Chapter1  現代の魔法使い ────────────────────── Chapter1-1 口は災いの素   「君はマーリンにでも成ったつもりかね」  課長室に入るなり、そんなことを言われて。ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、ただ一言、いいえとだけ答えた。  目の前のマホガニーのデスクに座っているハゲ頭の男は、ランドルフ=カヴェンディッシュ警視正。ロンドン首都警察──通称、スコットランドヤードの重犯罪対策局・殺人捜査部・西部地区課長サマだ。言葉には気をつけないといけない。ベンジャミンは笑いをかみ殺した神妙な表情のまま。黙って立っている。 「シェリンガム警視、私はこれでも君のことをずいぶん高く買っているつもりだ」  低く抑えた警視正の声には、怒気が含まれていた。 「君はオックスフォード出の秀才で、家柄も素晴らしいし、あのプレスコット下院議員は君の叔父だと聞いている。私が警視になったのは43才の時だが、君は38才でもう警視だ。実際、私の補佐役としてよく働いてくれているし、手際の良さにはいつも舌を巻く限りだ。しかしな」 一気に喋ってから、ギラリとした視線をベンジャミンに投げ打つ。 「今回ばかりは、君の考えが理解できない。一体どうして、ああいったことをしでかしてくれたのかね? 君はBBCの連中に借りでもあるのか」 「いえ、ありません。深夜にやっている“男のクッキング24時”は好きですがね」 ニヤと一瞬だけ笑みを見せて、ベンジャミンは相手が反応する前に言葉を続けた。 「私も、警視正と同じで、メディアの連中は大嫌いですよ。ヘドが出ますね。しかし、BBCはあれでも国営放送ですから、どこからか我々の情報力操作の及ばないところから、マハムード=アサディがあの場所に現れることを掴んだんでしょうな」 「他人事のように言うな!」 ドンッ、とカヴェンディッシュ警視正はデスクを叩いた。 「奴をなぜ、逃がしたんだ!? 理由を言え」  だが、ベンジャミンは冷たい視線を相手に据えただけだった。栗色の髪は、ラフにセットされており、サヴィル・ロウ※の老舗テーラー、ギーブス&ホークスのスーツを着ているにも関わらず、シャツの第一ボタンを開けネクタイを緩めている。一見だらしないように見えるのだが、それが妙にサマになっている。不思議な雰囲気のする男だった。 「逃がしたつもりはありません。彼が消えたのです。我々の前から、フッ、とね」 彼は堪えきれずに、クスッと笑う。 「土曜日、昼間のトラファルガー・スクエアがどれほど人で込み合うか、警視正はご存知ないようだ。まあ、要するに私が現場への指示をミスしたわけですから、処罰・処断、如何様にもなさっていただいて結構」 「シェリンガム、俺の立場も考えてくれ!」 とうとうカヴェンディッシュ警視正は、椅子を蹴倒して立ち上がっていた。 「我々が逮捕するはずだった容疑者が、ハイドパークの|市民論壇場《スピーカーズコーナー》※に突然現れて、自分の無実を訴えたんだぞ。しかもそれをBBCが生中継だ! 悪いジョークにも程があるだろうが!」  ひょいと肩をすくめるベンジャミン。カヴェンディッシュ警視正は、それを見なかったことにして、椅子を戻し荒く息をしながら腰掛けた。 「マハムード=アサディの無実の訴えに、ロンドン市民は心を動かされてしまった。これで奴を逮捕することが難しくなった。捜査もまた一からやり直しだ」 「いいんじゃないですか。捜査をやり直すことに、私は賛成です」 しかし淡々と、ベンジャミンは言った。 「アサディに関する調査報告書に目を通しました。今のところ物的証拠が少な過ぎます。同じ状況で逮捕・起訴された人間は過去には一人も居ないはずです。過去の類似事件と違う点は、アサディがイラン出身のイスラム系移民であるということだけです。これは宗教・人種上の差別には当たりませんか」 「ま、待て、落ち着け、シェリンガム」 突然、部下が言い出した糾弾に、警視正は目に見えるほど狼狽した。ここは個室で、ほかには誰も居ないというのに周囲にキョトキョトと目線を走らせ始める。 「アサディを逮捕しろと言ってきたのは、|MI5《国防情報局保安部》※で、報告書も連中が作ったわけで……」 「連中の言いなりになる必要がありますか、我々は警察ですよ。しかもMI5からテロ対策部ではなく、この殺人捜査部にお鉢が回ってきたということは、アサディを別件逮捕して取り調べるつもりだったんでしょうな。それぐらいのこと、貴方でもお分かりでしょう?」 カヴェンディッシュ警視正は、ひるんだように上体を反らせた。 「それに──」 たたみかけるように、ベンジャミンは続けた。 「私のことをマーリンと呼ぶのはやめた方がよろしいかと。私は魔法使いではありませんし、もし私がマーリンだとしたら……」 ────────────────────── Chapter1-2 超常犯罪調査部、略してUCB   そんなわけで、三日後の夕刻。  ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、かったるい、ウザいなどと悪態をつきながら、両手でダンボールを抱えて階段を降りている。スコットランドヤードのビルの中に、こんな場所が存在したのかと驚くほど薄暗い陰気な場所だ。階段の終点から少し行ったところの突き当たりに、古ぼけたドアがあった。張り出した札にあるのは──  『|超常犯罪調査部《アンノウン・クライム・ブランチ》[UCB]』  ドアの前に立ったベンジャミン。両手がふさがっているため、肩でドアをノックし、中にいる人間にドアを開けてもらおうとしたのだが、彼は動きを止めた。中から女性二人の話し声が聞こえてきたからだ。 「……マジで? それヤバくない?」 「ヤバイわよ。それでもシェリンガムさんは、動じずに、ソファに座ったままタバコふかしてただけだったらしいわ」 「だって目の前に殺人鬼でしょ?」 「そうよ、殺人鬼よ。ドラッグキメてる殺人鬼よ」 「ウッソ、殺されちゃうじゃん」 「部下を信じてたらしいわよ。実際、そのすぐ後に西課の連中がカフェに踏み込んで、犯人を射殺したんだって。それでシェリンガムさんは、殺人犯の死体に向かって、“ヤードを恨むのは結構だが、他人を殺すのは罪だ”とか言ったんですって」 「カァッコィィ……」 「ヤードの中で、最もラフにギーブス&ホークスを着こなす男とも呼ばれてるらしいわよ」 「なんで、そんなスゴイ人がこんな部に回されちゃうわけ?」 「それよ、それ。マーリン発言よ」 「何それ」 「カヴェンディッシュ西課長にね、“君はマーリンか?”って言われたんだって。例のイラン人のアサディ生中継事件の件でね。……そしたら、シェリンガムさん。自分がマーリンだったら、貴方はアーサー王になるわけで、貴方にアーサー王は無理だとかなんとか言ったんだって。それで西課長、大・激・怒よ」 「ギャハハ、けっさくー」  ドンドン。 「君たち、ちょっとドアを開けてくれないか」  中から聞こえてきた女性たちの笑い声がピタリとやんだ。  外れて落ちてしまいそうなドアノブがキュル、と回り、ドアが開く。そこに立っていたのは、いずれも20代ぐらいの赤毛とブロンドの女性二人だ。  女性二人は呆けたように、ベンジャミンの顔を見上げる。 「シェリンガムだ。話は聞いてる?」 「は、はい」 「俺の机はどこ?」 「こちらです」  赤毛の方が身を引いて、部屋の奥に鎮座した味気ないステンレスのデスクを手で指し示した。日光が射さない地下のこの部屋の中は、昼間だというのに薄暗い蛍光灯が灯っているだけで、10個ほど並んだデスクには人影が一つもない。  どうも女性二人以外は、捜査か外回りに出かけているようだ。それにしても……。聞き及んではいたものの、人数の少なさに改めて驚くベンジャミン。こんな少ない人数で成立する“部”があるのか、と。  自分の新たなデスクにダンボールを下ろし、一息つこうとして、ベンジャミンは気配にサッと振り返る。すると女二人が顔を赤らめ、それぞれそっぽを向いたところだった。 「君たち、ちょっと」  ベンジャミンが呼ぶと、彼女たちは慌てたように彼の目の前に駆けつけ、ヘナッとサマにならない敬礼をした。 「ベンジャミン=シェリンガム警視だ。今日からこの超常犯罪調査部を預かることになった。よろしく」  何で俺から名乗ってるんだろ、などと思いながらもベンジャミン。デスクに手を付きながら言う。 「ヴィヴィアン=コーヴェイです!」 「シシー=デューモントです!」 女二人は競うようにして名乗った。まだ新人ですとか、この4月に入所したばかりですとか、まだ現場に出たことがありませんとか、電話番してるだけですとか、シェリンガムさんの下で働けて光栄です、とか、彼女たちはマシンガンのように口々に喋り狂った。 「ああ、分かった分かった。この部のことは明日にでも、ほかのメンバーも交えてゆっくり聞くから」 と、ベンジャミンはなだめるようにそう言うと、赤毛の女の方に向かって、 「ところで、シシー。過去にこの部で扱った事件のことを掴みたいんだが、資料は……」 「わたしはヴィヴィアンです。ヴィヴって呼んでくださって構いませんです!」 「あ、ごめん」 赤毛の方がヴィヴィアンだったか、と思ったら脇からブロンドのシシーが大声を張り上げた。 「資料の方は、わたしシシーの方が管理してます! 何でも聞いてください」 「何よ、アンタいつもインターネットして遊んでるだけじゃないの!」 「違うわ、あれは調査してんのよ!」 「まあまあ」  突然、噛み付くような言い争いを始める二人。ベンジャミンは、何でなだめてるんだろ、などと思いながら彼女たちの肩にポンと手を置く。 「資料の件も明日でいいや。悪いんだけど、そのダンボールの中の荷物、俺のデスクの中にテキトーにぶっ込んどいてくれる? ……ああ、一番上に乗ってる薬ビンがあるだろ。それは持って帰るからこっちに寄こして」  そう言いながら胸ポケットから携帯電話を取り出す。  女二人は、伝統的英国紳士風のルックスをした、いかにも|上流階級《アッパークラス》の人間に見えるベンジャミンの口から、思いも寄らないフランクな言葉が飛び出てきたことに驚いて、またポカンと口を開けて彼を見つめている。  しかし、そうとは知らないベンジャミンは左腕に嵌めたタグホイヤーで時刻を確認すると、そろそろ行ってやるか、と呟いた。電話をかけようと携帯電話の画面を見つめていると、また女たちの視線を感じた。ブロンドのシシーの方がおずおずと薬ビンを彼に差し出している。 「ああ、ありがとう。シシー」  ベンジャミンは薬ビンをスーツのポケットに入れた。先日、医者にγ−GDP値※が高過ぎるがら、とにかくこれを飲んで肝機能を治せと渡されたものだ。 「シシー。それにヴィヴ。今日はちょっと行くところがあるから、これで失礼するよ。明日はちゃんと定時に来るから」  電話をかけながら部屋を出ようとして、ベンジャミンはふと女二人を振り返った。彼女たちは、なんと声をかけてよいものやらといった感じでモジモジしながら自分を見ている。 「あのさ」 ベンジャミンは携帯電話を持った手を下げ、彼女たちに微笑みかけた。 「“君はマーリンか”って言われたアレな」 ヴィヴィアンとシシーは噂話を聞かれたことを知り、驚きそして恥じたような苦笑いを浮かべてみせる。 「──君たちが言ってた話で大体合ってるが、正確には、俺はこう言ったんだ。“自分がマーリンなら、貴方はアーサー王になるわけで。貴方は部下9人と円卓を囲めますか? 円卓を囲んだら、‘お前たちは俺の言うことを聞いてりゃいいんだ’なんて言えなくなりますよ”ってな※」 プッと吹き出すように笑う女二人。 「“それでしたら、私はマーリンでなく、フーディーニ※で結構。奇術師ながらも同業者のイカサマを見破って暴いてみせますから”って最後締めくくったんだ。けど、あのカヴェンディッシュ警視正どのは、センス・オブ・ユーモアを解さない男だったらしく。そう、君たちの言う通り大激怒さ。顔を真っ赤にしてさ、見ものだったぜ?」  二人は、若い女らしくけたたましく笑いだした。腹を抱えて大笑いしている。英国の淑女はたぶん絶滅したのだろう、そう思いながらも、ベンジャミンは新しい異動先を後にした。 - - - - - - - - - - - - - - - ※ハイドパーク: ハイドパークという大きな公園がありまして。その角に市民が勝手に喋っていい「公開シャベリ場」があるのです。 ※サヴィル・ロウ : 紳士服スーツの老舗がズラリと並ぶ英国紳士ファッションの聖地。 ※MI5[国防情報局保安部] : 国内方面のテロ対策をする情報局。ジェームズ・ボンドが所属してるのはMI6で、あれは外交方面の活動をします。だからボンドは海外に行くのね ※アーサー王の円卓: アーサー王の円卓は、王も臣下もフラットな立場で話し合うために用意されたもの。円卓であるため、上座や下座がない ※フーディーニ: ハリー・フーディーニ。奇術師。心霊術などのインチキを見抜くことに熱心だったといわれている。ドラマ「TRICK」でも彼の名前出てきますよね? ※γ−GDP値: ガンマ・ジー・ディー・ピー値と読む。酒を飲みすぎだと、数値が高くなってくる。いわゆるオジサンたちがいつも気にしている数値。類似するものに“尿酸値”というものもある ※スコットランド ・ヤード: ロンドン首都警察。日本の警察が桜田門と呼ばれるような意味合いで、昔庁舎がスコットランド・ヤードという庭に面していたから、こう呼ばれているらしいです。 ────────────────────── Chapter1-3 魔法使いの弱点   所変わって、メイフェア地区の小さな公園。ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、一人の青年とともにベンチに腰掛けている。時刻は夜8時ごろ。そろそろお上品でないロンドン市民たちが街に繰り出してくる時間だ。  隣の青年は、20代半ばぐらい。ブロンドの長い髪を後ろで結び、マンチェスター・ユナイテッド※のユニフォーム・レプリカを着ている。背中の文字はルーニー。背番号は8。小型戦車と異名を持つ、やたら攻撃的なプレイスタイルを持つウェイン・ルーニー選手のファンらしい。  二人はじっと前方を見たまま、無言。青年の方は両手を組み合わせて、神経質そうに親指の付け根あたりを揉んでいる。 「ジェル、そろそろ帰れ」 ようやく切り出したのは、ベンジャミンだ。 「叔母さんが心配してるぞ」 「嫌だよ」 青年は小さな声でつぶやくように言った。 「俺、あの家に帰りたくないよ」 「子どもじゃないんだから、ワガママを言うな」 「だって、息が詰まりそうなんだもん。アレみたい。ハリー・ポッター並みだよ。俺、マグルの叔母さんにさ、苛められてるんだよ。ホントだよ。ジャムだって、あの様子を見たら絶対そう思うって」 「俺は何度もそっちを尋ねてるがな」  ぼそりと口を挟む。 「ジャムが来たときだけ、叔母さんはイイ顔するんだよ。そうじゃない時は“ジェレミー、今日はどこに行ってきたの?”とか、“フットボールを見に行くのは月に一度ぐらいになさい”とか、そんなことばっかり言うんだ」 「それは、お前がニートだからだろう」 大きくため息をつきながら、ベンジャミンは言った。 「ひどいよ兄貴、俺のことただの肉の塊だなんて、いくらなんでも言い過ぎだよ」 「俺はNEETと言ったんだ、MEATじゃない。──働かず、学生でもなく、教鞭を振るってもいない奴、すなわち、お前みたいな奴のことだよ!」  青年の名前は、ジェレミー・ナイジェル=シェリンガム。ありていに言うところの出来の悪い弟だ。25才にもなってまともな職に就いておらず、|フットボール《サッカー》を見て騒いで物を壊したり、喧嘩したり、ドラッグを打ってラリッたりすることで、毎日を浪費している。  どうしようもない弟だが、ベンジャミンはこの年の離れた弟に対して少なからず責任を感じていた。  そもそもは22年前、彼らの両親が殺されたことから始まる。当時住んでいた彼らの邸宅に強盗が押し入り、両親と|乳母《ナニー》を殺害し、宝石類を強奪して逃げたのだった。16才だったベンジャミンは3才の弟とタンスの奥深くに隠れて息を潜め、難を逃れた。  その後二人の兄弟は、母方の叔父であるサー・ダニエル=プレスコット下院議員の家に引き取られた。だが、ベンジャミンの方はすぐに全寮制のハイスクールに通うようになり、そのまま大学に進学したため、弟の面倒をほとんどプレスコット家に任せることになってしまったのだった。  ベンジャミンの方は、両親が死ぬ前に|乳母《ナニー》に毎日毎日同じような不味い豆料理を食べさせられ、伝統的な|上流階級《アッパークラス》の人間としての辛抱強さを身に着けることが出来たが、ジェレミーの方はそういうわけには行かなかった。  自由奔放で束縛を嫌う弟は、どうも決定的にプレスコット家と合わなかったようだった。  大学を中退し、サッカー観戦に明け暮れるようになったジェレミーを見て、ベンジャミンは弟を引き取ろうと何度も思った。現在の収入と、両親が残してくれた財産があれば、ジェレミーひとり養うのに全く問題はない。しかし、プレスコット家と叔父の面子のことを考えると気が引けたし、ちょっと前まではもう一人扶養家族もいた。スコットランドヤードの仕事も苛烈を極め、面倒を見てやれるかどうか自信も無かった。  結局、ベンジャミンに出来たのは、こうしてたまに彼に会い、力になってやることだけだった。  そこまで考えてベンジャミンは、今自分が置かれている境遇について、はたと思い至ることがあった。 「ジェル」 ちょっとした間のあと、ベンジャミンは弟を呼んだ。 「お前はどうして、さっきまで留置場にぶち込まれてたんだっけ?」 「えっと……、バーでケンカしたから」 公園の土に目線を落としながら、おどおどとジェレミーは答えた。 「そうだな、ご名答。なら、お前は何でこんなにすぐに出てこれるんだっけ? 理由を言ってみろ」 「ジャムが偉い警察官だから」 「それもある。けど、もう一つあるだろ?」 「叔父さんが下院議員だから」 「そうだ。お前はコネを使って罪から逃れてるわけだ」 ベンジャミンはギロリと弟をにらんだ。 「つまり世間的に見て、お前はいわゆるダメ人間ってヤツなんだよ」 「ひ」 息を呑んだジェレミー。兄の方を見て顔を引きつらせる。 「ひどいよ、ジャム……。あんまりだよ」 声が上ずっている。言い過ぎたかなと思ったが、たまには厳しく言ってやらないと。ベンジャミンは敢えて弟の顔を見ないようにした。 「もうケンカしないと約束しろ、ジェレミー」 ひとつずつだ。自分にも言い聞かせるようにベンジャミンは言った。ひとつずつ約束させて、守らせるようにしていこう。ケンカをやめさせたら、次はドラッグだ。そうやって一歩ずつ進んでいけば、この弟を真っ当な人間にすることができるかもしれない。 「今すぐ約束すれば、俺のマンションにお前の部屋を用意してやる」 「えっ!」 そこでやっと、兄は弟の顔を見た。驚きに見開かれていたジェレミーのグリーンの瞳がふにゃりと歪んで笑みに変わっていく。 「ジャム、マジで言ってんの?」 「ああ」 厳格な表情のままでいようと思ったが、つい表情が崩れてしまう。ベンジャミンも自然と微笑んでいた。 「ちょっとした問題やらかして、とばされた。もう殺人捜査部の刑事じゃなくなったんだ。次の部署はヒマそうだから、お前の面倒をもうちょっと見てやれそう……」 「約束するよ! 俺もうケンカしない!」 ぴょんと立ち上がって、兄を振り返りジェレミーは言った。人の話を最後まで聞きもしない。ベンジャミンは苦笑した。 「約束だぞ」 自分も立ち上がり、ベンジャミンは弟の両肩に手を置く。