パブ・オールドファッションド
 


 「ねえ君。優れた分析能力を身につける方法というものを知っているかね」
 誰に促されることもなく、突然ワルツ教授は語り始めた。
 きょとんとケイト=マクラウドはティーカップを置きながら教授の顔を見る。
 ここはロンドン。シティから歩いて5分のクラブ「オールド・ファッションド」。昼下がりのこの時間には見回しても三人の人間しかいなかった。給仕である彼女と、窓際の席で静かにタイムズを広げている立派な黒髭の紳士が一人。
 彼女は教授の視線を追って、彼が自分とその男性に話しかけたことに気付いた。
 ケイトはそのまま紳士に歩み寄り小さな薔薇のチャイナをタイムスの前に置くと、そっと声をかけた。
 男性はタイムズから顔を上げ、黒々とした自慢の髭をするりと撫でる。そしてゆったりと視線をワルツ教授に向ける。彼の名はロクスバラ公爵スタン=イニス・カー。公爵にして発明家――通称「蒸気公」その人だ。
「いいかね、君たち」
自分に視線が向けられるのをきちんと待ってから、ワルツ教授は続けた。彼はプロイセンの実業家の次男坊で、こんな時間にこんな場所でのんびりしていられるご身分だ。当然言葉にも大陸なまりが抜けない。
「優れた分析能力というものは、日々の経験を吸収できる能力を持つものだけが身につけることができるのだよ。ただ闇雲に訓練するだけでは駄目なのだ。特殊な訓練法を知らぬものに優れた分析能力は身につかんのだ。……分かるかね? ケイト君」
教授は言い終えて、カップを口に運ぶ。ケイトはただ上品な微笑でそれに答えた。
「むぅ。やはり君の淹れる紅茶は素晴らしいな。うちの専属秘書に欲しいくらいだよ」
「まあ、ありがとうございます」
「何を馬鹿なことを……」
言われて、ワルツ教授は気分を害したような視線を言葉の方向に送った。
 ロクスバラ公爵はタイムズに視線を戻すところだった。
 ワルツ教授はわざとらしく咳をした。
「失礼だが、今の言葉は一体誰に向けられたものなのかな? 閣下」
「君に言ったんだよ。“長者教授”」
公爵はタイムズをきちんとたたんで机の上に置いた。
「この世の中の摂理はすべて“数式とその解答”で導き出されたもので構成されているのだ。その数式を見ることができれば、誰にでも身につけることはできるさ。──君が分析能力と錯覚している代物をな」
ワルツ教授はニヤリと笑った。いい玩具を見つけた──そんなような笑みだった。
「お言葉ですが、閣下。人間という生き物には歴然とした差が存在します。リベラリストに攻撃されぬよう言い換えますと、人間の差は全くもって後天的に発生するものですが」
コホンと咳一つ。
「──話がずれましたな。わたしが言いたいのはですな、日々の経験から自分の才能を引き出せる能力を得たものだけが、的確な分析能力を身につけられるということなのです。ただ闇雲に分析能力を高めようとしても無駄だということですな。お分かりですかな? 閣下」
蒸気公は疲れたような目で相手を見た。
「わたしは科学者だから、君の言うような観念的な話にはついていけんよ」
と、タイムズに手を伸ばし、「それからここでは“閣下”という呼び名はやめたまえ。クラブの規則でもあるはずだぞ」
言いながら公爵はそばのケイトの方を見た。彼女は礼儀正しくうなづいた。
「はい。当クラブ内では“悪辣なる身分制度は知的水準を引き下げ、明瞭な認識の妨げになるものとしてその使用を禁ずる”という規則がございます。それを破った場合の罰金は……」
「──10ポンド、だろう?」
彼女の言葉を最後まで聞き終わらないうちに、ワルツ教授は10ポンドにしては分厚い札束を何気なくテーブルに置いた。
「君が、あのこしゃくな蒸気にその頭脳を侵食されていないかどうか確かめただけだ」
「何?」
「怒るな」
彼は軽く手を上げた。「ここに余分に20ポンドほどある。どれ、ひとつ賭けをしようじゃないか」
「賭けだと? 私と君とが、か?」
 蒸気公は身体の姿勢を正した。相手の言っていることを真摯に聞こうという態度の現われだ。
