイベルは多重人格者であり、その中のパメラという人格が言霊師(スペルキャスター)としての力を持ち、ヴァンパイアの秘密結社の本拠地に乗り込み壮絶な最期を遂げることになったということ。  まず、話したのは、アイリーンと黒ノ女王に関することである。  →Chapter 2-4「狼女と貴婦人」  →Chapter 3-1「黒ノ女王」  →Chapter 3-7「彼女の疵」  →Chapter 4-2「言霊師パメラ」   「それなら、話は完結してるじゃねえか」  くちゃくちゃとガムを噛みながら、クライヴは相槌を打つ。 「彼女は、ヴァンパイアたちと刺し違えるんだろ。あんたの出番は無いじゃねえか」 「違うよ」  ベンジャミンは語気に力を込める。 「俺は、彼女を助けたいんだ」 「……て、言うと?」  目を上げ、チラリと上司を見るクライヴ。ベンジャミンもその瞳を見返す。  ──分かっていた。相手が、どんな言葉を期待しているか。そして、その言葉を発することで、どんな責任が生じるかも。 「俺は、彼女が死ぬという結末を変えたいんだ」   「へえ」  クライヴは、口の端でニヤリと笑うと、視線をパソコンに戻した。 「まあ、そう言うだろうとは思ったが、な。……で? 彼女を止めるなり、手助けする方法には見当ついてんのか?」 「ああ」  ベンジャミンは避難されなかったことに、胸をなでおろす。歴史を変えるということに、少なからず抵抗感を持っていたのだが、クライヴはその辺りにはあまり頓着していないようだった。 「彼女がヴァンパイアの本拠地に乗り込むのは、そこに実の兄がいるからなんだ。だから、その兄と事前に会えるようにすれば大惨事は避けられるかもしれない。穏便にいくのは無理かもしれないが」 「つまり? 黒ノ女王は、実の兄を殺そうとしてるってことか」 「彼女の手記からは、そう読み取れた」  義母マクシーンから見せてもらった、百年以上前の手記。そこには欠落していることも含め、多くの情報が詰まっていた。 「彼女は非常に短い間に、強力な力を身に着けている。だから、カーマインが言うには、彼女の背後に“悪魔”がいて、彼女の魂と引き換えに力を与えているという線が有力らしい」 「ああ、道化師(クラウン)のことだな」  何やらキーボードに打ち込みながら、したり顔で言うクライヴ。 「分かるのか?」 「ああ。1888年のロンドンの闇には、そういった住人も住んでる。“悪魔”というより“道化師(クラウン)”という隠語で呼ばれることの方が多いんだがな。人に取り憑いて、願い事を叶えてやる代わりに、最後にその魂を吸っちまう連中さ。──と、それより」  クライヴは淡々と続けた。 「カーマイン=アボットとは、他にどんな話を?」    そんなわけで、次に話したのは、王立闇法廷と彼の曾々祖父のことだった。  王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)は、不可解で魔術的な凶悪犯罪を裁くために設立された内務大臣直轄の組織である。カーマイン・クリストファー=アボットは、そのトップであり法廷弁護士(バリスター)であるが、神秘魔術の心得もあるらしい。  その彼に出くわしたのは、狼女のナンシーを追っていた時だった。弟のジェレミーと一緒にいるところに、カーマインが通りかかったのだ。  そしてベンジャミンは、カーマインに脅迫されて、王立闇法廷の仕事を手伝わされることになった。  それらの経緯を、ベンジャミンはかいつまんで話した。  →Chapter 2-2「100分の5のホンモノ」  →Chapter 3-2「月妖ブラザーズ」  →Chapter 3-3「彼女は悪夢」   「何で、先祖に脅迫されるんだよ」  突っ込むクライヴ。 「お前もそう思うだろ? あのカーマインの野郎、俺たち兄弟が意に従わなかったら、曾々祖母のアナ・モリィ=シェリンガムとの交際をやめるって言うんだ。卑怯だと思わないか?」  憤慨しながら言う上司の顔を見て、一瞬、クライヴはきょとんとした顔をした。不思議そうに口をすぼめながら。 「……あ、ああ。そうかよ。へえ、そりゃ面白いな」 「俺は、面白くない」  んー、と言いながら眼鏡を直しクライヴ。 「だから、あんたは神秘魔術(オカルト)じゃなくて言霊術(スペル・キャスティング)を?」 「ああ。まあ、成り行き上、な」    そして、ベンジャミンが最後に話したのは、自分が習得した魔術──言霊術(スペル・キャスティング)のことと、師匠たる老人クラウドから聞いた多次元的世界(パラダイム)のことになった。  クラウドによれば、この世界は様々なパラレルワールドで構成されており、その数は無限。ベンジャミンと弟ジェレミーは、1888年と2006年を行ったり来たりしているのではなく、クスリを飲むたびに新たな世界に“越境”しているということだった。  トリップした次の日にサッカーの試合を見て、ベンジャミンは自分の世界の異変に気が付いたのだ。  彼の記憶では、イングランドのオフィシャルチームのアウェーのユニフォームは、赤であったはずだった。それが白に変わっていた。つまり、彼はユニフォームが赤の世界から、白の世界に来てしまったというわけだ。  そして、1888年の世界においては、彼は普通の人間ではなく。存在が“希薄”であるため、一般の人間からは“見えない”らしかった。  →Chapter 3-4「アウェーは白?」  →Chapter 3-5「世界はパラダイム」   「ああ、クラウドか」 「知ってるのか?」 「その筋では有名な男だぜ。言霊師の中では一、二位を争うほどの実力の持ち主だ」  いい師匠に恵まれたじゃねえか。と、クライヴはニヤリと笑いながら言う。 「多次元的世界(パラダイム)のことも、俺の認識と相違ない。俺は生身で1888年に行ったことはないから、“越境”することはねえがな」 「そうなのか」 「俺は確かに、何度もヴィクトリア時代に行ったことがある。だが、それはインターネットを通じての話だ」  彼は、人差し指の関節でコンッとパソコンのモニターを叩く。  彼は彼で。自らパソコンを駆使して、ヴィクトリア時代のロンドンの隠された闇の世界への道を見つけたのだという。彼は、そうすることによって、この課で取り扱う事件の裏を取ったり、ヴィクトリア時代風の“レジャー”を楽しんだり、密かに活動を続けていたのだと、話してくれた。 「所詮、俺はあっちの世界をのぞき見てるだけなのさ。アイコンを使って、あっちの世界に干渉することもあるが、それによって俺がいるこの世界が変わることは無いし、歴史が変わったことも無い」  クライヴは、一度、言葉を切った。 「つまり、だ」  彼は手短な紙を引っ張り出すと、そこにサラサラと図を書いてみせた。  大きな丸が二つ。左の丸には「1888年」。右の丸には「2006年」と書いてある。それぞれの丸の中に、さらに小さな丸をいくつか書き加えていく。そして最後に、右側の小さい丸から、左側の小さい丸へと矢印を書き加えてみせた。  (※図1)   「それぞれの時代に異なるパラダイム──パラレル・ワールドと言い換えてもいいだろう。様々な似て非なる世界が重なり合ってる状態だ。そこに、パソコンとインターネットを使ってアクセスすると、こういう図のような状態になる」  紙から目を上げ、クライヴ。 「俺は、1888年の様々な次元にアクセスすることが出来る。一回目と二回目と違う次元に行くこともある。とはいえ、帰ってくるのは必ず同じ世界に過ぎん。──だが、あんたの場合は違う」  さらに、クライヴは同じような図を書いてみせた。違いは、矢印の状態だ。  矢印は、常に違う丸へと結ばれている。 (※図2) 「あんたは、ドラッグを使って、自分の選んだ次元に行けるのさ」 いや──、とクライヴは言い直す。「あんたは、過去を変えることによって、自分の望んだ次元を新たに作り出してると言った方がいいな」 「なるほどな……」  唇を噛み、うなづいてみせるベンジャミン。  ショックでは無かった。うすうす分かっていたことを、部下が論理的に説明してくれただけの話だ。 「新しい次元を作り出す、か……。なあ、クライヴ。それは現在に戻ってくるときだけじゃないんだよな? 俺がドラッグを飲んだ時。その場合も1888年に新しい次元を作り出しちまうこともあるんだろう?」 「ああ。ビンゴさ、部長」  頷くクライヴ。 「そうだよ。つまり、あんたが殺人犯のナンシー・ディクソンを1888年に具現化させたってことさ」  ──それが、歴史を変えるってことさ。彼はそう締めくくった。  ベンジャミンは答えなかった。  彼は、普段、犯罪捜査のために使っていた頭脳を、自分の置かれている状況のためにフル回転させていた。  変える。  新しい世界をつくる。  彼が望むもの、それは。  “彼女”が死なない世界──。 「……まあ、好きにすればいいんじゃねえか?」  やがて、ポツリとクライヴが言った。その言葉で、ベンジャミンはふと我に返る。 「俺は、世界を変えることはできねえが、今のこの状況を気に入っちゃあいるんだ」 「クライヴ」  ──自分のことが、羨ましいのだろうか。ベンジャミンは部下の姿を改めて見下ろした。クライヴも、ヴィクトリア時代に生身で行ってみたいと思っているのではないだろうか。  そう思い、そっと付け加えてみる。 「俺らのクスリ、飲んでみるか?」 「──無理だよ」  ほぼ即答だった。当の本人はこちらを見もしない。 「俺には無理だよ。素養が無い。俺はこの──先祖が残してくれた眼鏡がなきゃ、例の業務委託書も読めない。肉眼じゃ何も見えないんだからな」  それに、と、彼は続ける。 「ヴィクトリア時代には、マクドナルドのハンバーガーが無いだろ」 「そりゃそうだ」  クスと笑うベンジャミン。ただし、クライヴは真顔のままだった。小さな瞳が彷徨い、青い光を発するパソコンのモニターへと落ち着いた。 「部長、ウチの課の事件を分類したこと、覚えてるだろ?」  眼鏡を掛けた太った刑事は、のろのろと指をパソコンのキーボードに置く。文字を打つでもなく、太い指をキーボードの上に這わせ、それをじっと見つめている。  言われて、ベンジャミンは数日前のことを思い出した。  彼は、この超常犯罪調査部[UCB]に赴任してきてから、この課で扱った過去の事件をクライヴとともに分類したのだ。  ほとんどが、取るに足らない事件であった。だが──。不可解で不審極まりない迷宮入り事件も、わずかに発生しているのである。彼は、それらの事件を“ケースB”とカテゴライズしていた。 「ケースB。全事件のうち、約5%、だったな」 「ああ」  クライヴは、右手を動かしマウスをクリック。カチッ。また、小さな窓が出た。ニック・ウォルターズが、くだらないコントの続きを披露し始める。 「俺は、ケースBが1%ぐらいになりゃいいかな、とは思ってるんだ」 「そうか」  ベンジャミンは、部下を見下ろした。その眼鏡には、モニターの光が反射してしまって中の瞳は見えなかった。 「そうだな。俺も、そう思うよ」  そう言って、最後にベンジャミンはニッコリと微笑んでみせた。 ────────────────────── Chapter:4-3 ツッコミの悪夢  本当のことを言うと、ひとつだけクライヴに話さなかったことがある。  あの、ことだ。  ベンジャミンは、緑のクッションの長椅子に腰掛けて、開いた両膝の上に手を置いていた。様々なことに思いを巡らせながら。  いつもの──ヴィクトリア時代の夜である。  正面にはカーマインが、隣りには弟のジェレミーがいる。そこはカーマインの私邸の応接室で。三人は遅すぎるティータイムを楽しみつつ、会話を楽しんでいた。 「……しかし、意外だな。百年経っても、クリケットが新大陸にまで広まらないとはね」 「うん、そうなんだよ。クリケットはイマイチなんだよね。でも、テニスにゴルフに、フットボールは世界中に広まるんだよ。フットボールはワールドカップだってあるしね」 「ワールドカップ?」 「世界中の人たちが、タマ蹴りを楽しむようになるってことさ」    ……とは言っても、楽しんでいたのはカーマインとジェレミーだけだったが。  ベンジャミンはずっと無言で、一人の世界に閉じこもっていた。話しかけても何も返事もしないので、他の二人は諦めて彼を放ったままにしていた。  部下のクライヴに話さなかったこと。──それは、彼の妻からのメッセージのことだった。  “黒ノ女王”こと、メイベル・ヘレナ=カールトン。彼女の手記の中にあった、筆跡の違う一文。その言葉。  ──わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。  あれは、アイリーンの言葉だ。  ベンジャミンは、そう確信している。そして、メイベルが多重人格者であることも分かっている。……ということは。おのずと答えは見えてくる。    アイリーンは、きっと、そこに居る。 「ジャム」  先ほどから、ベンジャミンはそのことばかり考えている。 「……ジャム」  自分が声を掛けられていることにようやく気付いて、彼はつと顔をあげる。カーマインが、いつの間にか窓際に立っていて、彼を見つめていた。 「来たぞ」 「なに?」  首をかしげるベンジャミンに、法廷弁護士はひとつ嘆息しながら、言い添える。 「モリィだ。アナ・モリィ=シェリンガム。君たちの曾々祖母だよ」    ──そうだった。  ベンジャミンは、黒ノ女王が残した手記の内容をカーマインに話した。もちろん妻の言葉がそこにあったことは言わなかったが、他のことは全て話した。  そうしたら、カーマインが言ったのだ。──君たちのご先祖たる、あの女傑の力を借りよう、と。  アナ・モリィは、他人の夢の中を覗くことができる“夢魔(ナイトメア)”の力を持っている。だから、黒ノ女王ことメイベル=カールトンが眠っている間に、アナ・モリィの力で夢の中に入り込んでしまえば、“心の中を直接”調査することができる。  夢の中なら、彼女の深層心理を覗き、彼女が具体的にどんな事件に巻き込まれているのかを探ることができる。メイベルの手記に痕跡すら残していない、彼女の“謎の協力者”。その相手の正体を突き止めることも可能だろう──。  それが、カーマインの提案だった。  そして彼はしたり顔で付け加えた。時間をうまく合わせれば、アナ・モリィに会うことは簡単だ、とも。  問題は、どう頼むかだが。  まあ、それもどうにかなるだろう。王立闇法廷のトップは、そう言って微笑んだのだった。 「……」  ベンジャミンは、弟をチラリと見る。ジェレミーは目をキラキラさせて期待に満ち満ちた顔をしている。無理もない。  アナ・モリィ。この時代でのシェリンガム家の当主にしてベルフォード男爵の称号を持つ。作家であり活動家であり、辛らつな評論家でもあった女性である。貴族を嫌い、中産階級の友人とばかり付き合い、あげくの果てには男爵位を売り払ってしまうような豪胆な貴婦人だ。  そして、彼女は写真や肖像画の類を嫌い、自分の姿を後世に一枚も残さなかった。  ……つまり、二人の兄弟は、この名の売れた先祖がどんな外見を持っているのか全く知らなかったのだ。  ジェレミーのように顔には出さなかったものの、ベンジャミンもそれなりの期待感を持っていた。どんな女性なのだろうか。美人なのだろうか。背は高いのか低いのか。髪の色は金だろうか、目の色は──。 「邪魔をするぞ」    と、思ったら、居た。  いつの間にか、居た。 「うわあ!」  ジェレミーがオーバーアクションで驚いてみせる。空いた椅子に、いつの間にか一人の人物が座っていたからだ。  扉は開いていない。何の物音もしていない。それなのに、唐突に降って沸いたように、一人の女性がこの部屋のメンバーに加わっていた。 「モリィ」  窓から振り返り、カーマインが言った。 「今夜ぐらいは、玄関を通ってくれ」 「ああ、済まん。面倒だったんで跳ばしてきた。だが、どうせ、この二人も月妖(ルナー)なんだろう?」  答えた声は、澄んだ女性のものだった。  ベンジャミンは、ぽかんと口を開けて、その相手を見つめている。  この人物が、アナ・モリィ・グウェンドリン=シェリンガム、なの、か。 「何だ?」  目が合った。  瞳はグリーンだ。ジェレミーと同じである。耳の下で短く切り揃えられた髪の色も、ブロンドで、これもジェレミーと一緒だ。肌の色は白くて、涼しげな目元をしている。銀縁の眼鏡を掛けているところも実に作家らしく、彼女の知性を端的に現していた。つまり一般的に言って、彼女は美女といって差し支えなかった。クール・ビューティといった感じだ。 「ええと……」  だが、問題は、その服装だった。  彼女はほとんど黒に近い濃赤色のスーツを着ていた。もちろん下はスカートではなくスラックスだ。トップハットは被っていないものの、襟元にはリボンタイを付けており、手には白い手袋をはめている。  まるで──男性の格好じゃないか。  パンツスーツ姿の女性を見ることは珍しくない。だが、ここはヴィクリア時代であって、現代ではないのだ。こんな格好をした女性など、皆無に等しいのではないか。 「じろじろ見るな、不愉快だ」  ベンジャミンがそう思ったとき、その女──アナ・モリィが眉間に皺をつくりながら言った。 「わたしのことはCCから聞いてるんだろう? 驚くことじゃなかろうに」 「いや、その──」 「スッゲェ!!」  失礼を彼が詫びようとした時、隣りで歓声を上げた者がいた。  言わずもがな、ジェレミーだ。  ブロンドの青年は、まるでマンUのロナウドがヘディングでゴールを決めた時のように飛び上がって、はしゃぎだした。兄の肩を叩き、スゲエを連発し、足をドタドタと踏み鳴らす。 「ウワァ、本物だ。スッゲェ! ジャム、スゴイよ、本物のアナ・モリィだよ」  当のアナ・モリィが片眉を上げる。 「俺、カンドーしたよ! 神サマにだって感謝しちゃうよ。ドラッグやっててホントに良かった。まさか、あのアナ・モリィに直に会えるなんて!」 「君」  男物のスーツを着た女は、顎を引き、真っ直ぐにジェレミーを見た。 「君は、わたしのファンなのか?」 「違う違う、そうじゃないよ」 ジェレミーは大きく手を振りながら言う。なぜか照れたような笑みを浮かべながら、「俺たちは、未来からやってきたんだよ。俺、ジェレミーっていうんだ。ジェレミー・ナイジェル=シェ……」  はっ、と顔を上げるベンジャミン。まずい、その先は──! 「──アボット、だな?」    そこで口を挟んだのはカーマインの方だった。  いつの間にか、ジェレミーの後ろに回りこんでいたカーマインは、片手を青年の肩にしっかりと置いていた。 「モリィ。紹介が遅れて済まなかった」  と、彼は女の方を見て、微笑んでみせる。自分の姓を言いかけたジェレミーをフォローするように、カーマインは滑らかに説明を続けた。  取り繕っている様子など微塵も見せずに。 「この二人は、ベンジャミン=アボットと、ジェレミー=アボット。兄弟だ」 「アボット?」  アナ・モリィは、いぶかしげな様子で友人に目を向けた。ジェレミーは、きょとんと背後のカーマインを振り返る。 「そう。僕の子孫だよ。珍妙な格好をしているが、目をつむってやってくれ」 「子孫? ハン、“来訪者(ビジター)”ということか」  ふぅんと、納得したように腕を組んでみせるアナ・モリィ。  そこへ、おい珍妙とは何だよ、と声を上げるベンジャミンに、アボットアボットと呪文のように繰り返すジェレミー。  カーマインはニコッと微笑んだ。 「そして彼らは、ロイヤル・コーツ・オブ・ダークネス・イレギュラース、すなわちCDIの一員でもある」 「はぁ?」  さも当然のことのように話を進める彼に、ベンジャミンが慌てて待ったをかけた。 「待て。なんの話をしてる?」 「ああ。君たちはイレギュラースとして扱われることになったから、そのつもりで」 「何だよそれ! 聞いてないんだけど」 「それはそうだ、当然だよ。だって僕が今、決めたんだから」  王立闇法廷のトップは、涼しい顔で言い放った。「CDI、悪くないだろ?」 「また勝手に──」 「──おい、君」  そこで、ふいに口を挟んだ者がいた。  ベンジャミンは前方へ視線を戻す。アナ・モリィだった。彼の先祖が、彼のことをじっと見つめていた。冷たいグリーンの瞳である。何か非難をするような、そんな色が浮かんでいた。 「経験者かと思ったら、違うのか」  エ? と、ベンジャミン。 「遅いんだよ。決定的に遅い。“今、決めたんだから”ときたら、間髪入れずに“今かよ!”と返すべきだ。単純なツッコミだからこそ、間が命になるんだからな。ネタじゃない、間こそがコントの全てと言っても過言ではないのに」  彼女は淡々と言い、残念だとばかりに深くため息をついた。 「もう遅い。まったく笑えんな」 「アハハ、言えてるー」  先祖の言葉に、ジェレミーが手を叩いて喜んだ。その傍ら、ベンジャミンはポカンとだらしなく口を開けていく。  ──え、何で俺、ダメ出しされてるの? しかも先祖に。しかも、俺って、ツッコミなんですか? 経験者って何って、ツッコまないといけなかったの、もしかして?  まさかの仕打ちに、彼はがっくりと頭を垂れた。 「笑えんコントほど、惨めなものは無い」  が、そんなベンジャミンをよそに、アナ・モリィは膝に手をおき、腰を浮かせ立ち上がろうとする。話はもう終わったと言わんばかりである。 「CC。用件はこれだけか? 本題に入らないのなら、わたしはこれで失礼する」 「まあまあ。モリィ、君は相変わらず忙しないな」  早々に帰ろうとする彼女をなだめるように、カーマインが声を掛ける。 「手紙で少し用件を説明しただろう? ある女性の夢の中を探りたいのだ。君の力が必要だ」 「ふん」  尊大な態度を見せながら、女流作家はもう一度、椅子に身体を預けた。  眉間に眉を寄せたまま、目の前の兄弟をじろじろと見る。 「子孫か。似てないな。ただ、そっちの方」 と、ベンジャミンの方を顎でしゃくり、「CCとは目と髪の色が同じだな。それぐらい、か」 「モリィ、その女性というのは──」 「──子孫を伴っているということは、お前の個人的な案件か?」  カーマインが説明をし始めているというのに、彼女はおかまいなく自分のペースで質問を浴びせた。本業が作家であるからか、彼女は二人が未来人であるという事実を疑っている様子は無かった。しかし。  ──なんで、そんなに不機嫌そうなんだろう?  ジェレミーは話を聞きながら、珍しく顔を曇らせていった。彼にとって、会いたくてたまらなかったアナ・モリィ=シェリンガム。その容貌には少なからず驚かされたし、カーマインが気を使って自分の言葉を遮ったのも、今では理解できる。  でも──。なぜ、彼女は不機嫌なままなのだろう? 「個人的な案件、か。まあ、そういうことになるかもしれないな」  眉を上げて答えるカーマイン。 「お前にしては煮え切らない言い方だな。しかも、女の夢の中を探れときたか」  アナ・モリィは顔の前で手をひらひらさせながら、相手に冷たい視線を放つ。 「わたしが何故、お前を手伝わねばならんのだ」 「その女性が大きな事件を起こしかねないからだ」 「ハン?」  不機嫌なまま彼女は相槌を打つが、カーマインにはそれに頓着した様子は無い。 「彼女はきちんとした家柄の貴婦人なのだが、どうやら月妖による犯罪の被害者らしい」  被害者? 何の話をしている? ベンジャミンは口を挟もうとしたが、やめた。ここはカーマインに任せるのが得策だろう。彼は二人の先祖を代わる代わる見、黙って話の行く末を見届けることに決めた。 「彼女は吸血鬼(ヴァンパイア)に襲われたのだ。そして復讐に命を賭けようとしている」 「──だから?」 「彼女が、か弱き女性ならまだ良かった。だが、事実は違う」  コツ。カーマインは手にしたステッキで床を叩く。 「そして相手の吸血鬼が単体ならまだ良かった。だが、それも違った」 「吸血鬼が、たくさん殺される、ということか」 「そうだ。恐るべき力を身につけた女性が、ある場所に乗り込んで大勢の吸血鬼を血祭りにあげるのさ。にわかには信じがたい話だが、この事件が実際に起こってしまえば、数十人単位の人死にが出るだろう。──それが、ベンジャミンが調べてくれた未来の書物に載っている事実だ」  じっとアナ・モリィは相手を見た。その顔に自分の質問の答えが書いてあるかのように。 「ある場所、とは?」 「ザ・ノースウィンドさ」 「ノースウィンドか! なるほどな」 ふむ……。彼女は思案するように床に目を落とした。「あそこには、オスカー・ワイルド※ですら顔を出している。何人かの大物が事件に巻き込まれかねないというわけか」 「そうだ」  うなづくカーマイン。  一方、ベンジャミンは心の中でアッと声を上げた。“ノースウィンド”。例のメイベルの手記に出てきた“N”のつく建物のことだ! なるほど、カーマインは彼が話した手記の内容から、これから起こりうる事件を大方察知していたのだ。ノースウィンドとは、おそらくは紳士クラブの類だろう。手記によれば、それがストランド街にあることもすでに分かっている。 「分かったぞ」  やがて、アナ・モリィがしたり顔で声を上げた。 「その貴婦人が、誰にどのような恨みを抱いているのかを知りたいというのだな。──だから、わたしの力で彼女の夢を覗き見ようと?」 「ああ」  にっこり微笑んで、カーマインは頷いた。 「どうも、この件には不審な点が多々あってね。少し荒療治が必要なのだ。はっきりした証言が欲しい」  証言、と繰り返して笑うアナ・モリィ。 「ノースウィンドに、たむろする紳士淑女は個人的にいけ好かない連中ばかりだ。だが、そこまで聞いて知らぬ振りをする道理も無い、な」 仕方ないといった様子で、女流作家は嘆息した。「吸血鬼といえど、“人”だ。──その女性が受けた具体的な被害を知り、犯人を断罪してやるつもりだな? CC」 「そうだ。大英帝国は法治国家だ。私刑(リンチ)は文明人のすることではない」  アナ・モリィは相手がうなづくのを見て、もう一度嘆息した。髪に手を触れ頭に撫で付けている。