弟はヘラヘラとしまりのない笑みを浮かべながら何度もうなづいている。 「うん、俺、掃除も洗濯も料理もするよ」 「そうか。料理だけでもいいぞ。BBCの“男のクッキング24時”を見れば……」 「ノー・プロブレムさ、ジャム。俺、毎日その番組チェックしてるから」  仕方ない奴だ。苦笑しながら、弟の背中をポンポンと叩きベンジャミンは思った。──ま、世の中悪いことばかりじゃないな。  手を振り、おとなしく叔父の家へと帰って行く弟を見送ってから、ベンジャミンはタクシーを捕まえ帰路についた。そうだ、今日こそは医者にもらったγ−GDP値を下げる薬を飲むことを忘れないようにしないとな、などと、どうでもいいことを思いながら。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※マンチェスター ・ユナイテッド: イングランドのサッカークラブ。前にベッカムが所属してたアレ。いわゆる読売ジャイアンツみたいな位置づけ ────────────────────── Chapter2  ザ・ファースト・トリップ Chapter2-1 いわゆるオーヴァー・ドーズ  たぶん、とベンジャミンは手元に引き寄せたタオルで濡れた顔を拭きながら思った。たぶん、自分は職場のデスクで書類を読んでいたのだ。過去の事件報告書に目を通し分類作業をしていたのだ。それで──。 「あの、部長。それわたしの……」 若い女の声に我に返る。ベンジャミンは、部下の婦警シシー=デューモントの手を掴んでいた。 「あっ、ごめん」 慌てて、その手を離す。タオルだと思ったのは彼女のブラウスの袖だったのだ。  どうかしている。頭がぐらぐらする。  何故、こんな感覚が? まるで酒に酔ってるみたいじゃないか。お前は、酒を断って何年になるんだ、ジャム? もう何年も一滴も飲んでないだろ? 「ごめん、シシー」 やっと、ベンジャミンはそれだけ言った。「今日は気分が悪いから早めに帰るよ」  頭を押さえながら、足早にドアへと歩いていく。  廊下に出ようと、UCBのドアを勢い良く開けると、2人の若い女と鉢合わせした。クラブに踊りに行くような派手なルックスの10代後半の娘たちだ。 「あ」 驚いたように目を見開いたのは鼻にピアスをしている方。ベンジャミンの顔を指差し言う。 「お兄さんだ」 「ジェルのお兄さんだよね? ……おかえりなさぁーい」  ──バタン!  ベンジャミンは扉を閉じた。  え? 今の何? 俺は、スコットランドヤードの地下にある超常犯罪調査部[UCB]から外に出ようとドアを開けたところだったよな? なあ? なんで俺の家に──    ──ドンッ、ドンッ。  ──バリバリッ。ダダン!  剣呑な物音に、サッと振り返るベンジャミン。  ドアを突き破った白い手。次の瞬間にはドア自体が破壊され、何者かが部屋に乱入してきた。髪を振り乱したネグリジェ姿の女。まるでホラー映画から飛び出してきたような女は骨ばった手をかざし、顔を上げた。 「あんたのことを愛してたのに、愛してたのに愛してたのにィ……許せないわァッ!!」 叫んだ女の目は狂気一色。──アンタ誰? なんて質問を受け付けてくれる気配は一切、無い。  一歩、踏み出した彼女の身体が奇妙に波打つように躍動した。異臭。盛り上がる背中、手の爪が鉤爪のような凶器に変化していく。  まずい! そう思ったが遅かった。  山猫のように飛びかかってきた女の鉤爪が、ベンジャミンの右肩口に深々と突き刺さった。 「ぐっ」  デスクの上の書類やいろいろな備品を周囲に撒き散らしながらも、ベンジャミンは女の腕を掴んだ。自分の身体から凶器を引き抜こうとしたのだが、その怪力といったら! 女の腕はビクともしない。  女はベンジャミンに苦痛を味わわせようと、鉤爪をメチャクチャに動かした。 「死ね死ね死ねッ」 「おやめなさい!」   誰かの声。助けが来たのか? ベンジャミンは痛みに気が遠くなりそうになりながら、女の向こうに現れた人物を見る。それは、古風な黒いドレスをまとった若い女。  その顔を見た途端、ベンジャミンは頭をガツンと殴られたような衝撃を受け──  ──待て! そうじゃない。こんなことは有り得ない。  しっかりしろ、ジャム。どれが現実で、どれが現実じゃないのかを見極めるんだ。  物事を時系列順に並び替えて、分析するんだ。  起きるんだ、ジャム。目を開けろ。  ……。  パァッと明るい光が、差し込んだ。  ゆらゆらとゆらめく視界の中で、自分を覗き込むようにしている三つの顔。  あっ、見て。  お兄さん目ェ開けたよ!  ジャム、ねえ、ジャム!? 大丈夫なの? 返事してよ!  ベンジャミンは、跳ねるように飛び起きた。 「ジャム!」  すぐに両腕を掴んできたのは弟のジェレミーだった。大丈夫なの? 平気? そんなことを言いながら、身体を揺すっている。 「ジェル、ああ、だ、だいじょうぶだ」  言いながら、ベンジャミンはまず弟の顔を見た。ジェレミーは心配そうに自分のことを見つめている。その隣には派手な若い女性が二人、やはり心配そうに自分のことを見ている。  そこは自宅の洗面所だった。  白と黒のモノトーンのタイルが張り巡らされたモダンなデザインの洗面所に、彼自身は足を投げ出し座り込んでいる。どうやら今まで、彼はここに大の字に倒れていたらしい。なぜか床は水浸しだ。  ついでに、着ていたギーブス&ホークスも台無しになっていた。 「俺は、ここに倒れてたのか」 ベンジャミンは、ぽつりと言った。そうだよ、とジェレミーが答え、若い女性二人はうんうんとうなづいた。 「アタシたちがねぇ、お留守番してるところにお兄さん帰ってきてェ」 「それでアタシたち、ジェルの部屋でテレビ見てたからァ」 「お兄さん、ここで倒れてるの気付かなくてェ」 「ゴメンネ」 「ジャム、大丈夫?」 見事な連携プレーで、状況説明をしようとしている女性二人を尻目に、ジェレミーは近場に転がっていたトイレットペーパーの紙を手にとると、ベンジャミンの顔を拭き始めた。 「ごめんね。俺がここに|錠剤《ピル》を置いといたのが悪かったんだ。ジャムがうっかり飲んじゃうとは思わなくて……」 「錠剤!? どういう錠剤だ?」 弟の手をやんわり弾いて、ベンジャミンは手を伸ばしタオルを引き寄せ──今後こそは、正真正銘のタオルだ!──それで顔を拭きながら尋ねた。やや詰問口調になりながら。  ジェレミーは一瞬ひるんだような目をしたが、おとなしく答えた。 「違法なクスリじゃないよ。成分は全部、法定水準を守ってるデザイナーズ・ドラッグだよ。少しだけいい気分になるだけなんだけど……」 言われて、ベンジャミンは今の今まで見ていた光景を思い出した。UCBで見た書類。ホラー映画から飛び出してきた女。そして──黒いドレスの女。  無言のまま、ゆっくりと立ち上がり、洗面台の蛇口の横にある薬ビンを確認した。今朝飲んだγ−GDP値を下げる薬の隣にもう一つ、非常によく似た薬ビンが増えている。 「俺が間違えたのか」 そうつぶやきながら、ベンジャミンは薬ビンを取ってジェレミーに差し出した。弟は怒られると思ったのか、上目遣いになって身構えるように、こちらを見ている。 「ちっともイイ気分にならなかったぞ。とんでもないバッド・トリップだ」 しかしベンジャミンは声を荒げなかった。心ここにあらずといった感じで、ふらふらと洗面所を出て行く。  拍子抜けしたのはジェレミーだ。……ジャム、どうしたの? ねえ、とその背中に声をかける。女二人は兄弟の様子を不思議そうに見つめていた。    自分の部屋に戻ったベンジャミンは、まずは着替えようとスーツを脱ごうとした。  しかしその途端、痛ッと声を上げて顔を歪める。右肩に激痛が走ったのだ。  肩? 肩といえばさっきの……。ベンジャミンは爆発的に嫌な予感がするのを押さえ、恐る恐るジャケットとシャツを脱いだ。  右肩には、青い痣が点々と出来ていた。もちろん、まったく身に覚えがない。覚えがあるとすれば、あの薬物で見た幻覚の中で、ホラー映画女に刺されたことぐらいしか── 「有り得ない、有り得ない。有り得ないぞ、ジャム。そんなことは」  口に出してつぶやいたベンジャミン。シャツを手に掴んだまま、ソファにどっかと腰掛ける。  そのまま彼は、思考を開始した。今日一日起こったことを、もう一度時系列順に並べて整理してみるのだ。そうすれば自分がどこで怪我をしたのか思い出すだろう。そしてあの黒いドレスの女と何処で出会ったのかも。  そうだ。自分は職場のデスクで書類を読んでいたのだ。過去の事件報告書に目を通し、分類作業をしていたのだ──。 ────────────────────── Chapter2-2 100分の5のホンモノ  そう、思い出した。  ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、スコットランドヤードの超常犯罪調査部[UCB]の自分のデスクで過去の事件報告書に目を通し、分類作業をしていたのだ。  ここに来てから二週間。彼は、たまに印鑑を押したり、たまに部下の話を聞いて、イエスかノーを言ったりする合間に、UCBの過去の膨大な事件報告書に目を通し続けていた。  今は夕刻。部下たちはほとんどが出払い、部屋の中は静かである。ときおり、ひそひそとお喋りに興じている婦警二人のどちらかが漏らす笑い声と、居残り組の刑事が苦情電話に対応している声。すぐ目の前のデスクで、巡査部長のクライヴ=コルチェスターがパチパチとキーボードを打っている音が聞こえてくるぐらいだ。  時は夕刻。ベンジャミンのデスクの上には書類の山が三つ、形成されていた。  ケース1。キャサリン=ベントリーは8月26日の夜20:00頃、家に侵入した何者かに金品を強奪された上、性的暴行を受けた。帰宅した夫が警察に通報。事情徴収によると、ベントリー夫人は、煙のように現れた|夢魔《インキュバス》に被害を受けたと主張。UCBで再調査の結果、二階の窓から音もなく家に侵入したのはベントリー夫人の浮気相手、ジム=ベイツだと判明。彼の身柄を確保し、容疑を住居侵入と詐欺に切り替えて送検。  ケース2。園芸用品卸の株式会社ウォリック商会の社員が三名、帰宅途中に何者かに襲われ殺害される。凶器はスコップ。同じ場に居合わせた目撃者の証言によると、犯人は三ヶ月前に死亡したはずの元社員リサ=デービスだったという。リサは、社員間の陰湿な嫌がらせを苦に自殺しており、UCBにて再調査を実施。その結果、犯人はデービスの兄アランと判明。同社役員宅にて女装しスコップを振り回す犯人を、|機動部隊《CTF》がやむを得ず射殺。自宅から証拠物件を押収。  この二件のような事件が、いわゆる大半を占める“よくあるケース”である。  ベンジャミンは読み終わった報告書を、一番右の山にポンと載せた。当然ながらこの山が最も高い頂を誇っている。  やれ夢魔が現れただの、吸血鬼に襲われただの、自殺した女が殺人鬼になって復讐しにきただの……。始まりが大仰な事件も、結果は尻つぼみに終わることが多かった。竜頭蛇尾というやつだ。  また、被害者にも、不愉快な共通点があった。彼らの社会的地位の高さである。“金持ちで偉い人たち”が被害者の大半を占めているのである。  つまり、「そんな馬鹿げたことが起こるわけがないでしょう?」などと、面と向かって言えない相手に対応するのが、このUCBの主な仕事だということだ。実際、動くときは他部署と連携し、主に被害者のケアを担当する。“奥方の苦情処理部”という蔑称まであるぐらいだ。  とはいうものの。  ベンジャミンは積み重ねた書類の山のうち、一番左の山に目を移す。  そこには件数は少ないものの、未解明な点の多い迷宮入り事件の報告書が積み重ねられていた。ごく少数だが、どうにも腑に落ちない事件が起きているのも事実なのだ。  単なる調査不足なのか、うまく証拠が集まらず未解決のまま時効を待つことになってしまった事件なのか……。例えば、次のような事件だ。  ケース3。フォード夫妻は、2004年3月14日未明のよく晴れた満月の夜、自宅に侵入した何者かに襲われる。夫妻は就寝中で、ケイト夫人はいきなり鉤爪のようなもので胸を切り裂かれ、ベッドの上で絶命。1階まで逃げ延びた夫ジョンはセキュリティ会社への直通電話をかけ、離婚した元妻のナンシーに襲われていると通報した。数分後、警備会社のスタッフが駆けつけたが、地下室のワイン蔵の中で心臓をえぐり出され死んでいるジョンを発見。地下室へと続く分厚い扉は、中央を真っ二つ割られ、物凄い力で破壊されていた。ワイン蔵に残されていたのは真珠のネックレス。ジョンがナンシーに送ったものだそうだ。そして、ジョンの心臓とナンシーの姿はどこにも無く、今でも見つかっていない。    ベンジャミンは、ため息をついて書類を机の上に置いた。──近隣の住民は銃声一つ聞いていない。武器を持たない女がどうやってこの写真のような分厚い扉を素手で壊したのか? こんな扉を壊せるような銃器に消音機をつけることは不可能だ。  UCBの当時の部長はこの事件の犯人に仮の名前を与えていた。狼女ナンシー。獣になる女、ナンシー。  馬鹿げていた。怪力、鉤爪、満月の夜。確かに三拍子揃ってはいるが、それじゃあ、まるで映画の世界じゃないか。   ──カサッ。   物思いにふけっていたベンジャミンは、報告書の山から何か書類が一枚、床に落ちたことに気付いてふと我に返った。いけない、と手を伸ばして書類を拾い上げる。   それは何か古ぼけた一枚の書類だった。タイトルには「業務委託に関する覚書」と書いてある。 「何だこれは?」   思わず口に出してつぶやいてしまった。裏を見てみても何も書いていない。また表に戻って日付と末尾の署名二つに目を走らせる。   日付は1907年8月20日。100年も前の書類ではないか。ベンジャミンは小さな驚きをもって、インクで書かれた筆記体に目を凝らす。   連名になっている署名の片方は、当時のスコットランドヤード|犯罪調査局《CID》局長、もう片方は── 「|王立闇法廷《ロイヤル・コート・オブ・ダークネス》、事務総局長兼筆頭裁判官、カーマイン・クリストファー=アボット?」   奇妙な組織名だ。しかも……。ベンジャミンはその署名の横にある拇印に目を近づけた。茶色がかったその色は、どう見ても古くなった血液の色である。血判であろう。なんと古風な、と彼はその血判を指でなぞった。 「部長」  その時、名前を呼ばれてベンジャミンは書類から顔を上げた。電話の受話器を持ったヴィヴィアン=コーヴェイがこちらを見ている。 「お電話です。殺人捜査部東部地区課のコールマン警視です」 「コールマンか。いいよ、こっちにつないで」 ベンジャミンは相手の名前を反芻し、鳴り出した電話の受話器を取った。 「それで……、どういうわけで、君は武器を持たない相手を半殺しにしたんだ?」  穏やかな口調で、ベンジャミンは長身の男に問いかけるように言った。彼のデスクの前に立っているのは、レスター=ゴールドスミス警部補。がっしりとした体格を持ち、警察官というよりまるで軍人のようにいかめしい顔をした男だ。年齢は38才。ベンジャミンと同い年である。   “軍人”は、ぎょろりと視線をめぐらせて、ベンジャミンを見下ろした。 「現場にいなかったアンタには分からんよ」 「ずいぶんな言い方だな」 ぼそりと相手が漏らした言葉に、ベンジャミンはニヤと笑みを返した。部下に反抗的な態度をとられることは珍しくない。 「レスター。もう少し現場の状況を詳しく報告してみたら?」 その時、横から口を出してきたのは、エイドリアン=オースティン警部補。ぽっちゃりした体格の中年男だ。年齢は45才。警察官というより、クリスマスの日に鼻を赤く塗って、トナカイの着グルミを着て孤児院を訪問することが似合うような男だった。    レスターは、ぐっと口をつぐみ、ヘの字口を作った。それを見て、ベンジャミンは隣りのエイドリアンに目線を移す。“ぽっちゃりトナカイ”は、視線を受け、仕方ないといった風に口を開いた。 「コールリッジ夫人邸──別名、バナー通りの幽霊屋敷に出没していたという“幽霊”が、実は住み着いていた浮浪者たちだったということは、すでに聞かれてますよね」 「ああ。聞いたよ。 殺人調査部のコールマンからな」 「ええと、その浮浪者のリーダー格の男がですね、投降するときに怪しい動きを見せたんです。それでレスターは彼に殴りかかったんですよ」 「レスター? そうなのか?」 促すと、軍人はフンと鼻を鳴らした。レスター、と低い声でベンジャミンがもう一度彼の名前を呼ぶと、彼はしぶしぶといった感じで続けた。 「後ろに手を回して、銃か何かを準備してるように見えた」 「そうか」 ベンジャミンは、先ほど殺人調査部の同期、コールマン警視からかかってきた電話の内容を思い出している。  突然、浮浪者に向かって殴る蹴るの暴行を加えだしたレスターを止めたのは、たまたま近くで別の事件の捜査を行っていた、コールマンの部下たちだったのだ。コールマンとは親しくしてはいるのだが、どうも要らぬ借りを作ってしまったようだ。 「僕はここに来てから、まだ二週間だ」 ベンジャミンは言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。「当然、君たちの方がベテランだ。僕はただ教えて欲しいだけなんだ。本当に、その容疑者の浮浪者をこっぴどく痛めつける必要があったのかどうか。──過剰な暴力は、ともすれば、君たち自身を危険に貶めるぞ。そうは思わないか?」 レスターは、ジロリと剣呑な目を向けてきた。 「自分が殺された後に、後悔したって遅いんだよ。ただそれだけさ。クビや減俸、何でも受けて立つぜ。自分の命より大切なものはないからな。──もう、席に戻ってもいいかい? シェリンガム警視どの」 ベンジャミンは眉間に皺を寄せた。  フン、と鼻を鳴らしてレスターはゆっくりと席に戻った。エイドリアンの方は肩をすくめ、ジェスチャーをして“申し訳ない”と謝罪の意を表明する。  ベンジャミンはそれには手を挙げて答え、エイドリアンも席に下がらせた。  繰り返すが、言うことを聞かない部下は初めてではない。とくにベンジャミンのように才能とコネクションを併せ持ち、若くして高い地位に付いている男なら尚更だ。  とは言うものの。やれやれと。彼は心の中でため息をついた。過去の事件簿の整理の前に、足元にも目を向ける必要がありそうだ。   ベンジャミンは資料整理係のシシーを呼び、そして少し考えてから、ずっとパソコンに向かったきりのクライヴ=コルチェスターにも声をかけた。 「クライヴ、君も相談に乗ってくれるか?」   クライヴ=コルチェスターの階級は巡査部長で、28才。彼はありていに言うと太っている。肥満体だ。無口な男で、古風なデザインの銀縁の丸い眼鏡をかけている。   ただし、彼が席を立つことはほとんど無い。毎日、背中を丸めてパソコンに向かい、インターネット関連から回ってくる苦情を処理することが主な業務内容だ。ベンジャミンはこの二週間、彼と話したことはほとんどなかった。   シシーに対し、レスターに関する人事関係の書類を出すように命じると、ベンジャミンはクライヴの席のすぐ隣に立ち、彼を見下ろした。陰気な眼鏡の奥で、小さな瞳が上司を見上げている。 「実は最近、過去の事件報告書の整理をしてるんだが、君も手伝ってくれないか」   クライヴは微かに首を縦に動かした。表情は全く動かない。   ベンジャミンは自分のデスクに詰まれた山を指差し、ああいったアナログではなく、インデックスを作ってデータベースを作って整理をしたいといったようなことを説明した。   シシーが人事関係の書類を持ってくると、ベンジャミンは立ったまま、レスター=ゴールドスミスのここ3年の賞罰と給料表を確認し始めた。