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海というのは何色だったっけ? そう聞かれたら、俺は迷わずこう答える。 海は灰色だ。 少なくとも、俺がよく見ていた鎌倉の海はそうだった。まだ母親が生きていた頃、家族全員で遊びに来た海。 鎌倉の海には遠目に見てもごみや海草の切れ端がたくさん漂っている。それが普通の状態。なのに、餓鬼の俺はどうしてあんな海を奇麗だと感じたのだろう。 俺は砂浜に座って、そんな海をじっと眺めていた。 たぶん他にすることがないからだ。俺はもう一年以上、仕事もせずにブラブラしている。 ……そういえば、俺はどうして仕事を辞めたんだ? 忘れていた。思い出せない。 仕方なく海をじっと見つめ続ける。 冬の太陽に照り付けられ、海面はギラギラとした光を俺に向けてくる。朝の引き潮から夜の満ち潮へ。海は段々と迫ってくる。とうとう俺の足先まで波が届くようになった。俺はブーツが濡れてしまうのが嫌で、立ちあがろうとする。しかし夕方の橙色の太陽がそんな俺のブーツをくっきりと照らした。 そこには、血がついていた。 あゆみが俺にプレゼントしてくれた黒皮のブーツに血がついていたのだ。見れば、着ているツナギにも血がついている。どろりと大量に。 しかし俺は驚かなかった。 思い出したからだ。今の自分がどういう境遇におかれているか。 俺は思わず笑みを浮かべてしまう。だって俺はそんな情景なんか見ていないから。見たくても俺は見ることができなかったから。 俺は夢を見ていたのだ。 次第に暗闇が近づいてくる。馴染みのあの感触。とうとう俺を囲んでいた周囲のものが、色褪せはじめた。夢の終わり。 半ば焦って顔を周囲へ巡らせる。そして俺はほっと安心する。 海が灰色のままだったから。最初から灰色の海は色褪せたりなどしないのだ。 俺は暗闇に落ちて目を覚ます。
目覚めて俺が一番初めにすることは、ベッドの手すりを辿って立ち上がり、机の上のサングラスを取ってかけることだ。 サングラスをかけてから、手探りで脱ぎ捨てたセーターを見つけて、頭からかぶった。 そうしてから俺は部屋を出て、手摺りに掴まりながらゆっくりと階段を降りた。 家の中なら狭いし杖は必要ない。下に下りるに従って、美味そうな匂いが濃くなっていく。 味噌汁だ。 目の見えない人間は本当に感覚が鋭くなる。そういう話は以前どこかでも聞いたことがあったが、もっとも俺は、自分がそれを実践するようになるとは思いも寄らなかった。 味噌汁は昨日の残り物。それから、ソーセージとスクランブルエッグを一緒のフライパンで焼いている。俺の脳裏に親父がコンロの前で自分の朝飯と弁当を作っている情景が浮かんだ。 休みの日なのに、今日も仕事なのか。 まあいい。俺の分もつくってもらおう。 「英二」 親父が起きてきた俺に気がついた。 「……うるさかったか?」 「いや」 俺はそっけなく答えて、自分の椅子に座る。机の上に手をやったら、そこにはすでに俺の箸が置いてあった。 「メシ、もらってもいい?」 「ああ、今作ってるところだよ」 「そう」 卵が焼けて油のはぜる音。匂い。俺は砂糖入りの卵は嫌いだって言ってるのに。 朝のニュースはNHK。俺はテレビのリモコンを探り当て、チャンネルを民放に変えた。俺はこっちの方が好きだ。女子アナの声が明るいから。 「……でさ」 「え?」 その時、親父が何か言ったので、俺は聞き返した。 親父はすこし間を空けてから、答えた。 「お父さんの大学時代の友達がさ、公共施設で働いてて……。それで、おまえのことを話したんだよ」 俺は何も答えなかった。前に置かれた味噌汁の椀を手にとり、箸で具をかきわける。口に入れる。少ししなびたほうれん草と豆腐。 「そうしたら、おまえでもできるような仕事を紹介してくれるっていうんだ。東神奈川で、来週の水曜日に面接に来て欲しいって言われたんだが……どうする?」 味噌汁を一気に飲んで椀をテーブルにおいてから、俺は顔を上げる。親父の方を見たつもりになって。 「ふぅん。分かったよ」 ぼそりと言った。 「ほんとうか?」 ふいに親父は上ずった声を上げた。嬉しいのだ。まるで福引でも当てたかのような喜びようだ。 「まあね」 俺は少しばつの悪い思いをしながら、今度は卵焼きに手をつけはじめた。 親父がとても喜ぶのも無理はない。俺は例の事故以来、その手の話には何一ついい顔をしなかったから。 