眉間の皺は消えていたが、それでも何か困ったような顔をしている。 「話は分かった。だが気が進まんな。胸糞の悪くなる──」 コホン、と彼女は一つ咳をした。「いや、少し気分の悪くなりそうなものを見せられそうなのでな」 「ああ、その件なら、心配ない。──ジェレミー」  カーマインは頷いて、急にジェレミーに話を振った。エ? と彼が自分の方を向くのを待ってから続ける。 「彼も、君と同じ“夢魔(ナイトメア)”だ。それに兄のベンジャミンは“言霊師(スペル・キャスター)”でもある。二人がその女性の夢を探りに行ってくれる。君の代わりにな」 「ほう。なら、君たちだけで行けばよいだろうに?」  アナ・モリィは、少し興味を持った様子で、ジェレミーをひたと見据えた。当のジェレミーは、おどおどしたように先祖二人に視線を走らせる。  カーマインが、安心しろと言わんばかりに彼に微笑みかけた。 「いや、彼はまだ新米なんだ。夢への入り方をよく知らない。だから教えてやって欲しいんだ」 「新米、ねえ……」  そうして彼女は三度目の溜息をつく。  女流作家の眉間に、また縦皺が二本。くっきりと現われていた。    そんなわけで、4人はその日のうちにカールトン邸に出向くことになったのだった。  1名を覗いた3人は「早っ!」と思ったが、その当人が具体的な能力を振るう人物なのだから反論しようが無かった。  ──そういうことなら、今夜のうちに、さっさと行って、さっさと済ませよう。  “夢魔(ナイトメア)”アナ・モリィ。  さすがの行動力。男爵位を売り払ったのも伊達じゃないな、と、ベンジャミンは改めて、先祖をスゴイと思ったのだった。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※オスカー・ワイルド: アイルランド出身の劇作家。著作には『サロメ』や『ドリアン・グレイの肖像』など。同性愛の傾向があり、この数年後にその罪で逮捕されることになる。 ────────────────────── Chapter:4-4 彼女の中の彼女  ベンジャミンは、ストランド街に立っていた。  1888年の街頭である。昼だが、空は曇っている。周りには誰も居ない。  ぐるりと視線を巡らせるベンジャミン。彼は一人だった。  自分はここで何をしていたんだっけ? 一瞬、そんなことを思った彼は、半ば慌てて自分の頬を叩いた。パシッ。意識をハッキリさせる。  ここはストランド街に見えるが、現実のストランド街ではない。  ここは──夢の中だ。  夢の主は、黒ノ女王こと、メイベル・ヘレナ=カールトンである。彼女が見ている夢の中に、ベンジャミンは単身入り込んでいるのだ。  彼は、自らがここに来た目的を思い出し、改めて周囲を見回した。まずはメイベルを──夢を見ている当人を探すとしよう。  そうして、ベンジャミンは他人の夢の中をゆっくりと歩き出した。  話は数分前にさかのぼる。  深夜。シェリンガム兄弟と、カーマイン。そしてアナ・モリィの四人は馬車でカールトン邸の外まで赴いていた。 「メイベルの無意識を探る。それが今回の“スニーキング”の目的だ」  カーマインが、目の前に座っている兄弟二人の目を代わる代わる見ながら言う。 「おい、そんな言い方はよせよ。“盗み入る”(sneaking)だなんて、人聞きが悪い」 「“スティーリング”は?」 「同じだろ」 「なら“ダイビング”で、どうだ」  兄弟のやりとりに口を挟んだのは、アナ・モリィだ。彼女はカーマインの隣りに座り、ゆったりと足を組んでいる。 「夢の中に潜るのは、水中を泳ぐのと似ているからな」 「息が出来ないってこと……ですか?」  と、ベンジャミンが問い返す。相手は曾々祖母だというのに、ついつい他人行儀になってしまう。 「ある意味その通りだ」 構わずアナ・モリィは答えた。「他人が自由に思い描く世界に身を投じるわけだ。自分のルールが通用しなくなるときもある。たまに“息継ぎ”しながら潜るのがいいだろう」 「息継ぎって……?」 「わたしに任せろ」  それきり、彼女は黙ってしまった。あまり説明してくれる気も無いらしい。 「分担を決めよう」  代わりに口を開いたのはカーマインだ。 「我々四人は、彼女の寝室にまで行く必要がある。レディの部屋に盗み入る──失敬、気付かれないように入らなくてはならないが、これはジャムが得意なはずだ。そうだろう?」 「まあな」  渋々うなづくベンジャミン。確かに彼の言霊術(スペル・キャスティング)を使えば、空を飛んで彼女の部屋の窓まで行くのも簡単だし、自分の姿を見られないように周囲に溶け込ませることも容易い。 「モリィは、メイベルの夢の中への通路を開き、そして可能な限り彼女の夢を制御するという役目を担う。──ジェル。君は、彼女のやり方を隣りで見て覚えるといい」  うん分かった、と、ジェレミーはうなづく。 「見て覚えればいいんでしょ。了解! よろしくね」  アナ・モリィの顔を見てそう言うと、彼女はフンと鼻を鳴らして目を伏せた。──どうも彼女はあまり機嫌が良くないようだ。先ほどからずっとそうなのだが……。  ジェレミーは目をパチパチやったあと、寂しそうにそれを見つめた。相手に明らかに好かれていないという態度をとられると、さすがに彼も意気消沈してしまう。が、兄も曾々祖父も、会話に集中していてジェレミーの様子に気付いてはいなかった。 「僕は、見張り役、だな」  カーマインはそう言って苦笑する。貴族であり、政府高官であり、法廷弁護士(バリスター)でもある彼は、その役目があまりに自分にふさわしくないと自嘲したのだろう。 「さて、それでは話を戻そう。今回の目的について、だ」  そのままカーマインは話を続けた。 「彼女の無意識を探って、彼女に力を与えている謎の存在を探すんだよな」 「そうだ」  ベンジャミンの答えに満足そうにうなづくカーマイン。 「彼女の夢の中には“無意識の領域”が存在する。そこに、外から入り込んだ君と同じように、彼女が認識していない人物がいるはずなのだ。その正体を暴くのが今回の最大の目的だ」  ベンジャミンの脳裏に、黒いドレスの貴婦人の姿がよぎる。  メイベル──いや、彼女の中の別人格であるパメラが、あの黒ノ女王になりえた理由を、夢の中で探るのだ。  ジェレミーとレベッカの前で、生きた人間を腐らせるほどの瘴気を放ったパメラ。いくら言霊師といえど、あんな強大な力は例がない。──だというのに、彼女の残した女の手記には、どこで誰に言霊術を習ったかなどの情報が一切抜けているのである。  彼女の中に、誰がいるのか。  それが、問題なのだ。  そして、ベンジャミンは全ての段取りを整え、メイベルの夢の中にいた。  ──気をつけろ、ジャム。  路地裏を歩きながら反芻(はんすう)するのは、カーマインから聞いた言葉だ。  ──人が見ている夢の中は不条理と非論理性に満ちた空間だ。自分を保てなければ、夢の中に飲み込まれてしまう可能性がある。  ベンジャミンは、閉まっているパブの看板の下を通り過ぎた。そこから垂れていたリボンの飾りが彼の額に触れ、看板は揺れて壁にぶつかったが、音は全くしなかった。  その事実が、ここが奇妙な夢の中であることを認識させてくれる。  ──自分が、今、どこで、何をしているのかを常に意識しておくことだ。  ──それから、危険を感じたらすぐに助けを呼べ。分かったな?  ぼりぼりと頭を掻きながら、ベンジャミンは少し広い通りに出る。この時代のロンドンは現代と違って、スラム街とそうでない場所がパッチワークのようになっている。ここは後者の方だ。すこし傾斜のある石畳の道を、誰もいない道を、彼はゆっくりと歩いていく。  ──最後に、ジャム。念を押すようだが。  ──夢の中で何かが起こったとしても、それには干渉をするな。  ──君の目的は、彼女を惑わせている謎の存在の正体を確かめることなのだからな。  記憶の中のカーマインの言葉が終わると同時に、ベンジャミンはある建物の前で足を止めた。看板には“ザ・ノースウィンド”とある。  意外に早く見つかるものだ。件の吸血鬼たちが集うという紳士クラブである。建物自体は石造りで、現代にも残っていそうな重厚感あるゴシック様式の三階建てだ。現代に戻ったとしても位置を特定することが出来そうだ。  ベンジャミンはそう思いながら、場所を記憶にとどめようと辺りに視線を巡らせた。  と、その時だ。視界に白いものがよぎって、彼はそちらに注意を向けた。  人だ。女性がこちらに向かって走ってくる。  目をこらし、すぐにそれがメイベルであることに気付き、ベンジャミンは逡巡した。姿を隠すべきか、このままここに残るべきか──。さらに彼女の姿が、彼の心を小さく針で刺し判断を遅らせる。チクリ。それは幾度となくベンジャミンが受けてきた痛みだ。何度、彼女を見ても慣れることが出来ない。  真実がどうであれ、その姿は亡くした妻にしか見えないのだから。 「──待って!」  すると別の方向から女の声が上がった。ベンジャミンはギョッとしてそちらを見る。この聞き覚えのある声は──。  黒いレースのドレスを着た女が、道の脇から飛び出してきた。想像した通りの人物の姿を見て、うろたえるベンジャミン。同じ人物。同じメイベルだ。ただ衣装が違うだけだ。  黒いメイベルは、白いメイベルの正面に進み出て、両手をバッと広げた。ここから先には行かせない、という意思表示である。だが、白いメイベルは止まらなかった。 「パメラ、どいてちょうだい!」  脇を走り抜けようとするメイベルに、黒いメイベルは両手を伸ばし、彼女を捕まえた。  あっ、そうか。ベンジャミンは小さく声を上げた。なるほど、彼女はパメラだ。  メイベルとパメラ。この夢の中では、別々の人格を持った二人がそれぞれ別に存在しているのだろう。彼女たちは、道の真ん中でもみ合うように押し退きしている。ベンジャミンのことに気付いている様子もなかった。  ここまで見れば分かる。メイベルは“ザ・ノースウィンド”に行きたがっており、パメラはそれを押し留めようとしているのだ。──あの手記の中にあったやりとりのように。  さて、しかし。ここは夢の中だ。“ザ・ノースウィンド”に役立つものがあるとも限らないだろう。そう思い、ベンジャミンは視線を建物の方へとゆっくりと移していく。建物の中に何かがあるのであれば、この隙に調査をしてもよいが──。  ふと、彼の視界に一瞬だけ、窓から外を見る人物の姿が映った。  チャコールグレイのツイードのスーツを着た男だった。金色の髪はきちんと撫で付けられており、年齢は50才前後か。非常に上品な雰囲気の人物である。左の眼窩には、赤みがかったレンズの片眼鏡(モノクル)をはめており、彼はカーテンに手を触れ、室内から外を見下ろしていた。  彼と、目が──合った。  眉を寄せた男はサッとカーテンを引いて、室内の奥へと姿を消す。 「──!」  考える前に身体が動いた。今の男だ、間違いない! ベンジャミンも身を翻し、建物へと走った。刑事らしい身のこなしで石階段を一足跳びに駆け上った彼は、正面玄関の扉を力一杯に押した。  扉はびくともしなかった。中から閂(かんぬき)が掛けられているのか。  身を退いたベンジャミンは脇の窓を見た。今、彼の頭の中には、謎の男を追いかけることしかない。この夢の中で自分の能力がどれほど制限を受けるのすら考えが及んでいなかった。  右手を振るうベンジャミン。彼の口から口笛のようなヒュウッという囁きが漏れる。  ガシャアンッ。  突風が起こり、窓ガラスと木枠が吹き飛んだ。同時にベンジャミンは身を躍らせて、室内へと飛び込んでいる。  磨き抜かれた木の床に着地してから、ようやくベンジャミンは自分の魔術がこの世界でも有効であることに気付いた。  ──これはいい。あの男を捕まえてやる!  迷う間もなく、ベンジャミンは視線を巡らせ、フロアの奥に二階への階段があるのを見つけた。ダッと駆け寄り、それを猛然と登っていく。  バーガンディーの絨毯が敷き詰められた廊下に出た。立ち並ぶたくさんの扉。  あの男がいた部屋は──どれだ?  ベンジャミンは目星をつけた部屋のドアへと走った。 ***  ──あなたは誰?  君の炎の色が視えるよ。やあ、なんて綺麗な色なんだ。  君の炎はオニキスのように輝く黒だ。闇よりも深い色。  君の魂に火をつけてあげよう。  ──あなたは誰?  教えてあげよう。  君の兄さんは、デニスであってデニスではない。  君の兄さんは前世で吸血鬼だったんだ。  ──吸血鬼?  そう。  彼はその呪われた血を清めようと、そのためだけに、あの救貧院に通っているんだ。  目当ては、あの人たちの生き血、さ。  ──嘘。  ──そんなこと信じられない。  嘘じゃないよ。  私は嘘などついてはいない。  疑うのならば、聞いてごらん。あの人たちに。  兄さんは、あの人たちを飼育しているのさ。  兄さんは、あの人たちの血を吸って殺すために、あの場所に通っているんだ。 ***  ベンジャミンは、ドアを開けた。  窓際に男が一人、こちらに背を向けて立っていた。  ──違う!  ハッと気付くベンジャミン。相手は先ほどの男ではない。しかも辺りはいつの間にか、夜に変わっていた。  室内は薄暗く、窓の外から差し込む月明かりだけしか頼りは無かったが、それでも分かる。片眼鏡の男は姿を消していた。しかし──。 「ヒヒヒヒ、メェイベル。怖がってるのかい、ボクのメイベル」  男が、ゆっくり振り返った。  耳の下まで伸ばした白い髪。生白い顔に、くっきりと浮かび上がるのは紅い双眸だ。 「驚いたかい? メイベル。ボクも驚いてるのさァ。君がキミが、やっちまッたことにねェエエ? メ、メイベル、メイベルメイベル、ボクのメイベル」  嗤っていた。奇妙なイントネーションで、彼は嗤っていた。  そろり、と自分の首を絞めるように置いていた手を離していく。彼の首には黒いビロードの首飾り──チョーカーがあった。10センチもあろうか、太いものだ。 「ヒ、ヒヒヒ、うまく笑いたいのに、笑えないよ、メイベルルルゥ」  デニスだ! ようやくベンジャミンは相手の正体に気付く。  それと同時に、女の悲鳴が上がった。慌てて振り返るベンジャミン。少女が──幼いメイベルが恐怖の表情を浮かべて、廊下に立ち尽くしていた。 「キミのせいだよメイベル。キミがみんなに言ったからだよボクのことをヒヒヒ」  二人の間に立っているベンジャミンは、彼らの視界に入っていないのか。デニスは一歩を踏み出し、メイベルは一歩後ずさった。 「デニス、違う──、わたし」 「メェイベル、食べ物も喉を通らないんだ。ヒヒヒヒ、どうしてだか分かるかいメイベル」  スーッと、デニスは自分の首の前で手を水平に動かした。その仕草が意味するものは、すぐ分かった。 「ヒヒヒ、いいんだよ君の言葉はきっかけに過ぎなかったんだから。過は彼らの中にずっとあったんだよ。ボクがそれに気付かなかっただけさ。彼らはボクへの憎しみをずっとお腹の中で温めていたんだまるで身籠った女みたいに大事にね。だってそうだろボクが何を言っても彼らは聞いちゃくれなかったんだから。彼らはどこからかあの斧を取り出してきてそうだよあの斧ッたらすっかり錆びていて──」 「──やめてっ!」  メイベルは震えながら首を横に振った。違う、違う、と小声で繰り返す。それを見て、デニスは舌足らずの口調で話すのをやめ、満足そうにニンマリと笑った。自分のメッセージが少女に伝わったのが分かったからだ。  ようやくあのビロードのチョーカーの意味が分かった。ベンジャミンは、ごくりと生唾を飲み込む。あれは傷を隠すためのものなのだ。きっとあの布の下には、斧で斬られたという惨たらしい傷が──。 「お仕置きだよ、メイベル」  ズッ、ともう一歩進むデニス。 「お仕置きしてあげるよ、ボクのメイイイイベル……」   「助けて!!」    悲鳴を上げ、弾かれたように少女は走り去った。同時に獣のように飛び跳ね、床を蹴るデニス。彼は猛然と部屋を飛び出した──!  それに反応し、ベンジャミンも身体を反転させた。助けなければ! 彼にとっては当然のことだった。 『──よせ! ジャム!』  どこからか声がした。しかし、彼は動きを止めなかった。 ***  まずいよ。ジャムったら全然話聞いてないよ?  仕方のない男だ。全く。  まあ、そう言うなモリィ。そのまま彼の面倒を見れるか。  構わんがね。しかしなんだって、あの男は冷静さを保てないのだ。 ***  ベンジャミンは、デニスの後を追いかけた。  廊下に飛び出して、背後から追いついてタックルをかけたが、うまくすり抜けられてしまった。デニスは笑いながら、メイベルを追い続ける。  クソッ! と、ベンジャミンは悪態をついた。  ヒュッと口笛を吹くように魔術を使って、デニスの足を狙うが──今度は駄目だった。彼は何事もなく前へと走っていく。  デニスは、彼を認識しているのかどうなのも分からなかった。とにかく彼は奇妙な笑い声を上げながら、曲がり角の向こうへと走っていったメイベルを追って、姿を消す。  半ば慌てて、ベンジャミンが角を曲がった時には、デニスの姿がある一室に吸い込まれたところだった。  あんな足の速さは有り得ない! ベンジャミンは既にここが夢の中であることを忘れかけている。  息を切らしながら、ドアの前に駆けつけると、中から少女の悲鳴が上がった。  そしてそれを打ち消すような、狂った男の笑い声。バタン、ドタンという物音。また悲鳴。 「やめろ!」  ドアノブを捻ったが、ドアが開かない。  ベンジャミンは堪らず、ドアを両手で叩く。ドンッ、ドンッと重い音をさせるそれはビクともしない。  やめて、許して──!  その時、少女の悲鳴の声色が変わった。一段階、高いものにだ。男の笑い声は続いている。物音がやみ、声だけが部屋の外に漏れ出している。絶叫、そして、意味を成さない男の声。  ドアの外で、ベンジャミンは背筋に冷たいものを感じた。  ここを破らなければ。  彼女を助けなければ。  彼は思った。道義の問題ではない。とにかく、止めなければならない。  少女の悲鳴が、彼の心の柔らかいところに直接突き刺さった。もはや彼にとって、ドアの向こうにいるのはメイベルではなくなっていた。彼女はアイリーンだ。生涯かけて守り抜くと誓った、愛する妻、アイリーン。  妻が襲われている。助けなければ。5年前救えなかった妻を、今、ここで、助けるのだ。彼女を襲うものを排除するのだ。全ての苦しみや悲惨な現実から彼女を助けるのだ。それが自分が果たせなかった役目だから──。  自分は、妻を、助けねばならないのだ。  強く、そう念じたベンジャミンは身を翻した。口を真一文字に結ぶと、ドアに向かってタックルをかけた。  一回、二回、三回……。  大きな音がして、ドアがきしむ。三回目の一撃で、蝶番がひしゃげた感覚を得る。  次で開く──!  ベンジャミンは足を踏みしめ、ドアに自分の全身の力を叩き付けた。  向こう側へ倒れるように、扉が──開いた。 ***  どういうことだ、この男。わたしたちの言葉にも全く耳を貸さないではないか。  まあそう言うなモリィ。ジャムには、彼なりの事情があるのだ。どうか大目に見てやってくれ。  フン。お前がそう言うのなら従うがね。  不満か?  別に。ただ、彼が本当にお前の子孫なのかどうかと思ってな。  ……。モリィ、なぜ疑う?  CC、お前──何かわたしに隠し事をしてはいないか?  隠し事? どうしたんだ急に。何も有りはしないよ。  本当か? 今日のお前は、どうも奇妙な──  ──ほっ本当だよ!!  何だッ? いきなり大声を出すな!  信じてよ、俺たち本当に子孫だよ!  分かったから黙れッ。なんなんだ、お前は、集中が途切れるだろうが!  でも、信じてよ。本当だよ、俺たちは、君の子孫なんだよ!  ──ジェル!  な……んだと?  シェリンガムだよ! 俺たち、シェリンガムなんだよ。  ジェル、駄目だ、言うな!  俺たちはCCとモリィの子孫なんだ。嘘じゃない、俺たちの姓はシェリンガム──   ***  扉が開いた途端、まぶしい光が目に飛び込んできて。  ベンジャミンは反射的に足を止めた。眉を寄せて顔の前に手をかざす。一体何が起きたのだろう。自分は少女を助けるためにドアを力づくで開けたのではなかった──か? 「どうしたの?」    目の前にいた人物の声を聞き、彼はようやく光に慣れてきた目をそちらに向けた。  室内は、もう夜ではなかった。  デニスもメイベルも、そこにはいなかった。  そこは病室だった。白い壁に窓は一つだけ。クリーム色のカーテンが、わずかな風に揺れており、窓際のテーブルの上には青いガラスの花瓶に入った小さな水色の花が飾られていた。そして室内には一つだけのベッド。シーツを触るわずかな衣擦れの音。  ああ、これは。  5年前に、いつも見ていた光景じゃないか。 「ジャム、今日は早いのね」  その人物が、言った。  ベンジャミンは全身の力が抜けていくのを感じる。  考える前に心が震えた。アイリーン、と彼の唇が自然に言葉を紡いだ。相手はニッコリと微笑む。  医師だった妻。病院では同僚や看護婦から“氷の女”と呼ばれるほどに表情に乏しかった彼女。しかし、彼女はベンジャミンの前でだけ微笑みを見せるのだ。彼はそれが嬉しかった。まるで、彼女の笑顔を独占しているような気がしたから。 「アイリーン」  雲の上を歩くように、そっと。ベンジャミンは彼女に近づいていった。 *** 「いいかげんにしろ!」  まるで雷のような声で怒鳴ったのは、カーマインだった。 「今はそれどころじゃないだろうが!」  ビクッ、とアナ・モリィは肩を震わせ両手で口を押さえた。ジェレミーの目からしても、それは非常に女らしい仕草だった。  だがカーマインに怒りの目を向けられ、ジェレミーは、きゅっと喉を締められるような思いがした。付き合いは短かったが、彼がこれほど怒るのは稀なことだと、すぐ分かる。  動物的な勘でそれを察したジェレミーは、アナ・モリィと同じように怯えた目になってカーマインを見つめた。彼は怒鳴った反動か、大きく息を吸ったり吐いたりしながら、二人の様子を代わる代わる見ている。  だが、その瞳から、なかなか怒りの色は消えなかった。 「す、済まない、CC」  自分の唇に指を触れたまま、アナ・モリィがおずおずと口を開いた。 「急に、驚いてしまって。その、わたしが──」  何か続く言葉を飲み込んで、今度は頬を赤く染めていく。恥ずかしさのあまり言葉が出てこないといった様子であり、理由は明白だ。その証拠に彼女はカーマインの顔をまともに見ることができないでいる。  どうにか怒りを納めたカーマインは、歯噛みしながら自分の頭を乱暴に掻いた。いつも上品な彼がこのような態度を見せるのも珍しい。  遠くで、奥様? と女の声がした。忘れてはいけない。ここは婦人の寝室なのだ。メイドか誰かがカーマインの怒声を聞きつけたのに違いない。  時間が無かった。  カーマインは、室内で寝ているメイベルの姿に目をやった。彼女は寝返りをうった後、小さく呻いた。すぐにでも目を覚ましてしまいそうな様子である。 「モリィ、ジャムは」  短く尋ねる。アナ・モリィは、ようやく顔を上げ──目をつむり、申し訳無さそうに首を横に振った。 「えっ」  ジェレミーはそれを見て、まさか、と思った。 「ちょっと待って。ジャムは──ジャムは、どうなっちゃったの!?」  返事は無かった。カーマインもアナ・モリィも、眉間に皺を寄せたまま、黙っている。 「──彼女は、あと数秒で目覚めてしまうだろう。出直そう」  やがて、カーマインがぽつりと言った。  それを聞いて初めて、ジェレミーは事の重大さに気付いた。  嘘でしょ、と、彼の口から空虚な言葉が漏れる。  回りを見回しても、どこにも。  彼の兄の姿は、どこにも、無かった。 ────────────────────── Chapter:4-5 豚の王様と変なオヤジ  街には誰も人が歩いていなかった。  あのトラファルガー・スクエアにも。混雑でまっすぐ歩けないほどで、いつも込み合っているあの広場にも、人っ子ひとり居なかった。冷たい秋の風が、石畳の上を通り過ぎていくだけだ。誰も居ない街の中を、風は我がもの顔で自由に吹き抜けていく。  ジェレミーは、独り、その広場の真ん中に立ち尽くしていた。  なぜ、自分はここに立っているのだろう──。ジェレミーは、ぼんやりと思いを馳せる。こないだまで何かを追いかけていて……とても大切なことに取り組んでいたような。ええっと、ええっと……。  うまく──思い出せない。  またドラッグをやりすぎたのかな。ふと見上げると、広場中心の脊柱の上にそびえ立つネルソン提督の姿が目に入った。ナポレオンを破ったあの英雄ネルソン提督だ。  ギョロリ。突然、その像の石の目が動き、ジェレミーを見下ろした。 「何を恐れることがあるんだ」  いきなり、提督がしゃべった。 「君はこの世界の王だろう。何も恐れることなどないんだ」  ひっ。  息を呑んで、ジェレミーは逃げ出した。  ──どうしよう! どうしよう!  ──あのネルソン提督が喋りかけてくるなんて!  ──あんなエラい人に何て返事したらいいか分かんないよ!  ジェレミーは恐怖におののきながら、走り続けた。  気の利いたジョークを返せなければ、おそらく英雄ネルソン提督はスラリと腰のサーベルを抜いて、自分の首を“ちょんっ”とやってしまうだろう。首は宙を飛んでテムズ川に、ぼちゃん。誰にも知られずに川の底に沈むのだ。  どこをどう走ったのだろう。  路地裏から大通りへ飛び出そうとして、ジェレミーは二の足を踏んだ。  何だ  なにか  背の低い丸っこいものが大通りをたくさん走っている 「ブタだ!」    ジェレミーは声を上げた。  すると、その場の空気が一瞬にして変わった。猛然と走っていたピンク色の豚たちは一斉に動きをとめる。  じろり。  豚たちも、提督と同じようにジェレミーを見た。 「いたぞ!」  だれか(ブタ?)が叫んだ。 「おれたちをいつもうまそうにくってやがるやろうがいるぞ!」 「つかまえろ!」  