書類に目をやりながら、クライヴに指示を出す。   やがて、ベンジャミンは方針を決め、先の暴行を受けた容疑者に対するフォローと、レスターの減給の程度を決めた。本人を呼んで淡々と処分を伝えた後に、他部署に連絡し、手続きを取った。そんなことをしているうちに、日はすっかり落ちていた。 「レスターは、本当に殺されかかったことがあるのさ」 殺人捜査部への謝罪電話を終えた後、ベンジャミンが受話器を置くのを見計らったかのように、唐突にクライヴが言った。   気付けば、部署の中には彼と自分しか残っていない。時刻は19時を回っている。 「何? どういうことだい?」 ベンジャミンは彼に顔を向けて、尋ねた。 「本人から聞くのが一番愉快なんだがな。ま、アンタにゃ話さんだろうなあ」 昼間の無表情とは打って変わって、クライヴは、ニヤニヤと嫌な笑いを唇に浮かべ始めた。 「俺たちヤードの拳銃不携帯の伝統※に感謝すべきだぜ。そうじゃなきゃ、レスターは今ごろ2ケタぐらいの容疑者を射殺してることになる」 この部署には、上司に対する口の聞き方を知っている人間はあまり居ないらしい。ベンジャミンはそう思ったが、その程度のことで怒るほど狭量な人間でもなかった。   むしろ、無口なクライヴが語りだしたことに、がぜん興味が沸いていた。 「レスターは吸血鬼に噛み付かれた上、殺されかかったんだとさ。興味があるなら3年前のコード26475912番の事件報告書を見てみな。それを見れば“暴力刑事レスター”の誕生に立ち会えるぜ」 「ああ、あれか」 ベンジャミンはすぐに思い至り、一番低い山の中から該当の書類を見つけ出した。 「この事件は未解決じゃないが、確かに奇妙な点が多い」 「……アンタ、変わった奴だな」 くく、とクライヴは喉の奥で笑った。眼鏡の奥から陰気な瞳を向けてくる。 「2年もすれば、アンタは殺人調査部の西部地区課長になれるんだぜ? 上層部はカヴェンディッシュの我がままを期限付きで聞いただけさ。アンタの能力と政治力は奴より確実に上だ。こんな左遷先で頑張らなくたって、奴が昇進するのを2年待てば、アンタはその後釜に返り咲けるのによ」 フ、とベンジャミンも笑った。レスターの事件の報告書を手で持ちながら、 「そういう話はよしてくれ、クライヴ。俺は頑張るのが大好きな阿呆なんだ」 「そのようだな」 しれっと、クライヴはつぶやくと、ベンジャミンに自分のパソコンの画面を見るように顎をしゃくった。 「お望みのデータベースを作ってやったぜ。まだインデックスだけだがな。明日にゃ、アンタのパソコンから見れるようにしといてやる」 ベンジャミンは言われるがままに画面を覗き込み、へぇと感嘆の声を漏らした。仕事の早さは言うまでもなく、こちらの意図を正確に読み取り作られている。  この時になって初めてベンジャミンは、クライヴが見た目よりもずっと優秀であることに気付いた。 「ケースBの発生率はどれぐらいか、すぐに出せるかい?」 クライヴは、ちらりと上司の顔を見た後、手を伸ばしてキーボードを叩いた。 「5.1%。約5%だ」 「そうか。体感してたのと近いな」 ベンジャミンは満足した様子でつぶやく。本当は3%だと思っていたが、少し多い。  ケースBとは、ベンジャミンが分類した、例のどうにも腑に落ちない事件のことである。大抵が未解決だが、中には解決しているものもある。彼はその発生率を100件中、3件程度かと思っていたが、実際には100分の5の確率らしい。 「ありがとうクライヴ、助かったよ。君は仕事が早いな」 頷きながら、部下をねぎらう。クライヴはまんざらでもない様子でニヤリと笑った。  と、ベンジャミンはクライヴの机に載っている古い書類に気付いて、目を留めた。それは先ほど、コールマンからの電話を取る前に見ていた奇妙な書類だった。 「クライヴ、それ──」   ベンジャミンは、書類を顎でしゃくりながら言った。 「報告書の中に混ざってたんだが、何の書類だか分かるかい? 何だか100年ぐらい前の日付になってるようだし、えらく古い書類のようだが」    そう、言った途端。  クライヴはサッと顔色を変えた。笑みは消え、驚きに目を見開く。そして、彼に似合わない頓狂な声を上げた。  「──ヘェッ?」  クライヴの尋常ならざる反応を見て、え? とベンジャミンも声を漏らした。何か自分が妙なことでも── 「アンタ、これが読めるのか?」 クライヴはひどく遅い動作で書類を手に取った。 「ああ、読める、よ?」 ベンジャミンも少々面食らいながら続ける。 「100年ぐらい前の日付だが、シェイクスピアみたいな難解な言い回しが使われてるわけじゃないし。読めるよ。その、アボット卿ってのが誰なのか、君なら知ってるかと──」 「アンタ、眼鏡かけてないよな?」 クライヴは上司の言葉を遮って続けた。その目は真剣だ。「コンタクトレンズは?」 「つ、使ってないけど……」 「そうか」 「クライヴ?」 一度、うつむいて書面に目を落としたクライヴ。しばしの間のあと、彼は突然、肩を震わせて笑い出した。 「驚いたな。驚いたぜ、サプライズ・サプライズ」 「何?」 「ようこそ、シェリンガム部長。スコットランド・ヤードの掃き溜め。魔窟UCBへようこそ」 面くらっているベンジャミンを尻目に、クライヴは上機嫌な様子で、椅子の上で身体を反り返らせた。 「歓迎するぜ。アンタも来るべくして、この魔窟にやってきた人間のようだな」 「クライヴ、一体何を言ってるんだ?」 対して、相手のあまりに不可解な行動に、ベンジャミンはさすがに眉間に皺を寄せた。声にかすかな苛立ちが混ざっている。 「ああ、すまん。部長」 姿勢を元に戻すと、クライヴは椅子を回しベンジャミンの方をきちんと向いた。 「俺が知る限り、歴代のUCB部長の中でその書類を読めた奴は一人も居ない。それをアンタは読んだ。しかも裸眼で。だから驚いたのさ」 「何言ってるんだ。それ英語で書いてあるじゃないか」 「そういう問題じゃないんだよ」 なだめるように、クライヴは言った。 「その書類は“素養”がないと読めないんだよ」 「“素養”?」 くく、とクライヴは喉の奥で笑った。 「アンタ、本当に魔法使いなのかもしれねえな」 ベンジャミンはそれに対し、どう言葉を返してよいか分からず、ただあっけに取られてクライヴの顔を見ていた。 「嘘だと思うなら、レスターやエイドリアンにこれを見せてみな。ただの白紙だって言うぜ」 クライヴは、ニヤニヤと嫌な笑みを唇に張り付かせたまま、例の書類に目を落とす。 「まあ、いいさ。説明してやるよ」 陰気な男は眼鏡を直し、例の書類を見ながら一字一句を指差しながらベンジャミンに丁寧に説明を始めた。ベンジャミンもようやく近くの椅子を引き寄せ座りながら、クライヴの話に耳を傾けた。 「|王立闇法廷《ロイヤル・コート・オブ・ダークネス》ってのはな、驚くなかれ。れっきとした政府直轄の組織さ。MI5が出来る前、東洋人が魔術を使うと本気で信じられてたころに、そんな怪しい政府組織が存在したんだよ。もちろん今は解体されて存在してないがな。短い10数年の間、連中がやってたことを“業務委託”されたのが、うちの部──すなわち、|超常犯罪調査部《UCB》ってことさ」 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※スコットランドヤードの拳銃不携帯の伝統:スコットランドヤードは、設立当初から、刑事は拳銃を持たない伝統があります。テロ対策班や機動部隊などは武装をしていますが、基本的にロンドンの警官は武装していません。[大使館のHPにちゃんとそう書いてありました] ────────────────────── Chapter2-3 女の匂い  |王立闇法廷《ロイヤル・コート・オブ・ダークネス》か──。  ベンジャミンは、大英博物館近郊のオールドグロスター通りにある自宅マンションのエレベーターから降り立ったところだ。時刻は20時半ほど。青い絨毯の敷き詰められた廊下を歩きながら、物思いにふけっている。  先ほど、部下の刑事、クライヴに聞いた話は興味深い話だった。  100年以上前のロンドン。スコットランドヤードは存在したが、|MI5《国防情報局保安部》や|MI6《国防情報局諜報部》が無かったころの話だ。   当時のロンドンは世界の中心。凶悪犯罪の発生率も世界第一の大都市だった。スコットランドヤード、ロンドン市警、|中央刑事裁判所《オールドベイリー》でも裁ききれない不可解で魔術的な凶悪犯罪。それを文字通り“裁く”ために、1888年に設立された内務大臣直轄の組織、それが王立闇法廷だというのだ。  王立闇法廷は、司法権を併せ持っていたという。対象は言うまでもなく、超常的な犯罪を起こしたとされる“化け物”なのだが、それは魔女裁判を政府が支援しているのと同じことだ。罪のない人間が、吸血鬼や人狼呼ばわりされて断頭台に送られたことも珍しくないのだろう。  ──当時、いわゆる魔物や化け物の類は“|月妖《ルナー》”と呼ばれていたらしい。まあ、つまりは隠語の類だな。実際はほとんどが人間だよ──。クライヴは生半可でない知識を惜しげもなく披露する。  ヴィクトリア朝末期のロンドンは、空前のオカルトブームに沸いていた。1888年は、あの切り裂きジャックが娼婦の腹をナイフで切り裂いた年でもある。  あらゆるものがロンドンの霧と闇に隠されていた時代。ひとたび夜になれば、その闇を照らすものは微かなガス灯の光だけだ。いったいどれだけの無実の人間の血が流されたのか……。想像するだけでゾッとする。  物思いにふけりながら、ベンジャミンは自宅の451号室のドアの前までたどり着いた。21時になる前に、このドアノブを握ることは稀だったのだが、最近はそうでもない。UCBへの異動は、ほど良い休息になるかもしれない。  さて、弟は。ジェレミーはどうしているかな、そんなことを思いながらベンジャミンは鍵を使ってドアを開けた。  すると、向こうから顔を出したのは二人の女だった。  玄関前。開いたドア。ベンジャミンは、2人の若い女と鉢合わせした。クラブに踊りに行くような派手なルックスの10代後半の娘たちが、驚いたような顔をして彼を見ている。 「え? あ、失礼」 ベンジャミンは、咄嗟に部屋を間違えたと思い、身を引いた。しかしすぐに思いなおす、今、鍵を使って扉を開けたのは俺じゃないか。 「あ」 驚いたように目を見開いたのは鼻にピアスをしている方。ベンジャミンの顔を指差し言う。 「お兄さんだ」 「ジェルのお兄さんだよね? ……おかえりなさぁーい」 二人の娘たちは、安心したように目配せし合うと、次にはニカッと微笑んだ。サッとベンジャミンに近づいてきて、左の腕に鼻ピアス娘。右の腕にはヘソ出し娘がまとわりついた。彼女たちは口々に歓迎の意を表明し始める。   お兄さん、ミルクティー飲む? テレビ見る? チョコレートもあるよ? 娘たちは彼の両方の腕をぐいぐいと引っ張り、リビングルームに連れ込もうとした。  面食らったベンジャミンだが、さすがにその頃になると、状況を把握することができた。彼女たちは弟の女友達だろう。 「ジェレミーは? 出かけてるの?」 「そー。近くに買い物にでも出かけてるんじゃなーい?」 「あたしたちも一緒にいこうと思ったんだけどォ。“空飛ぶ奥様SOS 宇宙ニッキーマウスの大暴走”が始まっちゃうからお留守番してることにしたのー」 とりあえず、ベンジャミンに分かったことはそのケッタイなタイトルが最近人気のコメディアン、ニック=ウォルターズが一人コントを繰り広げる番組だということぐらいだ。   ベンジャミンが失礼でない程度にやんわりと、彼女たちの腕から自分の腕を引き抜くと。彼女たちは親しげにというか、馴れ馴れしく話しかけてきた。 「お兄さんさァ、アレだね。あんまりジェルと似てないねー。髪の色違うし」 「ねえねえ、お兄さんスパイなんでしょ。殺しのライセンスは持ってないけど、すごいエライ人だってジェル言ってたよ」 「俺が働いてるのは、スコットランドヤードだ」 「マジでー、庭師なの?」 「違うよ、ロンドン首都警察だよ!」 ムッとしたベンジャミンはすかさず言い返す。 「キャハハ、スゴイ! ボケたらツッコんでくれたよ」 「お兄さん、ヤルじゃん。ツッコミのセンスあるッて」 すると娘たち二人はけたたましく笑い始めた。う、と言葉につまるベンジャミン。これはいわゆるイジられているというやつでは? 「あのさ、君たち。俺は自分の部屋にいるから、ジェレミーが帰ってきたら教えてくれる?」 「いいよ」 「了解しました!」 ヘソ出し娘の方が、敬礼のフリをして言う。  ベンジャミンはため息をついて、じゃあ頼むねと言い残した。彼女たちに背を向けて、自分の部屋の方へ向かう。  やれやれと口に出して言いながら、指でネクタイを緩めて外し廊下を歩いていく。  今日はジェレミーをどこかレストランに連れていってやろうと思ったのだが。友達が来ているのなら一緒でもいい。しかし当初行こうと思っていたところでは、あの二人は納得しないだろうし、店員も納得しないだろうから、もっと若者向けのレストランにしないと……。  などと思いながらベンジャミンは、弟が帰宅する前にシャワーでも浴びようかとバスルームのドアを開けた。   すると、一転。ふわりと甘い香りがした。彼は思わず足を止める。   あのジェレミーの女友達が、ここを使ったのだろう。きれいに片付いてはいるが女特有の残り香が、まだそこに漂っていた。この家のシャワールームに女の匂いが漂うのは何年ぶりのことになるのだろうか。   リビングルームで笑っている若い娘の声が、遠くの方で聞こえる。   ベンジャミンは、今はもう居ない妻のことを思い出して目を伏せた。彼女のことを思い出すと、5年経った今でも胸を針で突付かれるような痛みを覚える。    彼女の名前はアイリーン。|黒い宝石《オニキス》のように艶やかな黒髪に青灰色の瞳を持つ美しい女だった。彼女の職業は医師で、ベンジャミンが彼女に初めて出会ったのもセント・バーソロミュー大学病院の集中治療室の前だった。  その時治療を受けていたのは彼女の父親で、強盗事件の被害者だった。ベンジャミンは捜査の過程で、彼女と彼女の父親に話しを聞きにきたのだ。  アイリーンは、ガラス越しに病室の様子を見ていた。またたきをすることも忘れてしまったかのように。青灰色の瞳に強い光を宿しながら。  ──父はあと2時間ももたないでしょう。わたしは医師ですから分かります。  それがベンジャミンが聞いた、彼女の最初の言葉だった。  彼は思い出す。たぶんあの瞬間、自分は彼女に一目惚れをしたのだと。  アイリーンは笑顔を見せることはほとんど無く、病院でも看護婦たちに|“氷の女”《アイス・レディ》などとあだ名されるような無愛想な女だった。しかし、ベンジャミンは、すぐにそれが表だけにしか過ぎないことを見抜いた。  彼女はとても寂しがり屋なくせに、物凄くシャイで、男性に対して傍にいて欲しいなどと、口が裂けても言えない女性なのだった。それが分かってから、ベンジャミンは自分が事件の捜査で使っている粘り強さや根気を駆使して、彼女にアプローチを続けた。  そして二人は結婚した。  彼女の職場に近いマンションに移り住み、二人は何の邪魔の入らない生活を始めた。  外では“氷の女”でも、ベンジャミンの前ではアイリーンはよく微笑んだ。──もう、からかわないでよ、ジャム。どうしてそんなに毎日おかしなことばかり言って笑わせるの?   ベンジャミンは、そんな彼女の笑顔を見るのが、何よりも好きだった。  短い数年の結婚生活の後に、アイリーンを殺したのは、子宮ガンという名前の病魔だった。人殺しや強盗は逮捕できても、病魔は逮捕することができなかった。痩せ細っていく彼女を前に、ベンジャミンは何もすることができなかったのだ。  しかし、彼女は医師だった。だから自分の病気のことを一番よく分かっていた。恐れず、悲しまず、ただ自分の死を受け入れたアイリーンの脇で、ベンジャミンは悲しみと絶望に打ちひしがれ、何を憎めばいいのか、何と戦えばいいのか分からない状態に陥った。  それは彼女がこの世からいなくなってからも、しばらく続いた。セラピストと職場の間を行き来する毎日。酒にも頼った。そう、頼り過ぎたぐらいだ。  わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。  彼女の遺言ともいうべき言葉を思い出して、ベンジャミンは苦笑する。食事は一日30品目。メニューは出来るだけ野菜中心にすること。一日の運動は20分程度。わたしが居なくなってもジョギングはやめないで。  ──大丈夫よ、ジャム。わたしはここに、あなたとずっと一緒にいるから。彼女はそう言って、ベンジャミンの胸を指差した。  彼は自分の左胸に手を当てる。  確かに、ここには彼女の残したものがある。しかし彼女はもう居ない。 「よせ、ジャム」 口に出してつぶやくベンジャミン。いくら思い出しても胸が痛くなるだけだ。  彼は気を取り直して、洗面所の前に立つ。金色の蛇口をひねって水を出すとそれでバシャバシャと顔を洗った。  タオルで顔を拭きながら、ふと脇に置かれた薬ビンに気付く。  例のγ−GDP値を下げる薬だ。ああ、そういえば昼に飲み忘れたような気がする。  ベンジャミンは薬ビンを手に取った。  毎食後に飲めと言われたが……さて。仕方ないので今飲んでおこう。彼はキュルキュルと音をさせて薬ビンを開けて中の白い錠剤を手にとった。  時間が時間だから、1個だけにしよう。  そう思い、彼は錠剤を一粒だけ口に含み、コップの水を飲んだ。  アイリーンと結婚するとき、彼女に頼まれたことがある。  ベンジャミンは鏡に映る自分の左胸の辺りに視線をやりながら、また彼女のことを思い出していた。  身体のどこでもいいから、ある刺青を入れて欲しいと言われたのだ。それは、彼女の母方のカールトン家に代々伝わる“お守り”なのだそうで、アイリーンも自分の左胸にその小さなコイン大の刺青を入れていた。  彼女曰く、その刺青を入れれば事故や災厄から逃れられるのだという。彼女の父はその刺青を入れなかったので、強盗事件に巻き込まれた。ベンジャミンはただでさえ業務に危険を伴う警察官だ。彼が刺青を入れてくれないのなら、自分は心配で、恐ろしくて結婚できない。  そうまで言われてしまうと、嫌だとは言えなかった。  彼女自身の手で入れてもらった刺青は、今もベンジャミンの左胸にある。曲がりくねった何かの草のような文様で、彼女の生家の紋章にも似ていた。  確かに、アイリーンと結婚してから事故や災厄に遭ったことはない。しかし彼女の死がきっかけで、健康そのものだったベンジャミンはアルコールや不摂生によりたびたび薬や医師の世話になるようになってしまった。  今の俺を見たら──。ベンジャミンは苦笑する。たぶんアイリーンは真っ赤になって怒るだろうな。身体には気をつけろって言ったのに! って。  彼は、死んだ妻の顔を思い出しつつも、ブルブルと顔を振ってようやくその思いを断ち切った。気合を入れるかのようにパンと頬を両手で叩く。  さて、じゃあ部屋に戻って着替えるか。そう思い、身体を反転させたとき。  ぐらり。世界が歪んだ。  慌てて、ベンジャミンはタイル壁にぶつかるように寄りかかった。何だ? ひどいめまいがする──。  グッと拳を握って、意識を保とうとするが無理だった。泥酔したときのように目の前がぐらぐらと揺れて平衡感覚を保てない。今、飲んだ薬がまずかったのか。薬ビンを確認しようと洗面台を見ようとした、その目が霞んだ。  身体が力を失っていく。倒れる、とベンジャミンは思った。  そうして彼に出来たのは、床で頭を打たないように腕で顔をかばうことぐらいだった。  ここで、ベンジャミンの世界は暗転した。   ────────────────────── Chapter2-4 狼女と貴婦人  ベンジャミンは夜のロンドンの街を歩いていた。  自宅マンションの洗面所で、突然めまいを感じて倒れたはずだった。しかし、彼はいつの間にか外を歩いていた。目を落とせば、石畳に彼自身の影が映っている。煌々と明るい満月の夜。  一体、いつ、外に出たのだろうか。そんなことを思いながら、あてもなく足を運ぶ。彼の靴がカツカツと硬い音を立てている。ベンジャミンが歩いているのは、夜の路地裏。狭い迷路のような道だ。  どこを歩いているのかもよく分からなかった。それよりも、ひどい頭痛が彼を苦しめていた。ベンジャミンはその痛みと戦うのにかかりっきりだ。  こめかみのあたりの血管がドクンドクンと波打って、頭痛を脳に送りつけてくる。ドクンドクン。ベンジャミンは顔をしかめた。  古ぼけたパブの前を通りかかり、店からこぼれる明かりと中の喧騒を聞くころになって、ベンジャミンの頭痛は治まってきた。そして彼は、ようやくここはどこだろう、と思い始めた。 密集する家々の間から時々見える青いオペラハウスの屋根からすると、どうせストランドの劇場街のあたりだろう──などと、彼は見当をつけた。自宅マンションからそう遠くない場所だ。  しかし、この街並みといったら。このあたりに、こんなに整備の行き届いていない地区があっただろうか。道はデコボコ、道の脇には泥とも何ともつかないものが貯まっており、なんともいえない匂いを放っている。  今歩いている通りが、あまりお上品でないところであることは明らかだった。早く大きな通りに出なくては……。ベンジャミンは足を速めた。  二軒目に通りかかったパプの前には、女が所在無さげに立っていた。が、ベンジャミンの姿を見ると女は顔を上げてニンマリと笑いかけてきた。襟ぐりを大きく開けた赤茶色の古風なワンピースを着ている。袖は大きく膨らんでおり、スカートも骨組みを入れて膨らませている。新手のコスプレか? まるでヴィクトリア時代の売春婦のようだ。などと思いながら、ベンジャミンはその脇を通り過ぎる。 「ちょっとォ、待ちなよ。旦那ァ」 少しも色気のないハスキーな声を張り上げると、女は足早に追いかけてきてベンジャミンの腕を掴んだ。 「遊び相手、探しにきたんだろ? ウチに寄っていきなよ」 「何だって?」 険しい顔になって、ベンジャミンは女を振り返る。 「若いのから年増まで、ウチならよりどりみどりサね。旦那が、ちょっとそっちの方を好みなら目が見えないの、口が聞けないのだって居るよ。“お人形さん”だってOKさ。安いのだったら60ペンスから……」 「待て。売春の話をしているな」 ベンジャミンは、女の腕を逆に掴み、相手を睨みつける。今どきこんなに堂々と、売春宿まがいの呼び込みをしているとは。驚きを通り越して呆れてしまう。 「誘いこむ相手を間違えたな。俺は警察官だ。売春斡旋の容疑で現行犯逮捕してやる」 言いかけて、ベンジャミンは、ハッとした。「──60ペンス? 60ポンドの間違いじゃないのか※?」 女の方もぽかんとしたが、途端に顔を赤くして烈火のごとく怒りだした。言葉の意味を理解するのに時間がかかったのだろう。女は髪を振り乱し、力まかせにベンジャミンの手を振り払おうとする。 「ケーサツカン? だから何サ? ピーラーごときが何だッてのサ!」 「ピーラー?」 ベンジャミンは手を離さなかった。ただ、女が使う言葉にいちいち違和感を覚えていた。60ペンスじゃ、紅茶を一杯飲めるか飲めないかぐらいだ。いくらなんでも安すぎる。それに、ピーラー? 何だそれは。|下町訛り《コックニー》にそんなスラングがあるのだろうか。 「畜生! 変な恰好しやがって。離せよ、このマンドレイク野郎!」 ベンジャミンは腑に落ちないまでも、女の腕を掴んだまま、胸ポケットから携帯電話を出した。近くの署に応援を頼むことにしようと思ったのだ。  と、彼が携帯電話のフリップを開いた時。一人の女がふらりと店から出てきたのが、視界に入った。白い幽鬼のような姿は、スーッと足音もさせずに路地裏の方へ歩いていこうとする。  どこかで……しかも、つい最近にその女の顔を見たことがあるような気がして、一瞬。ベンジャミンは携帯電話のディスプレイから顔を上げた。今の女は──! 「ナンシーだ!」 ベンジャミンは慌てて振り向き、女の姿を目で追う。すると、水色の花柄のネグリジェを着た女が、まさに路地裏の闇に溶け込もうとしているところだった。 「待て!」 売春宿の呼込女の手を離し、ベンジャミンはネグリジェ姿の女の後を追って闇の中に飛び込んでいった。  女は、ナンシー=ディクソンに酷似していた。昼間、UCBの自分のデスクで読んだ未解決事件の容疑者である。離婚した夫とその妻を残酷に殺害し、逃亡をはかった女だ。事件が起こってから2年も経っているというのに、スコットランドヤードは彼女の痕跡すら掴めていない。  この売春宿の場所は分かっているし、後回しだっていい。ナンシーは、今捕まえなければ逃げられ、また姿をくらましてしまうだろう。ベンジャミンは闇の中に白くぼぅっと浮き上がる女の後姿を必死に追った。  幸いにして、女は後ろに気付かなかった。ほどなくして追いつくと、ベンジャミンは後ろから声を掛けた。 「失礼。ナンシー=ディクソンさんですね」 言いながら、女の前に回りこむ。  顔を上げる女。足を止めて陰気な目付きで、ぼうっとベンジャミンを見上げる。目の下には真っ黒な|隈《くま》。間違いない。昼間、写真で見たナンシー=ディクソン容疑者だ。 「ディクソン?」 ぽつり。ナンシーは口を開いた。 「あたしは、ナンシー=フォードです。ディクソンは旧姓です」 「ディクソンさん。私はロンドン首都警察、超常犯罪調査部のベンジャミン=シェリンガム警視です」 ベンジャミンは彼女の言葉を無視した。ゆっくりと名乗って続ける。 「2004年の3月14日に、貴女の元夫にあたるジョン=フォードさんと、その妻ケイトさんが殺害されました。この件についてお話を伺いたいのです。私とご同行願います」 「ジョン? 死んだ? 妻?」 ナンシーは、ベンジャミンの顔を見つめた。元々半開きになっていた彼女の青白い唇が、だらりと開いていく。 「あたしが……ジョンの妻です」 「詳しい話は、近くの署でお伺いしま──」 「あたしがナンシー=フォードよ! ジョンは何処なの?!」 いきなり、ナンシーはベンジャミンの胸倉を掴んだ。まるで病人のように骨ばったやせた手が月明かりに浮かび上がる。ひどく|禍々《まがまが》しい光景だった。 「落ち着いてください。ディクソンさん」 ベンジャミンは自分の両手で、ナンシーの手を掴み離そうとした。しかし女は意外にも力が強く、なかなか手を離せない。 「あたしはフォードよ、ジョン! 何度言ったら分かるのよ!」 ナンシーは目を見開き、唾を飛ばしながらわめいた。ベンジャミンに顔を近づけ物凄い形相で彼を睨みつける。たじろいだベンジャミンは肘を上げ彼女の身体を遠ざけようとした。その途端。  彼の身体は宙を舞った。  ダンッと、脇の壁に叩きつけられ、背中をしたたかに打ち付けたベンジャミン。女が自分を投げ飛ばしたのか? 驚きと痛みに顔をしかめながらも、彼は咄嗟に顔をかばった。間一髪。ウァァと何か言葉にならない叫びを上げながらナンシーが飛びかかってきて、爪でベンジャミンを引っ掻いた。何度も何度も。 「あたしよ、アタシなのよ、ナンシーよ何で分かんないのよ、何で知らんぷりするのよ。二人で幸せになろうって言ったじゃないのよ、何でよジョン何でなんでナンデ……」  完全にナンシーは狂乱状態に陥っていた。防戦一方のベンジャミンのスーツの袖が裂け、腕に痛みが走る。ベンジャミンは仕方なく、狙いすまして足を上げて女の腹を思いっきり蹴り飛ばした。  ナンシーは吹っ飛ばされたが、しかし倒れなかった。よろよろと2、3メートル後方に立つと大きく足を開いてフーッ、フーッと大きく息を吐いた。まるで獰猛な肉食動物が息を整えているかのように。  ベンジャミンは素早く携帯電話を取り出して、スコットランドヤードの殺人調査部にコールをかけた。コール音を聞きながら、路地裏を見回して武器になるものがないか探す。  バッと右後方に向かって駆けたベンジャミン。低い位置にかかっていた短い物干し竿をひったくるようにして外すと、ぶるんと一振り。そこにかかっていたシャツや布切れやらを跳ね飛ばした。電話はまだつながっていなかったが、そのままポケットに落とし込むと、物干し竿を剣のように両手で持つ。  ナンシーは俯いていて表情は分からなかった。路地に差し込む月の明かりが、肩を怒らせたその姿を映し出す。 「ジョン、あたし、あんたのこと愛してたのよ、心の底から……」  一歩、踏み出した彼女の身体が、奇妙に波打つように躍動した。  得体の知れない異臭がムッと鼻をつく。ナンシーの背中が不自然に盛り上がり、彼女の背がむくむくと増していった。だらりと下げた両手の爪は、長く長く伸び続けて鉤爪のような凶器に変わっていく。  ベンジャミンは自分の目を疑った。  骨ばった痩せた女の身体はみるみるうちに2メートルを越した。まるで風船を膨らませるようにパンッ、パンッと音をさせて両手の筋肉が盛り上がる。骨ばった手は刃渡り30センチほどの鉤爪に変化していた。  一人の女だったモノは、凶暴な目をギラリとこちらに向ける。それはどうひいき目に言っても人間には見えなかった。まるで──そう、“狼女”だ。  ナンシーは、もう一歩踏み出し一瞬、わずかに腰を落とした。 「あんたのことを愛してたのに、愛してたのに愛してたのにィ……許せないわァッ!!」  まずい! そう思ったが、異様な光景のあとで反応が遅れた。  獲物を狙うかのように飛び掛ってきたナンシー。ベンジャミンは咄嗟に棒で、横殴りに彼女の腹を狙った。ドンッと、にぶい音をさせて棒は彼女の腹部にめり込んだ。……しかし、ただそれだけだった。  狂った女はバランスを崩すこともなく、左手の鉤爪を真っ直ぐにベンジャミンに見舞った。凶々しい凶器は、彼の右肩に深く突き刺さる。 「ぐっ」  ベンジャミンは身体の均衡を失って、後ろに倒れた。棒も手から離れ、地面を転がっていってしまった。彼よりも大きな身体に膨れ上がっていたナンシーは、犠牲者を逃さんとばかりに、馬乗りになってくる。  倒れながらも、ベンジャミンは女の腕を掴んだ。自分の身体から凶器を引き抜こうとしたのだが、その怪力といったら! ナンシーの腕はビクともしない。   女はベンジャミンに苦痛を味わわせようと、鉤爪をメチャクチャに動かした。 「死ね死ね死ねッ」 悲鳴も上げることが出来ないほどの苦痛が、ベンジャミンを襲った。一瞬、意識が白みかけたが、彼は女の手を外そうと手に力を込めた。このままでは本当に殺されてしまう──。 「おやめなさい!」 その時、凛とした女の声が暗闇に響き渡った。  あまりの苦痛に歯を食いしばり耐えていたベンジャミンだったが、闖入者の声に我に返った。──女? こんな場所に女?  ナンシーの背後に見えていた満月。それを遮るように一瞬、何かが上空を通過した。シャッと風を切る音がして、狼女がグゥと喉を詰まらせるような声を上げる。  最後にベンジャミンの肩の組織を破壊しながら、ナンシーは鉤爪を抜くと、ガバッと身体をのけ反らせた。  狼女は、苦しそうな唸り声を上げながら、自分自身の首のあたりに鉤爪を這わせる。 「はぁっ」  声を上げまいと、ベンジャミンは血まみれになった自分の肩を押さえた。全身、汗だくで片目に汗が流れ込んできていたが、片目でだけで何が起こったのか見届けようとする。  狼女ナンシーの首に何か黒い布のようなものが巻きついていた。狼女はそれを取ろうと躍起になって、足元のベンジャミンのことには見向きもしない。  鉤爪の届く範囲から、逃げ出すチャンスだった。ベンジャミンは荒く息をしながら、肩を押さえ後ろに這うように後ずさった。  すると、またもや驚くべき光景が目に飛び込んできた。  ナンシーの首に巻きついた黒い帯状の何かを手に、狼女の首をぎりぎりと締め付けていたのは一人の若い女だった。  数メートルほど向こうに立ったその姿は、まさに秀麗な貴婦人だ。黒髪を結い上げて目が少し隠れる程度のベールを身に着けている。ドレスは全てが黒かったが、レースなどで装飾された華やかなものだ。それは先ほど出会った売春宿の呼込み女のように、大きく襟ぐりを開けたドレスではあるが、肩から黒い羽飾りのついた長袖のケープをまとっている。決して下賤ではない、上品でエレガントな貴婦人の出で立ちそのものだった。  ベンジャミンが手の甲で汗をぬぐい、両目を開けた時。ちょうど月光が謎の貴婦人の顔を照らした。ベールの下の白い顔が浮かび上がる。    ──!!  いきなり心臓を冷たい手で触られたような感覚がした。ベンジャミンは息を呑んで、呆然と、女の顔を穴の開くほど見つめた。 「何をしているのです! 早くお逃げなさい!」 貴婦人が狼女の首を絞め上げながら、叫んだ。しかしベンジャミンは動けなかった。彼女の言葉が自分に掛けられたものだとは分かっていた。だが、彼は動くことが出来なかった。  月の下で、貴婦人は形の良い眉をひそめた。  彼女は身体の向きを変えると黒い帯を両手で持った。何か聞き取れないほど小さな声で何か呟くと、サッと右手を挙げる。  すると、黒い帯は貴婦人の手元に戻った。その勢いで狼女の身体も反転させられて、ベンジャミンに背を向けた格好になる。そこへ貴婦人はもう一度鞭のように黒い帯をナンシーの顔に当てた。ピシッといういい音がした。 「こっちへおいでなさいな。ワンちゃん」 狼女がウウウと唸った。ピシッ、もう一度、貴婦人はナンシーの鼻面に帯を見舞う。 「ほらほら、こっちよ」 言いながら、彼女は軽やかに駆け出した。ナンシーはもう前後の見境が無くなっている。背後のベンジャミンを放っておいたまま、ダンッと石畳を蹴って跳んだ。  貴婦人の姿が闇に溶け、それを恐ろしい勢いで追いかけていった狼女の姿も闇に消えた。ベンジャミンは身体を起こし、よろけながら立ち上がった。 「アイリーン」  喉が枯れて声が出せなかった。唾を飲み込んで、ふらつきながら一歩踏み出し、ベンジャミンは死んだ妻の名をもう一度口にした。今度は強く、呼び戻すように。  ベンジャミンの肩からは大量の血が溢れ出て、地面に血だまりを作っていた。しかし彼はそんなことには構わず、よろよろと歩きながら、何度も何度も妻の名前を呼んだ。  暗闇の中から現れ、ベンジャミンを助けてくれた貴婦人。彼はその顔をハッキリと思い出しながら思う。あの貴婦人はアイリーンだ。あんな服装をしているところは見たことがないが、この俺が見間違えるはずがない。彼女はアイリーンだ。彼女は自分に気付かなかったが、あれはアイリーンだ。絶対に間違いない……。  だが幾度呼んでも、暗闇は口を利かなかった。ベンジャミンただ一人を残して、辺りは静まりかえっている。まるで最初から何事もなかったかのように。まるで、先ほど起こったことが夢であるかのように。  「──そんな馬鹿なことがあるか!」  長い回想を終え、ベンジャミンはソファに座ったまま声を上げた。  そこは、オールドグロスター通りにある自宅マンションの、彼の私室である。大通りを走る自動車のエンジン音が遠くからかすかに聞こえてくる。現実世界のロンドンだ。もう夢の中ではない。  左手に脱いだシャツを握り締めたまま、ベンジャミンは顔を上げて窓の外に目をやる。見えるのは自分が暮らしていたロンドンの街だ。普段となんら変わることのない光景がそこにある。  自分は、今朝スコットランドヤードに出勤して書類の整理をし、部下のレスターが起こした暴力沙汰を片付け、クライヴと話をし、そして帰宅し、バスルームで弟の薬を間違えて飲んで昏倒した。ただそれだけのはずだった。  それなのに、これは何だ? ベンジャミンは、自分の右肩に目を落とす。そこには鉤爪でやられたひどい傷は無いが、その代わりに醜い痣が点々と出来ていた。  化け物のようなナンシー=ディクソンに襲われていた自分を助けてくれたのは、アイリーンだった。自分を助け、狼女の気を引いて闇に消えた貴婦人。その後姿を思い出し、ベンジャミンは目を見開いた。  彼女が危ない!  ベンジャミンは、意を決して立ち上がった。  一度脱いだシャツをもう一度着て、ボタンをはめながら部屋を出る。  自分に何が起こったのか全く分からなかった。何も分からなかったが、一つだけやらなくてはいけないことがあることは分かっていた。  ベンジャミンは廊下をつかつかと歩いて、弟ジェレミーの部屋の前まで来た。  コンコン、とノックはしたが答えは待たない。入るぞ、と言ってベンジャミンは勢い良くドアを開けた。ベッドに寝転がって雑誌を読んでいたジェレミーが顔を上げた。きょとんと目を瞬きして、兄の顔を見る。  ベンジャミンはその弟にすかさず言った。  「ジェル、さっきの薬をもう一度くれ」 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※ペニーとポンド: イギリスの貨幣単位。11月現在、1ポンド=100ペンス=約220円。60ペンス=約130円。60ポンド=約13,000円 ────────────────────── Chapter2-5 ジェレミーのクスリ  「どうしたの? ジャム」  ベッドに寝転がっていたジェレミーは、耳からイヤホンを外し兄の顔を見た。彼はお気に入りのイングランド・オフィシャルチームの白いユニフォームレプリカ姿で、音楽を聴きながらサッカー雑誌を見ていたらしく、ベンジャミンが今言った言葉を聞いていなかったようだった。  ごくり。ベンジャミンは生唾を飲み込んだ。 「いや、何その……話があってな」 後ろ手にドアを閉め、そろそろとソファに腰掛ける。あの薬をくれ、と言いたい。言いたいのだが、どう切り出したものか。  ベンジャミンは視線を踊らせ、テーブル上のチョコレートの包み紙の切れ端を見つめるなどした後、おずおずと切り出した。 「あー、えーと。ジェル。お前は俺の弟だよな」 「なに、ジャム。改まっちゃってさ?」 ジェレミーは身体を起こし、ベッドの上に胡坐をかいた。兄の方をきちんと向く。 「お前が、ケンカして留置所にぶち込まれたときも、俺は何回も助けてやってるよな」 「う、うん。感謝してるよ」 「ソーホーのギャングに絡まれた時も……」 「──ストップ、ストップ! いいじゃないその話はもう。何なの? 早く本題に入ってよ」 足を解いて、ベッドの縁に腰掛けなおすジェレミー。身を乗り出し、きちんと話を聞こうという体制をとる。 「ああ、あのな……。ジェル。話があるんだ」 ベンジャミンは下唇を舐めてから、切り出した。 「それは分かってるよ」 「今から俺がする話に笑わないでくれ」 「うん」 「そんなの馬鹿げてる、もナシだ」 「うん」 「嘘だ、もナシだ。妄想だとか、有り得ない、とかもナシだ」 「うん、分かったよ。それで何なの?」 弟を混乱させてはならない。ベンジャミンは思った。自分は警察官だ。こういう時は、なるべく論理的に、詳しく、正確に、事情を説明せねば。  しばらく押し黙った後、ベンジャミンは思い切って口を開いた。 「お前の薬を飲んだら、アイリーンに会えた。彼女は化け物に追われていた。俺は彼女を助けなくちゃならん。だからジェル、あの薬をくれ」  その言葉を聞いて、ジェレミーは目を見開き、瞬きもせずに兄を見た。  目をそらさずに、何か言いかけてパクパクと口を動かしたが、それは言葉にはならなかった。彼はそのまま無言で立ち上がると、兄が座っているソファの前までのろのろと歩いて来て、隣りに腰を降ろす。 「ジャム。ヤバいよ、それは」 彼はようやく──言うべきことを整理したかのように間を空けてから言った。兄の顔を見ながら、二の腕を掴んで続ける。 