「その通りだ。──わたしの培ってきた経験と、君の言うところのエセ数式のどちらがより優れた分析能力を発揮するのか試すのだよ」
「ほほう。面白そうじゃないか」
蒸気公は立派な髭を撫ぜながらうなづいた。懐から金の懐中時計を出し、それを自分の前に置く。
「これが私の賭けるものだ。さあ、何を分析するのだ?」
「まあ、焦るな」
教授はゆっくりと立ち上がり蒸気公の席の近くに歩を進め、窓から外を見た。
「そこから外は見えるな?」
勝負相手がうなづくのを待ってから、「これから外を通りかかる人の職業を当てるのだよ。ついでにその人物の神秘学的な区分や何をしにいくところなのかも当てるのだ。……挑戦するかね?」
「望むところだ」
「よし。ではケイト君、何か紙を持ってきたまえ」
と、ワルツ教授はケイトに向かって手をあげてから、視線を蒸気公に戻した。
「二人で答えを別々に書いて、ケイト嬢に読み上げてもらうことにしよう。それでいいな?」
「よかろう」
早くも蒸気公は窓の外に注意を向け始めた。
 ケイトがスマイソン文具店で作らせたクラブ特製の便箋をもってくると、二人はそれを受け取った。だが一緒に差し出されたインク壷を二人はそろって断り、長者教授は純金製の万年筆を、蒸気公は小さな酒瓶ほどの大きさの“蒸気ペン”を取り出した。シュウシュウと底から蒸気を発する奇天烈なペンで、もちろん彼の自作の発明品の一つだ。
 そしてケイト嬢がくすりと微笑んだのを合図に、二人は窓の外に神経を集中させた。

 昼過ぎのケンジントンロードはそもそもあまり人通りが多い方ではない。二人が窓の外を見始めてから通りかかった最初の人物は、いかにも下層階級風の若い青年だった。
 ケイトの目からすると、彼の目立つ特徴といえば大きな籠と大きな板のようなものを小脇に抱えているということぐらいしか分からなかった。職業などさっぱり分からない。かっぱらいだろうか?
 が、勝負中の二人は見た瞬間に何か分かったようだった。二人してカリカリと盛んに紙に何事かを書きこんでいる。
 「さあケイト君」
 と、やはり二人はほぼ同時に紙を書き終えて、折って彼女に手渡した。
 ケイトはそれを一応二人に見えないように広げて、ざっと比べてみた。
「どうかね?」
今度口を開いたのは蒸気公の方だ。「わたしのものから読み上げてくれてもよいぞ」
「ええと──」
ケイトは困ったように二人を見る。「どうもお二人とも全く同じお答えのようです」
彼女は両方の紙片を二人に見せるようにしてから読み上げた。
「彼の職業は絵描きで、いわゆる下層階級の人間だ。今は雑誌社のT&Hに絵を売りに行った帰り。しかし絵は売れずに数枚残ってしまい、彼はそれが自分の格好がみすぼらしいからではないかと考えている。家族は年の近い息子が三人のみで妻には先立たれている」
「むうう」
悔しそうな唸り声を発して長者教授が蒸気公を睨む。「籠の中の三つのパンに気付いたか……」
「どういうことなんです?」
 無邪気な口調でケイトは紙片を二人に返し、訊ねてみた。
「非常に初歩的な話だよ、ケイト君」
と、蒸気公が言いかけた後を教授が引き継いだ。「彼が絵描きだと言ったのは手に絵の具が付着していたからさ。それにあの大きな板は画板だよ。この辺りを歩いているならT&Hに絵を売りこみに行ったに決まっている。絵が売れ残ったというのは画板の止め方から分かる。絵の具がくっつかないように短い棒を挟んでとめていたからな」
「──そして、彼は買い物帰りだった。籠の中にはパンが三つあった。あれは子供に食べさせるためのものだ。彼は身なりが汚いだけではなくシャツの着方もなっていなかった。それが男やもめだと指摘した理由だ」
「パンは自分と子供二人の分ということはないんですか?」
負けじと喋りだす蒸気公にケイトは控えめに質問した。
「いや。籠の中に彼用のジンの瓶が入っていたからね」
気を悪くした様子もなく蒸気公は穏やかに答える。
「次だ」
まるで子供のように教授が蒸気公を急かし始めた。「二人が同じことを指摘するなら勝負にはならんからな」