すっくと立ち上がる豚。二足歩行になったそれは、逃げだそうとしたジェレミーの動きに反応した。  やばい。  だが、振り返ろうとしたジェレミーの目前を、一匹の豚がきれいに壁を三角蹴りして着地した。まるで、「リーサルウェポン4」のジェット・リーみたいだった。  豚が、豚という豚が、ジェレミーに飛びついてきた。ピンク色の肉の塊が次々と。腕を上げようとしたら蹄が絡みついた。背中には二、三匹が乗ってくる。足を取られ、ジェレミーは前のめりに倒れ、豚の海の中に落ちた。横を向いたら豚。上を向いても豚。  気がつくと、彼は両手両足を縛られ棒にくくりつけられて運ばれていた。いわゆる、そのまま直火にかけられそうな、あの四つん這い丸焼きスタイルだ。  いったいどうしてこういう展開に巻き込まれているのか、さっぱり見当もつかなかった。しかし、ジェレミーは悟っていた。  ──ああ、オレこのまま、食べられちゃうんだ。  観念して彼は目を閉じる。このまま自分は焚き火の火でちりちりと背中を焼かれて、あぶり肉にされてしまうのだろう。今になって初めて豚の気持ちが分かるような気がしてきた。ああ、これからは豚を大切にしよう……。  ドサッ。 「──ギャッ!?」  と、そんなことを思っていたら突然、背中に強い衝撃を感じジェレミーは小さく悲鳴を上げた。驚いて目を見開く。  投げ出された? 彼は身体を起こそうとするも、痛みに顔をしかめた。 「イテテ……」 「──やっと見つけたぞ、この野郎」  声をかけられ見上げてみると、そこにはひときわ大きな豚がいた。周りの豚より一回りも二回りもデカい豚だ。しかも眼鏡をかけている。すごい貫禄だ。  そいつは腰を二つに折り、怖い顔でジェレミーを覗き込むように見下ろしていた。  ──王様だ!  ジェレミーは思った。この豚は、きっと豚の中の豚。豚の王様なのだ。 「ラリッてやがるな。早く立て」  豚の王様は、怒ったように、蹄でジェレミーの足を蹴った。 「王様、許して。オレもう豚食べないから──」 「何言ってやがるんだお前は。目を覚ませ!」  クソッ。王様は舌打ちし、もう一度ジェレミーの足を蹴った。手が伸びてきて、彼の襟首を掴む。  次の瞬間、王様はいきなりジェレミーを殴った。  ビンタではなかった。グーだった。  しかも頬ではない。顔の真ん中。ちょうど鼻柱のところだった。 「フギッ」  その強力な一撃に、何かが潰れたような声を上げてしまうジェレミー。今のは文字通りパンチが効いた一撃だった。 「ひどいよ、王様」  抗議のために鼻を押さえ、ジェレミーは涙声を上げる。が、彼は自分の目を疑った。  目の前にいるのは豚の王様ではなかった。  それは人間だった。古風な丸眼鏡をかけた、くたびれたスーツ姿の──太った男ではないか! 「ジェレミー・ナイジェル=シェリンガム、だな」  この人誰? と思っているうちに、太った男はジェレミーの襟足を掴んだ。 「このジャンキーが、いい加減にクスリをやめねぇか!」  彼は自分たちを取り巻いていた人々──よく見たらパブの店員か何かみたいだ──に、何か簡単な言葉をかけ、金を渡すと、男はジェレミーを引きずるように乱暴に引っ張る。  ジェレミーには抵抗する気力が出てこなかった。そのまま、引きずられるように男に連れていかれていく。  ほどなくして男は、近くにあった広場の噴水の縁にジェレミーの身体を投げ出すように座らせた。  彼はようやく、周りを見回した。  そこは豚の世界でも何でもない。現実のロンドンの街並みだった。たくさんの人々が街を行き来している。いつもの、何てことない光景だ。豚なんかどこにも居やしない。ああ、自分はまたドラッグで何かの幻覚を見ていたのだな。ジェレミーは、ぼんやり思う。  しかし──何がどうなってこうなったんだろう。  ジェレミーは恐る恐る男を見上げた。彼の方は座ろうとせず、ジェレミーを見下ろしている。 「えっと……?」 「部長はどうした?」  男は鋭い口調で言った。 「ぶちょお?」 「ベンジャミン・シェリンガム。お前の兄貴だよ」  ──!  その問いに、ジェレミーは凍りついたように目を見開いた。  自分の兄。ベンジャミン。  愛称はジャム。年齢は38才でスコットランド・ヤードの警視で、男やもめ。これといった趣味は無く──というより、事件の捜査が趣味の、仕事好きな真面目人間で、亡くなった妻のアイリーンを心から愛していて……。 「ジャム」    兄が突然、自分の部屋にやってきて「お前のクスリをよこせ」と、耳を疑うような台詞を口にしたのはいつの日のことだったか。  兄の薬と自分の持っていたドラッグを併せて飲むと、120年前にタイムスリップ──実際には少しだけ違った世界に──トリップできるのだ。  兄は、その世界に、自分の亡くした妻アイリーンを見た。  ジェレミーもその貴婦人と会った。“黒ノ女王”と呼ばれる貴婦人で、本名はメイベル・ヘレナ=カールトン。正確にはアイリーンの先祖にあたる女性だった。  しかし兄は、そのメイベルが自分の妻のアイリーンだと言い張った。 「ジャムは、アイリーンを……」    何からどう話したら良いのだろう。ジェレミーは言い淀み、口をつぐむ。  ──兄は、狂ったわけではない。兄はアイリーンの実家に行って、メイベルが残した日記を読んだのだった。  メイベルは多重人格者だった。たくさんの人格が彼女の中に存在するのだという。  パメラというのが“黒ノ女王”で、アイリーンもメイベルの中に……存在している……と、兄は主張した。  しかもその、パメラが大事件を起こすと、日記にあったのだ。  だから、曾々祖父であるカーマインと、曾々祖母のアナ・モリィも動いた。皆で計画を立て、アナ・モリィの力で、兄がメイベルの夢の中に侵入することにした。  兄は、夢の中に潜り深層心理にダイブして、事件の真相を掴もうとした。  しかしその途中で事件が起こったのだ。動転したアナ・モリィが兄を見失い、メイベルが目を覚ましてしまって──。  兄は──。 「夢の中に、変なオヤジがいたんだよ!」    思わず立ち上がりながら、ジェレミーは叫んだ。 「赤いモノクル付けた、変なオヤジが──」  ──パカッ!  いい音をさせて、太った男が持っていた新聞でジェレミーの頭を、引っぱたいた。 「まだラリッてんのか、この野郎」 「ち、違っ……」 「兄貴がどうなったか早く言え。次に関係ねぇ話しやがったら、更正施設の特級コースにブチ込むぞ!」  それを聞いて、ジェレミーは一気に震え上がった。ドラッグ中毒患者用の特級コースの恐ろしさは、仲間から聞いていた。毎日毎日、丸く円を描くように並んだ椅子に座って「楽しいこと」を百個言わないといけないのだ。それが一個でも足りないと“道徳的なアニメ”を一日中見せられるという恐ろしいお仕置きが……。  彼の頭の中から、変なオヤジ──メイベルの夢の中に現れた謎の男──グレーのスーツを着た赤いモノクルの男の姿は、一瞬にして消え去っていた。 「やめて、やめて。話すよ、ちゃんと話す!」  頭を押さえて、ジェレミーが懇願すると、男はフンと鼻を鳴らしただけだった。座れ、とばかりに顎をしゃくる。  ジェレミーが座ると、ようやく彼もその隣りに座った。恐る恐るその様子を伺うジェレミー。  男は、おそらく兄の仕事の関係者だろう。  と、すると、太っているが、この男も刑事なのだろうか。  彼は相手をよく観察した。──太っているから、犯人を追いかけるのも大変そうだな。何しろ、ちょっと座るぐらいで、大変そうだし。汗かいてるし。銃撃戦になったら、けっこう弾が当たりやすいんじゃないかな。 「……あの、ちゃんと話す前に一つだけ聞いてもいい?」  ふと、ジェレミーは尋ねてみた。すると男は、許可するとばかりに一つ面倒くさそうに頷いた。 「名前は?」  クライヴだ。と、相手は答えた。 ***  何?  シェリンガム警視が行方不明?  マジかよ。俺ァ初めて聞いたぜ。  嘘じゃねえよ。こないだ、たまたま街で会って少し話したけどよ、元気そうだったぜ。  俺は知らねえ。  少なくとも、奴は俺のダチだからな。  ……本当だぜ?  なあそんなことより、兄ちゃんよ。  警視のことだったら、ビッグ・モスに聞いてみなよ。  知ってるか?   奴の小劇場でよ、最近、客の女が数人姿を消すらしいんだ。  女は数時間後に戻ってくるらしいけどよ。怪しいと思わねえか?  シェリンガム警視もさ、奴に監禁されてんじゃねえの。  俺は、そう思うね。 *** 「分かった。じゃあ今すぐクスリを飲め」    長い長いジェレミーの話を聞き終わるなり、クライヴが言った。 「エッ、だってさっきクスリやめろって言ったじゃん」 「それとこれは別だ。飲め」  眼鏡の奥の小さな瞳が、ギロリとジェレミーを睨んできた。早くしろ、と眼光が命令を発している。  言い訳は一切受け付けない、と、じっと睨みをきかせてくる。  弾かれたように動き出し、自分の服のあちこちのポケットを探るジェレミー。しかしドラッグは見つからなかった。  半ばホッとして彼はクライヴに首を横に振ってみせた。彼は、まだ、心の準備が出来ていなかったのだ。  今、ヴィクトリア時代にトリップしたら──きっと、怒られる。  ジェレミーは、曾々祖父カーマインのことを思い出していた。自分の発言のせいで、アナ・モリィが動転し、ベンジャミンは行方不明になった。それで、あの上品なカーマインが激怒し、自分を怒鳴ったのだ。彼はまだカンカンに怒っているに違いない。 「今は持ってねえのか。しょうがねえな」  青年の様子を見ると、太った男はため息をついて立ち上がった。たるんだ腹を揺らし、難儀そうに背中を伸ばす。 「なら早く家に帰って、クスリ飲め。俺もすぐに追いかけてやるぜ」 「う、うん。分かったよ」 彼に促され、渋々とジェレミーも腰を上げた。頭を掻きながら、ふと今の発言の意味に気づく。「──って、エエッ?」  すぐに──追いかける??? 「えっ? まさかクライヴも俺と一緒にクスリ飲むの?」 「飲まねえよ」  間髪入れず、そう返してくるクライヴ。が、最後に彼はニヤッと笑ったのだった。 「──向こうで待ち合わせ、だ」   ────────────────────── Chapter:4-6 二人だけのイレギュラーズ  ──もう怒ってないのに。  現れたジェレミーの姿を見るなり、カーマインは言った。 「そんなことより、早くそこに座りたまえ」  彼の屋敷内の、いつもの応接室だ。小柄なメイド──レベッカに、無理矢理ここへ連れて来られたジェレミーは、少女の後ろに隠れるようにしてカーマインに会った。  先日の失敗のことを、またこっぴどく怒られる。そう思ったからだった。  しかし、彼の思いに反して、カーマインの様子は普段と変わらなかった。これといった表情を浮かべずに窓の外を眺めている。  のろのろとジェレミーがソファに腰掛けると、何事もないように、彼も窓際からテーブルまで戻ってきてゆっくりと腰掛けた。ステッキを椅子の縁に傾けて置くと、レベッカに退室するように言いつける。  メイドが大人しく出て行くと、広い室内は二人だけになった。  静寂。真昼の白々しい光が、レースのカーテンを通して差し込んできている。ジェレミーは、その影を目で追ったままだ。何と切り出して良いものか分からなかったからだ。 「こっちでは、三日経ったが、君のところでも同じぐらいのようだな」 やがて、カーマインの方が口を開いた。「それにしても──君がここに現れたんで、僕は本当に安心したよ」  恐る恐るジェレミーが彼を見ると、カーマインは苦笑するように口端を歪めて笑っていた。 「君は、まだ、シェリンガム、だろう?」  うん、と頷いてしばらく。ジェレミーは、あっ、と小さく声を上げた。  カーマインも、別のことを気に病んでいたのだ。  すなわち、アナ・モリィのことである。  恋だとか結婚などと自分は無縁だと思っていた女が、未来からやってきた人間にいきなり「自分の子孫だ」と名乗られてしまったのだ。相当なショックだっただろう。  しかも子を成す相手が誰かまで知ってしまったら……もしかしたら、気まずくなって、その相手には会えなくなってしまうかもしれない。そうなっても不思議ではない。 「アナ・モリィは?」 「あれから会ってないんだ。──だが、心配なさそうだ」  カーマインは、淡々と答えた。しかし彼の口元は微笑んでいる。ジェレミーの存在が、彼とアナ・モリィの未来の繋がりの明かしなのだから。 「彼女のことは、しばらくそっとしておいてやろう」  まるで独りごちるように小さな声でそう言うと、カーマインはジェレミーを正面から見た。何かを吹っ切ったのだろうか。目の色が変わっている。 「よし。君が来てくれたことで、懸念事項は一つ決着したな。次はベンジャミンの救出だ」 「うん」  ジェレミーは、ようやくいつもの調子を取り戻すように明るくうなづいた。  彼の様子に、カーマインも一つうなづくと、微かに口元をほころばせる。ここに、二人だけのイレギュラーズ・チームが再結成されたのだった。 「さて。そうと決まれば──」  と、彼は何か言いかけて、ジェレミーの服装に目を留めた。  フーリガン的生活ライフを送っている彼は、いつものようにマンチェスター・ユナイテッドのユニフォームにジーパンという出で立ちだった。長い金髪は後ろで一つにまとめているが、どの時代であっても“きちんとした”装いでないことは明らかだった。カーマインは注意深くジェレミーの格好に視線を走らせ、そのまま壁の時計で時間を確認する。 「フフフ」  と、最後にカーマインは含み笑いをした。 「何?」  半ば、ギョっとするジェレミー。しかし構わず、カーマインは話を進めた。 「知っているか、ジェレミー。世の中には二種類の人間がいる」 「??? 二種類?」 「──自分では、それほど意識していないのに、ここぞという機会に遭遇できる人間と、そうでない人間……。要するに“主人公”と“それ以外”だ」 「主人公……って、物語の?」 「そうだ」  首をかしげながらも、ジェレミーが問いを返すと、カーマインは厳かにうなづいた。 「君は、おそらくそれだ。そしておそらく僕もそうだ。僕たちは物語の主人公のようだな」 「??? 何の話?」 「ああ──すまない」  軽く手を挙げて、カーマインは苦笑いしながら、その手を額にやった。 「僕の悪い癖だ。何か仮説を思いつくと他人に話したくてたまらなくなるのだ。──すまなかったな。きちんと説明しよう」  彼は、居住まいを直し続ける。 「君があまりにも良いタイミングに現れたから、それで僕は“物語の主人公のようだ”と、言ったのだ。実は、ジェレミー。今夜、ある大きな夜会が開かれるのだ。もともと僕一人でも出向くつもりだったのだが、今なら時間も十分ある」 「──何?」  今だ話を飲み込めていないジェレミーは首をかしげるばかりだ。夜会? 何が? 口に出して眉を寄せてみせる。 「君は僕と一緒に夜会に行くのだ」 しかし、結局のところマイペースなカーマイン。「それには、今の君の扮装は夜会にはそぐわない。着替える必要がある」 「なんで、夜会に?」 「“黒ノ女王”を捕まえるためだ」  ジェレミーの質問に、青年貴族は片目をつむってみせた。 「そして、彼女の中にいるベンジャミンを救うんだ」 「そっか!」  ようやく合点がいって、ジェレミーは立ち上がる。 「今夜、彼女が現れるんだね?」 「いや、そうとは限らない」  しかしジェレミーを制するように手を挙げながら彼は言う。 「だが、その可能性は非常に大きい。なぜならば、今夜のノース・ウィンド──例の、黒ノ女王に襲われると予言されたヴァンパイアの結社が持つクラブでは、今夜、祝い事を兼ねた大きなパーティが開かれるからな」  つまるところ、とカーマインは続けた。 「ロンドン中の大物ヴァンパイアが集まるということさ。この機会を、あの貴婦人が狙わないはずはない」 「分かった。俺たちは、彼女を待ち伏せするんだね」 「そうだ。下手するとヴァンパイアと一緒に皆殺しにされるかもしれないぞ」  カーマインは、冗談めかしてニヤリと笑う。 「平気、平気」  しかしジェレミーは、わくわくしたような表情を浮かべて、座って両手を揉んでみせた。 「分かる分かる。俺もよくやってるもん。相手チームのサポーターがパブに来るのを待ち伏せるの。んで、ボコボコに」 「そうか、頼もしいな」  会話が微妙に噛み合っていないまま、二人は笑顔でうなづきあった。 「よし。そうと決まれば、まずは夜会服に着替えてくれ。僕の服では小さいかもしれないが、どこかに君にサイズの合うものがあるはずだ」 「オッケー」  敬礼しながら微笑むジェレミー。 「それから、先ほど、僕の友人から連絡があってな。この作戦に加わってくれるそうだ」  もしかして……。そのカーマインの話に、ジェレミーは兄の部下である太った男のことを思い出した。 「クライヴっていう人?」 「いや。ギルバートという男だ」 カーマインは怪訝な顔をして続ける。「ギルバート=コルチェスター。数学者で、優れた月狩人でもある男だ。……現地で合流すると、そう手紙に記してあった」  あ、やっぱりクライヴだ。  ジェレミーは確信した。  * * *  ノース・ウィンドという名前のクラブは、ストランド街に軒を連ねていた。そこはいわゆる劇場街で、馬車や人が多く行き交っている活気にあふれた場所だった。  建物自体も、別にうらぶれた路地裏にあるわけでもなく、表通りに堂々と門を構えた荘厳で立派な紳士クラブである。後ろ暗い者が集まるような場所には決して見えない。  しかしそこが正に、“黒ノ女王”こと、レディ・メイベル・ヘレナ=カールトンの手記にあった場所であり、この時代のヴァンパイアたちの巣窟なのだ。  時刻は、夜だった。  ビックベンの時計が20時を告げるころである。 「……」  カーマインとともに二人で馬車から降り立ったジェレミーは、その建物を見上げていた。  彼は、カーマインから借りた黒の夜会服を着込んでいた。胸ポケットから赤い絹のハンカチを覗かせ、頭にはトップハットを。両手にはきちんと子山羊革の手袋をはめている。  どこからどう見ても、立派な青年紳士だった。 「君は背が高いから、想像以上に見栄えがするな」  横でカーマインがそう言うのを、ジェレミーは照れた笑い一つで受け流す。  正装した彼ら二人の身なりは素晴らしいものだった。しかしジェレミーは気づいていた。そんな自分たちに徹底的に足りないものがある、と。  女性の連れ、である。  ほとんどの者が女性を伴いながらクラブに足を踏み入れていた。男二人などというのは彼らだけだったのだ。  ジェレミーは顔をしかめた。 「……どうかしたか?」 「俺たち、ホモだと思われないかなあ」  カーマインに促され、ジェレミーはそれに従いながら小声でつぶやく。 「それはそれだ」  クスッと笑いながらカーマイン。 「男色家のヴァンパイアは珍しくない。かのオスカー・ワイルドだってそうだ」 「うへえ。俺やだよ、そんなの」  ははは、とカーマインは笑いながら中へと足を踏み入れていった。彼はいつものようにステッキをつきながら、左足を引きずるように歩いていたが、その姿は大貴族らしく、堂々としたものだった。  玄関で執事風の男が近づいてくると、彼は王立闇法廷のカーマイン・クリストファー=アボットだと名乗った。聞くなり、男は慌てて中へと引っ込んでいく。  カーマインは何事もなかったように、建物の奥へと進んでいく。その半歩後ろをついて歩いていたジェレミーは、回りの人間が皆、こちらを注視してくることに気づいた。  柱の陰に立っていた給仕の男は、刺すような視線をこちらに向けてきたが、目が合うと、ぎこちなく会釈した。  現代よりもずっと、夜が暗かった時代である。蝋燭の明かりは儚げで、ホールから漏れている灯りもゆらゆらと揺れている。おそらく大きな暖炉があるのだろう。ジェレミーは自分の生家だった屋敷のことを思い出していた。陰湿な雰囲気と、かすかに匂うカビのような香り……まさに、あの屋敷そっくりだ。  廊下ですれ違った貴婦人は、怪訝そうに眉間に皺を寄せてこちらを見る。どこの誰だろうという疑問から、その答えに自ら気づいて目を見開いている。  やがて、二階分の吹き抜けになっているメインホールに足を踏み入れると、そこにいた着飾った男女たちが一斉に二人の方を振り向いた。しかしすぐに視線を外す。その後は、何人かがたまにこちらをチラチラと見るだけだ。  ──このクラブに集まっている人間は、ほとんどがヴァンパイアなのだ。ジェレミーは、ここに来る前にカーマインに教えてもらったことを思い返していた。  ヴァンパイアと一口に言っても、この時代に跋扈している吸血鬼には様々なタイプがいる。とくに多いのは普通の人間と同じように生活している“生身”で“血の通った”ヴァンパイアである。──もちろん、映画などでよく出てくる“棺桶で目覚めて蝙蝠に変身して美女の生き血を喰らう”ようなクラシカルなヴァンパイアもいるが、それは少数なのだそうだ。  なぜなら、そういった普通の人間から程遠い者は“化け物”として駆逐されてしまうからだ。  カーマインは最後に強調した。“ヴァンパイアが、全て人殺しだと思うな”と。  ヴァンパイアといえど、この時代を生き抜くために、ほぼ普通の人間と変わらぬ生活をしている者も多いのだ。  だから……なのだろうか。ジェレミーは、カーマインの様子を横目で見た。かの王立闇法廷のトップは、自分に向けられる無遠慮な視線に対しても寛大に振る舞っていた。柔らかな会釈を返し、その他の視線については何も気にしている様子はなかった。  そっか。俺も気にしないでいようっと。ジェレミーも口笛など吹きながら、そしらぬフリを決め込むことにした。 「──やあ、貴方がここにいらっしゃるとは」    その場の奇妙な雰囲気を変えたのは、一人の青年の声だった。  二人は上を見上げ、その声の主の存在に目をやった。階段の踊り場である。プラチナブロンドを短くまとめた、青白い顔の青年がこちらを見下ろしている。  目が合うと、形ばかりの会釈を返してきた。 「前もって言ってくだされば、特別な席をご用意したのに」  そのまま、青年は滑らかな口調で続けた。 「御機嫌よう。アイヴォリー卿」   カーマインは、にこやかな態度を崩さないまま応対する。相手の言葉が社交辞令であることなど、当然分かっていたが、それはそれ、だ。 「僕は“特別”という扱いを好かぬのです。聞けば今日は貴方の19歳の誕生日というではないですか。僕からも、お祝いを申し上げようと思い、参りました。漏れ聞いたところによれば、今日は特別にしつらえたディナーを客に振る舞われるとか」 「ほう」  相手は目を細めた。アイヴォリーという名は、ファーストネームなのだろうが、彼自身の肌の色も同時に現しているようだった。 「──解せない、な。貴方が今日の特別なメニューに興味を示され、しかも、まるでご相伴に預かりたいとでも言いたげに私を見るとは」 「それは誤解ですな」  淡々と応じるカーマイン。 「僕はただ、貴方にお祝いを申し上げるために、ここに参ったのです。ディナーの内容には興味はありません」  アイヴォリーは答えず、階段をコツ、コツと一歩ずつ下りてきてカーマインの目の前に立った。正面から彼を見据える。その態度は堂々たるもので、ジェレミーはようやく彼がこの場の主であることに合点がいった。  か弱そうに見えるのは外見だけである。  あの象牙色の肌の下には、獰猛な獣が眠っているのだ。 「──さて、それは本心でそうおっしゃっているのかな」    静かに、問いかけるようにアイヴォリーがそう言うと、場がシンと静まり返った。  ──王立闇法廷のトップが、突然パーティに現れたのだ。何を調べにきたのかと、彼らが勘ぐっても何の不思議もない。  しかしカーマインは答えず、微笑みを浮かべたまま正面から目線を戦わせた。別に他意はありませんよ、とそう主張しているつもりなのだ。  それをじっと見つめるアイヴォリー。視線は、カーマインの微笑みの裏側を見てやろうと刺すような強さを持ったままだ。よもや、カーマインの顔の皮をはいでしまいそうなほどの勢いだ。 「──何の話?」  が、素っ頓狂な声が場の空気を乱した。  ジェレミーだ。当の本人はヘラヘラと締まりのない笑みを浮かべてアイヴォリーを見ていた。カーマインが顔から全く表情を消して横目を送ってきても何のその、だ。  この場の主は、ゆっくりと視線を小脇のジェレミーに移した。鋭い視線を向けたまま、この男は一体何者かと値踏みしているようでもあった。 「カーマイン卿。貴方のお連れはいつも個性的だな。しかし、一つ忠告をさせていただこう」  やがてアイヴォリーは冷たく言うと、ゆっくりとジェレミーの胸に手を伸ばした。そして彼の胸ポケットから赤いハンカチを抜き取ると、床に落とし靴でギリギリと踏みつけた。  全て、見せつけるような、ゆったりとした動作だった。 「──真紅は、我々の色だ。君が身につけるべきでは、ない」  対するジェレミーは、しかし顔の表情を全く変えていなかった。ヘラヘラと笑ったまま、そのハンカチを見、アイヴォリーに視線を戻す。 「ジャジャーン」  場違いな口調のまま、ジェレミーはパッと手を翻し、気取った動作で自分の胸ポケットに指を入れてみせた。  次にポケットから出てきたのは、白いハンカチだった。 「了解。じゃあオレ、白にするよ」  ざわ。周りの者たちが、何かを囁きあった。ジェレミーが見せた“夢魔(ナイトメア)”の力に気づいたのだ。  ジェレミーに、じっと強い視線を注ぐアイヴォリー。その目線を遮るように、カーマインが半歩進み出た。 「誕生日おめでとうございます。アイヴォリー卿」    彼が、まるで感情のこもっていない口調で言い放ったのは、祝いの言葉だった。それを聞いて、アイヴォリーも我に返ったかのようにカーマインに視線を戻す。  スーツの両襟を正し取り繕うように、アイヴォリーは続けた。 「いえ、こちらこそ。貴方のような方にお越しいただき、とても感謝しております」 形ばかりの言葉を返し、「今日はどうぞ、ゆっくりお過ごしください」 「ありがとうございます」  最後にジェレミーにも一瞥をくれてから、このクラブの主はゆっくりと奥の方へと歩いていった。