「どうしちゃったの? ジャム。イッてるよ、ブッ跳んでたよ。今の発言。俺をビックリさせようと思ってそんなこと言ったの?」 「いや、そういうわけじゃない」 ヤバい、イッてる、ブッ跳んでる……。ベンジャミンは弟の語彙の多さを呪った。  しかし、兄から否定の言葉を聴いたジェレミーは、混乱したように目を白黒させている。 「そういうわけじゃないって──。じゃあ、俺にあのクスリを捨てさせようとか思って、そんなオドロキ発言しちゃったの?」 「そ、そんなに、オドロキ発言かな?」 おそるおそる言うベンジャミン。 「あ、そうか!」 兄の姿を見つめているうちに何か思い至ったのか、ジェレミーは急に顔を曇らせた。 「分かったよ。ジャムは本当は、俺にドラッグをやめて欲しくてそんなこと言ったんだね。アイリーンの話まで出して……。本当にゴメン、俺ジャムに心配ばっかりかけて」 「え? いやその……」 じわりと緑の瞳を潤ませるジェレミー。 「俺、ジャムがアイリーンのことでどれだけ傷ついたのか知ってるよ。ごめんね、ジャム。俺まともになるよ。あのクスリも捨てるよ。一粒残らず捨てるよ」 「バカ、捨てるな」 逆に、ベンジャミンがジェレミーの腕を掴みなおす。 「捨てたら、ここから追い出すぞ」 ジェレミーはギョッとして目を瞬いた。口は半開き状態だ。  それを見て、ベンジャミンはマズイとばかりに手を離し、にっこり微笑んでみせた。優しい表情を作ったつもりだったが、それはしまりのない妙な笑顔にしかならなかった。 「ジェル、俺が悪かった。アイリーンに会ったってのは冗談だ。だから、早くあの薬をくれ」 「嘘だ」 キッと表情を硬くして、ジェレミーは口を尖らせた。 「ジャムがアイリーンのことで冗談を言ったことなんか、今まで一度もない」 「ジェル」 「ちゃんと話してよ」 次には泣き出しそうな目をして兄を見る。それはまるで、捨てられそうになった犬のそれだ。 「ジャムが、ちゃんと話してくれなきゃ、俺、嫌だ」 弟の様子を見て、さすがのベンジャミンも真面目な顔に戻った。……確かに少し、話を省略しすぎたかもしれない。 「分かった」 うつむいた弟の肩に手を置いて、ベンジャミンは静かに言った。 「悪かったな。何があったか、最初からきちんと話すよ」 うん、と小さくうなづくジェレミー。ホッとしたように表情を緩め兄をちらりと見ると、また自分の手元に視線を落とす。  そんな弟の様子を見ながら、ベンジャミンはふと思った。この年の離れた弟に対して、叱り付けたり、ああしろこうしろと言うことはよくあったが、自分がこうして頼みごとをすることは初めてになるのではないだろうか。 「家に帰ってきたら、お前の女友達が迎えてくれて“空とぶ宇宙ニッキーマウス”を視るからどうとか……」 「ジャム、そこは省略していいところだよ」 「ああそうか、すまん」  ベンジャミンはジェレミーに、自分が薬を飲んでから視た不思議な幻覚のことについて詳しく説明を始めた。ナンシー=ディクソンの件は、迷宮入り殺人事件の容疑者ということをかいつまんで説明した。そして最後に肩に出来てしまった痣を見せると、弟も驚いて真剣な表情になって、じっと話に聞き入っていた。   話が終わったころ、部屋の時計が時報を鳴らした。時刻は11時になっていた。 「それは変だ」 ジェレミーは至極まっとうな感想を述べた。 「なんでヴィクトリア時代に、ナンシーが歩いてるの?」 「幻覚だからだろう?」 「なんで怪我が、痣になって残っちゃうの?」 「それは分からん」 「ん……」 ジェレミーは、顔の下半分に手をやって考え込むような仕草を見せた。ふらりと立ち上がってベッドのマット下からごそごそと薬瓶を──あの、見覚えのあるヤツだ──取り出して、机の上に置いた。 「俺も似たような幻覚で怪我することもあるけど、痣なんかできたことないよ。それに、効き始める時間も変だ。このクスリはそんなに早く反応するはずがない。少なくとも20分はかかるはずだ」 「そうなのか」 普段の、冷静なベンジャミンであったなら。弟がこうもクスリの効果について詳しく、断言をもって話すことに違和感を覚えたであろう。しかし残念ながら、今のベンジャミンの頭の中を占めていたのは死んだ妻のことだけであった。彼の目線は、まるで薬物中毒患者のように机上の薬瓶に釘付けだ。 「今日、何か他に口に入れたものは?」 視線に気付いて、パッと薬瓶を手にしたジェレミー。注意深く兄に尋ねる。  言われて、ベンジャミンは今日一日の食事を思い出してみた。  アイリーンが死んでから、彼の食卓は非常に簡素化されており、朝はピーナッツバターを塗ったトーストとミルクティーと決まっているし、ランチは食べないことがほとんどだ。 「いつもの朝食と……、昼は食べなかったな。あ、そうだ。だから薬を飲み忘れたのか」 「薬?」 ジェレミーが反応した。 「γ−GDP値を下げるやつだよ。毎食後に飲めって渡されてて……」 「それだ!」 勢いよく立ち上がるジェレミー。そのまま飛び出すように部屋を出て行くと、すぐに戻ってくる。その手にはバスルームから持ってきたベンジャミンの薬瓶を持っている。  両手に同じような薬瓶を手にしたジェレミーは、ラベルに書いてある成分を詳しく読んでいるようだった。 「これを朝に飲んだんだよね?」 そこに目を落としたまま、兄に問う。ああ、とベンジャミンが生返事をすると、ジェレミーはようやく目を上げて兄を見た。そして二つの薬瓶から一つずつ錠剤を取り出すと、手の平に載せて、ん、と兄に差し出した。 「二つ一緒に飲むんだ。それでたぶん、また行けるよ。ヴィクトリア時代のロンドンに」 「え?」 「強く、念じるんだ」 ゆっくり、諭すようにジェレミーは言った。 「いい夢を見ていたときに、途中で目が覚めちゃうことあるだろ? でもすぐに寝ればまた続きを見ることができる。ジャムの念じる力次第だよ。ジャムが、強く、思えば、また同じ夢の途中から見ることができるはずだ。さあ、これを飲んで」  ジェレミーの手の平。二つの白い錠剤。  ベンジャミンは、ごくりと生唾を飲み込むと、そっと弟から錠剤を受け取った。 ────────────────────── Chapter3 王立闇法廷 ────────────────────── Chapter3-1 黒ノ女王  ベンジャミンは、ハッと顔を上げた。  空は漆黒。雲の切れ間から見えるのは満月。その微かな光が、スポットライトのようにベンジャミンを照らしている。彼は夜の路地裏に、ひとり立っていた。  ここは? と、視線をめぐらせようとして、カラン。足元で転がったのは木の棒だった。何だろうと思い、彼はすぐにその正体を思い出す。棒は彼が“先ほど”武器として使用した洗濯用の竿であった。 「本当に……」 そう言いかけてベンジャミンは、地面に広がる赤い血溜まりに気付いた。慌てて、自分の身体を確認する。が、異常は見つからなかった。  というより、彼がジェレミーの部屋に居た時と全く変わらない格好でここに居ることこそが“異常”だと言えるだろう。何しろ、先ほどベンジャミンは狼女ナンシーに襲われて右肩にひどい怪我を負ったのだから。それが見た目にはどこにも残っていない。  見た目には──。試しにベンジャミンは左手で右肩に触れてみた。途端に鈍い痛みが走る。痣だけは残ったままのようだ。 「本当に来たのか」 ようやく、ベンジャミンは口に出して言った。  怪我は痣になったが、地面の血溜まりは残ったままだ。妙な気分のまま地面を見下ろすのもつかの間。ベンジャミンは、突然、自分がここにいる理由を思い出した。  彼女を──アイリーンを助けなくては。  狼女と化したナンシーと、それに追われていたアイリーン。妻を助けなければ!  ベンジャミンは足元の棒を拾い、 闇に向かって走り出した。  彼はパブリックスクール※、大学に通っていた学生の頃から刑事になるまで、随分長いことテニスをやっていた。通っていたイートン校ではベスト8の成績を残していたし、昔は体力に自信があったものだった。  今は警視になり、現場には出ないし走ることもほとんど無い。しかしベンジャミンは昔のカンを取り戻すべく走った。急く気持ちを押さえながら。  二度目の角を曲がったときだろうか。前方、暗闇の中から何かが空を切り裂く音や、重いものが地面にぶつかる鈍い音が聞こえてきた。  ──近い! ベンジャミンは棒を構え直し、闇に向かって走りこむ。  彼が、路地裏の小さな広場に踏み込んだ時。  柔らかい月の光が広場をぼんやりと照らしたその一瞬。  目の前に現れた二つの影がパッとぶつかり、弾けるように左右に飛んだ。  ベンジャミンは慌てて、小さい方の影を目で追った。影は広場に面した家の二階の窓へ。その桟に足をかけて、体制を整えていた。 「アイリーン!」 その姿は、黒いドレスをまとった貴婦人だった。左手に掴んだ黒い帯のようなものを煙突に絡み付かせて、自分の身体を支えている。  キッと彼女は、反対側の壁に目を向ける。  そこには、不自然に長い手足を持った女らしきものが壁にへばり付いていた。みっともない姿ではあったが、こちらは両手の鉤爪を壁にめり込ませて自分の体重を支えている。恐ろしいほどの怪力だ。  狼女のナンシーであった。 「アイリーン!」 ベンジャミンはもう一度、彼女を呼んだ。  そこでやっと、貴婦人は彼の存在に気付いたようだった。こちらを振り向くと驚いたように目を見開く。 「貴方、なぜ!」 逃げなかったの? と、彼女は言おうとしたが途中で口をつぐんだ。彼女の上空を、月の光から遮るような大きな影が一閃。ナンシーが飛んだのだ。  貴婦人は窓から跳び、敵に向かって振り向くように両手から帯を放った。ナンシーの身体に帯が絡みつく。  ──ガガガガッ。  宙で狼女はバランスを崩し、石壁に叩きつけられた。壁を破壊しながら横転する。  タンッ。  間髪入れず、貴婦人は壁に足を着いて跳んだ。そのまま空中で彼女は両手を振り下ろす。すると帯が鞭のようにしなって、狼女の身体を地面に叩きつけた。  ドォン、と重い音を立てて巨大な身体が石畳にめり込む! 「うわっ」 ベンジャミンの目の前だ。彼は咄嗟に後ろに飛び退いた。  もうもうと土煙が立ちこめている。あれだけの衝撃だ。普通の人間なら内臓が破裂して命を落とすだろう。しかし相手はどう見ても普通の人間ではないのだ。  ナンシーがまた起き上がってくるかもしれないと、ベンジャミンは棒を構え、土煙が引くのを待った。 「──先ほどの怪我は、どうなさったの?」  するとすぐ隣で声がした。アイリーンだ。ベンジャミンは嬉しそうに目を輝かせて振り向いた。  果たして、黒いドレスの貴婦人が、手の届きそうなところに立っていた。その姿は彼の死んだ妻そのものだった。 「アイリーン」 近寄ろうとして、ベンジャミンはハッと前方に意識を戻した。「待って。まだコイツが起き上がってくるかもしれないから」 「わたくしの質問に答えてください」 土煙は晴れた。狼女ナンシーは変に捻じ曲がった奇妙な格好のまま地面に倒れている。 「質問って?」 「先ほど、貴方がその|人狼《ワーウルフ》に受けた怪我をどうしたのかと聞いたのです」 「分からない。直ってた」 狼女がピクリとも動かないのを見て、ベンジャミンはそこでやっと貴婦人に視線を戻した。  予想に反して、彼女は険しい目をしていた。警戒心とわずかな敵対心を青灰色の瞳に込めて。 「|月妖《ルナー》の命を助けてしまうとは。──わたくしも、無駄なことを」 「アイリーン?」 「どなたと間違えているのか存じませんが、わたくしはそんな名前ではありません」 突然、彼女は口笛のようなものを吹いて、手を上げた。するとその腕から黒い帯のようなものがシュッと夜空に飛び、闇に溶けた。  近くで見て初めて、ベンジャミンはその帯のようなものが布ではなく、何か黒い粒子のようなもの──影そのもので出来ていることに気付いた。 「わたくしは──」 言いかけて、彼女はベンジャミンを睨んだ。 「名乗る名前がありませんが、同業者たちは、わたくしのことを“|黒ノ女王《ブラック・クイーン》”と呼称しています。あなたのような|月妖《ルナー》に知り合いは一人もいません」 「|黒ノ女王《ブラック・クイーン》? |月妖《ルナー》?」 一瞬何のことを言われているのか分からなくて、戸惑ったようにベンジャミンは相手を見た。しかしすぐに部下の刑事、クライヴから聞いた言葉を思い出した。まさに電撃のように。  ──当時、いわゆる魔物や化け物の類は“|月妖《ルナー》”と呼ばれていたらしい。まあ、つまりは隠語の類だな。実際はほとんどが人間だよ。 「俺が、化け物だって言ってるのか?」  驚くベンジャミン。  ツン、とそっぽを向いた貴婦人、黒ノ女王は、地面に倒れたナンシーに一瞥をくれるとベンジャミンに背を向けた。 「今日のところは見逃してあげます」 白い横顔を見せながら、「次に会ったときは、貴方の命もありませんよ」 「何を言って……」 「そこの|人狼《ワーウルフ》のように成りたくなければ、貴方もおとなしくしていることですわ」 そう言い終えて、タンッ。黒ノ女王は飛び上がった。信じられないほど高いところで、姿は闇に溶け、そして消えた。 「アイリーンじゃ、ない、のか?」 ベンジャミンは、手に棒を持ったまま。呆けたように貴婦人が消えていった闇を見つめていた。  確かにアイリーンがヴィクトリア時代にいるはずがない。彼は今さらながらにそのことに気付いた。  加えて、あの謎の貴婦人──黒ノ女王。確かに言われて見れば、あのひどい怪我が一瞬で治ってしまったのだ。|月妖《ルナー》呼ばわりされても当然かもしれない。  自分は何をするつもりだったんだろう……。ベンジャミンは手にした棒に目を落とす。  自問したものの、答えは分かっている。自分はアイリーンを助けたかっただけなのだ。彼が今ここにいるのは弟のドラッグと、自分の薬を合わせて飲んでしまったことによる副作用で、薬物トリップに過ぎないのだ。ただの幻影に過ぎないのである。それは分かっている。しかし──。  どうして、あの黒ノ女王はあんなにアイリーンに瓜二つなのだろう?  あんなに似ていては……別人に思えないではないか。    その時、雲の切れ間から月明かりがベンジャミンの背中を照らした。彼は、ぼんやりと石畳に映る自分の影を見た。そして、その後ろで、むくりと盛り上がる黒い影も。  ──! 振り返るベンジャミン。  ガツッ。  棒が、洗濯竿が、めり込んでいる。顔だ。毛むくじゃらの、とても人間とは思えないような女の顔。爛々と輝く金色の瞳のすぐ下に、ベンジャミンの一撃がヒットしていた。  ベンジャミンの手から、するすると棒が離れていった。  ゆっくりと、狼女は身体を起こしていく。顔に棒をめり込ませたまま。ベンジャミンは息を飲む。次の瞬間。  ベンジャミンは見事なスタートダッシュで広場から逃げ出した。  猛然と駆けながら、彼は出来るだけ遠くに逃げようと路地裏の出口を探した。狼女ナンシーは、死んではいなかったのだ。  あんな物凄い勢いで叩き付けられても死なないような化け物を相手に、ただの人間の自分が勝てるとは思えなかった。狼女の怪力や、鉤爪の威力は先ほどすでに実体験済みである。  あれをくらうのは、二度とごめんだ──。ベンジャミンは現実主義者だ。だから現在自分が最大限に出来ることを実行したのだ。  すなわち、逃げること、である。  背後で、クァァッと、何か唸り声のようなものと、足音が聞こえた。当然、ナンシーも彼のあとを追いかけてくる。  ベンジャミンは脚力には自信があった。テニスにのめり込んでいた時は、ボールに追いつくその足の速さと瞬発力を自慢に思っていたものだった。  しかし、テニスボールを追いかけることと、化け物に追われるのはワケが違う。  力の限り走ったが、みるみるうちに足音が近づいてくる。背中に生臭い息の気配を感じた。すぐ後ろに、ナンシーが迫っている!  あの角を曲がったら──! ベンジャミンは目の前の角を曲がったら身を伏せて彼女をやり過ごそうと、そう思った。しかし。  パッ、と物陰から白い影が飛び出した。  影はベンジャミンとすれ違い、彼の背中をポンと物陰に押しやると路地裏にすっくと立った。  ニッと笑う、その顔は──。 「ジェル!」  見間違えるはずもない、イングランド・オフィシャルチームの白いユニフォーム姿の弟ジェレミーは、兄から狼女へと視線を移す。  呆然とした顔の兄を尻目に、ジェレミーは一瞬だけ腰を落とした。もう一度、弟の名前を叫ぶベンジャミン。弟がどうしてここに? と、彼は混乱した頭で思った。しかし答えにたどり着く前にジェレミーが動く。  後ろで一つに結んだ長いブロンドの髪を揺らし、フッ。その身体が一瞬消えた。 「ジェル!」  ──ズシャァッ。  狼女が地面に投げ出されるように、倒れこんだ。当然、石畳を破壊しながらである。  サッと立ち上がるのはジェレミー。  彼は、あの狼女ナンシーに対して、それこそウェイン・ルーニーも顔負けの強烈なスライディングを放ったのだった。  砂埃の中、パラパラと落ちる小石の音が静まりかえった路地裏に響く。  ジェレミーは振り返って、兄の姿を確認すると、グッと親指を立ててみせた。 「ジャム、大丈夫?」 「お、お前どうして!?」 「……面白そうだったから」 ペロリと舌を出して、弟は微笑んだ。「俺もクスリ飲んじゃった」 「何だって!?」 ベンジャミンは、思わずジェレミーを睨んだ。 「何が起こるか分からないのに……」 「固いこと言わないの。ジャムだって危ないところだったでしょ」 言いながら、ジェレミーは涼しい顔で、両手の指を組み合わせてポキポキと鳴らしている。  弟までもがヴィクトリア時代にトリップしてきてしまうとは。一体どうなっているのだ……。ベンジャミンがそう思った時、黒い影が弟の背後に立ち上った。 「ジェル、後ろ!」  ザザァッ、と繰り出された鉤爪は宙を空振りした。  ジェレミーは身を屈め、ナンシーの一撃をやり過ごしたのだ。  間髪入れず、彼はステップを踏むように死角に入り込むと、がら空きになったナンシーの右肩を踏みつけるように蹴った。  それはまさに、チンピラ蹴りだった。狼女はバランスを崩し、またも路地に横転する。  どうよ? 見てよ、これ。と言わんばかりにジェレミーは誇らしげに兄を振り返る。ぽかんとそれを見つめていたベンジャミンは遅れて思い出す。  バーやパブでケンカばかりしていたジェレミー。ベンジャミンは留置場に弟を何度も迎え行っているのだが、確かに……弟はいつも軽傷で、怪我などしているところなどほとんど見たことがない。  ひょっとして、ジェレミーはケンカに強かったのか? ベンジャミンは思った。 「あっ! しまった!」  すると突然、ジェレミーは声を上げて兄を見た。 「俺、もうケンカしないって約束したんだった!」  グゥゥとうなり声を上げて、ナンシーが立ち上がる。地面に転ばされてばかりで逆上しているのだろう。血走った恐ろしい目つきでジェレミーの背中を睨みつけている。 「ゴメン、ジャム、咄嗟だったから……。俺、もうケンカしないよ。平和主義者だもん」 ウォォォーンと、狼女は吼えた。裂けたような口からヨダレがぽたり、ぽたりと地面に落ちた。 「ジェル!」 ベンジャミンは走った。弟を助けなければ! 「それはもういいんだ!」 「えっ? ケンカしてもいいの?」 「──いいから、伏せろ!」  しかし、弟は兄の言うことを聞かなかった。  手を上げてベンジャミンを制すると、くるり。ジェレミーは狼女の方を向いた。  彼の目の前に何か黒光りするものが現れた。虚空に現れたそれは──。  ダンッ、ダンッ。  二発の銃声がした。  狼女は身体をくの字型に折り曲げて、フッ飛ばされた。路地裏に仰向けに転がる彼女の身体に二つの銃痕。細い煙が二本、うっすらと立ち昇っている。  