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その日、コウが現れたのはいつもより少し早い時間だった。
私は事務所の裏口の細い路地にたむろする浮浪者たちを追い払っているところだった。コウは、それに気づいたのだろう。私と目が合ったとたん、その小柄な身体を物陰に隠した。
「はよ、どかんかい。アホ」
言いながら、私は最後の一人の背中を軽く蹴った。
私は正直こういった仕事は好きではないのだが、数年の勘で彼らが非常に丈夫にできていることを知っている。──情けを見せたらどれだけツケこまれるかも。
浮浪者はわざとらしく、背中を押さえ私の方を恨みがましい目で見た。嫌な目つきだ。この大阪の大多数の人間が持つ“下水道の小動物”の目。
「なんや? 文句でもあるんか?」
今までの人生で何万回も言ってきたセリフだ。
「今、中にど偉い人が来とるんや。ワレみたいなゴミ目に入れさすワケにはいかんのや、あァ?」
私は“怖そうな中年ヤクザ”の役割を演じてみせる。男は何か言いかけ……後ろを振り返り、よろよろと去っていった。
それを見送ってやりながら、私は小さく息をついた。左胸のポケットからつぶれた煙草の箱を引っ張りだす。中には少し曲がったキャスターが二本あった。中の一本を取り出して、口にくわえる。
パブの裏口からのびる階段にどっかと腰掛けて、足元に転がっていたコンビニ弁当の残骸を蹴ってどけた。浮浪者が居なくなると、この道路は非常に静かになる。がらんとした道路は老舗ホテルの影になっていて、日の光もあまりまともにはさし込んでこない。だからこそゴミが溜まる。もちろん私も例外ではないのだろう。
「──火、いる?」
いつの間にか、コウが──薄汚い格好の少年がそばに立っていた。
私はゆっくりと振り向き、たった今彼の存在に気づいたかのような素振りをする。
「コウ、なんや、おったんか?」
「さっき目合ったやんか」
コウは白い歯を見せて笑う。私は顎で自分の隣を促した。
「ま、座れや」
「うん」
嬉しそうに彼は私の隣に座った。すぐにボロボロのジャケットから泥のついたライターを出す。私は彼の好意に甘えることにして、煙草の先を彼に向けた。
「オッサン、今日も仕事中?」
コウは決して私を“片山さん”などと呼ばない。
「そうや。今日はチョコレートはないで」
「なんだ。じゃあ帰ろ」
「なんや、チョコが目当てなんか」
私はこのベトナム人の少年を結構気に入っていた。彼に火をつけてもらって目を細め煙草の煙を吐き出す。
コウもそれを見て、ポケットからごそごそと何かを取り出した。
一本の煙草だった。
私がいつもやっているキャスターだ。そもそも彼との出会いはこの煙草から始まった。
事務所裏口に、“配属”されてから、私はいつも一人で煙草を吸っていた。マトモな話し相手が欲しかったというのは正直なところだ。
だから私は、ある日煙草をねだってくる小汚いガキにキャスターをやった。
こいつは、煙草を吸っている私に煙草をくれと何度もせがんできた。
見張番のヤクザに話し掛けるには相当な度胸が必要だったろう。何度も脅しているうちに、私はそれに気づいた。だから彼に煙草をやるようになった。
まだ15にもなっていないだろう。小柄で痩せているくせに度胸だけはある。
「最近、どうや。コウ」
それに彼はいい暇つぶしの相手だ。
「うんと、ケーサツが来て、トモダチ一人おらんようになって……それくらい。何もない」
「そりゃ、気の毒やな」
私も彼も何気ない口調だ。大阪府警が数日前に不法滞在の外国人たちを一斉摘発したことを思い出した。数人が捕まって強制送還されたはずだ。大阪は魔窟とも呼べる場所だが、日に日に人の隠れられる闇が少なくなってきている。
「そのうち、どこかで死ぬと思う」
コウはぽつりと言った。悲しんでいるというよりは、あきらめたような口調だ。彼も、彼の友人もこの日本に命からがらやってきたのだ。なぜなら故郷では貧しくて生きていけないから。