周りの者たちがそれを追うように付いていく。  また空気が変わった。  二人の周りからも、波が引いていくように人が離れていった。誰にも歓迎されていないのは明らかだったが、もはや彼ら二人はそんなことは気にしていなかった。 「ふう」  一息ついて、カーマインがジェレミーを横目で見た。 「危ないところだったな。ああ見えても、彼はバリツ※の使い手だ。いくら君とて、かなわないかもしれないぞ」 「バリツ??」 「東洋の格闘技だ。ベイカー街の諮問探偵殿も身につけていると話題になったものだ」  ジェレミーは首をかしげた。何のことを指しているのだろうか。ジュードーだろうか、それともカラテか。  しかし今はそれよりももっと気になることがある。 「CC、今の人がボスなんでしょ」 「そうだ」  厳かにうなづくカーマイン。 「アイヴォリー=ストレット。聞いての通り弱冠19歳だが、このクラブの所有者であり、このクラブにたむろするヴァンパイアの結社【血の宣告(クリムゾン・センテンス)】の主だ」 「あんなに若いのに?」 「彼は、いわゆる“転生組”だからな」 「?? 何それ?」 「生まれ変わりということさ。彼は前世で何百人というヴァンパイアを率いていたのだ。そして争いに明け暮れ、命を落として、現世に新たな身体を得て、転生した」  要するに。カーマインは小さく息をついて締めくくった。──彼やそれに従う者たちは、昔の栄光を忘れられないのだ。  フーン。ジェレミーは頭の後ろで手を組み、ホールの向こうに行き見えなくなったアイヴォリーの方を見た。  それはそれで苦労してるんじゃないかな……。そんなことを思ったジェレミーだったが、思考が大きな足音で遮られた。  ドスドスドス……。  玄関の方からだ。誰かがこちらに向かってきている。 「?」  ジェレミーは、視線をそちらに向けた。上品な者が多いヴァンパイアたちにしては妙に粗雑な……。  と、彼は、廊下から現れた人物を見て、目を丸くした。  巨漢である。  ハンプティー・ダムプティーをそのまま人間にしたような男だった。全体のシルエットは丸く、とくに腹のところが大きく大きく前にせり出していた。しかもこんなサイズに会う服がよくあるなというぐらい、それにピッタリとフィットした夜会服を着ているのだ。ただしブルーのハンカチがポケットから覘いていて。服装はお洒落だとも言えた。  しかし、あの縮れたパスタのような髪は一体なんだ? ホームレスと紙一重のようなワイルドなセットだが、それがゼェーゼェーという、その人物の発する息づかいに従ってワサワサと揺れているのだ。  パスタの谷間から、眼鏡が見えた。  古風な、銀縁の丸眼鏡である。  ──アッ! ジェレミーは声を上げた。 「すまん、遅れてしまった。ウチの御者が道を間違えてしまって──」 「やあ、ギルバート。今晩は……」   「──クライヴだ!」   - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※バリツ: シャーロキアンの間で有名な、謎の格闘技。かの諮問探偵殿が身につけていたらしいというのは、本文説明の通りです。 ────────────────────── Chapter:4-7 血塗られた夜会 *** ねえ、ジャム。 起きて。 ***  明るい光の中、ふっと目が覚める。  身体を起こせぱ、ベンジャミンは椅子に座っていた。膝がきしむようにわずかに痛んだ。どうやら座ったまま居眠りをしていたらしい。  どうにも意識がはっきりせず、彼は無意識に目を瞬く。二回、三回。光の多さに目を細め、軽く頭を振ってみる。  見れば、目の前には白いシーツの膨らみがあった。ベッドだ。  ええと俺は、ここで何を──。そう思考を始める前にベンジャミンはすぐに自分が何をしていたのかを思い出す。 「ふふっ」  誰かが笑った。  しかし、彼はそれが誰の声だか知っている。 「やっぱり疲れてる。ずっと寝てたわよ、ジャム」  白く輝くような光の中で、そよ風に揺れるカーテンに乗って花の匂いが届いた。知っている。それは花の匂いでなく、女の匂いだ。  それもたった一人の。 「アイリーン」    ベッドから半身を起こし、一人の女性がこちらを見て微笑んでいる。  よく知っている灰青色の瞳。  ああ、そうだ。俺は居眠りをしてしまったんだ。病気の妻を見舞いにきて──。ベンジャミンは、ううとかああとか、唸るように返事をしてから、居住まいを直した。その次に浮かべるのは照れ笑いだ。 「君はよく寝られた?」 「あなたの身体が重くて、ぜんぜん」  アイリーンは笑顔のまま肩をすくめると、ベッドの脇のテーブルに目を向ける。肩の上で短く切りそろえられた黒髪が艶やかな光を放ちながら、さらさらと揺れた。 「ジャム、林檎でも食べる?」 「ああ、うん」  ベンジャミンがうなづくと、彼女はゆっくりと手を伸ばして赤い林檎を一つ取って、ナイフで剥き始めた。  その仕草を、彼はじっと見つめている。  この上なく安らかな時間だった。目を細め、ベンジャミンは愛する妻の姿に見入っている。 *** 「わたしは違うと申し上げたのに。こちらの殿方が会場はノースウィンドではない、と」  澄ました口調で、その若い女性は続けた。 「ですから、このような時間に」 「まあそう言うな。誰にだって間違いはある。ちょっと聞き間違えたんだ」  困ったように返すのは、モジャモジャパスタ頭のデブだ。連れの女性にやりこめられそうになり、必死に弁明している。  ここは、夜会が始まる直前のクラブ「ノースウィンド」である。  正装したジェレミーはカーマインとともに“友人”を出迎えていたところだった。カーマインは彼をギルバートと呼び、笑顔になった。  そのデブ──太った男の影で見えなかったのだが、彼はきちんと若い女性を連れていた。白いすべすべした肌の小柄な金髪の女性である。彼女はワアワアとわめき立てて、周囲の注目を浴びていたが、ジェレミーはじっと太った男を見つめていた。  彼がそっくり、だったからだ。  兄の部下である、刑事のクライヴ=コルチェスターに。でっぷり太った身体に突き出た腹。小さな頭に小さな目。古風な眼鏡……。違うところは髪形と服装ぐらいである。  クライヴは“現地で待ち合わせ”と言っていたが、彼はそもそも生身でこの時代に来ることはできない。パソコンを使ってアクセスする、と言っていた。それはつまり、こういうことなのだろう。  尋ねて確認するまでもなかった。彼がクライヴだ。ジェレミーは確信した。 「オホン」  時代がかった咳をし、ようやく女性をなだめた男──ギルバートはジェレミーに目を向けた。いかにも、マクドナルドのハンバーガーが好きそうな顔つきだ。 「君が、ジェレミー君かな?」 「そうだよ」  手を差し出され、ひょいと手を出し握手するジェレミー。 「CCとベルフォード男爵夫人との子孫だという?」 「うん」  さすがに話が早い。ジェレミーは頷き、逆に質問を返した。 「おじさんはギルバートっていうんでしょ? そんでクライヴの先祖なんでしょ?」 「なぬ?」  モジャモジャデブは古風な疑問符を発しながら、首をかしげた。 「クライヴとは、誰のことかね?」 「おじさんの子孫。同じぐらい太ってるよ」  と、ジェレミーが言うと、ギルバードは気持ち悪いぐらいにニタァッと笑った。本当か、と言うとニヤニヤと、まるで嬉しくてたまらないほどに笑顔になっている。  不思議そうなジェレミーをよそに、カーマインに目配せをしたギルバートは嬉しそうに両手を揉んだりしている。 「???」 「──自分が結婚して子孫を残せるって思ったんだよ」  脇から低い声で、例の若い女性が言った。  その声に聞き覚えがあり、ジェレミーは眉を寄せる。 「バァカ、レベッカだよ」  すると女性が、片目をつむって見せながら小声で答えてくれた。合点がいってジェレミーはパッと笑顔になる。  彼女はカーマインのメイドのレベッカだった。変装をして、駆けつけてくれたのだろう。彼女は高い戦闘能力を持つ、頼もしい味方だ。 「それはそうと、ギルバート。少しいいかな」  今までずっと黙っていたカーマインが、ようやく口を開いた。貴族らしい忍耐力を見せ、彼は友人が落ち着くまで待っていたのだった。  ギルバートは、急に真面目な顔になり、無言でうなづいた。  その顔を見てさすがのジェレミーも気持ちを引き締めた。そうだ。これから兄を助けるのだ。あの“黒ノ女王(ブラック・クイーン)”を待ち伏せして、彼女の夢の中に囚われているはずの兄を助け出さねばならない。 「例の件なのだが……」  ギルバートは回りを気にしながら話し始めた。声色が変わっている。カーマインも神妙な顔をして頷いた。 「そう、君に言われた人相の男について、だ。調べてみたが、情報は見つからなかった」 「見つからなかった?」  意外そうな顔をして、カーマインが言う。何の話かと、首をかしげるジェレミー。 「何も、載っていなかったと? それは君の結社の、あの“暗赤色の御大”にも載っていなかったという意味か」 「そうだ」  神妙な顔をしてうなづくギルバート。その横でジェレミーが、暗赤色の御大ってなーに? と聞いていたのだが黙殺されている。 「情報はゼロだ。しかし、そのことが逆に証拠とも言えるぞ」 眉間に皺を寄せるカーマインに、ギルバートが指を立ててみせる。「我が結社の、生ける辞書である“月妖百科事典”にも載っていないということは、例の男がこの世の理と別のところで生きている者だということを表す。すなわち──」   「【第四の刻印(ザ・サイン・オヴ・フォース)】か」    そう、カーマインが低い声で言った途端、小さなベルの音が鳴り客が大ホールへと動きだした。どこからともなく、ヴァイオリンとフルートの静かな曲が流れてきた。  夜会が──始まるのだ。 *** ねえ、ジャム。 今日は仕事はいいの? ***  カーマインがギルバートに調べさせていたのは、あの黒ノ女王──メイベル=カールトンの夢の中に出てきた、チャコールグレイのツイードのスーツを着た男のことだった。50才前後の赤い片眼鏡(モノクル)をかけた男だ。  ジェレミーも、カーマインもアナ・モリィも。そしてベンジャミンの四人が同じ男を目撃していた。  だからカーマインは、友人のギルバートにあの謎の男のことを調べさせたのだ。  そして二人は、あたりを付け始めた。【第四の刻印(ザ・サイン・オヴ・フォース)】という謎の結社の者ではないかというのだが──。  もう少し詳しい話を聞こうとしたところで、夜会が始まりジェレミーの質問は中断された。  大きなホールに集まった招待客たちを前に、先ほど会った若いヴァンパイアの当主アイヴォリー=ストレットが何事か挨拶を始めたのだ。 「今宵はお集まりいただきましてありがとうございます」  彼の声は、りん、と会場に響いた。 「若輩者であるこのアイヴォリーめにご厚情を賜り厚く御礼申し上げます。本日はわたくしめが現世の身体を手に入れてから19年目を迎える日でもあります。ささやかな祝い事とはなりますが、どうぞ皆様おつくろぎください」  集まっている客は、おおよそ60人ぐらいだろうか。ふざけることもなく真面目に彼の話を聞いていた。ジェレミーは野次を飛ばしたくて仕方がなかったが黙っていた。それぐらいの良識は持ち合わせていたからだ。  やがて話は、昔の話──今の彼が生まれる前の話になった。いわゆる前世の話である。やれナントカいう結社と戦っただとか、魔術を使ってどうしただとか、高名な誰それとどうしただとか。丁寧な口調で叙事詩のように語られてはいるものの、要は血なまぐさい抗争の話である。  現代のロンドンの街で繰り広げられているギャングの抗争と同じだな、とジェレミーは思った。そんな話を、見た目は紳士淑女の方々が時には談笑しながら聞き入っているのである。彼は思わず肩をすくめずにおれなかった。 「──昨今は、正体不明の殺人者が、下街に住む若い女性たちをナイフで切り裂いて殺害するという残忍な事件が多発しておりますが、今宵は満月です。月の明るい光が、その謎の殺人者の影を映し出してくれることでしょう。決して、我々はあのような下劣な犯罪を犯すことはない、と」  最後のアイヴォリーのセリフは、まっすぐにカーマインに向けられていた。客の数人がそれと気付いてこちらに目線を送ってきている。  アイヴォリーは、後世に絶大な知名度をもって知られる“切り裂きジャック”事件のことを話題に出し、わざわざ無関係だと述べたにすぎない。彼は、まだカーマインのことを勘ぐっているようだった。  対するカーマインは涼しい顔で当主を見ているだけだ。  そして挨拶が終わると、食事が用意され“ご歓談”の時間となった。  ジェレミーが違和感を感じたのは、その食事を用意する給仕たちの姿である。奇妙なほど若い者たちばかりだったからだ。少年少女といってもいいぐらいだ。しかも男性よりも女性の方が多い。白い肩を見せたシンプルな黒いドレス姿の若い女性たちが、食事やワインを運んでいるのである。  いわゆる立食式パーティであるわけだが、見ていると料理に手をつける者はほとんどいなかった。  食べないのかな? と、彼が回りを見ていると、レベッカが肘をつついてきて顎をしゃくってみせた。  彼女の視線の先を追うと、一人の紳士が、若い女性給仕の手を引いて暗がりに引き寄せている。女性は何か催眠術でもかけられているかのように抵抗もしない。二つの影が重なり、そこでじっと動かなくなった。 「連中は、料理よりも好きなものがあンのさ」  テーブルの上のサクランボをつまんで食べながらレベッカ。合点がいって、ジェレミーも彼女にならって、サクランボをつまみあげた。 「そっか。俺も食べよっと」  カーマインは、何人かと一言二言挨拶を交わしている。彼の態度から見て、本当によく知っている相手もいるようだった。中でも、ひときわ目立つ扮装の男がいる。若い少年を連れた恰幅の良い男性である。スーツの色は薄いピンクだ。ジェレミーの感覚で言うと、まるでテレビに出てくる芸能人である。 「オスカー・ワイルド先生※だよ」  ジェレミーの視線の先を見て、今度はギルバートが教えてくれた。彼は、ローストビーフの付け合せのヨークシャー・プディング※の方だけをつまんでいる。やっぱり油っこいものが好きらしい。 「誰?」 「知らんのか。君の時代には彼の作品は残ってないのかな?」 「ん……」 「男色家の作家先生だよ。彼もヴァンパイアだが、こういう集まりは好かんはずだ。珍しいな」 「へえ」  後世に絶大な影響を残し、数々の作品が映画化されている文豪のことも、ジェレミーにとっては“どこぞのテレビタレントのような人物”でしかなかった。彼の興味は、時代の寵児であるオスカー・ワイルド氏からテーブルの上の名もなきサクランボに戻った。 「──ヒャヒャヒャ、兄弟。今日はいい日だなァ!」    その時、背後から大きな笑い声とともに誰かがホールへ足を踏み入れてきた。  ジェレミーたちは振り返り、何人かも驚いて入口を見る。ホールの真ん中にいて客と話していたアイヴォリーもそちらを見た。  入口に立っていたのは、真っ白い髪を耳の下まで伸ばした若い男だった。  すらりとした身体をツヤツヤの黒いスーツで包んでいる。握りに髑髏のついたステッキを持ち、見た目は立派な青年紳士だった。  しかし、奇妙なところがいくつもあった。室内だというのに手袋をはめたまま。男性だというのに首に幅広のビロードの首飾りをつけているのだ。ぴったりと首をそのまま覆い隠すような暗赤色のチョーカーである。  もっとも異彩を放っていたのは、その瞳だった。  色素が抜けた赤。まさに血の色をした瞳には、何らかの怪しい光が宿っていた。 「外はいい月だってのに、こんなとこに閉じこもってると身体に毒だぜェ? アイヴ。外でもっといいワインを飲まねェか?」  何者なのだろうか。無遠慮に向けられる視線をものともせず、ずかずかとホールに足を踏み入れこちらへ向かってくる。ジェレミーが彼の進路から退くと、まっすぐにアイヴォリーの元に進んでいく。  すれ違う時にハッと思い出した。  この男は、確かメイベルの夢の中に出てきた──。 「やあ、デニス。君も来てくれたのか」  明らかに回りの空気が変わっていたというのに。何事もなかったかのように、アイヴォリーは来訪者を迎えた。この男はデニス=カールトンである。ジェレミーはその背中を凝視した。  黒ノ女王ことメイベルの実兄であるデニスは、にやにやと笑いながらこの館の当主の肩を抱き、まるで親友のように話しかける。 「飼いならされたブタよりも、自由に放し飼いにしたブタの方が美味いのさ。知ってるだろ?」 彼は回りのヴァンパイアに聞こえるように大きな声で言う。「ウヒャヒャ、そうさ。ワインだって同じさ。飼いならしたワインよりも、放し飼いにしてあるワインの方が美味いに決まってるだろゥ?? なあ、アイヴ。オマエもそう思うよなァ?」  その時、アイヴォリーの近くにいた給仕の一人が身を乗り出した。デニスの馴れ馴れしい態度に腹を立てたのであろう。彼の腕をむんずと掴む。 「貴様、ご主人様(マスター)から手を離せ」 「ァア?」    ──パシャッ。  まるで水風船が割れるような音だった。  一瞬にして、給仕の手が跡形もなく無くなっていた。目を瞬かせる間もなく、彼の手が弾け飛んでいた。  悲鳴が上がるの同時にジェレミーは気付いた。デニスがやったのだ。彼は一切手を触れなかったが、何か念動力のようなもので、給仕の手を吹き飛ばしたのだ。 「アレッ、オマエ手ェどこかに落としちまッたのか? ヒャヒャヒャ」  デニスは、うずくまり手を押える給仕を見下ろし下品な笑い声を撒き散らしている。どこぞの女性が小さな悲鳴を漏らし、近くにいた者はデニスという異物を様々な色のこもった視線で見つめ後ずさった。 「──デニス=カールトン。彼は斧で首を切られたが、死人のままこの世に舞い戻った」 「ああいうのを“死人返り(リビングデッド)”っていうんだ」  カーマインが低い声で解説するのを、レベッカが補足してくれる。 「デニスは殺されたときのショックで、あの力を身につけたといわれている。彼は彼自身の復讐のために、あの力を使って十数人の頭を吹き飛ばした」 「エッ、じゃあいわゆる容疑者?」 「そうだ」 カーマインは少しだけ悔しそうな顔をした。「王立闇法廷(ロイヤル・コート・オヴ・ダークネス)が拘束できずにいる重要参考人のうちの一人だ。奴は神出鬼没で、非常に手強い相手である上、すでに死んでいるからな。奴の通り名がなんというか知っているか?」  そう問われ、ジェレミーは首を横に振った。 「“ネックレス(首なし)”だ」  振り向き、彼はデニスを見た。そうだった。あのビロードの首飾りは……。 「──ビンゴだぞ、ジェレミー」  カーマインが低く呟き、ジェレミーはハッとして曾々祖父を見る。今の口調──まるでベンジャミンみたいじゃないか! 「デニスが現れたということは、黒ノ女王はこの場に必ず現れる。だが、忘れるなよ。我々の目的はデニスもしくは黒ノ女王を拘束することだ。殺すことではない。二人が顔を合わせれば周囲の者たちは無事では済まされないだろう」  二人は、アイヴォリーと話すデニスの姿を見つめた。  気に入らなければ誰であろうと平気で傷つける男と、月妖(ルナー)と見れば誰であろうと殺そうとする女と、憎みあう二人が顔を合わせるのだ。  華やかな夜会に血の雨が降るやもしれない──。  二人はこの後に起こるかもしれない惨事を想像し、沈黙した。 *** 「大丈夫だよ」  繰り返し繰り返し、今日は大丈夫なのかと問う妻に対し、ベンジャミンは優しく言った。  外はいい天気だった。彼は妻が乗った車椅子を押しながら、病院の庭をゆっくりと歩いている。  穏やかな日だ。  今までの人生で、こんなに穏やかな日があっただろうか。  鼻をくすぐる妻の匂いとともにベンジャミンは安らかな気持ちでゆっくりとゆっくりと足を運んでいる。 「こないださ、上司があんまりグタグダ言うから、うっかり言い返しちまったんだよな。そうしたら変な部署に左遷されちまってさ」 「変な部署?」  アイリーンが不思議そうに聞いてくる。 「そう。変な部署。幽霊が出たとか吸血鬼が出たとか、そんなヨタ話に対応するんだ。苦情処理係みたいなモンだよ。だからヒマなんだ」  こうして君とずっと一緒にいられるよ。そうベンジャミンが言うと、しばらく返事がなかった。ふと、気になって顔を覗き込むと、アイリーンは心配そうな顔をしている。 「大丈夫なの? 危険なことはないの?」 「ないよ。ぜんぜんない。定時に帰れるし」 「でも……幽霊や吸血鬼だって、全く存在しないわけじゃないと思うの。わたしの母だってそう言って……」 「また、お義母さんから聞いた話?」  切り返すと、アイリーンは怒ったように口を尖らせて彼を振り返った。 「──馬鹿にしてるでしょ」 「ごめんごめん。してないよ」 「わたしはね」  アイリーンは言いかけて喉をつまらせた。ゴホッゴホッと咳をし始める。ベンジャミンはその背中を優しくさすった。すぐに落ち着くと彼女はその大きな瞳でじっと夫を見上げた。  わたしはね、ともう一度言ってから続ける。 「あなたのことが心配なの」  彼女はもう一度ゴホッと深い咳をした。 「わたしが居なくなったら、あなたちゃんとした食事とれる? 油っぽいものばっかり食べたりしない?」 「しないよ」  何をつまらないことを。ベンジャミンは妻が冗談を言ったかのように笑った。    ──それに、君は居なくならないだろ? ***  夜会が始まってから、すでに小一時間ほどが経過していた。  四人は二組に分かれて、これから起こることに供えることとした。ジェレミーとカーマイン組と、ギルバートとレベッカ組だ。  ギルバートたちが外から侵入してくるであろう黒ノ女王を警戒することになったので、ジェレミーたちはデニスの行動を見張ることになった。  彼はたまにワインを舐める程度に飲み、アイヴォリーの周りをぶらぶらと歩き回っていた。他の者と話をする素振りはほとんどない。  ──あいつ、友達いないんだ。ジェレミーは思った。  しかし不思議とアイヴォリーは、このデニスに対し嫌悪感は抱いていないようだった。招待客ではない彼を邪険に扱うどころか、むしろ厚遇している。彼の無礼な振る舞いに対しても寛大に接していた。  そして、デニスがこの場に現れてから、ジェレミーたちの回りにいる給仕の数が増えていた。明らかに自分たち“王立闇法廷の連中”を警戒しているのだ。  なるほど、アイヴォリーはデニスを本当に友人として扱っているらしい。  ジェレミーはその二人の様子を見ていて、何となく合点がいった。デニスは破天荒な人間に見えるが、たぶん本当にアイヴォリーを親友だと思っているのだ。彼に危害を加えるような者がいれば惜しみなく力を振るうだろう。  ……もっとも、若きヴァンパイア結社の当主の方は、デニスを有能なボディーガード程度にしか思っていないかもしれないが。  ふと、その時音楽が変わった。  ピアノが主の、短く切れるような音を繰り返すアップテンポの曲だ。まるで、現代のロックのような、軽快なリズムである。  見ると、いつの間にか、アイヴォリー自身がホールの真ん中に立っていた。そばにいたデニスは後方に退き、ニヤニヤと友人の姿を見つめている。  アイヴォリーは上着を脱ぎ、シャツのボタンを二つほど外している。すでに回りに人はおらず、彼はポツンと一人で立っていた。  何が始まるのか──。そう思った時。ツ、と若き当主は動いた。  腕と身体を動かし円を描くようにゆっくりと回る。何らかのダンスのようである。十本の指を複雑に動かしながらステップを踏み、跳ねるように踊る。ゆらりと回る。そして跳ねる。 「──今夜のメインディッシュを出すつもりだ」  突然始まったダンスに、思わず見入っているジェレミー。その彼に、脇からカーマインが教えてくれた。 「メインディッシュ??」  ジェレミーの疑問にカーマインは顎でその方向を指し示した。  見れば、人々の輪の中から、若い女が一人進み出てきた。アイヴォリーのダンスの輪の中に入ると、くるりくるりと不思議なステップを完璧にこなし、彼女も軽やかに踊り出す。  真っ赤な華やかなドレスをまとった若い女である。しかしその目は虚を見ているだけだった。全く表情もなく、ただ人形のように踊っているだけである。  もしかして……。ジェレミーは隣りのカーマインを見た。すると曾々祖父は、一つ厳かにうなづいた。 「そう。彼が魔術を使って、あの女性を踊らせているのさ」 「あの女の人、これからどうなっ──」 「──みなさま、グラスをご用意ください」  ジェレミーの言葉を、執事らしき男の声が遮った。招待客たち──ジェレミーたち4人を除くほぼ全員が、一斉に空のグラスを自分の前に片手で差し出した。それは鼻につくほど気取った仕草だった。  アイヴォリーは一礼し、女とともに人々の方へとステップを踏んだ。しかし人々の方へと手を伸ばしたのは女の方だった。彼女の両手から赤いリボンのようなものが、音もなく滑り出す。ギョッとするジェレミーを尻目に、そのリボンのようなものはゆらゆらと宙を泳ぎ、人々の掲げるグラスの中へと次々に入っていく。  ──血だ!  心の中で、ジェレミーはその正体に気付いて声を上げた。  アイヴォリーが、あの女の血を皆に分け与えているのだ。 「このアイヴォリーより、みなさまへ。感謝の気持ちを込めて」  カーマインたちの前を素通りし、足元をふらつかせながら女性は踊りながら両手首から鮮血を流しつづけた。最後の一人のグラスにまで血を注いだあと、彼女は糸を失った人形のように、床に崩れ落ちるように倒れた。開かれていた瞳が、ゆっくりと閉じていった。まるで死人のように青ざめた顔色。いったいどれほどの体内の血液を失ったのだろうか。  命を奪ってはいなかった。しかし──。  スッ、とカーマインが進み出でて、若い女を助け起こそうと大股で近寄っていった。