ジェレミーの手にはリボルバー式の拳銃が。彼はおどけたように、銃口から昇る煙をフッと吹いて見せた。 「ヤッといた方がいいんだよね、コイツ」 「ジェル」 今度こそ本当にあっけにとられたベンジャミンだったが、彼はやっとのことでは弟の隣にまで来て、その手にある拳銃を見た。 「ジェル、それは何だ?」 「え? スタームルガー・ブラックホーク※」 きょとんとして答えるジェレミー。 「そうじゃない! お前それどこから出したんだ」 「どこからって……」 兄の詰問をものともせず、ジェレミーはしょうがないことを聞くなあと言わんばかりに肩をすくめて見せた。 「どっかからだよ」 「どっか?」 「驚くようなことじゃないでしょ、俺たちトリップしてんだから。ジャムにだって出来るよ」 ジェレミーは言いながら、地面に倒れたナンシーを顎でしゃくる。 「ほら、早くヤッちゃわないと、また起き上がってくるよ。どうすんの? アレ」 「待て、ジェル。──あれは容疑者で」 混乱したままのベンジャミン。数多くの刑事事件に関わってきた彼だが、こんな状況に遭遇することは生まれて初めてだ。しかも実の弟が虚空から拳銃を取り出して、犯人射殺の許可を求めてきている。この事態をどうしろというのだ。 「出来れば逮捕したいが、やむを得ない場合は射殺……」 「うーん。でも、あれどう見ても、やむを得ないよね?」 二人は地面に倒れた狼女を見る。ナンシーは、またもむくりと身体を起こして立ち上がろうとしていた。その腹からポンッ、ポンッと鉛弾が零れ落ちる。先ほどの銃弾であった。  ため息をつくベンジャミン。仕方なく弟に向かってうなづいて見せた。 「オーケー。さすがに頭を撃ち抜きゃ、イクよね」 親指で撃鉄を起こして、ジャキッ。信じられないほどキレイなフォームでジェレミーは拳銃を構える。 「なあジェル、お前それどこで覚えたんだ?」 「“バイオ・ハザード”だよ」 狼女は身体を起こし、唸った。今すぐにでも飛びかからんと体制を整えた。  ジェレミーは相手の頭に狙いを付け、拳銃の引き金に指をかけた。 「そこまでだ!」  まさに、ジェレミーが引き金を引く直前。背後から男の声が響いた。  驚いた二人はパッと後ろを振り返った。そこに居たのは──。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※パブリックスクール: 全寮制の学校。13才〜18才が対象なので、日本で言うと高校に該当しますが、イギリスの教育制度は6・3・3みたいに決まった年数が無いので(信じられないことですが)あまり関係がないかもしれません。ベンジャミンが通っていたイートン校は男子校で名門中の名門校です。ほかにもハロウ、ラグビー、ウェストミンスター、ウィンチェスターなどの名門校があります。 ※スタームルガー・ブラックホーク: リボルバー(回転)式拳銃。競技用に使われることが多いそうです。 ────────────────────── Chapter:3-2 月妖ブラザーズ  シェリンガム兄弟は、|同じ動き《ユニゾン》で振り向いた。  狼女と反対側。路地の入口のところに影が二つ。シルエットの形からして男性と女性のペアだ。  そこまでだ! と言ったのは男の方か? 二人がそう思った時。男は気取った仕草でトップハット※を外し、傍らの女にそれを渡すと、一歩踏み出して月光の下に姿を|晒《さら》した。  それは栗色の髪をした若い男だった。紺色の礼服のような古風なスーツの上に黒いマントを羽織っている。きちんと手袋をはめた手にはステッキだ。伝統的なヴィクトリア時代の紳士の装いである。  ゆらり。何も言わずに男は、ステッキを上げて先端を二人に向けた。カチッという何かの音。刹那。  ──シュッ。  ベンジャミンと、ジェレミーの間を。二人の頬をかすめて何かが飛んだ。 「えっ!?」 ハモッた二人。背後のギャッという悲鳴に振り返る。  狼女は顔を押さえ、慌てて2、3歩後退していた。 「殺してはならん。どんな|月妖《ルナー》でも、裁きを受ける権利を持つのだからな」 やっと男はそう言うと、ゆっくりとした動作でステッキを元に戻した。──仕込み銃か? ステッキから何か銃弾のようなものを発射したようだ。 「通りかかって見て見ぬ振りも出来なかったのでな。何か因縁があるようなら、話を聞いてやろう」 そう言い終えて、傍らの女から自分のトップハットを手に取る。 「……レベッカ、頼む」 「はい。マスター」 彼の背後にいた女の影が、跳んだ。  信じられないほど高く跳躍した影は、二人のすぐそばに着地した。それは地味なワンピースを着た艶やかな黒髪の少女だった。ザッ。体制を整えた彼女は、色のない目でベンジャミンとジェレミーをそれぞれ一瞥し、眉を上げて前方を見た。そこに居るのは、狼女のナンシーだ。 「子犬ちゃんかよ」 ボソリとつぶやく少女。その、らしからぬ低く抑えた声色にギョッとするのもつかの間、少女は長い黒髪を揺らして二人に視線を戻した。ビュッと腕を伸ばすと袖から飛び出てきたのは──鉄の鎖。 「おい」 可憐な少女は鉄の鎖を両手で持ち、ドスの効いた声で言った。 「そこでおとなしくしてろよ、オマエたちは後回しだ」  ぽかんとするベンジャミン。ジェレミーは咄嗟に身構えている。 「レベッカ、いいから、人狼の方を!」 すると、後ろの男が叱咤するような声を上げた。少女は背筋を伸ばし、はいッと威勢の良い返事をした。彼女は慌ててナンシーの方を見たが、狼女は四つん這いになって逃げ出すところだった。 「マスター、追いかけます」 「頼む」 短い言葉のやりとりのあと、少女は無骨な鎖を手にしたまま狼女を追いかけていった。少女とは思えないほどの脚力で、である。 「さて」 男は二人に近づいてきて、値踏みするように兄弟の顔を見た。はっきりした目鼻立ちをもった美男子である。年齢は30代前半ぐらい。映画俳優で言うならば、オーランド・ブルーム※といったところか。  居住まいを直すベンジャミン。拳銃を手にしたままのジェレミーが、前に出ようとするのを手で制して止めた。 「君たちから話を聞きたい。おとなしく付いてきたまえ」 ゆっくりとした口調で男は言った。胸ポケットから金色の時計を出し、時間を確認しながら、である。 「あんたは警察官か?」 「いや違う」 「なら、逮捕権はないはずだ。俺たちは行かない」 ベンジャミンは胸を突き出し、まっすぐに相手を見据えながら言った。男は、フンと興味深そうに鼻を鳴らす。 「ヤードにだったら行くのかい?」 「行ってもいい」 「なぜだね?」 「俺が、ヤードの刑事だからだ」  ほう、と男は声を上げた。 「君は警察官か。名前は?」  小さく舌打ちするベンジャミン。……仕方ない。彼は一瞬の逡巡のあと、口を開いた。 「シェリンガム。階級は警視。こいつは俺の弟だ」 「シェリンガム?」 聞き返した男の声が、なぜか奇妙に上ずっていた。──おや、と思いベンジャミンは相手の顔を見る。しかし表情を読まれる前に、相手はまた柔和な笑みを浮かべてそれを隠した。 「あんたは?」 ベンジャミンは鋭く訪ねる。「俺たちだけに名乗らせておいて、だんまりかい? それとも名前はジョン・ブル卿か?」 「分かったよ」 クスと笑って、彼は目を上げた。二人の顔をたっぷり時間をかけて見比べて。それからはっきりとした声で言った。 「僕は、アボットだ。|王立闇法廷《ロイヤル・コート・オブ・ダークネス》の、カーマイン・クリストファー=アボット。君たちのような月妖が悪さをしないか見張っている機関の責任者だよ」 「──何だって!?」  声をハモらせて。二人の兄弟は驚いて顔を見合わせた。  昼間、自分が職場で見た書類。「業務委託に関する覚書」。日付は100年前。クライヴの言葉。月妖。政府。魔女裁判……。様々な言葉が浮かんでは消え、ベンジャミンの頭の中で乱れ飛んだ。  その中で、最後に残ったのはクライヴの言葉だった。  月妖呼ばわりされた人間がたどるのは、悲惨な末路──。 「ほう。君たちは我が王立闇法廷のことを知っていたようだな」 「待て!」 真剣な面持ちでベンジャミンは声を上げた。彼の認識が正しければ、王立闇法廷は月妖を秘密裏に裁き絞首台に送り込む組織なのだ。そのトップと道端で遭遇してしまったのは不運としか言いようがない。そして、この状況は──非常にまずい。 「俺たちは月妖なんかじゃない」 誤解を解かなければ。隣にいる弟をちらりと見ながら、ベンジャミンは相手を威圧するように睨みつける。  ──ん?  ベンジャミンは、弟にまた視線を戻した。一瞬だけ見た弟の表情に、違和感があったのだ。なぜか、どういうわけか。ジェレミーは感激したような目をして、兄とカーマインとを交互に見比べていた。 まるで贔屓にしているサッカー選手にでも出会ったような、そんな目つきである。 疑問を感じるベンジャミン。何だ? どうしてジェレミーはそんなに嬉しそうにしているんだ? 「みんな最初はそう言うんだよ」 男、カーマインは、兄弟の様子には無頓着な様子で続けた。 「他人を八つ裂きにして心臓を喰らった後に、“俺は月妖じゃない”と叫ぶ者もいる。貴婦人の喉に喰らい付いてその命を奪っておきながら“彼女が血を吸って欲しいと言ったんだ”と主張する者もいる」 「俺たちは、正真正銘の普通の人間だ!」 内心焦りながらも、鋭く言い返すベンジャミン。 「それは笑えない冗談だな」 カーマインは淡々と返してきた。「何もない空間から拳銃を取り出したりできるのか? 普通の人間に?」 「アハ、言えてる」 うぐ、と言葉に詰まった兄の横で、ジェレミーがあっけらかんと笑った。兄をチラチラと見て、目で何か伝えようとしている。“ほら、ジャム。分かんないの? アレだよアレ”といった具合に。 「君は|悪夢《ナイトメア》だな」 カーマインはジェレミーを見ながら言った。悪夢? と首をかしげているジェレミーから、ベンジャミンに視線を移し── 「君の方は、まじない師だろう?」 「はぁ?」 「いや、|言霊師《スペルキャスター》という言い方をした方が良いか」 「あんた、何の話をしてるんだ?」 急にうさんくさい話になってきた。相手が何を言っているのか分からず、ベンジャミンは眉を寄せた。自分たちに言い掛かりをつけて魔物呼ばわりして、そのまま絞首台に送る気か? 「自覚がないのか」 ふむ、と言いながらカーマイン。 「刺青は? 刺青はどうだ。君は身体のどこかに刺青を入れてやいないか?」 「何?」  刺青? 刺青だって!?  さすがのベンジャミンも驚いた表情を隠せなかった。何故、初対面のこの男が、妻のアイリーンに入れてもらった胸の刺青のことを知っているのか。得体の知れない恐怖を感じ、彼は慌てて問い返した。 「ど、どうしてそれを知ってるんだ」 「ははあ。呪文の使えない言霊師《スペルキャスター》か。面白い。」 ヴィクトリア時代の青年紳士は、ゆったりと腕を組みながら笑う。ベンジャミンの反応を面白そうに見つめている。その仕草は、癇に障るほど上品で優雅である。 「君の質問に答えてやろう。僕には少々の魔術の心得がある。だから君たちの能力も大方分かるし、君たちがまだ血の匂いをさせていないことも分かるんだ。よって、君たちを拘束するつもりはない。ただし」 一度言葉を切って、男は語気を強めて続けた。 「こんな時間にこんな場所を、帽子も手袋も身に着けずに出歩くようなスコットランドヤードの警視は、僕の知り合いには一人も居ないということも付け加えさせてくれたまえ」 「……俺たちをどうする気だ」 言い逃れするにはタイムオーバーのようだ。そう思いながら、低く押し殺した声でベンジャミンは問うた。ジェレミーを守りながら、この状況をいかに脱出するか、最もリスクの低い戦術は? 「おいおい、よしたまえ。くどいようだが、僕は君たちから話を聞きたいと言っただけだぞ?」 カーマインは落ち着き払った様子で、腕を解き肩をすくめてみせた。 「いきなりニューゲイト監獄に連れて行くなんてことはしないさ。そこに僕の車を停めてある。ティータイムには遅すぎるが、僕の私邸に君たち兄弟を招待しよう」 そう言いながら、彼は手袋を嵌めた手で表通りに停まっている馬車を指し示した。少しでも距離が離れると、みな霧に包まれてその輪郭を隠してしまう。ぼんやりとしたランプの明かりが馬車からぶら下がって揺れているのが見えた。 「付いてきたまえ」 カーマインは、くるりと兄弟に背を向けて歩き出した。その様子にベンジャミンは少し驚いた。この状況で自分から背中を見せるとは……。度胸があるのか、命知らずなのかどちらかだ。  よく見ると、彼は左足を引き摺るようにして歩いていた。どうやら少し足が悪いらしい。ステッキは武器やファッションとしてだけでなく、彼にとっては歩くために必要なものなのであろう。  ベンジャミンは、隣りを見た。  弟は、やはり期待に満ちた表情で、兄を見、そしてカーマインの背中を見た。付いて行く気満々といった感じである。  小さく舌打ちをしたベンジャミン。仕方なく青年紳士の後を追って歩き出す。するとジェレミーもステップを踏むような足取りですぐ隣りを付いてくる。 「すごいね、ジャム。アボット卿だよ。ウワァァ感動するぅ」 「???」 弟の小声に、ベンジャミンは大いに眉をひそめた。どういうことだ? 「お前、あいつを知ってるのか?」 「エッ、ジャムは知らないの? あのアナ・モリィが」 「──君たち」 カーマインが二人に声をかける。馬車のステップに乗り、御者の手を借りながらこちらを振り返っている。 「早くしたまえ」 急かされ、二人は会話を中断し、いそいそと馬車に向かった。馬が首をめぐらせ荷が増えることを嫌がるかのようにヒィンと短く鳴いた。タクシーよりはずっと高いところにあるステップを踏み、シェリンガム兄弟は馬車に乗り込む。  乗りながらベンジャミンは弟の言葉の意味を考えていた。──アナ・モリィ?  アナ・モリィと言えば、かのアナ・モリィ=シェリンガムのことだろう。しかし、ここでどうして彼女の名前が出てくるんだ? - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※トップハット: いわゆるシルクハットのことです。 ※オーランド・ブルーム: ロード・オブ・ザ・リングで、エルフのレゴラスを演じた俳優 ────────────────────── Chapter:3-3 彼女は悪夢  アナ・モリィ・グウェンドリン=シェリンガムとは、二人の兄弟の曾々祖母にあたる人物である。  120年前ほどにシェリンガム家の当主を務めていた女性であり、家を継いだ当時はベルフォード男爵位も保持していた。いわゆる女男爵だ。  男子の兄弟に恵まれず仕方なく跡目を継いだアナ・モリィだったが、彼女には一つの才能があった。  文章の才である。彼女は小説と評論を得意としていた。  そして才能と資産に恵まれた彼女は文学界を通して、痛烈に上流社会を批判することに人生を捧げた。ジョージ・バーナード・ショーをはじめとするフェビアン協会※の面々とも交流があり、彼女の名はその著作よりも文壇の世界における良きパトロンとして名高い。今でもシェリンガム家の親戚には労働党の関係者が多く、二人の兄弟の叔父にあたるダニエル=プレスコットなど最たる者で、彼は労働党の議員である。  ただし、アナ・モリィは少々革新的過ぎるきらいがあった。ガーディアン紙※に連載した小説に実在の人物を模した様々なキャラクターを登場させたおかげで、中産階級の友人には恵まれたが、貴婦人としての上流社会の居場所を失った。あげくの果てには、新大陸で新しい事業を興すと息巻いた事業家に自分の男爵位を売り払ったりもした。  すなわち彼女は、男性との付き合いよりも創作とその支援活動を優先したのである。シェリンガム家随一の女傑、アナ・モリィは生涯結婚をしなかった。  にもかかわらず彼女には一人息子がいた。それが曾祖父のアーサーである。  アーサーの父親が誰なのか、アナ・モリィは口を閉ざしたまま最後まで語ることはなかった。それは彼女の著作の中でも同様である。  ベンジャミンは、弟をちらりと見る。──そのアナ・モリィの話が何だって?  ジェレミーは、兄をきょとんと見る。──ジャムはどうしてあの話を知らないの?  兄の後ろに着いて部屋に足を踏み入れたジェレミーは、ぐるりと首を巡らせた。  そこは、椅子とテーブルと様々な凝った調度品が置かれている部屋だった。暗いランプの光の中に浮かび上がるのは、大理石か何かで出来た大きな暖炉。中で炎が赤々と燃えていた。そのマントルピースの上には陶器製の置物と、古くて高価そうなパイプが数本飾ってある。暖炉のすぐ横には分厚い本の並んだ壁付けの本棚があって、部屋の主役の座を暖炉と二分していた。  これは客間だな。と、ジェレミーは思った。彼らが子供のころ住んでいたロンドン郊外の邸宅に雰囲気がとてもよく似ている。  横目にチラリと見ると、ベンジャミンは難しい顔をして二人を部屋に招きいれた張本人、カーマイン=アボットを鋭い目つきで見ている。いや、睨みつけていると言ってもいいだろう。 「まあ、座りたまえ」 道端で自分たちを呼びとめ、ここまで連れてきた青年紳士は、にこやかに二人を長椅子に座るように促した。館の主人らしい優雅な振る舞いを見せながら。 「今、飲み物を用意させよう」 そう言うと、ドアのそばに立っていた黒いスーツの男に目配せをする。おごそかに一礼した執事はドアを開け、明かりの届かない暗闇の向こうへと姿を消して行った。  カーマインはステッキをつきながら長椅子とは反対側の椅子に腰掛けた。ロココ調の細足の椅子である。ベンジャミンも無言で長椅子に腰掛けた。ジェレミーが入口のすぐ横にあったウォールナット製(胡桃)のキャビネットの中に飾ってある人形に気を取られていると、おい、ジェル、ここに座れ、と声を掛けて呼びつける。  ジェレミーは、戸棚を開けたい気持ちをひとまず抑えて、おとなしく兄の隣りに腰掛けた。  ──結局、シェリンガム兄弟は馬車に乗ってからまともな会話をしていない。というより、カーマインが常にそばにいるため、兄弟はお互いが持っている彼に関する情報をやりとりする時間をとることが出来なかったのだ。 「さて」 カーマインは、ゆったりと足を組んだ。「お茶は、しばらく時間がかかるだろうが、僕は非常にせっかちでね。さっそく質問をさせてもらっていいかな、ベンジャミン」 「構わんよ。俺たちのターンを用意してくれてるんだろうからな」 きちんと背筋を伸ばしたまま、答えるベンジャミン。 「もちろんだ。有り難う。では、僕の方から先に聞かせてもらおう」 二人の視線が真っ直ぐにぶつかった。その場の空気がみるみるうちに緊迫していく中で、間に入れないジェレミーはそわそわと落ち着かない様子を見せ始めた。長椅子の艶やかな袖木を撫でてみたり、首を伸ばすなどして窓の外へ視線をやったりする。 「一つ、君たちはどこから来た?」 カーマインはベンジャミンだけを見据えながら言った。 「二つ、君たちは何故、あの人狼と戦っていた?」  ふーっとスコットランドヤードの警視は長く息を吐いた。 「俺たちはイングランド人だし、れっきとしたロンドン市民だ。それからあの女は、未解決の殺人事件の容疑者だ。だから逮捕・拘束を試みていただけだ」  ……アイリーンの話はしないのかな? ジェレミーは二人の顔を代わる代わる見ながら思った。 「いい答えだ。君は優秀だな」 カーマインは微笑んだ。言いながら、どうぞ、と手の平をベンジャミンに向け、質問を促した。  ベンジャミンは、よどみなく言葉を発する。ジェレミーは知らなかったが、それはまさに彼が容疑者の取り調べの時に見せる顔つきそのままだった。 「今年は、西暦何年になる?」 「1888年だ」  ガチャリとドアが開いて、先ほどの執事がティーセットを持って入ってきた。二人が口を閉じ、シン、と静まり返った室内。