「じゃあ英二、あのさ……」 「今日は気分が良くってさ」 何か続けて言おうとした親父の言葉を、俺は途中で遮った。 「出かけるんだ」 「出かける?」 すっ頓狂な声で親父。「で、出かけるってどこに?」 「いいんじゃんよ、別に」 やっぱり甘い卵焼きは嫌いだ。俺は立ちあがる。 「あゆみと会ってくるんだから」 思わず言い放って、俺はしまったと思う。案の定、親父が驚いて息を飲んでいる気配がした。 「英二……おまえ」 「ああ、そんなんじゃないよ」 タブー。あゆみの話はしないって決めたのに……俺もどうかしている。 「ちょっとアイツのバイト先の近くに行くだけだよ」 親父の反応を感じないようにして、俺は自分の杖をどこに置いたのかを考え始める。玄関かな? この間リハビリに行ってそのままそこに置いたままのような気がする──。 「すぐに帰ってくるよ」 先を急ぐあまり、俺はこのときになって初めて、自分が歯も顔も洗っていないことに気が付いた。
こんなことなら、もう少しバスにも乗っておけば良かった。というのが今の俺の正直な感想だ。 昔から、バス嫌いだった俺は、半ば恐怖を感じながら、高い階段をやっとの思いで上り、バスカードを使って近くの柱につかまる。 幸いバスはすいていて、俺はすぐに一人掛けに座ることができた。席を譲られる、あの気まずい思いをせずに、だ。 俺は窓の外の方に顔を向け、風景を眺めているような振りをしながら、さっきの親父のことを思い返していた。 親父は俺が失明してから、ずっとあの調子だ。俺を腫れ物のように扱う。もう俺が何を言っても彼は怒らなくなった。前はまともな職に就けだの、俺を怒鳴るばかりだったのに。 あゆみのこともそうだ。もし、俺が事故のあと盲人にならなかったのなら、あそこで親父は俺を叱りつけたはずだ。もう彼女に迷惑はかけるな、と。 あゆみはもちろん完治しているが、俺のバイクの後部座席にいたせいで、左手を骨折し腰骨にヒビの入る重傷を負った。彼女の両親がまだ包帯もとれない俺のところにやってきて、娘と別れてくれと怒鳴り散らしたのも、当然と言えば当然だ。 しかし、俺は視力を失ったのだ。 彼女が何色の口紅をつけてきたのか、もう二度と見ることができない。 そう思ったとき、俺は彼女との付き合いを再開した。もちろんお互いの両親には内緒にしての話だ。 この間の夜もそうだ。 俺は親父が夜勤で家に一人。あゆみは英会話の教室にいくという口実で、二人で待ち合わせをした。いつも人目を気にしての二人の時間。 それなのに、俺は今日親父にあゆみのことを言ってしまった。はずみとはいえ……親父が疑いはじめてしまうかもしれない。不安だ。 しかしそこで目的のバス停に着いたので、俺は思考を切って立ち上がった。杖を手にとり、なるべく早くバスを降りようとする。俺を心配そうに見つめるあの視線を浴びたくなかったからだ。あんなものは不快きわまりないものなのだ。 外に出ると、潮の匂いが俺を迎えてくれた。海がすぐそこにあるのだ。それとすぐ先に“デニーズ”がある。そこが俺たちの待ち合わせ場所だ。 店の中に入ると、まだ午前中のせいか、ほとんど客はいないようだった。 とりあえず二人席に案内してもらい、その場で店員にコーヒーを一杯注文した。すると機械的な声で朝のモーニングセットなるものを勧められた。メニューを見ることができない俺にはそれに何が入っているのか分からない。俺は、じゃあそれを一つと言って、席につく。 そしてまた、窓の外に目をやった。外の通りを走るのは、数台の車しかいないのだろう。微かなエンジン音しか聞こえてこない。それとウェイトレスたちの話し声。 なんとなく、今日は天気が良さそうだなと思った。日差しも強いように観じたし空には雲一つないんじゃないか、と俺は勝手に夢想してしまう。 「英二」 その時突然声をかけられて、俺はビクリとしてしまう。いつの間にか誰かがそばに立っていた。 慣れ親しんだ香水の香り。 「まだ9時50分だよ」 「早く来ちゃいけねえのかよ」 あゆみ。 「……まあ、座れよ」 「うん」 彼女は俺の前に座り、かばんの中から何かを取り出してテーブルの上に置く。携帯電話だろう。 「まいっちゃったよ」 あゆみは少し息をはずませながら、言った。 「あたしフラ語の試験がやばかったらしくてさ、追試だって」 短大の話か。「まあ、いきなり落とされなかった分、良心的なのかもしれないんだけどさ」 「ふうん」 俺は他にコメントすることなく、そう相槌を打った。 