だが、その前に大きな身体の下男が現れて、やんわりとカーマインを制すと女性を抱き上げて、ホールの奥の暗がりの方へと連れて行ってしまった。その動作は素早く、まさに数秒の出来事だった。 「これは、生娘ですな」 「やはり、貴殿もそう思われますか。この独特の舌ざわり。素晴らしい」 「ええ。昔が懐かしくなります」 「古き良き時代に乾杯といきたいところですな」  回りの客が談笑している中、ジェレミーは戻ってきたカーマインの顔を見た。彼は無表情だったが、すぐに分かる。カーマインは怒っていた。 「──どうかお許しください」  そんな中、涼しい声で踊りを終えたアイヴォリーが言う。彼は一礼し、大げさに両手を広げながら続けた。 「少しでも多くの方々に味わっていただきたく、少量のワインとなることをどうかお許しください。その代わりに、今宵は何種類ものワインを用意してございます」  朗々と語り、アイヴォリーはサッと両手を下げた。するとその両脇にまた新たな赤いドレスの女たちが並んだ。全部で四人である。  先ほどの女のように、皆、虚ろな瞳をして──。 「──ゲェッ!!」    ジェレミーはそこにいるはずのない女を見つけて、驚きのあまり虫を飲み込んだような声を上げてしまった。すぐに喉を押さえ咳き込んだ振りをする。  まさか、まさか、まさか。  もう一度、見る。  一番左にいる女。虚ろな瞳をして、長いプラチナブロンドの髪を結い上げて、白い肩と美しいデコルテを惜しげなく披露している女。あれは……。  あまりのことにジェレミーは隣りのカーマインを見た。  彼の曾々祖父は、今まで見たことがない表情をしていた。血の気が引いたとは、まさにこういう顔のことを言うのだろう。真っ白い顔に、目だけが異様に光を放っていた。もちろんその視線の先は、あの女だ。ステッキを持つ手がぶるぶると震えている。  どんな時でも冷静沈着であるはずのカーマイン=アボットが、傍目にもハッキリとそれと分かるほど動揺していた。  そこに彼女がいたからだ。  彼のアナ・モリィ=シェリンガムが、そこにいたからだった。  アイヴォリーが勝ち誇ったような笑みを浮かべながらこちらを見ている。だが、それに対抗することもできず、カーマインは視線を外し俯いた。 「……そうか、僕が……ああ……」  小声で何事か呟き、彼は左手を額にやった。 「僕のせいだ、ジェレミー。すまない」  やがて、聞こえるか聞こえないほどの声で、カーマインは口を開いた。 「モリィは、ジャムが居なくなったことを気に病んでいた。この夜会を彼女が無視するはずがない。きっと彼女は一人で何とか挽回しようと、このクラブに乗り込んだのだ。僕は……彼女の行動を予測できなかった。僕のせいだ」 「……そ、そんなことないよ」  ジェレミーは、とにかくなだめようとカーマインの背中を軽く叩いた。 「済まない、ジェレミー。僕は──」  そこで何か言いかけて、カーマインは続く言葉を無理に飲み込んでしまった。だがジェレミーには分かった。彼はこう言いたかったのだ。アナ・モリィを人質に取られては、自分には何もできない、と。  ──ヤバい、ヤバいぞ。どうする、ジェル?  ジェレミーは自問しながら顔を上げた。彼の混乱をよそに、ヴァンパイアの血のダンスが始まってしまった。当然アイヴォリーは待ってなどくれなかった。4人の女性たちが複雑に踊り始め、アナ・モリィは最も後方で、踊っている。  カーマインは微動だにせず、その様子を見、そしてアイヴォリーを凝視している。 「どっ……」  どうすればいいのだ!?!?  ジェレミーは、手の中にリボルバーを出し、そしてまた消した。これから兄を助けなければならないのに、曾々祖母を人質に取られてしまった。どうすればいいのだろう。  やっぱり、まずはアイヴォリーをトッチメるかな。ジェレミーは目をキョロキョロさせながら思う。いやいや、まてまて。それをしたらデニスが飛んでくるぞ。あいつとはどうケンカすればいいのかな。殴っても死んでるから効かなさそうだし、変な技で頭フッ飛ばされるらしいし。俺、どうやって脳味噌ガードすればいいのかな……。  ──ダァン!!  ジェレミーが心の中で、もやもやしたものと折り合いをつけようとしていた矢先に、最悪のタイミングで大きな音がした。  後ろだ! と、振り返れば、やはりそこに黒い影が立っていた。  窓ガラスを割り、派手に登場した黒いドレスの貴婦人──“黒ノ女王(ブラック・クイーン)”だった。 「ヴァンパイアめ、一人残さず滅ぼしてあげますわ!」  ジェレミーの大好きなアメコミヒーローのように決め台詞を吐いた貴婦人。彼女が動くとその足元に、男が倒れているのが見えた。  大きく突き出た腹を天井に向けて、大の字に伸びている──ギルバートだった。 「やられてるし!」  ヴァンパイアたちの悲鳴や怒号が上がる中で、頭を抱えるジェレミー。  レベッカの姿は見えない。彼女も倒されてしまったのか。無事を祈りたいが、黒ノ女王がここにいるという時点で、ギルバートのように酷い怪我を負っている可能性が高い。  4人で作戦に望むつもりだったのに。突如として起こった喧騒の中、ジェレミーは目をギュッとつむった。人質が1人増えて1人が動けなくなり。1人はやられて、もう1人も動けないらしい。と、するならば残るは……。  ──俺しか、居ないじゃん。  ひとりジェレミーは下唇を噛み、身体をゆっくりと黒ノ女王へと向けた。  その両手に、銀色に光るリボルバーがふわりと現れる。彼の両脇をヴァンパイアたちが逃げるように奥へと走り去っていく。ジェレミーの手に現れた銃に気付いた者は居なかった。 ジャムは居ない。CCも動けない。  ──ここは、俺がやらなくちゃならないんだ。  彼は、ゆっくりと両手の銃を黒ノ女王に向けた。 *** 「大丈夫だよ」  繰り返し繰り返し、今日は大丈夫なのかと問う妻に対し、ベンジャミンは優しく言った。  外はいい天気だった。彼は妻が乗った車椅子を押しながら、病院の庭をゆっくりと歩いている。  穏やかな日だ。  今までの人生で、こんなに穏やかな日があっただろうか。  鼻をくすぐる、妻の匂いとともにベンジャミンは安らかな気持ちでゆっくりとゆっくりと足を運んでいる。 ***  とりあえず当てないつもりで、両手のリボルバーを全弾撃ちつくした。 「──あなたは、この間の!」  黒ノ女王がジェレミーを見、眉を吊り上げて睨んできた。さすがの彼女も目の前に銃器をもった人間が立っていれば反応するし、それが最近ことごとく仕事を邪魔する相手だと知れば目くじらを立てもする。 「どきなさい!」 「やーだよ」   さて、足止めはできるがこれからどうすればいいんだ。ジェレミーは、弾を補充するために“画面の外”を撃ってリロードした。  しかし、考える必要などなかったのだ。  彼の背後から、底抜けに明るい声が黒ノ女王を突き刺したからだ。 「メェイベル!! メイベルじゃないか。久しぶりだなァ!」    振り返れば、手を広げるデニスの姿が目に入った。兄と妹の視線がジェレミーを挟んで交差する。 「──知ってるぜェ、メイベル。オマエが何しにここに来たか。ボクだろ、ボクが目当てなんだろ? ウヒャヒャ、知ってるぜェ。オマエのカワイイ顔に書いてある。アイル・キル・ユーってなァ!」   *** 「君はよく寝られた?」 「あなたの身体が重くて、ぜんぜん」  アイリーンは笑顔のまま肩をすくめると、ベッドの脇のテーブルに目を向ける。肩の上で短く切りそろえられた黒髪が艶やかな光を放ちながら、さらさらと揺れた。 「ジャム、林檎でも食べる?」 「ああ、うん」  ベンジャミンがうなづくと、彼女はゆっくりと手を伸ばして赤い林檎を一つ取って、ナイフで剥き始めた。  その仕草を、彼はじっと見つめている。  この上なく安らかな時間だった。目を細め、ベンジャミンは愛する妻の姿に見入っている。 *** 「デニス!」  叫ぶように相手の名前を呼んだ黒ノ女王は、大きく振りかぶった手を前へ突き出した。するとシャァッと音を立てて彼女の両手から細く黒い影が伸びた。  彼女の武器である黒い刃だ。言霊師である彼女は魔術で自分の影を刃に変えて恐るべき凶器に変えて相手を切り裂くのだ。 「わっ」  ちょうど二人の間に立っていたジェレミーは慌てて手を上げた。──間一髪! 彼のジャケットの裾を切り裂いて、その影は蛇のように唸りながらデニスの両腕に絡み付いていた。目にも止まらぬ早業とはまさにこのことだ。  危ない危ない、と胸をなでおろし、さてこれを切らねばと銃の代わりにハサミを出そうとすると──。 「メイベル! これはおイタかい?」  ハッと殺気を感じて、咄嗟にしゃがみ込むジェレミー。その頭上をキラキラ光るたくさんの何かが音も立てずに通過した。  黒ノ女王が腹立たしそうに、ええいと声を漏らしながら手を払った。彼女の黒い影によって床に落とされたのは無数のナイフやフォークだ。デニスが念動力を使って彼女に投げつけたのだ。 「ァッ!」  背中にナイフなどが突き刺さるところだったよ、と、立ち上がったジェレミーは黒ノ女王が驚いて目を丸くするのを見る。何? と、つられて振り返れば、縛られていたはずのデニスが一瞬で姿を消すのを見る。  次には、黒ノ女王の悲鳴だ。  慌てて首を返せば、瞬間移動をしたのだろう──デニスがそこにいて、黒ノ女王の身体をがしりと後ろから押さえ込んでいた。 「メイベル。ボクの可愛い妹ォ。さてさて、今日は何をして遊ぼうか?」   「──嫌ァッ!」    叫んだ彼女の身体が黒く光ったような気がして、ジェレミーは本能的に危険を察知した。また床に倒れこむように身を伏せると、何かが彼の髪の毛を数本飛ばしながら後方へ──ヴァンパイアたちがいるホールの方へと恐るべき速さで伸びていった。  黒ノ女王は自分の身体から放射状に、あの凶器をメチャクチャに放ったのだった。  今の勢いは、まずいぞ──。  ジェレミーは、跳ねるように立ち上がって状況を確認した。  黒い影が伸びて、数人の給仕の胸を突き破っていた。明らかに絶命している者がほとんどだ。だが、真ん中の客が最も集まっていたエリアには二人の男が無傷のまま立ちはだかっていた。  ステッキを構えたカーマインと、素手のアイヴォリーだった。  よし! ジェレミーは安心して黒ノ女王とデニスを振り返った。と、そこに広がっていた光景に思わず息をのんだ。  窓枠に──デニスが磔にされていたのだ。  身体中に無数の黒い影を突き刺され、がくりと首を垂れている。彼の身体からは何かの液体が流れ出し、ポタリ、ポタリと床に垂れ落ちていた。血なのだろうか。ジェレミーは目を凝らした。血にしては黒い。まるで油か何かのような──。 「──ヒャヒャヒャハハハハ! やるじゃねェかメイベル」    ゴキ、と音を立てて、デニスが顔を上げた。彼が笑い声を上げるたびに頬の肉が裂けて何か白いものが覗く。その凄惨な光景にさしものジェレミーも目を背けた。 「危うく首がまた取れそうになっちまったぜヒヒヒヒヒ」  と、彼が二言目を発した途端に、その顔に黒い影が刺さった。  ──が、違った。影は虚空を刺し、デニスはいつの間にか床に降り立っていた。ボロボロになってしまった上着の裾を引っ張り、気取った仕草で右手の平をひょいと上に翻してみせた。 「な……ん度でも……」  小声で何かを言いかけた黒ノ女王はステップを踏み、背中を守るように壁際に立った。 「何回でも殺してあげますわ! 今日は必ず、あなたを……わたくしはあなたを止めてみせる!」 「俺を殺すって、今みたいに? ワァォ! そりゃスゴイ。次はもっと酷い殺し方見せてくれよ? ウヒャヒャ。ギャラリーだって大喜びだ!」  デニスは余裕の態度で、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ。口笛すら吹き始める。  ──ヤバい、ヤバいぞ。  ジェレミーは思った。二人とも俺のこと全く無視してる。全く目に入ってないぞ。  ──いや、まてよ。  ふと彼は考え直した。これはサッカーの試合みたいなものじゃないか? デニスと黒ノ女王の二人がボールを取り合ってる状態だ。そう考えれば……答えは一つ。  俺もボールを取りに行けばいいんだ。  タッ、と軽やかな音をさせて、ジェレミーは床を蹴って跳んだ。 *** 「わたしはね」  アイリーンは言いかけて喉をつまらせた。ゴホッゴホッと咳をし始める。ベンジャミンはその背中を優しくさすった。すぐに落ち着くと彼女はその大きな瞳でじっと夫を見上げた。  わたしはね、ともう一度言ってから続ける。 「あなたと一緒にいられるのは、とても嬉しいわ」  ふふんと得意そうにベンジャミンは微笑んだ。 「でもね、あなたは仕事に行かなきゃいけない」 「どうして?」 「そこがあなたの生きる世界だからよ」  視線を外さず、アイリーンは低い声でハッキリと言った。その声には何か強い力が込められていた。 「そんなことないよ」  しかしベンジャミンは笑って妻の言葉を否定する。 「俺さ、自分がいかに仕事人間だったかを痛感したんだ。ヒマな部署に移って、早く帰ってこられるようになった。君が病気になったんだから、俺は君のための自分の時間を使う。誰にも文句なんか言わせないさ」 「ジャム……」  ゴホッと深い咳をし、アイリーンは悲しそうな目で夫を見上げた。 「わたしだって辛いの」 「何が?」 「あなたと別れなくちゃならないことが」  ははは、とベンジャミンは笑った。彼は、それでも妻の言葉にまともに取り合おうとしなかった。 「ずっと一緒にいるって言ったろ。君は何も心配しなくていいんだ」 「ジェレミーはどうするの?」 「ジェレミー?」  妻の口から突然弟の名前が出てきて、ベンジャミンは困惑した。 「ジェレミーは、あなたが居なかったらきっと困るわ」 「そんなことない……よ」  何故こんな話をしているのだろう。彼はゆっくりと言葉を紡いだ。 「いい大人なんだからさ。あいつもそろそろ自立しないと。そもそもあいつは健康そのものじゃないか。君は病人なんだぞ。どう考えたって──」 「ジャム」  アイリーンは両手で顔を覆ってしまった。ジャム、ともう一度夫の名前を呼び、俯く。声が震えていた。  自分が何か酷いことを言ってしまったのか。ベンジャミンは狼狽して、車椅子から手を離してしまった。おろおろと妻の姿を見、彼女に目線を合わせようとその隣りにしゃがみ込んだ。 「ジャム──わたしは戦うべきなの?」 「? 何が?」 「わたし医者なのよ。わたし全て分かってるのよ」 「アイリーン」 「聞いて、ジャム」 アイリーンは両手を膝に降ろし、潤んだ目で夫を見た。まっすぐに。「全て分かってるのに、わたしは、あなたの前では戦うって言わなくちゃならない。ねえ、駄目なの? わたしは休んじゃ駄目なの?」  ベンジャミンは弾かれたように立ち上がった。  ようやく妻が言いたいことが分かったからだ。彼女は──。 「君は、俺に居なくなって欲しいのか」  アイリーンはゆっくりと首を横に振った。そうじゃない、そうじゃない、と。 「俺にどうしろっていうんだ!」 思わずベンジャミンは叫んでいた。「俺は君を愛してる。君を失いたくない。誰もいない家で一人で過ごすなんて真っ平だ! 誰もいない家で一人で──」  言いかけて、舌がもつれ彼は口ごもった。  寝室にあった大きなベッドを処分した。  新婚旅行で行った南フランスの写真をクローゼットの奥に隠した。  彼女が誕生日にプレゼントしてくれたコートは屋敷の方に持っていってもらった。  彼女と初めて食事したレストランのある道を避けるために10分早く家を出るようにした。  怪我をした時にはあの病院だけには行きたくないとダダをこねた。  あれはみんな夢だったんだろ。  ベンジャミンは、たぶん、口に出してそう言った。 「ジャム、ごめんなさい。あなたがとても傷ついていること、わたしは知ってる」  囁くようにアイリーン。ベンジャミンはその横顔を見つめた。伏せたまつげが、揺れている。頬だってピンク色だ。  彼女は生きている。こうして俺の隣りで呼吸をして、一緒に生きているじゃないか。  そのアイリーンが、スゥッと大きく息を吸い込んだ。 「ジャム、わたしを一人にさせて欲しいの。あなたは自分のいるべき場所に戻って」 「嫌だ。俺は──君をそんな見捨てるようなことはできない」 「そうじゃないわ」  アイリーンは優しく、ベンジャミンの手を握った。その手はしっとりと温かかった。 「見捨てるんじゃないわ。わたしを信じて」 「俺は──」 「わたしはあなたが居なくても一人で戦える。だから、あなたも本当のことを見て。あなたとわたしの間にあった現実を」  現実。ベンジャミンは心の中で妻の言葉を反復した。ほんとうのこと。俺とアイリーンの間にあったほんとうのこと。  彼女は5年前に死んだ。死因は子宮ガンだ。半年間苦しんで死んだ。 「あなたはこの──アイリーンに囚われているの。わたしは一人でやれる。わたしは一人で大丈夫。だから」 「アイリーン」  ベンジャミンは妻の顔を見た。視界は涙でかすみ、彼女がどんな表情を浮かべているかも分からなかった。 「ジャム」  彼女も彼の名前を呼んだ。静かな優しい音楽のような旋律だった。 「わたし、あなたを助けたいと思ってたの。あれから──5年前から、ずっと」  袖で目をぬぐえば、アイリーンは微笑んでいた。  そうか──ああ。ベンジャミンは嘆息した。あれから5年も経っていたのだ。  それは、アイリーンが言うはずのない言葉で。  でも、アイリーンならば言うはずの言葉だった。  ようやくベンジャミンは、ほんのわずかだけ微笑むことが出来た。 「アイリーン」  自分の声は、意外にもしっかりとしていた。まるで他人が話しているような声だったが、彼は知っている。それが自分のものであると。 「俺は……俺は、君のいない世界を5年も生きちまってたらしい」  そうよ、と彼女がうなづく。 「君を助けなきゃと思っていた。でも、違ったんだ。逆だったんだ。俺は──」  アイリーンは、もういいのよ、と言わんばかりにベンジャミンの頬に手を伸ばし、そっと触れる。 「あなたとゆっくり話せて良かった」  そうだね。ベンジャミンも答えていた。  ──本当に、良かった。 *** 「なんだテメェ、邪魔すんな!」  ジェレミーはホールの中を走りながら、とにかくデニスを狙い撃ちにした。当の相手はようやく参戦者に気付き、不快感を顕わにしている。  サッとテーブルの下に隠れれば、その上に乗っていたワインの瓶が四散した。  よし、イケる! 手ごたえを感じるジェレミー。デニスは見えるものでないと、超能力で吹き飛ばせないのだ。  黒ノ女王が攻撃した隙に、ジェレミーは銃を手に、隣りのテーブルの影へと駆け抜ける。  彼は決めていた。まず、デニスを殺してしまおう、と。  何回も生き返ることはできないらしいが、まだ数回は“持ちそう”だったからだ。人間誰にでも当てはまることだろうが、デニスは死ぬと“隙”ができる。その時に、黒ノ女王をなんとかする、のだ。 「これが目的か、カーマイン卿」  一方、冷たい口調で、吐き捨てるように言ったのはアイヴォリーだ。傷一つ負わずに、黒ノ女王の一撃を完全に防いだのは見事だったが、彼は激怒していた。 「あの汚らわしい売春婦を招き入れ、パーティを台無しにして私の顔に泥を塗るつもりか」 「僕たちは確かに、あの黒ノ女王がここに現れることは予想していた」  その隣りで、カーマインはステッキを降ろし淡々と答えた。 「しかし誤解があるようだ。僕たちは彼女も、君の友人も保護するつもりでいる」 「何を白々と!」  憎悪で溢れんばかりの視線を向け、アイヴォリーは手をサッと上げた。カーマインを打ち据えるかのように見えたそれは、何らかの合図だった。  生き残っていた給仕たちが立ち上がり、彼ら二人の手の届かない箇所に散らばったのだ。後方にいる招待客たちに被害が及ばないようにするものであった。しかし──人数が少なく明らかに守備が足りていない。 「どういうことだ?」  アイヴォリーは低く呟き、近くにいた執事風の男に目をくれた。男は、短く首を横に振った。夜会の主がさらに眉を寄せた時、窓側で声が上がる。 「外の警備の連中は、全員やられたよ」    猫のように軽やかに窓から飛び込んできた、小さな影。それは若い女──メイドのレベッカだった。  にわかに信じがたいように、窓の外に目をやったアイヴォリー。彼は、執事風の男がうなづくのも見る。 「──皆さん。申し訳ありませんが、このクラブから避難してください」  夜会の主が判断を決めかねているうちに、声を上げたのはカーマインだった。彼は後ろを振り向き、ヴァンパイアたちに向かって穏やかに説明するように話した。 「私は王立闇法廷のカーマイン=アボットです。当法廷の重要参考人であるデニス=カールトンと、その妹である通称“黒ノ女王”の二人を保護いたします。見ての通り二人は戦闘状態にあります。大変危険ですので、速やかに避難してください」  アイヴォリーも何も言えず黙り込んだ。数人の招待客もそわそわと動き始めている。皆、隣りにいる者同士顔を見合わせるなどしている。アイヴォリーの許しを得ずに退室してよいものかどうか、迷っているのだ。  デニスが飛んだ。黒ノ女王は床を走りそれを追いかける。  遠くの方で、俺の妹スゲェだろうとかデニスの狂ったような笑い声が聞こえる。 「──ハッハッハ! 面白いじゃないか」  しかし、ざわついた雰囲気を破ったのが、誰かの浪々とした声だった。 「アイヴォリー卿、我々のためにこんな刺激的なショーを用意してくださるとは。私はとても嬉しいですよ」  進み出たのは、ピンク色のスーツの男。文豪オスカー・ワイルドだった。  ムッとした顔でそれを見るアイヴォリー。 「まさか、これを最後まで見ずにお帰りになる方はおらんでしょうな」 彼は大きく手を広げ、客の方を隅々まで見通すように首を巡らせながら言った。 「死んでまでこの世に執着を残す男と、その男を倒すために月狩人になった女。月の夜の死闘。素晴らしいシチュエーションです。私はどちらが勝利するのか、ぜひ見届けたい」 「オスカー、しかし」  カーマインが声を上げるのを、ワイルド氏は手を上げて制し続けた。 「我々は誇り高きヴァンパイア。まさか、自分の身を守れぬ者はおりますまい。うら若きレディたちは、この場の無数の騎士たちが守ってくれることでしょう」  彼の言葉が、場の雰囲気を変えてしまっていた。  立ち去ろうとしていた者も、居住まいを直しワイルド氏と、繰り広げられている死闘に目をやり始める始末だ。  ぐっと拳を握りしめるカーマイン。ワイルド氏にこんなことを言われてしまっては、退室できる者は一人もいないだろう。内心、恐々としていてもプライドが邪魔して彼らは逃げることができないに違いない。アイヴォリーも全く何も言わない。  こうなったら──。カーマインはちらりとホールの奥を見た。そこには、魂を抜かれたように虚ろな表情で立つアナ・モリィの姿がある。  とにかく、彼女だけは守らねば。 ***  ふと、気付くと中庭の噴水前に立っていた。  妻のアイリーンも一緒だ。 「ねえ、見て」  彼女の視線を辿ると、子供が二人遊んでいた。  小さな男の子と女の子である。5、6才ぐらいだろうか。キャッキャッと嬌声を上げながら遊んでいる。噴水の水を掛けたり、追いかけっこに夢中な様子だ。  誰だろう……。  ベンジャミンは、ただその二人の子供たちが遊ぶのを見つめている。 ***  ジェレミーはレベッカの声を聞き、笑顔になって振り返り──目をみはった。  バランスを崩したような格好で窓際に立つ彼女。その左腕の肩から先が全く無かったからだ。 「レベッカ! う、うで!」 「大丈夫だよ」  ジェレミーの声に、彼女は低く答え、そっと彼の隣りに立った。 「うっかり街灯に縛りつけられちまったんで、自分で腕を切り落としてきたんだよ」 ジャラ、と彼女は右手で武器の鎖を構える。「そんなことより、ヤバいぞ、あの女。こないだよりも力が強くなって──」 「──い、痛くないの!?」  目を丸くしたまま、ジェレミーはレベッカに迫っていた。 「え、痛いって何が?」 「……腕!」 「おい、危ねぇぞ!」  ドン! ふいに二人は突き飛ばされ、床に身を投げ出された。  身を起こそうとすると、黒い影の刃が頭上をかすめて飛んでいった。黒ノ女王だ。宙を浮いて逃げるデニスを追い、放った刃が数人の給仕を串刺しにする。 「レベッカは人造人間(パペット)だ。彼女には痛みは無ぇんだ。心配無用だ」  ぬっ、と立ち上がる大きな影。モジャモジャデブだった。二人を突き飛ばしてくれたのは、意識を取り戻したギルバートだった。  しかし口調が変わっている。何かふてぶてしいような──。 「も、もしかして、クライヴ?」 「ああ、そうだ。遅くなって済まん」  きょとんと彼を見ているレベッカを尻目に、ギルバート=クライヴはモジャモジャの髪を掻き、両袖の埃を払うような仕草をした。  そんな間も、ホールにはデニスの笑い声と、殺される給仕の悲鳴。アイヴォリーが上げるヒステリックな罵声が響いている。 「早口で言うから、よく聞け。一度で覚えろ」  クライヴはジェレミーに向かって言った。 「俺の武器は、小型ボウガンの矢だ。これを使って、死角からデニスを奥の壁に磔にしちまうことができる。今から10秒後。必ず当たるから俺を信用しろ。デニスが動けなくなったら、お前は黒ノ女王を眠らせろ。眠らせたら彼女の夢の中に入って兄貴を引っ張り出して来い」 「おい、何言ってンだよお前」 「レベッカ、お前はコイツのサポートだ。黒ノ女王を牽制しろ」  いきなり命令され不服な顔をしたレベッカが声を上げたが、彼はそれをぴしゃりと黙らせた。言われたことが的確だったので、不精不精彼女はうなづく。  1、2、とクライヴがカウントを始めた。  ジェレミーは、言われたことは理解したが、まだ展開に頭が追いついていなかった。10秒後? 小型ボウガン? そんなこと言ってるけど、クライヴは丸腰で武器など何も持っていないように見える。しかも、黒ノ女王を“眠らせる”? 俺にそんなことが出来るのか。子守唄でも歌えばいいのかな。 「5」  クライヴは両手を上げた。