テーブルに置かれるカップが立てる音がいやによく響く。  このティーセット、きっとマイセンか何かだ。ジェレミーは執事の顔を覗きこむようにして見る。ハロッズ※で売ってるやつだ。……あ、執事のおじさん何か嫌そうな顔してる。 「では、次は僕の番だな」  ジェレミーの視線を受けながら執事が一礼し、扉を閉めて去っていく。それを目だけで見送ったカーマインはなぜかニッコリと微笑んだ。そして鋭く、次の質問を言い放った。 「さて、それでは教えてくれ。君たちは、何年後の世界から来たんだ?」 「──ええっ!?」  いきなり核心を突くような質問に、びっくり仰天とばかりに驚いてしまったのはジェレミーだ。彼はちょうどティーカップの細い取っ手に指をかけようとしていたところで、紅茶をこぼしそうになる。 「ど、どうして、それが分かるの!?」 思わず声を上げると、隣りでベンジャミンがジーザスと呻きながら額を押さえていた。  しかしジェレミーは、途端に笑顔になって身を乗り出した。 「そうそう、そうなんだよ! 俺たち未来のロンドンから来たんだよ。いわゆる未来人ってやつ? 俺の持ってるドラッグと、ジャムの持ってる胃薬が反応して、つまり俺たちはラリッてるわけなんだけど、なぜか時間を越えてこの時代に……」 「あれは胃薬じゃなくて肝臓の薬だ」 面倒くさそうに突っ込むベンジャミン。しかしジェレミーの耳には届かない。 「スッゲー! やっぱり頭いいんだね。俺知ってるよ。カーミィは|法廷弁護士《バリスター》※なんだもんね?」 「え?」 他の二人は、驚いたようにジェレミーを見た。いきなりの弟の発言に、ベンジャミンなどは滑稽なほど目を見開いている。 「カーミィとは僕のことか?」  「うん」 「ジェレミー。君は、僕の何を知ってる?」 「待て! 俺たちが質問する番だぞ!」 二人の視線の間に身を乗り出すようにして、ベンジャミンはその言葉を止めた。振り返り、弟を睨みつける。お前は黙ってろ、と。 「ベンジャミン。君の方こそルール違反だ」 しかし冷静さを取り戻したのはカーマインが先だった。乗り出した半身を戻してまた笑顔になる。 「君たちは僕の先ほどの質問に答えていない。いいか、もう一度問う。君たちは今から何年後の世界から来たんだ?」 「……」 悔しそうな顔をするベンジャミン。仕方なく、のろのろと答えた。「118年後だ。俺たちは2006年のロンドンで生活してる」 「なるほど。では、あの人狼は2006年のロンドンにおいて殺人を犯した女なのだな」  したり顔で、うなづく青年紳士。  客観的に見れば、118年後のロンドンから来たなどという荒唐無稽な話を政府の役人が信じるはずがない。そんな話をすぐ信じるのは馬鹿かキ印だけだ。目の前の男を信用するのは危険だ、と、冷静なベンジャミンなら思っただろう。 「はい、次。俺が質問したい!」 しかし彼はたび重なる弟の発言に判断力を失った。止める間もなく、ジェレミーは嬉々とした様子で質問を言い放った。 「カーミィは、アナ・モリィを知ってるよね?」 「何?」 すると一転、カーマインは眉間に皺を寄せ、怪訝な目をしてジェレミーを見た。その後には不自然な沈黙が続く。  カーマインが浮かべたのは、まるで、遊びに熱中していた子どもが、帰る時間を聞かされたような表情である。今までとは種類の違う表情だ。 「……知っているよ。ちょっとした有名人だからな」 ようやく答える。その態度は動揺の表れだったのかもしれない。ベンジャミンは最初に名乗ったときのカーマインの反応を思い出した。  シェリンガムと名乗った時に、何か知っている様子ではなかったか?  なぜだ? なぜ、この男が俺たちの曾々祖母のことを話すときにこんな反応をするんだ? アナ・モリィは1859年生まれだから、今が1888年なら29才のはずだが……。 「知ってはいる。知ってはいるが、君たちは彼女の何なんだ?」  まさか! ベンジャミンは一瞬にして恐ろしい考えに思い至った。 「曾々孫だよ」  カーマインに、けろりとジェレミーが答える。 「曾々孫? ということは彼女が子どもを産むのか?」 「そうだよ。一人だけ」 カーマインは真剣な眼差しになった。 「待ってくれ。まさか、その父親というのは──」 「待て! 言うな、ジェル!」  突然、ベンジャミンは机を叩き、叫んだ。その大声と剣幕に驚いたジェレミーは、ひゃあと情けない声を上げて縮こまった。  テーブルの上でガシャンとティーカップが騒動を起こした。が、それがやがて静まっていき、部屋の中にはまた静寂が訪れる。  無言のカーマイン。はあはあと息を付きながら弟を睨みつけるのはベンジャミンだ。ジェレミーは上目遣いになって、申し訳ないと身体全体で意思表示しながら兄を見る。 「大声は立てないでくれ」 十分な間を開けてから、静かにカーマインが言った。 「すまなかった」 「面白いな、君たちは」 真顔だった青年紳士は、フ、と笑い表情を崩した。 「そこまで言われれば分かるよ。彼女の子どもの父親は僕なんだな?」 「ちち違う。違うよ、そんな話は俺はひとつも聞いたことがない」  珍しくドモりながら言い繕うベンジャミン。さすがの彼も話の展開に動揺しまくっている。彼の中ではどうしてこういうことになってしまったのか全く分からないのだ。 「滅多なことを言うな、ジェル。可哀相じゃないか。彼が、お、驚いてるんじゃないか」 「動揺してるのは君だけだよ」  カーマインは兄に鋭く突っ込みを入れながら、片目を弟に向けてつむってみせる。「なあ、君もそう思うだろう? ジェル。君は僕とモリィのことを誰から聞いたんだ?」 「ダニエル叔父さん」 兄の方を恐々と見ながら言うジェレミー。ひるんだままのベンジャミンの様子を見て、視線をカーマインに戻し話し始める。 「アナ・モリィが付き合ってた男はカーミィぐらいしかいないんだって。カーミィは法廷弁護士《バリスター》で、アボット家は代々ウェントワース伯爵の称号を継承してる名門貴族だって聞いたよ。だから叔父さんは、シェリンガム家には優秀な血が流れているんだからお前もそうならなくちゃならんって」 「何だ、ゴシップの類か」 半ば安心したように、ベンジャミンが口を挟んだ。話の出所が叔父のダニエルだということが分かり、話の信憑性の程度を彼なりに把握したのだろう。 「俺たちの親父やお袋は、そんな話を一言もしてなかったぞ。叔父さんは、そういった話が好きだから、お前にそんなことを……」 「いや」 と、そこで言葉を挟んだのはカーマイン当人だった。 「あながちゴシップとは言えんな。残念ながら」 「えっ、じゃあやっぱりアナ・モリィと付き合ってんの?」 間髪入れず、質問したのはジェレミーだ。  すると、彼はニヤリと笑った。何か悪戯を仕掛けるときのような、そんな笑みだ。二人の兄弟の顔を代わる代わる見ながら続ける。 「紳士と淑女の関係で交際しているのかという意味の質問だったら、答えはノーだ。しかし、そういう意味でないのなら、答えはイエスだ。僕も彼女のことは嫌いじゃないし、彼女も僕のことを好いているようだ」 「ど、どうしてそう言い切れるの?」 「僕が彼女の身体のどこに触れても、彼女が嫌がらないからだよ」  また額を押さえるベンジャミン。ジェレミーは、スゲーを連発した。 「確かに、僕以外に彼女とそういった関係になれる男はまず居ないだろう。あの風体に加え、彼女は“悪夢”だからな。並の男じゃあ歯が立たん」 「あの風体?」 「おい。|悪夢《バッド・ドリーム》とは、どういう意味だよ」 ムッとしたように言い返したのはベンジャミンだ。本当にカーマインが曾々祖父なのかどうかは分からないが、アナ・モリィのことまで悪く言われるのは非常に心外だったからだ。  彼の様子を見てカーマインは自分の失言に気付いたのか、なだめるような口調になった。 「そうじゃない。“|夢魔《ナイトメア》”だと言ったんだ。彼女には他人に白昼夢を見せたり、眠ってる人間の夢に潜り込んだりできる能力があるんだよ」 「そんなバカな!」  ベンジャミンは怒ったように言葉を荒げた。半ば尊敬すらしている先祖、シェリンガム家の誇るアナ・モリィに対して、妙な言いがかりをつけるなんて。 「俺たちの先祖を化け物扱いする気か!? いくら何でも──」 「──ベンジャミン!!」  しかし、彼を上回るような恐ろしい声音を放ったのは、カーマインだった。 「そういった言い方はやめろ」  それは彼には珍しい強い言葉だった。さすがのベンジャミンもその剣幕に押されて口をつぐむ。言ってはいけないことを言ってしまったようだったが、そもそもアナ・モリィを侮辱するようなことを口走ったのはカーマインではないか?  釈然としないベンジャミンの様子に、カーマインも怒りを抑え、自分が声を荒げたことを恥じたようだった。気持ちを落ち着けるように、長く息を吐いてしばらく。  少しの間を開けてから、彼は静かに顔を上げた。 「いいか? 人間が誰しも道を踏み外し犯罪に手を染める可能性があるように、人間は誰しも月妖になる可能性があるんだ。それを化け物だとかいう短絡的な言葉で片付けて欲しくない」  鋭い目をベンジャミンに向ける。 「君も、そして僕も、人々の恐怖の対象に成り得るということだ。それを忘れるな」 「──じゃあ、俺は?」  にらみ合っていた二人は、ふと視線を解いた。横ではジェレミーがニコニコしながら自分の顔を指差している。 「俺も月妖なんでしょ? さっきそう言ってたよね」  ジェレミーはその場の雰囲気などおかまいなしに、右手の掌を開いて見せた。その上にティーカップがパッと現れる。テーブルに載っていたはずのマイセンだ。 「ね? これが夢を見せてるってことなんでしょ」  一瞬の間があった。そんなジェレミーを見て、フッと最初に頬を緩めたのはベンジャミンだった。それにつられてカーマインも表情を和らげる。 「そうだな」  椅子の背に背中をつけて、この館の主は最初のときのように微笑んだ。ジェレミーの他愛のない一言で、一瞬にして雰囲気が和んでしまった。ベンジャミンも自分の膝を掴んでいた両手を弛めて、背を伸ばしながら弟を見て微笑む。 「せっかくの紅茶が冷めてしまう。アボット邸では冷めた紅茶しか飲めないと言われたら僕の恥だ。さあ、口をつけてくれたまえ」 と、カーマインはニヤりとしながら付け加える。 「そうそう、少しばかり毒を入れてあるが、君たちなら耐えられるさ」 「参考までに、どういう毒が入ってるのか聞いてもいいか」  言いながらベンジャミンもティーカップを初めて手にした。もう態度に険はない。 「飲むと月妖になるんだよ」 「アハ。それなら、もうなってるから大丈夫だね」  三人は声を上げて笑った。 *** 「さて、そろそろもういいだろう。改めて、僕のことを話させてくれ」  紅茶を飲み終えたジェレミーが、棚の中の人形を見たいと言うのを許可したあと、カーマインはゆっくりと組んでいた足を解いた。息をつきながら袖木に寄りかかりベンジャミンの顔を見る。  もはやその態度は完全にリラックスしている。まるで身内に対して話しているような口調だ。 「この際、君たちと僕が血のつながりがあるのかどうかといったことは脇に置いておこう。僕が君たちを招待したのは、何かの繋がりのようなものを感じたからだ」 「繋がり?」  触れたくない話題を避けてくれるのは、有難かった。ベンジャミンは静かに問い返した。 「文学的に言うなら“運命の糸”だ」 片目をつむってカーマイン。「要するに君たちの顔にピンと来たんだよ」 「ん、俺も感じたよ。なんかピンと来たね」  そう言われても……、と返事に窮しているベンジャミンの代わりにジェレミーが椅子に戻って来ながら言った。手にはロシア風の服装をした木彫の人形を持っている。  ジェレミーの手から、ごく自然に人形を取り返すカーマイン。 「僕が何の仕事をしているか知っているだろう?」 「|王立闇法廷《ロイヤル・コート・オブ・ダークネス》。月妖を見張る機関だと、さっき自分で言っていた」 「そうだ。こういった話はジャムの方が良いようだな」 「おい、気安く呼ぶなよ」 「その王立闇法廷なんだが」 カーマインは、ベンジャミンの抗議を全く意に介さず続けた。手にしていたロシア風人形をテーブルの上に丁寧に置く。 「この組織は、月妖が絡んでいる凶悪犯罪に対し、政府として対策に乗り出すために三ヶ月前に設立されたばかりなんだ」  彼は上品な仕草でカップの紅茶を手に取ると、一口飲んだ。 「確かに僕に与えられた権限は絶大でね。僕と、王立闇法廷の構成員には逮捕権と司法権を与えられている。説明しなくても分かるな? 問題を起こした対象をその場で裁いても構わんということだよ。法の外に生きる月妖たちであっても、国民であることには代わりはない。だから政府は、王立闇法廷を設立して、月妖を必要最低限の──オンボロで穴だらけの法の傘の下に入れてやろうと考えたのさ。だがな」 皮肉めいた言葉のあとには、ひょいと肩をすくめて見せる。 「僕たちは、今だに専用の法廷すら持っていない。|中央刑事裁判所《オールドベイリー》を夜間だけ間借りしているんだよ。信じられるかい? とはいえ問題はそこではない。一番の問題は、優秀な人材が慢性的に不足しているということだ。仕事は危険を極めるし、行方不明になる者や任務から逃亡するものも珍しくない。最初に集めた100人強の構成員が、今や半数近くに落ちている。これは僕の予想を完全に上回っていたよ」  そこで言葉を止め、二人の兄弟を見る。 「さて、僕が何を言いたいか分かるんじゃないか。賢明なるベンジャミン?」  ジェレミーは兄の顔を横目で見た。ベンジャミンは紅茶のカップをソーサーに置き、だんだんと嫌そうな顔になっていく。 「待てよ」  チラと弟の顔を見る。 「俺たちは暇じゃない」 「時間については、君たちの余暇を使ってくれれば構わないと思っている」 「その余暇がないと言っているんだ」  さすがのジェレミーも話の流れがわかってきた。しかし彼は、別にいいんじゃないの? というように二人の顔を見比べている。 「断るのか?」 「断る」  愉快そうに余裕の笑みを浮かべながら尋ねるカーマインに、ベンジャミンははっきりと答えた。 「そうか。なら、アナ・モリィを拒絶してやる」 「エェッ!」  そこで驚いたように声を上げたのはジェレミーだ。 「アナ・モリィが僕を訪ねてきても、もう二度と会わない。手紙の返事も出さんぞ」 「そんな! さっきその話は脇に置いておくって……」 「ああ。だから今、手元に戻した」 「困るよ、カーミィ」 「困るなら、僕の仕事を手伝ってくれ」 「俺はいいよ」 「君だけじゃ駄目だ」 と、ゆっくりと視線を兄に戻す。ベンジャミンは歯軋りでもせんがばかりに相手の顔をにらみつけている。先ほど和んだ雰囲気は、すでに台無しだ。  この辺りになって、彼はようやく自分がどういった性格をした相手の家に招かれたのかを知った。王立闇法廷の事務総局長兼筆頭裁判官とは、なかなかどうしてこしゃくな男ではないか。 「それは脅迫か」 「そうとも言う」 「あんたがアナ・モリィの子供の父親だという証拠はない」 「確かに。証拠は無いな」  そう言い終えると、言葉を切り沈黙するカーマイン。ただ無言で、相手の顔を見ながら微笑んでいる。自分から続きを言う気はないのだ。しばらく相手の目を見ていたベンジャミンは、観念したように大きく息を吐いた。  憎々しげにカーマインに尋ねる。 「俺たちに報酬はあるのか?」 「シェリンガム家が滅びないで済む」 その言葉を聞いてベンジャミンが抗議しようとする前に軽く手を挙げて、「まあまあ、それだけじゃない。何でもいいから君たちの望みを言ってみろ。あのモリィの子孫なら金には困っていないだろう? 知りたいことがあればいくらでも教えてやろう」  ──知りたいこと?  視線を床に落とすベンジャミン。知りたいことならいくらでもある。しかしそれはカーマインのような男に聞いて良いこととはどうしても思えないのだ。 「ねえ、ジャム」  ジェレミーはジェレミーで、そんな風に物思いにふけった兄の横顔をじっと見つめていた。 「アイリーンのこと、聞いてみたら?」 「ジェル!」  小声だが叱咤するようにベンジャミンは言った。眉間に寄せた皺を撫ぜるようにして、下を向く。「その話はよせ」 「アイリーンとは誰のことだい?」  カーマインはそっと尋ねた。するとジェレミーが兄を指差し、小指をチョイと立てて見せた。兄は剣呑な目つきになって弟を睨むが、時すでに遅し。その前でカーマインは、ああと声を上げていた。 「恋人か」 「妻だよ」 「失踪したのか?」 「死んだんだよ」  ──死んだ。  その言葉を使うたび、ベンジャミンの心に痛みが走る。アイリーンが死んだと言うたびに彼女と離れていくような気がして、辛い気持ちになるのだ。 「それなら、なぜ探す必要が?」 とは言え、カーマインはそんな彼の心の内を知らずに、顔を伏せたままのベンジャミンに尋ねた。  ベンジャミンの脳裏に蘇るのは、夜空を駆けた黒衣の貴婦人の姿だ。黒ノ女王と名乗ったあの女性は一体何者なのだろう? それを知りたいとは思っていたが、このカーマインという男に聞くつもりはなかった。  自分たちが絞首台に送られる可能性は低くなった。しかしあの黒ノ女王もそうとは限らないのだ。ベンジャミンはここはシラを切ろうと決めた。 「あのね、ジャムはそっくりさんを見たんだよ」  しかしいきなり、ジェレミーが口を開いた。 「さっきの狼女、ナンシーって言うんだけど、彼女と戦ってたらその女の人が助けてくれたんだって」 「ジェェェェルゥゥ!」  ベンジャミンは弟を絞め殺したくなった。なぜ余計なことばかりベラベラと! 怒りのあまり片手でガッと首を捕まえ押さえつける。たまらず、苦しいヤメテヤメテと叫ぶジェレミー。 「何でお前はそうやってスグ喋っ……」 「よしたまえ」  まさにもう一方の手を添えてやろうとベンジャミンが手を挙げたとき、グッとステッキの先でカーマインがそれを弾いた。 「人が力になってやろうと言っているのに、見苦しいな君たちは。紳士らしく振舞えよ」 「力になってやるのは俺たちの方だろうが!」  ベンジャミンは弟の首から手を離し、顔を紅潮させながら続けた。 「警戒するのはもっともだが、少しは信用してくれ。身内だろう? ジャム」 「ベンジャミンだ!」 「誰か探しているのなら言ってみろ」 カーマインは両手を広げて、彼に続きを促した。涼しい顔である。 「──黒ノ女王と名乗っている貴婦人を探したいんだ」 もはや観念したように、ベンジャミンは言った。隠したところで、何だ。この男ならジェレミーを使うなりしてこの程度の情報ならいくらでも引き出してしまうだろう。 「探してどうする?」 「話をする」 「なぜ」 「アイリーンに瓜二つだからだ」  ふん、とカーマインは鼻を鳴らした。 「黒ノ女王か、いいね」 「知っているのか?」 その口調に、ベンジャミンは身体を起こした。 「要注意人物の一人だよ」 カーマインは淡々と話し始めた。「ああいう風に月妖を退治することを生業にしている連中のことを月狩人と言うんだが、彼女の場合は同業者ともほとんど付き合わないし、身元も分からず、意図も不明なんだ。ただ一つ分かっていることは、彼女は自分が戦った月妖をいつも確実に殺す。それも残酷にな」  そう言い終えて、パン、と彼は手を鳴らした。 「よし、いいだろう。決まりだ。ジェルはあの人狼を。ジャム、君は黒ノ女王のことを調べたまえ」 カーマインは打った手を合わせて揉みながら、まずはベンジャミンの顔を見た。 「君の報告次第で、彼女をどうするか決める。もし、君が捜査を嫌がるならそれでも構わんよ。その場合は僕の部下が、彼女を捕まえてニューゲイト監獄かベツレヘム癲狂院に収容するだけだ」 「何だと?」  ベンジャミンは歯を軋らせ、恐ろしい目つきで相手をにらみつけた。