「あ、ごめんね。どーでもいいよね、そんなこと」 あゆみは結構よく喋る方の女だ。「英二はどう? 最近」 「投げやりな聞き方しやがって」 俺は少しニヤリとする。「どうもしないよ。リハビリもまあ、うまくいってる」 「ねーねー、盲導犬とかはどうなの?」 「ああ俺、犬あんま好きじゃねえんだ」 「ふーん」 と、そこで、ウェイトレスが俺の注文したものを運んできた。何かの皿が一つ――ハチミツとホットケーキか――と、コーヒーが一杯。それからサウザンドレッシングのかかった……ミニサラダか。 「あ、これもらっていい?」 ウェイトレスが去るなり、あゆみが言った。 「ああ、サラダだろ? いいよ」 「ありがと」 あゆみはひょいっと皿を自分の方に寄せたようだ。俺は手探りでフォークを探して、彼女の方にそれを差し出す。 「すごいね、英二。どうして分かるの?」 「匂いだよ。それに気配ってのかな」 俺はコーヒーに砂糖を少しだけ入れて飲んだ。少し熱かった。 「まあ、慣れたよ。もう一年以上になるしな」 「そうだね。もう、そんなになるんだよね」 あゆみもサラダに手をつけ始めたようだ。俺はただコーヒーをすする。少し金属の匂いがするのは、スプーンの汚れが完全にとれていないせいだろう。 沈黙。 俺はコーヒーカップを置いた。 「今年で就職だよな」 「うん。まあね」 あゆみもフォークを置いた。「お父さんのコネで何とかなりそうなんだ」 「へえ。そりゃ楽だな。……けど、その会社も迷惑だろうなあ。お前みたいな役に立たない奴に入ってこられて」 「もう、英二ってどうしてそういうこと言うの?」 言葉とは裏腹に、気分を害した様子は感じられない。むしろ俺の皮肉を楽しんでいるようだ。 俺は今朝の会話を思い出した。 「そういえば、俺も……そろそろ仕事始めようかと思ってさ」 「えっ……?」 「親父が、見つけてくれたみたいなんだよ。来週に面接だって」 「へえ、そうなんだ!?」 あゆみはモゴモゴと何かを口に含んだまま、言った。「良かったじゃん。やっとやる気出てきたんだね!」 俺は口ごもってしまう。 「でも気をつけなよ。英二って、ただでさえ無口なんだし、暗い人に見られやすいから。精一杯明るく、ね」 「うるせえな、余計なお世話だよ」 「うーん。あたしと喋ってるときは饒舌なのになあ」 あゆみはそこで微笑んで見せた。俺には分かる。 だが俺は気づいている。あゆみの口調に隠れているものに。 彼女は何かを気にしている。おそらく……前に会ったときに起ったことを、だ。 俺はそこでやっと、あの時のことをまだあゆみに謝っていないことを思い出した。 あゆみもふいに黙り込んだ。俺はハラを決める。 「あのさ俺、この間――」 「海、行かない?」 言い出した俺を制するように、あゆみが言った。 「海?」 「うん。今日いい天気だし、そんなに風ないから寒くないよ」 「でも……」 「いいなら、行こ」 と、言い終わらないうちにあゆみは鞄を持って立ち上がる。 「早く、早く」 のろのろしている俺の手を取り、引っ張る。俺は杖を取って、彼女にされるがまま、入り口の方まで歩いていった。 そこで一人分の料金を払い、俺はそのままあゆみに連れられて外へ出た。 外に出るなり、あゆみがクスクスと笑った。 「何?」 聞いてもあゆみは答えなかった。俺とつないだ手を子供みたいにブラブラと大振りに振って、歩いていく。 しばらくしてから、彼女が言った。 「こういうのはいいよね」 怪訝な顔をした俺にあゆみはすぐに付け足す。「英二ってさ、前は恥ずかしいって、昼間は手も繋いでくれなかったじゃない? けど、今なら別に恥ずかしくないもんね」 「よせよ」 俺は少し嫌な気分になった。今だって俺は恥ずかしいのだ。それでも俺があゆみと手を繋ぐのは── 俺はそこまで考えて自分が情けなくなった。 「あ、ほら。まだ早いから誰もいないよ」 しばらく無口でいたら、あゆみが俺の機嫌を直そうとしたのか、明るく言った。 「馬鹿。まだ着いてねえじゃんか」 「あれ、バレちゃった?」 「当たり前だよ」 俺は自分の口元がほころぶのを感じた。 「材木座の方まで行こう。あっちなら、人もいないだろうし」 わざわざマイナーな海岸の名前を上げた。この間の夜、あゆみと……一緒にいた場所だ。 「うん。分かった」 あゆみは俺の手を引いて、歩いていく。俺はその手を強く握り返したい衝動に駆られた。