まるで鳥が羽ばたくようなポーズだった。何を? と思った瞬間に彼の両袖から何か細いものが数本飛び出した。それは一瞬のうちにホールの暗闇へと消えていった。 「い、今のは?」  ジェレミーの問いに、クライヴは答えなかった。彼は手を下げ、後ろに下がりまた壁の方に向かって両袖から何を発射した。  その様子を見ていると、何となくジェレミーにも分かってきた。クライヴは両袖に何かボウガンのようなものを隠し持っているのだ。それを使って矢を放っている。 「2、1」  クライヴは矢を放つをのをやめ、ホールの奥へと走った。ジェレミーは、その動きを横目で見つつ、レベッカと目を合わせた。そして次に目で追ったのは黒ノ女王の姿だ。  黒ノ女王は、部屋のシャンデリアに影を引っ掛けその上に乗っている。デニスが放っているナイフやフォークが、そのガラスを割り、ホールにはガラスの雨が降り注いでいる。 「ウヒャヒャ、追いかけっこ、追いかけっこ。子猫ちゃんはどこかなァ!?」  デニスが手を挙げ、テーブルの一つを念動力で持ち上げた。  その時だった。  彼の身体を真っ二つにするように、何かが彼の身体に縦一列に突き刺さったのだった。 「ウヒギャッ」  笑い声が途中で虫をつぶしたような声に変わった。デニスは後方に吹っ飛ばされ、奥の壁に背中を叩きつけられる。ダンッ! という大きな音をさせ、彼の身体が壁に半ばめり込むと、第二弾の小さな矢が彼に襲い掛かった。  今度は横一列だった。まるで十字架を描くように、クライヴの放った矢が容赦なくデニスの身体を貫いたのだ。  ハッとして、シャンデリアから身を乗り出す黒ノ女王。クライヴがジェレミーの名前を呼んだ。ジェレミーはとにかく彼女を睨んだ。しかし──。  ──バリバリッ! ギャギャドギャッ!  物凄い音がしたかと思えば、一瞬にして黒ノ女王は自分が乗っていたシャンデリアを黒い影でグルグル巻きにして大きな塊を作り上げていた。自分の倍はあろうかと思われるその凶器を、彼女は怯むことなく、壁のデニスに向かって投げつけた。  完膚なきまでに叩き潰す気なのだろうが、その動きを見てジェレミーはアッ! と声を上げていた。  シャンデリアの進路に、黒いドレスの女が立っていた。それは見間ごうはずもなく、アナ・モリィ──彼の曾々祖母だったのだ。  ま、間に合わない!  彼が心の中で悲鳴を上げた時、黒い影がアナ・モリィの前に立ちふさがった。  カーマインだった。 「CC!」  ジェレミーが悲鳴に近い声を上げるのと、大きなシャンデリアが彼ら二人を巻き込むのは同時だった。  その塊は、デニスに直撃し、轟音を上げた。  ぎゅっと目をつぶるジェレミー。  嘘だ、こんな。  こんなこと、起こっていい、はず が ない ***  あの二人はね、と、アイリーンが教えてくれた。 「あれは、幼い頃のメイベルとデニスなの」  言われて、ベンジャミンは噴水の近くで遊ぶ二人の子供を、じっと観察した。  確かに、メイベルに──アイリーンに似ているところもある女の子だ。そして、デニスの方は今の姿とは比べようもないほど、明るい笑顔の快活な少年だった。 「二人はとても仲の良い兄妹だったのよ」  キャッキャッ、と笑い声が、ベンジャミンの身体の中を通り抜けていくようだった。 「ジャム、よく聞いて」  アイリーンはゆっくりと諭すような口調になった。 「メイベルは大好きなデニスにひどいことをされて、分裂してしまった。新しく生まれた人格はパメラ。もし、パメラがデニスを殺してしまったら。あの二人の兄妹も死んでしまうの」  意味をよく理解しようと、ベンジャミンは妻の顔を見る。 「メイベルは、デニスとの楽しい思い出と自分自身を殺すことになる。メイベルとパメラの魂はひとつ。“彼女たち”はメイベルの中に残っている最後の愛を殺してしまう」  彼女は一息ついてから、続く言葉を静かに紡いだ。 「デニスを殺したら──彼女の魂は闇に落ちてしまうの」   「そうか」  短く答えるベンジャミン。 「俺は、メイベルを止めなければならないんだな」  彼の妻は無言でうなづいた。 ***  その一瞬。  ジェレミーは不思議な体験をした。  もう一度目を開けると、黒ノ女王がシャンデリアをグルグル巻きにするところだった。時間が巻き戻っている。……ああ。また俺がアレをやったのかも。ぼんやりと思うジェレミー。彼は自分が少しだけ起こってしまったことをやり直す(キャンセル)ことができるのを自覚していた。  ほんの一瞬前に見たのと同じようにアナ・モリィが巻き込まれそうになり、カーマインがそれを庇うように立った。  すると耳元で誰かが囁いたのだ。 「お前はがんばったよ……ありがと、な」    最後だけ、先ほどと違っていた。  シャンデリアはアナ・モリィたちの前で弾かれデニスには当たらずに壁を破壊して終わった。  アナ・モリィをしっかりと抱きしめるカーマイン。  二人を守るように立っていた金属の──鎖の壁。  それが崩れ落ちると、そこに身体中から血を流したレベッカが静かに倒れたのだった。 ***  ジェレミーは、黒ノ女王を振り返った。 ***  誰かが叫んだ。  大丈夫。ジェレミーは、心の中で答えていた。    もう、やり方は分かってる! ***  ジェレミーは目を開く。そこは病院の中庭のようなところだった。  薄暗い廊下を抜けて歩いていくと、庭に出ることができた。  どこかで小鳥が鳴いている。季節は春のようだった。暑くもなく寒くもなく穏やかな晴れの日だった。いつか来たことのあるような場所だったが、でも、そこは彼の知らない場所だった。  歩いていくと、噴水の前に二人の人物がいた。  彼のよく知っている二人だった。  片方が、彼に気付いて振り返った。そして微笑む。 「俺──行かなきゃ」    ベンジャミンは、そう言うとゆっくり立ち上がった。愛する妻の手に、自分の手を重ね、彼は自分の弟がやってきたのを見る。 「ジャム」 「ジェル」  近づくと、何も変わらない彼の──ジェレミーの兄であるベンジャミンがそこに居た。  屈託ない笑顔を浮かべながら。 「よく、ここが分かったなあ」 「うん。ちょっと苦労した」  兄は安らかな顔をしていた。ジェレミーは、ここから行こうと言い出せずに逡巡した。ここは夢の中の世界。ここならいつまでも死んだ妻と一緒にいられるのだから。 「あの、ジャム、その」 「ああ。俺は大丈夫だよ」 だがベンジャミンは、晴れやかな表情でそう言うのだった。「さあ、行こう」 「さよなら、ジャム」  アイリーンが顔を上げて別れを告げた。ベンジャミンは一度だけ両目をつむってから、妻を見た。 「さよなら、アイリーン」    二人の手が離れた。 「久しぶり、でも、えっと……。バイバイ、アイリーン」  ジェレミーが言うとアイリーンはパタパタと手を振った。彼女は目に涙を溜めながら、それでも笑顔だった。  ベンジャミンは……。  ふと気になったものの、ジェレミーは兄の顔は見ないことにした。  人には誰だって、辛いときがあるのだから。 *** 「わたくしの邪魔ばかりしてッ!!」  ジェレミーの意識が戻ったとき、黒ノ女王は貴婦人らしからぬ金切り声を上げて、後ろに飛びずさっていた。  すぐには状況が把握できなかった。  先ほどから数秒しか経っていないのか。夢の中から連れ出したベンジャミンはどこにいるのか。  見れば、カーマインが傷ついたレベッカを助け起こしている。デニスは、まだ壁でもがいていた。 「ジェレミー、もう一度彼女を眠らせろ!」  声はクライヴだった。その指示がジェレミーを反射的に動かしていた。  彼は、キッと視線を黒ノ女王に向けた。先ほどのように強く念じて──。 「ジェル」    が、ポンと肩を叩かれジェレミーは集中を乱された。  ふと見ればそこに兄が居た。ベンジャミンはゆっくりと黒ノ女王に近づいていく。 「ジャム!」 「ありがとな」  彼の兄は、静かに言った。 「俺の代わりに、彼女がデニスを殺すのを止めてくれた。お前は本当にすごいやつだ」  驚くジェレミー。目をパチパチやりながら、通り過ぎていくベンジャミンの背中を見る。兄が自分を褒めてくれた? こんなことは初めてじゃないだろうか。嘘みたいだ。 「助けが必要なのは、俺の方、か。アイリーンが教えてくれた」  背中を見せながら、ベンジャミンはゆっくりと黒ノ女王に近づく。 「来ないで!」  半ば恐怖を感じて黒ノ女王が影の刃を放ったが、ベンジャミンの前では見えない壁に弾かれたように、脇へと逸れていった。 「──ありがとう、ジェル」  もう一度弟に礼を言うと、ベンジャミンは狼狽したままの黒ノ女王の元に辿り着いた。そのまま彼女を抱きしめる。放して、と、もがく彼女。 「メイベル、聞いてくれ」  彼女に、ベンジャミンは優しく幼い子どもに対するような口調で話しかけた。  そして、いきなりつむじ風のようなものが巻き起こって兄と貴婦人の姿がそれに飲み込まれてしまった。 「ジャム!」  叫ぶジェレミー。  いいえ、いいえ、いいえ。  いいえ、わたくしが彼をあんな姿にしてしまったの。わたくしは彼を止めなければ。  そうよ。わたくしは……メイベルは、デニスが大好きだった。  いいえ! わたくしは違います。わたくしは彼を止めたら、一緒に死ぬのです。まだ、この世に留まっている彼の魂とともに最後の審判の日を待つのです。  そ、そんな。わたくしには──。  ──君は、メイベルを殺すのか? 彼女の心を殺すのか。   「!」  ひときわ強く風がホールを吹き荒れた。  テーブルクロスを巻き上げ、ガラスの破片を吹き飛ばし、貴婦人たちのスカートの裾を無遠慮に持ち上げた。会場のそこかしこで悲鳴が上がり、ジェレミーは思わず腕で顔を庇った。  ──よく聞いてごらん。二人が、庭で遊んでいるよ。  もう一度、ジェレミーが兄の名前を呼んだ時。一瞬にして風がやんだ。まるで初めから風など吹いていなかったかのように。  しかし彼の前には、誰もいなかった。ベンジャミンと黒ノ女王は、風とともに消えてしまったのだった。 「消えた……」  呆然とその様子を見ていた招待客たちは、必然的に壁に叩きつけられていたデニスの方を見た。もし彼が生き残っているならば、ワイルド氏のいう死闘の勝者は彼となるからだ。  しかし、そこにも誰も居なかった。  デニスも、壁に多大な血痕を残したまま姿を消していたのだ。アイヴォリーの姿も無かった。このパーティの主だというのに、だ。デニスを逃がすために彼が自ら尽力したのかもしれなかった。  ホールに、ふって沸いたような静寂が訪れていた。  というわけで、対戦者が二人とも消えるという結末を迎えて、招待客たちは釈然としないままお互いの顔を見合わせたのだった。今夜の出来事は一体なんだったのか。確かに危険でエキサイティングな経験はできたかもしれないが……。  ジェレミーは、カーマインとレベッカのところに駆けつけていた。 「レベッカ……」  主人に抱きかかえられ、傷ついたメイドはうっすらと目を開けた。目をそむけたくなるようなひどい怪我だった。これは助からない、とジェレミーは直感で悟った。  人造人間(パペット)、と言えど見た目は全く人間と一緒なのだ。そこにいるのは死を迎えようとしている一人の少女の姿でしかなかった。  彼女は、ジェレミーの姿を見ると、ほんの少しだけ微笑んだ。 「頑張って、レベッカ。きっとCCが助けてくれるよ」  レベッカは、ゆるゆると首を横に振った。彼女は自分の運命を受け入れてしまったのだろうか。呻きもせず、何も喋らなかった。カーマインも何も言わず、そっと彼女の額を撫でた。寂しそうに少女の姿を見つめている。 「駄目だよ、そんなの……」  レベッカの横顔がぼやけて見えて、ジェレミーはゴシゴシと目をこすった。 「まだ、一緒にお茶飲んだりさ、美味しいものいっぱい食べたりしてないじゃん。サッカーの試合だって行ってない。ゼンゼン遊んでないよ、レベッカ。もっともっと楽しいこと、いっぱいあるのに……」  プッと吹き出すようにレベッカが笑った。 「ダービーは観たことあるし、クリケットだってやったことあるよ」 「そうなの?」 ジェレミーは彼女が笑ってくれたことが嬉しかった。「でも、これからはサッカーの時代がくるよ。本当だよ、嘘じゃないよ。だから一緒に観に行こうよ」  彼女は答えなかった。少しだけ身体を起こしてジェレミーをじっと見つめた。 「──お前、変なやつだなあ」  それが、彼女の最期の言葉となった。  レベッカは眠りにつくように目を閉じる。ジェレミーがその名前をもう一度呼んだが、彼女の瞳が世の中を見ることは二度となかった。  カーマインは、少女の脈を取り首筋を触るなどしていたが、ジェレミーの顔を見上げ、ゆっくりと首を横に振った。  ギュッと目をつむり、ジェレミーは声もなく拳を握り締めたのだった。   - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※オスカー・ワイルド先生:このころは、『婦人世界』という雑誌をつくって、奥様がたに絶大な人気を得ていたり、と、作家というよりプロデューサーとして脚光を浴びていたころなのでした。 ※ヨークシャー・プティング:シュークリームの皮だけのような食べ物です。ローストビーフなどの肉料理の付け合せとして出されることが多いです。 ────────────────────── Chapter:5 損益分岐点 Chapter:5-1 100分の10  ベンジャミンは鼻歌を歌いながら、ブラウンの電動ハブラシで歯を磨いていた。医者に勧められた日本製ではなく、特段の理由もなく選んで買ってきた歯ブラシだ。細かい振動が、早朝のまだ醒めきっていない脳に適度な刺激を与えてくれる。  あのヴァンパイアの夜会に出席してから3日が経っていた。  “未来からの闖入者(ビジター)”から“スコットランドヤードの警視”に戻った彼は、あの日のことを思い出しながら、朝のゆるやかな時間を過ごしていた。これから出勤するのだが、早朝に気持ちよく目が覚めたので充分な時間があったのだ。  彼はヴィクトリア時代の貴婦人メイベルの夢の中に囚われ、現在でも一週間ほど欠勤したことになっていた。しかしそれも、部下のクライヴが検査入院をしていたことにしてくれたおかげで穏便に済ませることが出来た。  ジェレミーはあの一夜で命を落としたレベッカのことを気に病んでいた。ベンジャミンも初耳だったのだが、彼女は人造人間(パペット)だったそうだ。黒ノ女王から受けた傷が深すぎて彼女は再生できなかったのだ。自分の責任も感じたのだろう。ジェレミーは弔いの後もう少しだけ傍にいてやりたいと、今夜まで向こうに留まると言って、まだ現代には戻ってきていない。  以前、言霊の師匠であるクラウドに、薬は弟と一緒に飲まないと、違う世界に行ってしまうかもしれないと警告されてはいたが、ベンジャミンはあまり気にしてはいなかった。  なぜなら、すべてが片付いたからだ。  ベンジャミンは満足そうに思い起こし笑顔を浮かべてみせる。  黒ノ女王=パメラとは、随分と長く話をした。  ベンジャミンは、彼女が自分の妻アイリーンではないことを、ちゃんと理解していた。そして、メイベル・ヘレナ=カールトンとも“別人”であることもだ。  二人は、ロンドン塔のテラスをこの夜だけ拝借して、じっくりと話し合った。彼女が冷静さを取り戻すまで少々時間がかかったが、明るすぎた月の光がそれを手伝ってくれたのだ。  パメラは“メイベルのために”デニスを殺さねばならないと、何度も言った。メイベルの兄デニスは既に救いようがない悪人であり、彼が世の中に存在する限りメイベルは苦しみ続ける、と。命すら狙われるかもしれない。デニスがいる限り、メイベルの魂は安らぎを得られないのだと。  それはそうだろう、とベンジャミンは肯定した。  しかし、彼は最後に反論した。君は一つだけ嘘をついているね、と。  ──メイベルのために、は嘘だ。  ベンジャミンは穏やかに、しかし鋭く指摘したのだった。  ──デニスを殺したいのは君だ。  違います、とメイベルは主張した。メイベルだって、兄を憎んでいるはず。彼女は声を荒げてそう言った。  ベンジャミンは根気よく話した。彼は、メイベルの夢の中を彷徨ったこと。そして彼女の夢の中で見たことを話してやったのだった。  庭の噴水で遊ぶ、幼い二人の兄妹。その姿がメイベルの気持ちそのものだった。彼女は優しい兄の思い出を大切に、大事な宝物のように心の奥にしまいこんでいたのだ。  ベンジャミンは言霊(スペル)を使って、その映像を夜空に映し出してみせた。パメラは言葉を無くし、幼い二人の兄妹の姿に見入り──そして、ただ首をゆるゆると横に振ってみせたのだった。  分かりました。ぽつりとパメラはそう言うと、ベンジャミンに向かって、たおやかに頭を垂れて礼をした。  ──さようなら。  ベンジャミンも薄々分かっていた。存在価値をなくしたパメラがどうなるのかを。ただ彼には何もできなかった。彼に出来たのは、憎しみのままに月妖を殺すこと以外にもパメラが夢中になれることがきっとあるはずだと信じることだけだった。  彼もさようなら、と彼女に別れを言う。  去り行こうとしたパメラは最後に振り返り、名前を尋ねてきた。頬をほんのり桃色に染めながら。彼女は今の今まで、自分の過ちを正してくれたこの紳士の名前を知らなかったことを恥じたのだ。  もちろん、彼はにっこり微笑んで教えてやった。  ベンジャミン。ベンジャミン・ハロルド=シェリンガム。 「……さん、というのは貴方のことですか?」  電話の向こうで、自分の名前を連呼されて、ベンジャミンは急速に現実に引き戻されていた。ここはロンドン。しかも大魔都(グレート・バビロン)ではなく2006年の英国の首都だ。  混乱した頭を掻きながら、彼は壁の時計を目線で探した。まだ6時半だった。  けたたましく電子音を撒き散らしていた携帯電話の通話ボタンを押した途端、知らない若い男が大きな声で自分の名前を言うのだった。ベンジャミン=シェリンガムさんというのは貴方ですか、と。 「確かに私がそうだが、貴方は?」  警察官らしく、慎重に言葉を返すと相手は早口で続けた。 「こちらはシティ警察のジェス=ライト巡査です。エイドリアン=オースティンという方をご存知ですか?」  なんだそっちも警察官じゃないか。ベンジャミンは幾分かムッとした。まるで一般市民に対するようなクチの聞き方だ。おそらく相手はこちらのことを知らないのだろう。シティ警察とは、ロンドンの中心に位置する金融街のシティだけを管轄している警察組織である。ベンジャミンのことを知らないのも有り得ることではある。  と、ベンジャミンは眉を潜めた。エイドリアン、だって?  こういう聞き方をされる時は……。一瞬にして彼の“警察官の脳細胞”が状況をいくつかに絞りこんでいた。 「いいか、君」  すぐにベンジャミンは口調を変えて言った。 「私はスコットランドヤード超常犯罪調査部長のベンジャミン=シェリンガム警視だ。エイドリアンは私の部下だが、彼に何かあったのか?」  電話の向こうで、相手が息を呑んだのが分かった。 「しっ、失礼しました! その……」  ライト何某は続く言葉を言い淀んだ。少しの間があった。一般市民に対してなら、彼は間髪入れず事実を伝えていただろう。  ベンジャミンは目を閉じた。この嫌な間は……知っている。 「彼は、数分前にセント・バーソロミュー病院に搬送されました」 「心肺停止状態か」  鋭く口を挟むベンジャミン。 「そうです。私が駆けつけたときには微かに意識がありました。それで彼が自分の名前を言うのを聞くことが出来ました。携帯電話やその他の所持品は何もなく、手にしていた紙切れに貴方の名前と電話番語が記入されていたのです」 「分かった」  答えて、ベンジャミンは動き出していた。着替えてすぐに家を出るのだ。 「詳しいことは後で教えてくれ。彼の家族には、私から連絡をとっておく」  彼は電話を切ると、今度は職場への電話を掛けた。コール音を聞きながら、無意識に弟の姿を探した。……ああそうか、まだ戻ってきてないんだったな。ベンジャミンはそう独りごちて、リビングを後にした。 ***  長い沈黙のあと、クソッと吐き捨てたのはレスター=ゴールドスミスだった。彼は握った拳をデスクに叩きつけると、足早に部屋を出ていこうとする。  スコットランドヤードの地下の一室。超常犯罪調査部[UCB]の主要メンバーが20人ほど集まっていた。部屋の照明はいつものように暗い。そして皆、無言である。言葉を発したのは、警部補のレスターだけだった。 「レスター」  低い声で、ベンジャミンは部下を制止した。 「……便所だよ」 「なら、もう少し待て。話は終わってない」  強い視線を向けると、レスターも負けじと強い視線を返してきた。彼の頬の大きな傷も相まって、その形相はマフィアも怯むような凄まじいものだった。しかしベンジャミンは屈しない。しばしの間の後、フンと鼻を鳴らしたレスターは手近な椅子を引き寄せ腰掛けた。不服そうな態度がありありと見てとれる。 「ありがとう」  ベンジャミンは淡々と言い、部下たちに向き直った。 「……エイドリアンの葬儀については、今話した通りだ。皆で彼を送り出してやろう。彼の事件(ケース)については状況次第だ。私は殺人調査部と連携した調査も検討している。いずれにせよ、今は情報が少なすぎる。司法解剖の結果を待って、それからだ」 「それじゃ遅せぇんだよ!」  強い口調でレスターが声を上げた。 「エイドリアンを殺した奴を、みすみす逃すのか!?」 「そうじゃない」   答えながらベンジャミンはレスターだけでなく、他の面々の顔をゆっくり見渡していた。  だいたい皆同じように不安や悲しみの表情を浮かべていたが、ベンジャミンはそのほぼ全員が同時に考えていることを読みとっていた。  どうせ、エイドリアンの死は病死か何かにされる。  彼が現代科学では解明されていない“何らかの存在”に殺されたというのに──。   「──はっきり言うぞ、レスター」  ベンジャミンは心を決め、強い口調で切り出した。 「情報が少ないまま闇雲に動けば、次に殺されるのはお前だ」  ぐっ、とさすがのレスターも言葉に詰まる。ベンジャミンは、他の者たちの方を向き直り落ち着いた口調で告げた。 「皆も勘違いしないでくれ。私はエイドリアンの件で、泣き寝入りをするつもりは全くない。我がUCBはこの事件の解決に向けて総力で挑む。だから」 と、レスターに、「お前は単独行動を控えろ。俺の読みだと犯人は単独犯だが、その分隠密行動に長けているはずだ。1対1で挑むのは英雄的かもしれんが、確実にエイドリアンの仇を討つなら多くの戦力をもって挑むべきだ」  常に紳士的なベンジャミンが、語気を強めたせいかもしれない。室内はシンと静まり返った。当のレスターも返す言葉もなく、うつむいて床を見つめている。 「話は終わりだ」  ベンジャミンは一方的にそう言い終えると、さっさと自分のデスクに戻った。そして内線で様々な部署に電話をかけはじめた。  それを見て、ひとりが席に戻り、また一人二人と他の者ものろのろとゆっくりと席に戻っていった。最後にレスターは悔しそうな目でこの部屋の主を見つめると、もう一度クソッと吐き捨て、自分の席に戻ったのだった。  死んだエイドリアン=オースティン警部補は、休暇中に災難に遭った。離婚した妻と共に暮らしている息子と久しぶりに会う日だったそうだ。息子は今年で20才になったところで、父と子は夕方にピカデリー・サーカスで待ち合わせをして、ソーホー界隈をブラブラし食事をして軽く飲んで別れた。  最後に行った店は、ソーホーの小さなクラブだった。  そこでエイドリアンは息子に用事があるからと告げて店を後にした。その約20分後、シティのレドンホール・マーケット(※)にある狭い路地裏で倒れているところを発見された。彼は携帯電話を財布も持たず、紙切れだけを握って胸を押さえていた。  目立つ外傷はなし。  詳しくは解剖の結果待ちだが、とベンジャミンは心の中で思考を重ねる。おそらく「事件性なし」と判断されるだろう。ざっと集めた情報を精査してみて、彼の勘がそう告げていたのだ。なにしろ以前の自分──殺人調査部にいた自分なら、そう判断するに違いないからだ。  しかし2点だけ、不審な点がある。  ベンジャミンはデスクの上にある現場の写真をコツコツと指で叩いた。  まず一つ。彼がメモ以外に何も持っていなかったことだ。彼の財布や携帯電話などは今でも見つかっていない。息子と会っていた時には保持していたはずである。もし襲われたのでなければ、それはどこに行ってしまったのか。  もう一つは、彼の死因だ。エイドリアンの命を奪ったのは、おそらく急性心不全などの致死性の高い発作だろう。しかし彼には持病はないはずだった。もし、それが──“人為的に起こされたもの”だったら?  そこまで考えてベンジャミンは顔を上げた。  パソコンの画面の真ん中で、小さな小窓が点滅していた。クライヴからだった。  ──18時に、俺の家に来てくれ。  ベンジャミンは、チラりと部下の方を見、目配せしてみせたのだった。 ***  クライヴは、ソーホー地区の古いアパートの一室に住んでいた。訪ねるのはベンジャミンも初めてである。先の見通せない狭い路地に入り込んでいくと、遠くで中国人の女たちが何か言い争いをしているのが聞こえてくる。アパートは石造りの頑丈なもので、クライヴの部屋は最上階の6階にあった。  扉をノックすると、中から入れよとぶっきらぼうな声が聞こえた。ベンジャミンは部屋を間違えていなければいいがと思いながらその押し戸を開いた。扉はそれを嫌がるようにギシギシと音を立ててゆっくり開く。  すると、そこにはいきなり「マトリックス」の世界が広がっていたのであった。 「よく来たな」  天井から垂れ下がるコードをかき分け、救世主ネオ……ではなく、クライヴがのそりと顔を出した。  所狭しと並べられたモニターがベンジャミンを取り囲んでいる。それはまるで巨大な生物の体内のようでもあった。  呆気に取られたベンジャミンは部屋の中を右へ左と視線を泳がせた。