あの貴婦人に、死んだアイリーンにしか見えない黒ノ女王に危害を加えるつもりか。彼は怒りに拳を握り締め、ぶるぶると震わせた。  隣りでジェレミーが恐れをなしたように、そそ、と兄から数センチ離れた。 「それも脅迫か」 「違うよ。これは提案だよ」 何食わぬ顔をしてカーマイン。ベンジャミンの態度など歯牙にもかけないという様子で微笑みすら浮かべている。 「さあて、やるのか、やらないのか」  クソッ、とベンジャミンは吐き捨てた。 「そういったセリフは選択肢を用意してから言え!」 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - ※フェビアン協会: 1884年にロンドンで設立された社会主義団体。ジョージ・バーナード・ショウや、ウェッブ夫妻などが所属していたことでも有名。イギリス労働党と現在でも密接なかかわりを持つ。ちょっと「変わり者」の中産階級の若い知識人集団とでも思っておいてください。 ※ガーディアン紙: 中道左派と言われる日刊新聞。現在でも労働党の機関紙かと言われることしばしば。日本だと……毎日新聞みたいな位置づけでしょうか。 ※ハロッズ: ロンドンにある高級百貨店。日本にもありますよ。 ※法廷弁護士: 要するに弁護士です。イギリスには二種類の弁護士が居て、裁判所における法廷弁論権を持つ法廷弁護士と、訴訟を行う権限を持つ事務弁護士というのがいるのです。あ、ちなみにモーツァルトみたいなかつら被ります。 ※ベツレヘム癲狂院: セント・メアリ・オヴ・ベツレヘムが正式名称。通称べドラム。ロンドンで一番大きな精神病院。 ────────────────────── Chapter:3-4 アウェーは白? 「貴方ともあろう人が!」  朝っぱらから聞く初老婦人の声は、頬を引っ叩かれたかのように、ベンジャミンの耳にガンガンと響いた。 「伝統あるシェリンガム家の当主たる貴方が、何たることを!」  場所はジェレミーの部屋。ソファに腰掛けているベンジャミンの目の前には、少し太り気味の初老の婦人が仁王立ちして、彼を見下ろし非難の叫びを上げ続けている。  朝だった。ヴィクトリア時代にトリップした夜の次の朝だ。  当のベンジャミンは、困り果て、そして申し訳なさそうな顔で婦人を見上げるだけで、言葉もない。 「おお、亡くなられたご両親や、姉に、わたくしは何と申し開きをすればよろしいのでしょう? 当主たる貴方が、警察官である貴方が薬物などに手を出すなどとは──」 「ボーモントさん、まあ、その……勘弁してくださいよ」  頭を掻きながら、ベンジャミンはようやく婦人に言った。 「何をどう勘弁するのです!?」 と激昂する婦人。ベンジャミンは、まあまあと彼女をうまくなだめようとする。その背後で、ジェレミーが窓を開け、わあ今日はよく晴れてるなどと声を上げているのが目に入った。  婦人の名前はオードリー=ボーモントといった。  ベンジャミンは彼女にマンションの鍵を渡しており、一週間に二度ほど来てもらって掃除や、食事の用意などを頼んでいた。要するに彼女は、ハウス・キーパーである。  そして同時に彼女は、彼ら二人の兄弟の両親と一緒に強盗に殺害されてしまった乳母のジョイス=リードの妹でもあった。ベンジャミンにとっては幼いころに世話になったジョイスに瓜二つのボーモント夫人は、まさに母親のような存在であった。  アイリーンが死んだ時。ベンジャミンはよく覚えていないのだが、叔父だか誰かがはからってくれて、ボーモント夫人はこのマンションにやってくるようになった。プロの家政婦たる彼女の仕事ぶりは磨き抜かれたもので、密林状態になっていたこの家を一週間で元の人が住める家に戻したのだった。  そんなわけで、数年前から彼女は毎週二回、せっせと定刻どおりにこのマンションにやってくるようになったのである。古めかしい価値観と、多大なるおせっかいを頭の中にパンパンに詰め込んで。 「ワザとじゃないんですよ。本当に」 スコットランドヤードのエリート警視とはいえど、“母親”に対する口調は一般人のそれと変わらない。「ジェレミーがバスルームにクスリ瓶を置いていたもんですから、それで僕が間違えて飲んでしまっただけなんです」  彼女が来る日を忘れていたことを。そして彼女が来る時間までジェレミーの部屋のソファで寝ていた自分の愚かさを呪いながらも、ベンジャミンは言葉の間隙をぬって応戦しようとした。 「では、なぜこの部屋のソファで横になっていたのです!? 貴方の部屋でなく」  ひるがえって、容赦ない追撃を加えるボーモント夫人。 「ジェレミーに、問い正そうとしたんです」  鋭いところを突いてくる、と汗ばみながらもベンジャミン。 「ここに来た途端、めまいがして──いやはや、ひどい目に遭いましたよ」  ふん……。と、納得できないような様子で鼻を鳴らすボーモント夫人。犯人に探りを入れるときのミス・マープル※のような顔つきで、ベンジャミンの目をしばらく見る。 「まあ、いいでしょう。貴方がそう言うのなら」 ふん。夫人はもう一度、鼻を鳴らし言った。ベンジャミンは内心ホッと胸をなでおろす。ボーモント夫人は、こうしたことにかけては何か強迫観念めいたものを持っていて、ベンジャミンを“正しい大人”にすることにかけて異様なほどの執念を持っているのである。もう彼が、すっかり大人になっているというのに。  それはそれとして、とにかく許してもらえて良かった。彼は心底ホッとして、シャツの第一ボタンを開きながら、やっと一息つくことができた。 「ジェレミー」  すると、ボーモント夫人は、打って変わって柔らかい口調になり、窓の方にいる弟を呼んだ。まるで歌うような声である。 「錠剤はわたくしが預かりますよ。さあ、朝ごはんを食べましょう。コンソメスープと炒り卵をいただきましょうね──貴方はソーセージもつけるんでしたわね?」 「うん」  跳ねるように飛んでくるジェレミー。  調子のいい奴め。内心で舌打ちするベンジャミン。普段ドラック三昧のジェレミーが怒られないのに、ちょっとドラッグを飲んで寝てしまっただけで、自分がこんなにもガミガミ言われることに理不尽さを覚える彼であった。  やれやれ。  どうも昨夜の睡眠は十分ではなかったようだった。  そんなことを思いながら、ベンジャミンはスコットランドヤード内のカフェに足を踏み入れた。時刻は12時10分。いわゆるランチタイムだ。カフェは何故だかいつもよりも人が多く、込み合っていた。  早朝からボーモント夫人の叱咤攻撃にさらされたとはいえ、彼はいつもの日と同じようにスコットランドヤードに出勤し、きちんと仕事をこなしていた。  ただ、どうにも気が乗らなかった。それは昨夜の出来事と無関係ではないのだろう。  ──あれは何だったのだろうか。  一息つけば、すぐにヴィクトリア時代のことが彼の脳裏を支配してしまう。  彼にとっては、あれがただの薬物トリップなのか、本当に過去に時間旅行なのかどうかは、正直言ってどうでも良かった。  自分は、アイリーンに似たあの“|黒ノ女王《ブラッククイーン》”という貴婦人と、ただもっと話をしたいだけなのである。それなのに、何という巡り合わせか。|王立闇法廷《ロイヤル・コート・オヴ・ダークネス》のカーマイン=アボットに道端で捕まってしまった。そのあげく、話を聞いてみれば彼が自分の曾々祖父らしいということまで判明してしまった。これはベンジャミンにとっては二重に衝撃的な事実であった。  ──決まりだ。ジェルはあの人狼を。ジャム、君は黒ノ女王のことを調べたまえ。  しかも、彼は非常にしたたかな男だった。まんまと言いくるめられてしまったベンジャミンとジェレミーは、王立闇法廷の仕事を手伝わされてしまうことになってしまった。  確かに、黒ノ女王を探したかったことは事実なのだから、利害は一致しているがしかし……。  あいつが気に食わん。  一言で言い表せば、それなのだ。  必ずや、あのカーマインの鼻を明かしてやる。奇妙な闘争心に駆られ、ベンジャミンは自分の計画をシミュレーションし直していた。  まずは、部下のクライヴに頼んで、徹底的にカーマイン=アボットのことを調べるつもりだった。よくよく考えてみればこちらの方が未来なのだから、ベンジャミンの方が有利なはずだ。弱みを見つけたら、お返しとばかりにつけ込んでやるつもりだった。  奴め。覚えていろ。  そんなことを思いながら、彼はカフェをぐるりと見回した。  店内は開放的な空間になっており、激務に追われる警察官たちが少しでもくつろぐことができるようにと、ありがたい配慮のされた作りになっている。しかし……。ベンジャミンはカウンターに並んだメニューを見ながら思う。そういったありがたい配慮は、メニューの味の方にこそ反映してもらいたいものだ。  注文をすると、厨房内の太った中年女性はポイと皿を食器洗い機の中に放り込んでから、色のない目で彼を見返した。そのまま彼女は、レタスのしなびた不味そうなサンドウィッチと、紙コップのミルクティーを無造作に彼のトレイに置いた。  ありがとう。そう言って、グリーンのトレイを手にしたまま振り返るベンジャミン。カフェ内をぐるりと見回して、どこの席に行こうかと思案したとき。その視線が窓際の席で止まった。  窓際の2人席で、仏頂面の男が一人。スパゲティを不味そうに食べているのを見つけたのである。  おや、と声に出したベンジャミン。次には口に微笑みを浮かべていた。  そのまま、彼はグリーンのトレイを手に持ったまま、まっすぐ窓際の男のところに歩いていった。  カフェに据え付けられた大きな液晶テレビの中では、白いユニフォームを着たサッカー選手たちが画面の中を所狭しと飛び回っていた。──ああ、そういえば今日はイングランド代表チームがベルリンに赴いてドイツ代表チームと親善試合をしているんだったな。ベンジャミンは国民的行事を今さらながらに思い出した。だからカフェ内にいつもより人が多いのだ。警察官とはいえ、試合の結果は皆、気になるのだ。それが人間というものである。  ドイツ代表のシュートが決まると、カフェ内の人間たちは、このナチ野郎が、などと警官が口にするには問題のある言葉を口々にテレビに向かって放っていた。 「レスター」  まるで第二次世界大戦中のような発言が飛び交う中、ベンジャミンは窓際のテーブルの前に立った。 「ここに座ってもいいかい?」  そこに座っていた人物は、ベンジャミンの部下、レスター=ゴールドスミス警部補だった。彼はゴールの瞬間を見るために上げていた顔をそのままベンジャミンの方へ向けた。  途端に、身構えるような色が黒い瞳に浮かぶ。  彼の答えを待たずにベンジャミンは、サンドウィッチの乗ったトレイをテーブルに置き、オレンジ色の椅子を引いて腰掛けた。  レスターはジロリとベンジャミンを見ると、何も言わずにまた背を丸めてパスタと格闘し始めた。どうやったらそんな色になるのかと思うぐらいドギツイ赤色のボロネーゼを、フォークで口に運んでいる。 「君の報告書を読んだよ。三年前のやつを」  声をかけると、レスターは面倒くさそうに顔を上げた。  無言だった。数秒間だけ上司の顔を見つめた“暴力刑事”は、首をひねってコキと鳴らしたあと、またパスタに視線を戻す。  ベンジャミンも表面がカサカサに乾いたサンドウィッチを一口かじって、その味を誤魔化すようにミルクティーをすすった。 「2003年9月28日の夜。ベルグレイヴィアの元ローリングス子爵邸で、君は強盗に入った男と対峙した。強盗は一人。そしてメイドを人質にしていた」  そう言いながら相手の様子を見るが、レスターの視線が行くのはパスタとテレビの試合だけである。彼は上司を無視しようと決めたようだった。構わずベンジャミンは話を続けた。 「強盗はメイドの首に噛み付いて、その血を吸い尽くすと、煙のように姿を変え天窓から逃げていった。そうだったな?」 「俺は休憩中だぞ」  するとレスターは顔を上げないまま、怒ったような声で言った。「メシ食ってるんだ。見りゃ分かるだろう?」 「UCBの仲間が駆けつけた時、君は満身創痍だった。銃の携帯を許可されていたのに、君は両手を負傷して一発も撃てなかった」 ベンジャミンはレスターの言葉を無視して続けた。「君は吸血鬼と戦ったのか?」 「何だって?」  レスターはフォークを置き、もう一度ベンジャミンを睨みつけた。それを見て、ベンジャミンはゆったりと微笑んだ。余裕の態度である。 「どうやって? 何を使って戦ったんだ?」 「あんた俺をからかってるのか」  濃い眉を寄せ、いかつい顔をさらに険しくするレスター。口の端についた赤いボロネーゼソースまでもが彼の怒りを代弁しているかのようだった。 「──俺は、物干し竿を使ったよ。洗濯ものを干すアレだよ」 しかしベンジャミンは穏やかな口調のままで続けた。「襲われた場所が路地裏だったんで、武器がそれしかなかったんだ」  レスターは目を瞬いた。 「何度か、竿で引っ叩いてみたんだが、全然効かなくてな」 「あんた──何と、戦った話をしてるんだ?」  口を開いた暴力刑事の声は抑えたものだった。彼は周囲にサッと視線をめぐらせる。少しだけ、その態度が変わっていた。 「殺人犯だよ」 とはいえ、ベンジャミンの方は全く調子を変えない。「あれは|人狼《ワーウルフ》という言い方をするらしいな」 「ふん」  鼻を鳴らしたレスターは、急に立ち上がった。ねめつけるようにベンジャミンを見下ろした。 数秒後、彼は紙ナプキンを乱暴に手にとって口を拭いた。 「メシが不味くなったから、俺はもう戻る」 「そうか、悪かったな」  うなづきながらも微笑みを崩さないベンジャミン。元々こんなことで動じるようであれば部長など務まらない。 「……なあ、レスター」  窓の外から見える空は、どんよりと曇っている。それもいつものことだ。ベンジャミンは、もう一度、部下の名を呼んだ。  食べ残しのパスタの乗ったトレイを掴んで立ち去ろうとしていたレスターは、ちらとこちらを振り向いた。今だ探るような色を黒い瞳に浮かべて。 「以前から気になってたんだが。君は、誰か俳優に似てるって言われたことはないか? 何かの映画で君に似た俳優を見たことがあるような気がするんだが……」  そう言われると、レスターは奇妙なものでも見るような目つきになった。 「ヴィニー=ジョーンズ※じゃないのか?」 「──ビンゴ!」  ベンジャミンは、ひょいと身体を起こして、嬉しそうに言った。 「そうだよ、そうそう。ヴィニー=ジョーンズだ! 元ウィンブルドンFCの選手で、“ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ”※に出てたアイツだ。君、そっくりだぞ」 「よく、そう言われるんだ」  するとレスターは、微かに──ほんの少しだけ口の端に笑みを浮かべて見せた。ベンジャミンが笑みを返すと、彼は我に返ったように元のしかめ面に戻り、じゃあ、と言ってトレイを手にして去って行った。  ふうと息を付くベンジャミン。見送るレスターの背中は気のせいか、怒っているような様子には見えなかった。 「話って何だよ」  くちゃくちゃと、ガムを噛みながらクライヴは言った。  ベンジャミンが変な匂いのするタマゴサンドをミルクティーでムリヤリ胃に流しこんでから数分後。レスターと入れ替わりで彼の席に現れたのは、巡査部長のクライヴ=コルチェスターだ。太った身体を、ちんまりとしたオレンジの椅子にもたせかけ、銀縁の眼鏡の向こうから相変わらず陰気な色の瞳をこちらに向けている。 「俺に用がある時は、IPメッセンジャーを使えって言ったろ? 文字でやりとりした方が人に聞かれる心配も無いし、好都合だろ?」 「いや、このことは口頭で話した方がいいと思ったんだよ」  ベンジャミンは相手の目をじっと見ながら言った。  ランチタイムはまだ長いが、イングランド対ドイツの試合は残るところあと数分のようだった。彼がキョロキョロと周りを見回しても、カフェ内の人々はテレビに集中して腕を振り上げたり、唸ったりしていた。  よし。とベンジャミンは下唇を舐めた。これなら目立たない。 「あの、あれな。王立闇法廷。カーマイン=アボットのことだよ」 「ああ。それが?」  クライヴは眼鏡を直しながら問い返した。部下とは思えない横柄な態度は相変わらずだ。  実際のところ、ギーブス&ホークスで身を固めた上流紳士然したルックスのベンジャミンと、肥満体で容姿には全くと言っていいほど気遣いのないクライヴの姿は何とも目立つ組み合わせであった。しかし当のベンジャミンは国民的行事はそっちのけで、さらに身を乗り出した。 「書面あったろ? 業務委託の覚書」 「なんだよ、じれったいな。早く本題に入ってくれよ。俺だって人並みにイングランドが勝てるかどうかが気になってるんだ」 「試合結果なんかあとで分かるだろ。仕事中ならインターネットで見ればいい。何なら俺が許可するよ。そんなことより──」 と、言いながら声をひそめ、「俺があの書類を読めた理由が分かった」 「ハン?」   ベンジャミンの言葉に、クライヴはようやく眉を上げ、話題に興味を持ったようだった。 「アボットは俺の曾々祖父らしいんだよ、どうやら」 「マジかよ?」 「分かるか? クライヴ。アボットは、俺の爺さんの、そのまた爺さんってことらしいんだ」 「あんたの先祖ってことか?」 「そうなんだよ」  クライヴは眼鏡を直しながら、まじまじと上司の顔を見た。 「じゃあなんで、昨日の時点ですぐ分からなかったんだ? しかもあんたの家はずっと昔からシェリンガムだろ? あの、なんつったか、作家の──」 「アナ・モリィ=シェリンガムだ。俺の曾々祖母だよ」 「……っていうと、つまり?」 「カーマインと、俺の曾々祖母は非公式に交際をしてたらしい」 「ワォ。非公式ねえ」  そこでクライヴは、くく、といつもの調子で喉の奥で笑った。 「だから、あの業務委託書を読めたと、あんたはそういう論法で考えたいわけだな」 「そうだ」 「なるほどな。それも有りかもしれねえな」  クライヴはつぶやいて、その小さな瞳をさらに細めた。 「ところで、部長。何でそんなことが急に分かったんだい?」 「実は昨日、本人から……」  ワァァァ……ッ!  その時、カフェ内の観客たちが一斉に沸いた。MFのオーウェン=ハーグリーブスが、ゴール前の味方に決定的なキラーパスを放ったのだった。ボールを受け取ったのはFWのウェイン=ルーニーだ。小柄な彼はこの決定的なチャンスをモノにしようと、身を翻すようにしてドイツ代表チームのゴールにシュートを放つ。  白いボールが、突き破らんばかりにネットにめり込んだ。  さすがにその瞬間はベンジャミンもクライヴも画面に釘付けになった。画面には1−2の文字が出て、2の数字が黄色く点滅する。 「残り10分だ。この試合ウチらの勝ちだな」  落ち着いてからクライヴが言った。試合終了まで10分での追加点だ。確かにこの試合はイングランドの勝利に終わるだろう。と、ベンジャミンもそう思った。    おや?  ベンジャミンは、テレビ画面の中で抱き合うルーニーとハーグリーブスを見て思った。この試合はアウェーだよな? 連中はドイツに行ってるっていうのに。何で赤いユニフォームじゃないんだ? 「なあ、クライヴ」  最後に残ったミルクティーで喉を湿らせてからベンジャミンは言った。 「何で、イングランド代表は白いの着てるんだ。アウェーなら赤だろ?」 「なに?」  クライヴはくちゃくちゃと口を動かすのをやめて、ベンジャミンの顔を見た。 「あんた何寝ぼけてるんだ。イングランドはホームの時しか赤は着ない。そんなこと5才のガキでも知ってるぜ?」 「そ、そうだったか? ホームが白で、アウェーは赤じゃなかったか?」  相手に断言されてしまうとベンジャミンも自信がなくなってくる。しかし彼の常識と、クライヴの発言は真っ向から食い違っていた。…