あゆみのおかげで俺たちはほどなくして、材木座海岸に辿り着くことができた。 材木座海岸は、夏に人が溢れかえる由比ガ浜の逗子側の端にある小さな一角のことだ。岩場が近いため海水浴客は来ず、ウィンド・サーフィンや小型ヨットをやる連中の、海への玄関口のような場所だ。 しかし今は冬だから、それすらもいない。人の気配はまったくなかった。 「ここから、砂になるからね」 丁寧にあゆみが教えてくれたので、俺は注意深く足を踏み出す。サクと砂の音がして、俺の足は砂地にめり込む。 「ちょっと待ってて」 ふと、あゆみが俺の手を放して、前へ駆けていった。俺はゆっくりとその後を追う。 すぐにあゆみが戻ってきて、俺の手を取って、手のひらに何かを乗せた。 「何でしょう?」 「……何でしょうって、おまえ」 「あ、十秒以内に答えないと、それあげないよ」 俺はそれを両手で持って、質感を確かめる。「……定期入れ?」 「あたり! 今そこで拾ったの」 「嘘つけ、落ちてるわけねえだろ」 「いいから。いいから」 あゆみは俺の手にそれを押し付ける。「それ、プレゼントね。仕事始めるなら必要でしょ」 俺は改めて、その質感を確かめるように、その定期入れを触った。 「何にしようかなあ、って思って。結構悩んだんだよー」 この時はじめて、俺はサングラスにもう一つの効果があることを知った。 「あゆみ……」 俯いた俺は言いかけて、また口ごもる。 あゆみは首をかしげていた。――俺には分かるのだ。今彼女がどんな仕種をしているか。 「ごめん」 「んー、何? 聞こえない」 「……。この間は俺が悪かったよ」 そう言い終えて、俺はまた俯いた。ふと手に温かさを感じる。あゆみが俺の手を取ったのだ。 「いいよ、許してあげる」 彼女の明るい口調は変わらなかった。 「だから、英二は、もう二度と死にたいとか言っちゃだめ。そんなこと言ったら、今度こそあたしほんとに英二と別れるからね」 俺はゆっくりうなずいた。「分かったよ」 だが、俺は情けないことに続く言葉を言わずにはおれなかった。「もう、どこにも行かないよな?」 「うん」 海からの風には少し冷たいものがまざっていた。あゆみは俺の手を強く両手で包み込んだ。 「だって、あたしもうどこにも行けないもん。でしょ?」 あゆみ。 「これからもずっと英二の目になるからね」 ぐらりと頭を揺さぶられたような衝撃だった。俺はたまらずあゆみの身体を引き寄せる。彼女の身体は空気のように軽い。俺の腕の中にすっぽり収まって、胸に顔をうずめてくる。 ぱたりと乾いた音をたてて、杖が地面に倒れた。 あゆみは許してくれたのだ。こんな俺を。そして、こんな俺と……一緒にいてくれると言うのだ。ずっと。ずっと。 「英二」 ふとあゆみが俺を見上げる。「泣いてるの?」 「そ、そんなわけねえだろ」 言われて、俺は我に返った。無理にでも彼女の身体を離してそっぽを向いてしまう。 だが、あゆみは俺の背中を見つめている。紛れもない愛情のこもった瞳で。 「あゆみ」 自分でも声が震えているのが分かった。 「海は、奇麗か?」 「あ、うん」 あゆみは海に目をやる。答えは少し遅れた。 「うーんと……青くてね、奇麗だよ。今日は日差しも強いから、海面がキラキラしてねえ──」 「あゆみ──いいんだ」 俺は優しく言った。「灰色で汚くて、ゴミが浮いてるだろ?」 「英二」 「俺は灰色の方がいいんだ。今でも視えるから」 海の方向に身体を向ける。 「視えるよ」 俺はもう一度言った。そうだ俺には視える。 灰色の海。夜。動かなくなったあゆみの姿。 誰にも邪魔されずに、彼女は海を流れていく。それを俺は見えなくなるまでずっと見送っている。 俺は初めて、良かったと思った。 あゆみを殺して良かったと。 彼女はもうどこにも行かない。ずっと俺のそばにいてくれる。 手の温かみも感じられる。唇の温かさも。 俺はただあゆみにそばにいて欲しかった。 彼女がいれば俺は生きていける。
「あゆみ」 「ん?」 彼女がそっと俺に身を寄せる。俺は彼女の方に向き直り、腰をかがめてその唇にキスをした。 「あ、そういえば。今日は何色の口してんだ?」 「やあだ」 あゆみは自分の唇を押さえる。 「当ててみてよ」 言われて、俺はあゆみを視る。 唇の色は── 灰色でないことだけは確かだ。
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