コウは路地裏の染みをじっと見つめている。まるでそこで友達が死んだかのような目つきで。
わたしは彼に返事を返そうとして、ふと気が付いた。
コウが吸っていた煙草はキャスターではなかった。
「──今日も偉い人、きとるん?」
私が黙っていたので、コウが続けて言った。
「そうや。今日は特にど偉い人や」
吸っている煙草がそろそろなくなりそうだった。もう少し吸うべきかここで捨てるべきか、少しだけ悩む。
「なんでオッサンは入れてもらえないの?」
「前にも言ったやろ」
私は短くなった煙草を持ち替えてまた大きく煙を吸い込んだ。「わしが三下だからや。わしは裏口の番しかさせてもらえんのや」
「ふーん」
コウはまだ長いままの煙草を床でもみ消した。
「ボクがオッサンなら、無理にでも入るで」
視界の端でコウが黒光りするものを取りだしたのを見る。しかし私は前の床を見つめたまま、コウの持っているものを見もしない。
「オッサン、カンニンして」
長く伸びたキャスターの灰が落ち、私の袖にぱらぱらと舞った。
「わしを撃つんか?」
「そうや」
返事は早かった。私は隣を見た。コウは手に拳銃を構え、そろそろと後ろに下がり腰を浮かせた。その目は──真っ直ぐに私の目を見ている。
「いい目や」
中にいる誰かを狙って、どこかのヤクザがこのコウに拳銃を与えたのだろう。キャスターよりいい匂いのする煙草と一緒に。
「ヤクザになるんか? コウ」
「……オッサンには関係ない」
「関係あるで。ここでおまえに殺されるかもしれんのやからな」
私は持っていた煙草をゆっくりと地面に押し付け、消した。
「コウ。悪いことは言わん。そのチャカもって、とっとと帰った方がええ。わしは一応プロなんやで」
そう言うと、彼は鋭い目を私に向けた。
「脅しや、ボクだってオッサンを殺したくないんや。だったらオッサンが家に帰った方がええ」
「アホ抜かせぇ」
私は微笑んでいた。
「帰れるわけないやろ。わしはヤクザなんやで」
言うなり私は動いた。上半身を傾け、左の拳で斜にコウの顎を狙った。所詮は素人、彼はその動きに反応できなかった。私の裏拳がコウの小さな顎に当たる。拳銃が彼の手を離れ、階段を滑り落ちた。
私は動きを止めなかった。立ち上がり足を踏み出して銃を踏み、そして拾い上げる。
「ほら、言わんこっちゃないやろ」
つとめて明るく言ったつもりだった。しかし振り返ったコウは顎を押さえていた。目に浮かべた色を全く代えずに。
私は懐から“相棒”を取り出す。そして、それを彼に向けた。
「わしはおまえのこと結構気に入ってたんやで」
迷いなどなかった。私はもうとっくに決めていた。彼の吸っている煙草の匂いを嗅いだときから。
返事はなかった。コウはただ私と銃口を見ている。
「煙草……うまかったか?」
ふと私は尋ねる。
「わしがやってたやつや」
コウは妙なものでも見るような目つきになった。
そして微かな笑みを浮かべる。私が特に気に入っていた表情だった。
「……まあまあ、かな」
「そうか」
私は引き金を引いた。
路地にまた新たな血の染みができた。銃声はしたが、誰かが飛んでくるような気配は全くなかった。……それがこの路地裏という場所だ。
この死体を片付けさせるのは他の人間にやらせようと思う。私は銃を懐に収めた。
しばらくすると、中にいる組織の人間が転がり出てきた。
私は足元を見下ろしながらのんびりと残った一本のキャスターを吸おうとしていたところだった。事の次第を聞かれ、私は事務的に鉄砲玉に襲われたという経緯を話す。今日は重要な会議のある日だ。きっとこれから忙しくなる。私は仕事が増えることにうんざりした気分を覚えながら、キャスターを口に咥える。
せめてこれをゆっくり楽しむくらいの時間をもらっても罰は当たらないだろうから。
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