天井から壁、床にいたるまで、様々なパソコンやモニター、電子機器のたぐいが置かれている。中には炊飯器のようなものやら、どうみてもガラクタにしか見えないものまで全て無骨な太いコードで繋がれているようだ。  クライヴは太った身体を器用に操り、足下に無数に広がる様様なコードを踏まないようにしてこちらに歩いてきた。 「すご……いところに住んでるな」 「いい部屋だろう」 自慢げにうなづくクライヴ。「ここには、1992年まで魔女が住んでいた。それを俺が譲り受けたんだ」 「魔女?」 「その話は長い。いつか気が向いたら話してやるぜ。そんなことよりコレを見ろ」  部屋の主は自慢話を簡単に切り上げると、上司に向かって顎で奥の方をしゃくってみせた。そこにはひときわ大きなモニターがあり、パソコンのデータや画像が映し出されている。  エイドリアン=オースティンの事件写真だった。それを見て、ベンジャミンは気を引き締めてクライヴを見下ろした。 「君も……彼が殺されたと思うか?」 「ああ。ケースBだな」  ニヤッとクライヴは口端を吊り上げてみせた。ケースB。ベンジャミンが赴任してすぐにクライヴに作ってもらった事件のデータベースの分類である。  ケースAは、間違いや勘違いから被害届けが出されUCBに回されてきた事件。反面、未解明な点の多い迷宮入りの事件をケースBに分類したのだ。懐かしい、とベンジャミンは短い回想をする。クライヴから初めて“王立闇法廷”の話を聞いた、あの夜が遥か昔のことに思えてくる。ほんのひと月前の話だというのに。 「エイドリアンが関わった事件の中から、ケースBを探ってみた。この1年に35件ある」 「35件か。ずいぶん多いな」  ベンジャミンは全てを察してくれている部下を頼もしく思った。彼も当たりをつけているのだろう。エイドリアンが、過去に関わったケースBの事件の絡みで何らかのトラブルに巻き込まれ……超常的な何かにより殺されたのではないか、と。 「その中で、ソーホーやレドンホールマーケットに関連するものは?」 「ソーホーで起きたやつが5件だ」 「よし、そのファイルを見せてくれ」  さっとクライヴが差し出した紙の束を受け取りながら、ベンジャミンはふと、モニターに映し出されている古ぼけた胸像写真に気付いて目を留めた。  印象的な太った男の胸像写真である。クライヴと同じ眼鏡をかけ、長いモジャモジャした髪をそのままに、小さなトップハットを頭に載せている。ありていに言ってクライヴとそっくりだった。 「──ギルバート=コルチェスター。俺の先祖であり、俺がアッチの世界でたまに使わせてもらってるアイコンだ」  彼の視線に気付いて、クライヴが教えてくれた。説明になっていないようなものだったが、ベンジャミンは意味を大体理解することができた。 「ああ。弟から聞いたよ。君がそのギルバートの身体を使って、ジェレミーを助けてくれたんだろ?」 「……そうらしいな」  かぶりを振るクライヴ。 「らしい?」  ファイルを繰る手を止めて、部下を見るベンジャミン。 「俺自身の記憶だと、あの時ギルバートはジェレミーを助けちゃいねえんだ。ギルバートは黒ノ女王にやられてからすぐ目を覚ましちまったんで、俺が身体を拝借できなかったんだ」  ベンジャミンは眉を寄せた。クライヴが言っていることがよく呑み込めない。 「んー。俺は、アンタに向かって、アンタがどうやって世界をトリップしてるか説明したはずだよな?」  首をかしげるベンジャミン。 「つまり、今の俺はあんたが会ってた俺とは違うってことだよ。あんたに協力したのは“俺α”で、今の俺は“俺β”ってところか? 俺の方は、パソコンにゲームプレイのデータをバックアップしてるから、そのいくつかを探って、今のアンタが何をしてきたのかは、なんとなく察してるがな」 「クライヴ、済まんがその……」 「分かったよ。もう一度、言い直してやる」 クライヴは太った腹をなでながら溜息をつき、ゆっくりと続けた。「要するに、俺とあんたは今、お互いの記憶を共有していないってことだよ。あんたは1888年のロンドンで歴史を変えたらしい」  語気を強めるクライヴ。 「だからいいか? あんたは以前とは違う世界に、今、存在してるんだ。意味、分かるだろ?」  相手の言葉を噛み締め、ベンジャミンは下唇を舐めた。ゆっくりと息を吐く。 「俺が歴史を変えちまったのか?」 「そうだよ」  驚いたベンジャミンは一瞬、言葉を無くした。 「一体何が変わった? まさかエイドリアンの事件も俺のことが原因で?」 「分かんねえよ。だから今から調べるんだ」  放心したような彼を尻目に、クライヴはさっと椅子を引いてパソコンに向かった。上司に背を向けたままで、何事か打ち込むとパソコンの画面に大きくヤフーの画面が表示された。 「エイドリアンのことよりも、ちょっと先にこのことを片付けた方が良さそうだぜ。おい、部長。何でもいい。戻ってきてから何か違和感のあったことはないか?」 「違和感……」  ベンジャミンも近くの小さなドラム缶のようなものの上に腰掛けた。ぼんやりとヤフーのロゴを見ながら今朝起きてから現在までのことを思い出す。  朝に電話があって、急いで出勤し、UCBの部室で部下たちを集めて話をして……。いつもと変わらないような、何かが違っていたような。  ハッとベンジャミンは顔を上げる。すぐに気付いたことが一つあった。 「UCBの人数が増えているような気がする。俺が赴任した時は30人弱だったはずだが、さっきは40人ぐらいいたな?」 「ははあ、なるほど。人数な」  ふんふんと首を縦にふるクライヴ。 「確かに今の俺らの部の人数は45人だ。しかしアンタの“前の”世界じゃなんでそんなに少なかったんだ? 事件が少なかった、のか?」 「そうかもしれないが……」  ふとベンジャミンは、自分が手にしたケースBのファイルに目を落とした。本当に深刻な事件であり、超常的な何かが関わっているホンモノの事件。  ケースBの発生確率は──100分の5、すなわち5パーセントだった。 「クライヴ、ケースBの発生確率は?」  暗い声で彼がそう切り出すと、クライヴもすぐに察したらしくわずかに眉を寄せた。 「──100分の10だ。10パーセントだよ」 「そうか」  予想された答えではあったが、ベンジャミンは衝撃のあまり首をゆるゆると横に振った。自分の記憶では5パーセントだったということをクライヴに言うと、彼も珍しくショックを受けたように黙り込んでいた。  ベンジャミンは自分の身に起こったことを理解していた。彼はケースBが5パーセントの世界から、10パーセントの世界へと“歴史を変えてしまった”のだった。何が原因でそうなったのかは分からない。デニス=カールトンを殺さなかったからなのかもしれない。分からない。しかし、未解決の超常的な存在による凶悪事件の発生率を増やしてしまったのだった。 「他には何かないか?」  うなだれるベンジャミンに、クライヴが声を掛けた。 「そうだな……」  こんなことでショックを受けていてはいけない。なんとかせねばとベンジャミンは自分を奮い立たせるように拳を握りながら記憶を辿った。  他にも……何か記憶と違うこと……。  また、何の気なしにパソコンのモニターを見る。ヤフーのサイトの右側の動画が切り替わった。ひょろひょろとした男が出てきて銃を乱射しているコントらしきものが始まった。  メッセージが出る。『ニック=ウォルターズのお笑いDVDシリーズ“空飛ぶ奥様SOS 宇宙ニッキーマウスの大暴走 シーズンZ”好評レンタル中!』またコントが始まる。繰り返し。  クライヴもそれを見た。  ──アッ!!!  ベンジャミンの定まらなかった焦点が、急にニック=ウォルターズに釘付けになった。ガタンと椅子を蹴飛ばし立ち上がった彼は、モニターにかじりつくように近寄った。  どうした、とクライヴが声を上げたが、もうそれは彼の耳に届かなかった。  そこに居たからである。  パソコンのモニターの中に、ニック=ウォルターズと名乗っている人気コメディアンとして、あの男が。  1888年に、デニス=カールトンだった男が、そこに映っていたからであった。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※レドンホール・マーケット:シティに昔からある生鮮の市場です。昔ながらの町並みが残っています。 ────────────────────── Chapter:5-2 ノー・スペル,ノー・ガン 「ようやく俺のことを思い出したか」  ふかふかのソファに身を沈め、マフィアのボスは言った。部屋に通されたベンジャミンは無言で自分もソファに腰掛ける。  趣味の悪い部屋だった。黒で統一された壁にミラーの柱が立ち並ぶそこは、まるで安っぽいナイトクラブのようだ。一通り見回しても何に使われている部屋だかさっぱり分からない。猥雑に並んだ家具や観葉植物に、染み付いた煙草の匂いが鼻をつく。  深赤色のスーツを着た男と幾何学模様の派手なシャツを着た若い男が、ボスのソファの横に陣取り、さもそこが自分の定位置だと言わんばかりに両脇に立った。  ベンジャミンは、仏頂面だった。  こんなところには何があっても、自分から来たくは無かったからだった。警官である彼が、なぜ、マフィアのボス、スキニー・テッドを訪ねなければならなかったのか──。 「あんたの部下のことは、残念だったな」  まるで社交辞令のようにスキニー・テッドが言った。満足そうな笑みを浮かべ、昼間だというのに目の前のロックグラス2つにバランタインをドボドボと注いだ。片方を手に持ち、もう片方をベンジャミンの方へ押しやる。 「あんたに聞きたいことが、いくつかある」  ようやくベンジャミンは口を開いた。バランタインには一瞥をくれただけで手をつけようとはしない。 「ニック=ウォルターズのことだ」 「そうくると思ったよ」  スキニー・テッドは、ごつごつした大きな手を揉みながらにんまりと微笑んだ。  スコットランドヤード超常犯罪調査部[UCB]の一員エイドリアン=オースティン警部補が何者かに殺されてから2日経っていた。しかしすでにベンジャミンはその犯人が誰であるか分かっていた。  いや、彼は知っていたのだ。  睨んだだけで、対象の心臓を一瞬のうちに弾けさせる──そんな芸当をやってのけられる男のことを。  その男が、今。この2006年の世界でニック=ウォルターズと名乗っていることを。 「奴が、ビック・モスとつるんでることは知ってるな?」  スキニー・テッドは、自分のライバルである大物マフィアの名前を挙げると、さっさと先を続けた。 「ニック・ファッキン・ウォルターズは、てめえのくだらねえコントを見せるための小劇場をおっ建ててやがる。今じゃロンドンに5つもあるってんだから驚きだぜ。ゴミ溜めが5箇所も出来ちまったってことだ」 と、身を乗り出し「そこで妙な噂があんのさ。コントの後に客の女が数人毎回姿を消すらしいんだ。女は数時間後には戻ってくるらしいが、その時のことをよく覚えてねえって話だ」 「なるほど」  ベンジャミンは話に割入った。 「だから、ドラッグだと?」 「そうだよ」  スキニー・テッドは気を良くしたようにうなづいた。 「ビック・モスの野郎は、あのクソコメディアンとつるんで新型のドラッグをバラ巻いてやがるのさ」  しかしベンジャミンは黙りこくって返事をしなかった。彼はその小劇場で起こっていることに何となく察しがついたからだ。  女が消えているのは、ドラッグを与えられているからではない。  女は──血を吸われているのだ。  ニック=ウォルターズこと、デニス=カールトンに。  エイドリアンは何らかのきっかけでデニスが吸血行為を行っていることを掴んだのかもしれない。そのためにデニスに殺された。  現時点で、最も説得力のある説だった。  だが──。ベンジャミンは思考を重ねる。それはまだ仮説にすぎない。証拠を集め、相手の殺人を立証しなければならない。 「その新型ドラッグとやらは、見つかったのか?」 「いや、それがさっぱりだ」  尋ねると、スキニー・テッドは悪びれず、大きく肩をすくめてみせた。 「巧妙に隠してやがるのさ。少ない人数の女にしか与えねえようにしてな。でも女たちの間じゃ噂でもちきりだぜ。ブッ飛ぶような効果があるってな」 「分かった」  ベンジャミンは心を決めていた。 「一度消えたことがある女に会いたい。できるか?」 「もちろんさ」 「仕込みは無しだ、分かるな?」  相手のニヤニヤ笑いに差し込むようにベンジャミン。スキニー・テッドは笑いを納めぬまま、もちろんともう一度繰り返す。さっそくとばかりに携帯電話を取り出し、どこかに電話をし始めた。  このマフィアのボスは商売敵を警察に売るためには何でもするだろう。しかし今回のケースは特別だ。ベンジャミンは何も言わず唇を噛み締める。  エイドリアンが死んだのは自分のせいなのだ。  彼は自分の心がキリキリと痛むのを意識しながら思いを馳せる。1888年の世界で狼女ナンシーを具現化させてしまい、あの世界で人殺しをさせてしまった。それと同じなのだ。知っていたのに、自分は同じことを繰り返してしまった。  これ以上、この世界に出来た傷口を広げてはならない。断じて。 「──マジック・パイっていうソーホーのカフェに14時でどうだ?」  オーケー。ベンジャミンは答えながら立ち上がる。一刻もここに居たくないとばかりに、彼はそのまま礼も言わず、この安っぽいナイトクラブのような部屋を後にした。 ***  モニターを通さないと、人は過激になるものだ。  ベンジャミンは目をしばしばやった後、やおら席を立った。とにかく外に出ようと化粧室の矢印を目当てに暗いホールを抜け出す。  女性7割、男性3割、といったところか。小劇場「ミーニング・オブ・ライフ」に集まった観客たちはステージで繰り広げられる彼のスタンダップ・コメディーに爆笑している。 「こないだブレア首相の靴と話す機会があったんだよ。その靴がさ、オレにこう言うんだよな。わたしの主人に言ってやってくれませんか、蹴るなら若い女じゃなくて奥さんにしたら? って」  ニック=ウォルターズは、今やテレビや映画にまで出演しているほどのコメディアンだが、小劇場でのスタンダップ・コメディーに出るとその過激さを増すようだった。  もっとも、そこが人気の秘訣のようだが。  ベンジャミンが立ったのは、ある刑事が燃え上がる車からの脱出に失敗して爆死するコントのところだった。死亡理由はダイエットに失敗したこと。ため息を一つついて彼は分厚い扉の外に出た。  ぶらぶらと廊下を歩きながら、窓から差し込む極彩色のネオン光に目を細める。時刻はもう20時を回っていた。  ──ほんとうはね、なにもおぼえてないの。  彼は夕刻に会った若い女性の言葉を思い出した。  彼女は諦めたように最後にそう言った。  その傷は何かな、と尋ねるベンジャミン。彼の目は若い女の首筋に有る二つの穴の傷に注がれている。  え、何? と彼女は自分の首筋を撫で、ようやくその傷に思い至ったのだった。  証拠(エビデンス)である。  その後のベンジャミンの行動は早かった。夜のニック=ウォルターズのライブの予定を掴み、今、彼はここにいる。  トイレの小汚いドアを開け、青色の蛍光灯に照らされた陰鬱な空間に彼は足を踏み入れる。さてどのようにニック=デニスを攻めるか。用を足しながら思考をめぐらせる。  その時だった。  新たな男がベンジャミンの隣りに立った。足早に入ってくると鼻歌を歌いながら、ズボンのチャックに手をかけ、気の抜けた声を出している。  思考を邪魔されたベンジャミンは横目を送り、ぎょっとした。  まさにその男がニック=ウォルターズだったからだ。  本来ならば視線をすぐにそらすべきだった。しかしベンジャミンはまじまじとその横顔を見てしまった。  彼にとってはついこの間に会ったばかりの人物であるというのに、その顔にくっきりと過ごした時間の長さの片鱗が刻まれていたからだった。  彼はヴァンパイアだ。あの1888年のロンドンから不死のまま現代に生き続けた。それでも人は生き続けることによって変わるものなのだろう。そのわずかな人相の違いがベンジャミンの注意を引きつけた。 「? ァア?」  当然ながらニックがこちらを見る。が、彼はおどけたように眉を上げてみせただけだった。ふとベンジャミンは思い至る。彼は今“有名人”なのだ。おそらくこうして不審にジロジロ見られることに慣れているのだろう。  この機を逃すな! ベンジャミンの心の声が叫んだ。 「デニス=カールトンさん、ですよね」    その言葉の後に、当人は目の色を変えた。それは劇的な変化でもあった。休憩時間を終えて早くステージに戻ろうとでも考えていたのだろう。しかしベンジャミンの言葉は、そこを足早に立ち去ろうとしていたニックの足を止めた。  ──この男、今、なんと言った?   彼は振り返った。眉間にしっかりと縦皺が二本浮き出ていた。 「誰、だ?」    間があった。なぜなら、ベンジャミンはズボンのチャックを引き上げるという仕事が残っていたからだ。 「私は、ロンドン首都警察のベンジャミン=シェリンガム警視です。あなたにお聞きしたいことがありまして参りました。お時間をいただけませんか」 「……」  ニックは沈黙した。彼の口端がわずかに揺れている。 「ま、いいさ。分かったよ。楽屋で話そうや」   *** 「あなたは一週間前の1月28日の夜、ソーホーの小劇場で今夜のような催しを開かれましたね」 「催しって何だよ、ライブだろ」 「時間は19時から2時間。本日と同じですね」  ベンジャミンは相手の突っ込みを無視して続けた。楽屋にはニックと彼しか居ない。結局、ニックはライブを適当に切り上げてしまったのだった。  しかしそうした彼の気まぐれは珍しいことではないらしく。マネージャーも取り巻きも皆帰ってしまった。ニックはタオルを首にひっかけ、ラフなTシャツ姿のまま。前屈みになって椅子に浅く腰掛け、ベンジャミンの方も見もしない。 「その後22時頃、あなたはライム街にある“トリプルスパイラル”というクラブで友人に会いましたね」 「あんま覚えてねーよ」 「クラブの門番(バウンサー)があなたを見ています。おそらく間違いないでしょう」  淡々と問いながら、ベンジャミンは彼の首をじっと見つめていた。  デニスがそもそも吸血鬼になったのは、生前その首を斧で切り落とされたからだった。生き返ったのちも彼の首の傷は治らなかった。そのはずが……今は傷が跡形も無い。現代の美容外科の技術で傷跡を全く消してしまったのか。 「つまりクラブに行くまでに1時間ほど間がありますが、そこ間あなたはどこにいましたか」 「道を歩いてたんじゃねーか?」 「一人で? 歩いて行くには少々遠いですね。車をお使いになりましたか? どんなルートを?」 「あー! めんどくせえ!」  突然、両手を挙げて身体を起こし、彼は話を遮った。 「先にオレに話をさせろ」 「構いませんよ」  肩をすくめ、ベンジャミン。ニックは非常に不機嫌そうに見えた。当然だろうな、とベンジャミンは心の中で呟いた。本来であれば、彼は今ごろグルーピーの一人でも引っかけて、どこかの路地裏でよろしくやっている時間のはずだったのだから。 「お前……さっき、オレのことをカールトンって呼んだな? デニス=カールトン。ニック=ウォルターズの本名はそれじゃねえことになってる」  ニックはベンジャミンの鼻先に人差し指を立てながら言う。 「こりゃどういうワケだ? お前、オレの何を知ってる?」  恐ろしく単刀直入にきたものだ。つまり彼は自分の本名はデニス=カールトンだと認めたわけである。  ベンジャミンは質問を受け流すように爽やかな笑みを浮かべてみせた。 「あなたが、120年前に何をしたか、ですよ」 と、相手が表情を変えると同時に「──おっと、私も単刀直入にお聞きしますよ」  大げさな仕草で、懐から何かを引っ張りだしてみせるベンジャミン。それは彼の──亡くした部下の写真だった。 「あなたは、この男を殺しましたか?」    数秒の間があった。 「かもな」  ふん、とニックは鼻を鳴らした。 「見覚えはある」 「分かりました。あなたをエイドリアン=オースティン殺害の容疑者として逮捕します」  くくっと笑い声が漏れた。それは目の前にいるニックがたまらず漏らしたものだった。 「逮捕状は取ったのかよ?」 「取りました」 「──嘘だね」 「ええ、まあ」  ニヤッと笑うベンジャミン。 「代わりに、私の部下がこの小劇場を包囲しています、と言ったら?」    それも嘘だねッ! 言うなり、ニックが動いた。ベンジャミンは身体を伏せるように脇へ逃れる。  彼の背後にあった大きな鏡がピシッと割れて崩壊した。誰も手を触れていないのに、だ。  ベンジャミンはそのまま低い体制で、ニックの腹めがけてタックルを繰り出した。ドガガッ、と椅子をはね飛ばしてニックはぶら下がった衣装の下へと突っ込んだ。  深追いせず、ベンジャミンは銃を抜く代わりに右手を自らの胸に置いた。彼の言霊術の力源(パワー・ソース)となる刺墨の上にである。  風を操る言霊を囁いて、ニックの動きを止めれば──。ベンジャミンは口をすぼめる。ヒュウヒュウと彼の口から人には預かり知らぬはずの言葉が流れでる。  だが、何も、起こらなかった。   「……何だァ?」  倒れたニックが身体を起こす。  ベンジャミンはハッと我に返る。ここは1888年ではない。2006年の現代なのだ。言霊術が効を成すはずがない。  ビキッ!  彼が身を翻した瞬間、先ほどまで座っていたパイプ椅子の背が弾け跳んだ。  相手は能力を使えるのに──! 不公平だがそれが現実だった。  ベンジャミンは楽屋から外へ逃れようと走り出した。戦略的撤退である。廊下へ飛び出し、脇にあったダンボールの箱を蹴って崩す。間一髪。ニックが扉を開こうとして開けず、ガタガタと扉を揺らした。  しかし彼は自らの能力を使って、それらの散乱したダンボール箱を手も触れずに蹴散らした。ほとんど時間も稼げておらず、開いたドアから滑り出たニックはベンジャミンの姿をしっかり捉えた。 「死ね!」  ぞわ、という悪寒を感じて、本能的に身を伏せるベンジャミン。転がるようにして角を曲がると、寒気は消えた。彼は後ほど、この時に心臓を破裂させられる寸前だったことを知ることになる。ニックがずっと保持してきた悪魔的な超能力である。  と、曲がった瞬間、どすんと誰かにぶつかった。本能的にベンジャミンはその人物の手を掴んだ。 「ここは危険だ。早く逃げ──」  言いかけて彼は相手が誰だか気付いて、息を飲んだ。ベンジャミンが名を呼ぼうとした瞬間、闖入者は足元にあったものを蹴った。 「グゲッ」  それが、角を曲がってきたニックの顔にヒットする。見事なコントロールでぶつかったのはサッカーボールだった。バウンドして戻ってきたそれを足で止めたのは、すらりとした金髪の青年だ。間髪入れず、また蹴った。  顔にヒット! 今度はニックの歯が飛んだ。 「ジェル!」  遅れてもう一度呼べば、相手はちらりとベンジャミンに目をやった。それは彼の弟、まだ過去の世界に留まっていたはずのジェレミーだった。 「やあ、ジャム。こういうことなら任せてよ」  同じだった。奇妙な既視感(デジャヴ)に襲われ、ベンジャミンは頭をぶるっと振る。初めてヴィクトリア時代にトリップした時も。ベンジャミンが独りで狼女ナンシーに襲われていた時、あの時も弟はこうして助けてくれた。  危険だ、逃げろと言おうとしてベンジャミンは口をつぐんだ。ジェレミーなら出来るんじゃないか。彼の手を借りてもいいんじゃないか。  そう思った時、起き上がったニックが、わなわなと震えてジェレミーを指差した。 「お、お前は……!?」 「やっほ。久しぶり? に、なっちゃうのかな?」 「あの時の──う、うう嘘だろ?」  ニックはうろたえ、目をまん丸くして後ずさった。それは彼にしては非常に珍しいことだった。  そうか、ベンジャミンは気付いた。  弟の方が、ニックと接している時間が長かったのだ。かの吸血鬼は、ベンジャミンのことを忘れていても、弟のことは忘れていなかったようだ。 「なんでここにいるんだ、なんで」 彼の頭の中では自分が体験した100年以上も前の出来事──まだデニス=カールトンであったころに、クラブ「ノースウィンド」で開かれた夜会での騒動が再生されているのだろう。あの時、彼と妹の殺し合いに割って入った見知らぬ青年が、どういうわけか、この現代の世界で自分の前に立っているのである。あんぐりと口を空けているニック。  ススーッとジェレミーは動いた。  よせ、と叫ぶベンジャミン。自分が言霊術(スペルキャスティング)を使えないように、ジェレミーは虚空からリボルバーを取り出したり出来ないのだ。相手は吸血鬼でしかも手を触れずに心臓を破壊できるような輩だ。現代人の自分たちが太刀打ちできるような相手では──。  しかし兄の制止を無視して、ジェレミーは素早く間合いを詰め、フットボールのスライディングの要領で相手に足払いを放った。  咄嗟のことに体勢を崩したニックの顔をサイドから、殴る、殴る、殴る。混乱していたニックは全く反応出来ていない。ふらついたところをジェレミーはさらにタックルで突き飛ばすようにして床に引き倒した。相手の腹の上に馬乗りになってマウントポジションをとると、また顔を殴って、殴って、殴った。 「……ええと、それで、何? ジャム?」 「い、いや。何でもない」  弟のあまりの喧嘩慣れた様子に言葉を失うベンジャミン。  ──パシン! 「っとぉ!」  天井の蛍光灯が割れ、ジェレミーは素早い身のこなしでその場を飛び退いた。身体を起こすニック。彼が超能力で照明を割ったのだ。しかし降り注ぐガラス片は彼を避けるように床に落ちる。  てめえら、と、ニックは搾り出すような声で言う。 「ジャム、上へ!」  跳ねるように走ってきた弟と共に、ベンジャミンは身体を翻した。相手の殺意は明らかだったからだ。  楽屋から廊下に飛び出て階段を駆け上がり、飲食店か何かの店の中に裏口から転がり込む。キッチンからフロアへ抜け出すと、店は閉店中なのか暗くて誰もおらず、ドアには鍵もかかっていなかった。 ***  店内はシンと静まり返っている。  ベンジャミンはソファの影に、ジェレミーはカーテンの影に身を潜めた。自分たちを追ってくるとすれば、道は一つしか無かった。ニックは必ずこのフロアに姿を現すはずだった。  さてどうやって、相手を無力化するか──? 「とりあえず、二人でボコボコにしたらノビるでしょ。それでいいじゃん?」 「ああ。それでいい」  ベンジャミンはカウンターにあったビール瓶を手にうなづいた。中身もたっぷり入っていて、打撃力も充分だ。  簡単な会話を交わした後すぐ、キィと裏口の扉が開いた。  兄弟はそれぞれ息を殺していると、一人の人物がゆっくりとフロアに足を踏み入れてくる。 「お前らのことを、ようやく思い出したぞ」    ニック=ウォルターズ、そして過去には“ネックレス(首なし)”デニス=カールトンだった男は、ハンカチで鼻血を乱暴に拭きながら、暗闇の二人に静かに告げる。 「あの夜、オレが妹に殺されそうになった時だ。なんだか分かんねェが、お前らはアイツの攻撃を防いでくれたんだよな。お前らはオレを助けてくれた。つまり命の恩人ッてわけだ」  カツン、靴音が音を立てる。 「礼を言いたいからよォ。なあ、出て来いよ」  そう言いながら、ニックはダンスを踊るかのように右手をついと上げた。んー、と言いながらピタリとカーテンを指差す。 「そこか?」  ふわっとカーテンが独りでに舞い上がり、ジェレミーの姿を顕にした。死ねや、と叫ぶニックに彼はひるまなかった。身体を低くしてタックルを食らわせようとするが、ニックは隠し持っていたものを振りかざしジェレミーに向ける。  それは大型のナイフだった。 「おわっと」  避けようとしたが遅かった。ジェレミーの上腕を切り裂き血を飛ばすナイフ。それがもう一度ジェレミーを切ろうとして、ガシャン! 大きな音を立ててビール瓶が砕け散り、中身とガラス片が辺りに散乱する。  ベンジャミンがニックを背後から殴ったのだ。  しかしニックは奇妙な仕草で両腕を開いてみせた。途端にベンジャミンは不可思議な力が自分の身体にかかったことに気付いた。殴られてもいないのに、彼は一瞬にして壁に叩きつけられ、ジェレミーは大きな窓ガラスに叩きつけられた。大きな音と共にガラスにヒビが入る。 「そのまま、そうしてろ」  念動力か何かであろう。ニックが両手を挙げたままにしているとベンジャミンとジェレミーはどちらも動くことが出来なかった。 「厄介な方から片付けてやる」  ニックは兄弟をかわるがわる見やった。まずい。ベンジャミンは身体を強張らせた。自分からやられてしまっては救援が呼べない──。 「よしお前からだ」  と、ニックが見たのはジェレミーだった。マジで!? と兄弟が上げた声がハモる。  そんな二人を後目に、ニックはジェレミーに指を二本向けた。力を集中しているのか。ジェレミーはギョッとして目を見開く。  髪の毛が逆立つような感覚だった。あの技だ。吸血鬼はジェレミーの心臓を破裂させようと力を集めているのだ。    よせ、やめろ!  叫ぶベンジャミン。  その時だった。眩いばかりの強烈な光が彼らを照らしたのだった。それはまるで数十台のカメラのフラッシュを焚かれたような明るさで、ベンジャミンは思わず目をパチパチとやった。  そこで、おぞましい悲鳴が上がった。  ニックだった。  両眼を手で押さえ、悲鳴を上げ続ける。ジェレミーは自分が動けるようになったことに気付き、吸血鬼を見た。強烈な光に目をやられてよろめく様子は、ラピュタの王になろうとしたあのオジサンにそっくりだった。  彼も、そしてベンジャミンも、何が起こったのが眩しすぎて今だに分からない。 「誰がバルスって言ったの?」   「俺だ」    ジェレミーの問いに答えるように、光源の脇から背の高い人物が進み出た。顔は影になってよく見えない。 「吸血鬼は太陽の光に弱いって、昔から決まってんだぜ?」  彼は、つかつかとニックに歩み寄ると、いきなりその腹に膝蹴りを食らわせた。そして横っ面を殴り、殴り、そして殴る。  たまらず失神するニック。その人物は勝利宣言をするように、倒れたニックの腹をブーツでダンッと踏みつけた。 「公務執行妨害で現行犯逮捕だ」 「レスター!」  ニヤッと笑うそのゴツい笑顔を見て、ベンジャミン。レスター=ゴールドスミス。彼の部下だった。 「ありがとう、助かったよ」 「早いとこ突入指示出しゃァ良かったんだ」 「弟が乱入してきたんで、動揺しちまってな。すまん」  短い会話を交わす二人。見れば店の外には、超常犯罪調査部(UCB)の者たちが揃ってそこを包囲していた。つまり、ベンジャミンがニックに言ったことは嘘では無かったのだ。 「あっそうか、なるほどね……」  ジェレミーはレスターが現れた辺りに近寄り、強い光を発している物体の正体をようやく知った。  それは大きな蓋付きのベッド──まるで宇宙船の一人用カプセルのようなものだった。開いた蓋の内側が眩しい青い光を放っている  カプセル型の日焼けマシーンだった。  そう、ここはバーではなく日焼けサロンだったのだ。レスターは最大光量にセットしたマシンの蓋を一気に開いたというわけだ。  太陽光に近い光を浴びて、ニックは灰にはならずとも相当な心的ダメージを受けたのである。レスターの言うとおり、現代の吸血鬼でも光には弱かったというわけだ。 「危ねぇトコだったな、ククク」  小さく笑いながら、クライヴも近寄ってきた。彼は太った身体を揺らし、こちらに近付いてくる。  ジェレミーの肩に手を置こうとした時、その顔が急に強張った。 「──誰だ!?」    振り向きざまに突然、クライヴが袖口から何かを放った。  それが壁に突き刺さり、揺れる。小さなダーツの矢だった。ゆらと矢をかわすように動いたのは、スーツを着た男だった。  UCBの者たちがいない店の奥の空間。いつの間にか、そこにぽつりと一人。男が立っていたのだ。  彼はゆったりした動作で、床に落としたものを拾った。赤いガラスのようなものをハンカチで拭き、自分の左目に装着する。  あっ! とベンジャミンとジェレミーが声を上げる。  赤い片眼鏡。チャコールグレイのツイードのスーツ。この場にそぐわない上品な雰囲気をまとっている。あの、黒ノ女王の夢の中に出てきた謎の男ではないか! 「因果律にバグが入ったな。それとも世界が我々に仇するか」  彼は丁寧にハンカチをたたんでしまうと、ため息のようなものを吐いた。 「禍根を断つ、か。どぅれ、タンスの中の少年二人も忘れずに始末するようにするか」    そう言うと、彼は消えた。  忽然と、消え失せたのだった。 「何だと!?」  驚いて駆け寄ったのはレスターだった。UCBの刑事たち何人もが、男が消え去るのを目にしていた。それは今まで見たことのあるどんな手品(マジック)とも違っていた。どこにも隠れる場所がない廊下で、人間が一人、完全に居なくなったのだ。 「部長!」  鋭く声を上げたのはクライヴだ。 「まずいことになったんじゃねえのか」 「ああ。そうかもしれん」  ベンジャミンは混乱した頭の中で、必死に考えていた。彼がここに現れた意味、そして、彼が言ったことは一体何を示していたのか──? 「奴の通称は調べがついた。“虹炎(カラード・フレイム)”イグニスだ」 クライヴは普段とは全く違った滑らかな口調で説明する。「太古の昔から存在すると言われる結社【第四の刻印(ザ・サイン・オヴ・フォース)】の幹部というのが通説だ。奴はどんな時代にも同じ姿で現れ、神秘魔術を駆使して、その時代の世界を裏から操ってるらしい」 「イグニス、か」 「そして思い出してくれ、部長。あいつは黒ノ女王を惑し、その魂を食い荒らそうとしてたんだぜ? 俺の推理だがな、あいつは彼女の魂を取れなかったから、代わりに兄貴のコイツに付きまとってたんじゃねえか?」  と、足元に転がるニック=デニスを足で蹴るクライヴ。 「つまりあんたは、二度も奴を邪魔したわけだ」 「奴の目的は?」 「分かってねえ。それよりタンスの中の少年二人って何だ? 心当たりはねえのか?」  何かのアナロジーか暗号なのか。ベンジャミンは少し考え、はたと気が付いた。かのイグニスはベンジャミンを真っ直ぐに見据えて言ったのだ。  タンスの中の少年二人とは── 「俺たちのことだ!」  思わず口にするベンジャミン。クライヴは驚いたように言葉を失う。 「ジェル!」 「ん?」  弟を呼べば、彼は女性刑事に簡単な手当てをしてもらっていたところだった。大丈夫だ。まだ無事だ。 「クライヴ、あいつは過去の俺たちを──」 「分かってる。どうすりゃいいのか、今必死に考えてんだよ!」  クライヴは太った指を額に当てた。脂汗のようなものがこめかみを流れ落ちている。イグニスが神秘魔術(オカルト)の大家であろうが、彼もスコットランドヤード屈指の神秘魔術家(オカルティスト)なのだった。  そのことを知っているのはご当人とベンジャミンだけなのだが。 「ドラッグだ」  数秒の思考後、彼はぽつりと言った。 「たぶんこれでうまくいく」  クライヴはベンジャミンとジェレミーに、早口で自分の考えた策を話した。うなづいたジェレミーはポケットからビニール袋に入ったドラッグを引っ張り出した。その脇でベンジャミンもスーツの内ポケットからピルケースを取り出した。γ−GDP値を下げる薬である。  三人は確認するように頷き合い、そしてベンジャミンは簡単な指示を残してジェレミーと共に走り去っていった。  ぽかーんと間抜けに口を半開きにして、レスターは走り去る上司の背中を見送った。  彼は完全に話についていけず、目を白黒させていた。なんだか知らないがラスボスっぽいのが現れて部長と弟が追いかけていった。それにクライヴが関わっていたらしい。クライヴはものすごくいろいろなことを知っていて、部長に何かアドバイスのようなことをしていたようだった。  部長は、あのイグニスとかいう本物の化け物をやっつけに行く、ようだ。 「野郎を潰せば、ケースBの発生率が少し下がるかもしれねえぜ」  隣りでクライヴがぽつりと言う。その言葉の意味も全く分からなかったが、レスターは太った同僚をまじまじと見つめた。  何か言いたくて見ていると、相手は眼鏡をきちんと直して、何事も無かったかのように見返してきた。 「何だよ?」 「お前、その……結構、素早かったんだな」  結局、レスターの口から出てきた言葉はそれだけで。話しかけられたクライヴも、クククと笑いを返すだけだった。 ────────────────────── Chapter:5-3 タンスの中の二人  最初の頃、母は何も教えてくれなかった。  父などは尚更だ。食卓では、父は最近の労働党の政策や国際問題について弁を奮うことに忙しかったし、母はそれに相槌を打つのに忙しかった。ベンジャミンはスープをすすりながら二人のやりとりをただ聞いているだけだった。  うっすらとしか覚えていない少年の頃の日常である。  ある日、朝食後にベンジャミンは思い切って聞いてみた。母の腹が日に日に大きくなってきている理由を、である。  あなたに弟か妹が生まれるのよ。と母は教えてくれた。  ふうん、とベンジャミンは言った。彼はもう13才だった。赤ん坊をコウノトリが運んできてくれたり、キャベツの中から取り出したりするのではないことをとっくに知っていた。  きっと、弟だよ。  彼はそう言って、家庭教師が待っている自室へ向かう。驚いた母が呼び止めても聞こえない振りをして走り去った。  かくして、彼が予言した通りになった。  シェリンガム家の二番目の男子として、ジェレミー・ナイジェル=シェリンガムが生まれた。  ベンジャミンは赤くて皺くちゃでギャアギャア泣く弟を見て、とても可愛いとは思えなかった。それに両親が喜んでジェレミー、ジェレミーと赤ん坊に付きっきりでも、特に何とも思わなかった。  彼はもっともっと早い時期に、弟──遊び相手であり自分の子分が欲しいと思っていたのだった。赤ん坊は彼にとって、生まれてくるのが遅すぎたのだ。あの様子では一緒にフットボールができるようになるまで、何年もかかるだろう。何でもっと早く生まれなかったんだ。  僕は、早く大人になって一人で生きるんだ。  ベンジャミンは勉強も嫌いでは無かった。要領よく、手際よくこなしていくことは得意だったし、そうすることも気持ち良かったからだ。  そして繰り返された日常の中に、あの夜がやってくる。  いつもの何でもない日だった。  その夜はどういうわけか寝付けなくて、ベンジャミンは起きだした。喉が乾いたのだ。乳母のボーモント夫人に内緒で何か飲み物をもらおうと歩いていて、彼は廊下のカーペットに広がっていた染みに気付く。  それが何であるのか、少年はすぐに気が付いた。  当のボーモント夫人がそこに倒れていたからだ。助け起こせば、胸や腹を刺されてすでに事切れていることが分かる。床の染みは彼女の流した大量の血液だったのだ。  恐怖のあまり、ベンジャミンは悲鳴すら上げることが出来なかった。  喉の奥がつぶれたように縮こまって、息が出来ないほど苦しくて少年は両手で喉を押さえる。  どういうことなのだろう。  しかし少年である彼にも分かった。誰かがこの屋敷に侵入して、自分たちを殺そうとしているということを。  両親を探さねば。母は──そうだ、ジェレミーのところだ!  駆け出すベンジャミン。彼は弟のいる部屋まで暗い廊下を駆け抜けた。心の中が不安で押しつぶされそうになっても少年はただひたすら走った。  やがてドアの前につく。ドアを開けば驚いたように振り返ったのは髪を振り乱した母だった。 「ベンジャミン」  彼女は恐怖に囚われたままの顔で、長男を見た。 「何があったの?」 「ジェレミーを」  母には疑問に答える時間は無かった。彼女はベンジャミンの胸に抱き上げていたジェレミーを押しつけるように渡した。弟は眠ったままだった。抱き抱えるようにすると、むにゃむにゃと何か寝言を言う。 「早く、そこに隠れて!」  母に促されるままにベンジャミンは大きなタンスの中に隠れた。間髪入れず母が扉を閉めた。  真っ暗である。かかっていた多くの衣類を顔から押し退けた時、外で悲鳴が聞こえた。母のものだ。 「ここの扉が開いてたぜ。見つけちゃった」  誰の声なのだ。父でもない男の声だ。 「逃げれるかなァ」  次に続く母の悲鳴で、ベンジャミンは嫌でも悟ることになった。相手は強盗なのだ。家に忍び入って自分たち家族を襲っている。  助けなくては──  そう思った時、母が一際大きな悲鳴を上げ、ジェレミーが身動きした。いけない! 彼は弟の頭をぎゅっと抱きしめた。声を上げたら見つかってしまう。 「お願い、殺さないで」  震える声。殴られたのか、刺されたのか。母の声は弱々しい。それに重ねて同じ言葉を強盗が口にした。  オネガイ、コロサナイデ。そうして男は声を上げて笑う。  ベンジャミンの中で怒りが爆発する。この強盗は、この状況を楽しんでいるのだ。自分の母を傷つけながら。  その後に起こったことは、分からなかった。しかしベンジャミンには聞こえた。何もかも。強盗は母を痛めつけ楽しみながら時間を掛けて殺している。  母の絶叫が何もかも物語った。  ベンジャミンはジェレミーの頭を、耳を塞ぐようにして抱きしめた。そのせいで自分は耳を塞ぐことが出来なかった。でもそれは仕方のないことだった。自分は母を助けなかったのだから。    あの時、なぜ外に飛び出さなかったのか。  後日、ベンジャミンは何度も何度も思い出した。  幼いジェレミーを守るためだった? 確かにそうだろう。ベンジャミンは母から弟を託されたのだ。  しかし──。ベンジャミンは自分の中に本当の答えがあることを知っている。  自分は怖かったのだ。  母を助けるよりも、ただただ恐ろしくて、怯んで、タンスの中に縮こまっていただけなのだ。  16才の少年なのだから無理もない。人はそう言うかもしれない。けれどベンジャミン自身がその行為を許せなかった。どうしても、だ。その気持ちは彼の中で大きな大きなしこりとなって残っていた。 「──アレ? 誰かいる?」    強盗がぽつりと呟いた言葉にはっと我に返る。母の声が聞こえなくなってから数分経っていた。  まさかこちらの存在に気づいたのだろうか。ベンジャミンは身体を硬く強ばらせた。もし相手にタンスの扉を開かれてしまったら、一巻の終わりだ。 「あっれ……?」  強盗の足音が近づいてくる。  おかしい。  ベンジャミンはジェレミーを抱きしめながら思う。こんなはずじゃない。  物音ひとつ立てなかったはずだ。相手には自分たちの居場所は分からないはずだ。ここが分かるはずがない。  しかし、足音はどんどん近づいてくる。  ──ここを目指している。  ベンジャミンは目を閉じ、また開いた。  その瞳には強い光が宿っている。  暗闇が光の筋となって縦に割れ──扉が開かれる。 「いたぞいたぞ、子犬ちゃんが二匹だァ」  男が言った。  彼は血塗れのナイフをかざし、それを降りおろそうとした。  ズザッ。しかしそれが斬り裂いたのは厚手のコートだった。驚いた男にブラウスが、コートが、スラックスが、マフラーが、ネクタイが、様々な衣服がまとわりつき、絡みついた。  彼の目の前に目を爛々と輝かせた少年が立っている。ベンジャミンだ。彼は衣服を投げつけたのではなかった。衣服が風にあおられ、強盗にまとわりついたのだった。 「何だとッ!?」  相手は衣服を引き剥がそうとして、よろけた。 「ジェレミー!」  その時だ。ベンジャミンは弟を呼んだ。3才の幼児は目をぱっちりと覚まし、その二本の足で兄の脇にすっくと立っていた。  後ろ手に取り出した何かを強盗に向ける。  それは──  ぴしゅん。  吹き出た水が強盗の顔に直撃した。幼児の手にあったのは玩具の水鉄砲。ジェレミーは強盗の顔に中身をかけたのだ。 「ひぃぃい」  強盗が目を押さえて悲鳴を上げる。水鉄砲の中身は、ただの水ではなかったのか。ベンジャミンは弟を振り返り、よくやったと頭を撫でてから抱き上げた。  そのままドアを開け、暗い廊下へと飛び出す。  逃げるのだ。  そして生き残る。  ベンジャミンは後ろを振り返らなかった。ジェレミーは兄にしっかりと抱きついていた。  今だ強盗が潜んでいるかもしれぬ館の中は、暗く光が行き届かない。何も分からない、判別の付かない、闇の世界だ。  しかしそこにしか未来は無いのだ。  生きるためには走り続けねばならない。闇の中から未来を見つけ出さねばならない。  兄弟は幼くとも知っていた。走り続けなければならないと。 「しっかり掴まってろ」 「うん」  ベンジャミンが小さく声を掛ければ、ジェレミーもうなづいた。  そして彼らは臆することなく、その暗闇に溶けるように消えていったのだった。    ***  呼ばれる声に、ベンジャミンは目を覚ます。  起きろ、もう朝だぞ!  何だろうと、はっきりしない頭をぶるぶると振る。ひどく気分がはっきりしない。ジャム、ジャムと呼ぶ声も聞こえる。これはジェレミーか?  起き上がりたいのだが、身体がついてこない。もうトシかな。最近何度かこんなことを体験しているような気がする。 「部長! おい!」 「ジャム!」  揺り動かされ、ようやくベンジャミンは目を開くことが出来た。焦点が定まると、自分を二人の人物が覗き込んでいることに気付いた。  ジェレミーと、それから部下のクライヴだ。 「あれ……?」  身体を起こしてみると、そこは彼が住んでいるマンションの弟の部屋だった。散らかっている部屋の床でベンジャミンは寝ていたらしい。  今の今まで見ていたもの。子供の頃のこと、両親が殺された夜のこと。今のは、夢、だったのか? 「やったな、部長」  クライヴが、目の前でちらちらと小さなビニール袋を振ってみせる。そこには二種類の薬が入っている。 「作戦成功だよ」  ジェレミーも言った。  ああ、そうか。ようやくベンジャミンは合点がいって、床の上に座り直して苦笑いをしてみせた。 「俺らの勝ちか」 「そうだよ」  微笑むジェレミー。  ベンジャミンの脳裏に、あの“虹炎(カラード・フレイム)”イグニスの姿が、少年時代の新しい記憶と共に鮮明に蘇った。あの夜、イグニスはとうとうベンジャミンとジェレミーを殺害するために強盗を突き動かしたのだった。  操作された因果律により、両親と共に殺されるところを、兄弟は自らの力で運命を変え、そして生き残った。 「全部見てたぜ、よくやったな」  クライヴが小さな目をパチパチやりながら言った。 「もう、奴が現れることはねえだろう」 「そうか、ありがとう」 言いながらベンジャミンは立ち上がった。「チームワークの勝利だな」  クライヴは照れ隠しなのか、フンと鼻を鳴らす。  二種類の薬を使って、少年時代のあの夜に行く──。クライヴの思いついた作戦だった。ジェレミーのドラッグとベンジャミンのγ−GDP値を下げる薬を同時に呑むと、ヴィクトリア時代の1888年に行くことが出来る、となれば、その1888年に薬を持参して呑めば、もう一度違う時代に行くことが出来るのではないか。  かくして兄弟はそれを実行し、まんまと成功させたわけだった。 「クライヴってスゴイよね。超頭イイ」 「うるせえな」  ジェレミーまでもが褒めるので、クライヴは照れているようだった。  ベンジャミンは弟に視線を移し、安堵したように微笑んでみせる。 「ジェル、水鉄砲の中身は何だったんだ?」 「ああ、アレ?」 問われて、クスッと笑うジェレミー。「トウガラシ水だよ」 「催涙スプレーみたいなもんか」 「そうそう」  兄弟は声を上げて笑った。二人は新しい少年時代の記憶を共有していた。不思議な感覚だったが、それが彼らの為したことなのだった。 「ジャム、もうオレはっきり覚えてるよ。ジャムがオレのこと助けてくれたこと。手の中から水鉄砲出したこと」 「ああ。お前はやっぱり凄いな。あんなに小さかったのに」 「まあね」  照れたように笑うジェレミー。  ありがとう、ともう一度言って、ベンジャミンは弟の肩を叩き、クライヴの肩にも触れた。 「よせよ。礼を言うなら、もう一人いるだろうが」 「もう一人? でも──」 「リビングで待ってるぜ?」  クライヴは顎で部屋のドアをしゃくってみせた。 「何だって?」  驚いたベンジャミンは、ドアを開けて足早にリビングルームに向かった。  廊下を抜けると、きゃっ、きゃっ、とはしゃぐ子供の声も聞こえてきて、どういうことなのだとベンジャミンは先を急ぐ。  彼が、リビングに足を踏み入れると、ソファのところに3人の人物がいるのが見えた。  大きな窓から降り注ぐ光が、幼い男の子と女の子の二人と、若い男の姿を浮かび上がらせていた。誰なのだとベンジャミンは目を細め、そして静かに驚愕する。  子供たちと彼は、遊んでいるのだろう。彼は──群青色の古風な礼服を着た若い男は、テーブルに置いてあった新聞を折ってつくった紙飛行機を子供たちに見せ、それを飛ばしてみせた。  紙飛行機はひらひらと部屋の中を舞って、ベンジャミンの足元に落ちた。 「カーマイン」  男は彼の曾々祖父。ヴィクトリア時代で王立闇法廷の筆頭裁判官を務めているはずの、カーマイン・クリストファー=アボットだった。 「やあ、ジャム」  陽気に手を挙げられても、ベンジャミンは反応できない。彼がなぜ現代にいるのだ。どうやってこの世界に── 「パパ!」    と、彼の思考は、とんでもない意味を含んだ言葉によって引き裂かれた。  二人の子供がベンジャミンを見るなり、そう言って駆け寄ってきたのである。驚いている彼を全く意に介さず、子供は二人とも父親に向かって猛烈なタックルを繰り出したのだった。  思わず後ろに倒れれば、男の子も女の子も大笑いして彼の顔をぴたぴたと手の平で叩いた。 「パパは、お寝坊さんだね」 「CCがずっと待ってたのに」  ああ──そうか。  ベンジャミンは微笑み、ゆっくりと身体を起こした。両方の手を伸ばして、二人の子供の頭を撫でてやる。  ぼうっとして彼らの存在を忘れていた。しかしそれも新しい記憶なのだから仕方ない。  彼らはベンジャミンとアイリーンの双子の子供だった。男の子の方はミルディン、女の子の方はモーガン。共に6才で、太陽のように元気で明るい子供たちだった。 「君がなかなか目を覚まさないものだから、少し心配したよ」  ヴィクトリア時代の法廷弁護士(バリスター)は、落ち着いた仕草で紙飛行機を拾い、テーブルの上にきちんと置いた。 「一度ぐらいは、こちらの世界を覗いてみてもいいかなと思ってね」  何か問おうとしたベンジャミンを手で制して、カーマイン。 「ミルディンとモーガンの件に関しては、僕が少しだけ手を入れた」 「手を入れた?」 「因果律とやらに、少々、な」  カーマインは、片目をつむってみせた。  彼の言葉は、ベンジャミンが言おうとした質問に先回りしたものだった。苦笑するベンジャミン。カーマインはそういう男だ。  独りで考え、思考を重ね、決断力を持って実行する。  今回のこともそうだった。クライヴから持ち込まれた計画を聞き、情報を集め思考を重ねてから、彼は自分の知識と神秘魔術を行使したのだ。カーマインの力が無ければ、ベンジャミンたちは強盗に襲われるあの夜にトリップ出来なかったということだ。  ベンジャミンは立ち上がり、カーマインの前に立つ。以前から、そうではないかと思っていたこと。それを認めざるを得なかった。 「あんたは俺に似てるな」 「ようやく気付いたのか? 僕は出会ったときからずっとそう思っていたがね」  二人は同時に口を歪めて笑う。  ありがとう、とベンジャミンが右手を差し出せば、カーマインはしっかりとその手を握り返した。  光が二人の姿を照らす。  それは兄弟が闇の中から選びとった、未来でもあった。 (終) ■■ 長い間ご愛読ありがとうございました! 著作: 冬城カナエ───●─────▲▲▲ in@talkingrabbit.net ●────────────□ 創作短編小説サイト 「しゃべるウサギ」http://www.talkingrabbit.net/ ───□