「同感だ」
頷いて蒸気公も外を見る。二人はすぐに窓の外にまた視線を移したために、彼らのマドンナともおぼしきケイトが悪戯した子供を見るような目をして苦笑したのを見逃してしまった。
「来たぞ」
 今度はケイトも通行人をじっくりと見てみることにした。

 二人目の人物は中年の男性だった。服装からしてざっと分かる生活水準は中の下。ただジャケットだけが妙にきちんとしている。そして彼はたまにキョロキョロと辺りを見まわし、口の中でブツブツと何かを言っていた。右手には何か木彫りの──印度あたりで買えそうな笛を手にしている。奇妙な男だった。
 ケイトはやはり何がなんだかわからなかった。
 またも二人はしばし中年男を見たあとに、さらさらとそれぞれの筆記具を使って紙面に自分の分析結果を書き、ケイトに向かって威勢良く突き出した。
 ケイトはやはり苦笑しながら、またその紙面を見比べた。
「あら──今度はお二人とも違いますわ」
「何!?」
 蒸気公と長者教授は二人して、嬉しいのか驚いたのかよく分からない声を上げた。
「あの方を呼んできましょう」
 気を利かせてケイトは二人の返事を待たずに外へ急いで出ていった。そしてものの数十秒で件の奇妙な男を連れてクラブに帰ってくる。
「あの──ええと?」
「待った」
有無を言わせずに教授が彼を制した。「君はそこに座っていて、何かを聞かれるまでは黙っていてくれたまえ。私の言う通りにしてくれれば10ポンド払おう」
「じゅ、10ポンド!?」
一般人の1週間分の給料に相当する金額を提示され、男は驚きのあまりまさに口が利けなくなってしまった。 教授たちは構わずケイトの方を振り返る。
「では、読み上げましょうか?」
「いや──いい。せっかくだからそれぞれ宣言していくことにしようじゃないか?」
「そうしよう」
当人を無視して紳士たちは二人で勝手に話を進めていく。
「では私からだ」
一番手は長者教授に決まったようだ。
「彼はいわゆる狂人だな。その上品なジャケットについているのは下院議員のバッチだ。彼が働いているのはウェストミンスター(国会議事堂)。職業としては掃除要員だろう。なぜなら髪の毛が湿っているからな。彼はあそこで働いているうちに自分が下院議員であるかのように錯覚してしまったのだ。それでブツブツと審議のことなどを口にしていた。そして彼は自分にふさわしい議員のジャケットをどこからか失敬してきてしまったのだ」
「あら、本当」
ケイトが当の奇妙な男の髪を見て言った。確かに彼の髪からは水のしずくが見てとれたのだ。
「それでは風邪をひいてしまいます。今何かタオルをお持ちしますわね」
「ク、──口を挟むようで失敬だがね、教授」
ケイトが奥に引っ込もうとするのと同時に、蒸気公はクッ、と喉の奥で低く笑った。
「君のその分析からすると、彼の持つ印度の笛はどう説明をつけるのかね?」
「議事堂には、議員のための備品室がある。──まあ大抵は議員連中がパフォーマンスのためにしか使わない物品のみが収められているところだが。彼は掃除夫だ。大方そのあたりから持ってきてしまったのだろう」
「はっはは、これは傑作だ」
蒸気公は勝利を確信するかのように大声で笑った。
「これで証明されたな。君のような文学者は物をうがった見方しかすることができないのだ」
「何!?」
「しかしわたしのような科学者は違う。事実を事実としか認めないからな」
憤然たる表情を浮かべた教授の方を見ながら、蒸気公は構わず続けた。
「彼は俳優だよ」
アッ、とばかりに教授が目を見開く。
「もう分かったろう? 彼は芝居の稽古のために議員のジャケットを着、小道具の印度の笛を手にしていたんだ。ブツブツ言いながら歩いていたのは芝居のセリフを復唱して練習していたからだ」
「ぬぅう……」
「こんな簡単なことにも気づかないとは、全く君たち文学者というやつは……」
「でも、待ってください」
と、そこでケイトが口を挟んだ。奇妙な男の髪を拭いてやりながら、「彼に本当はどうなのか最後にお尋ねになった方がよろしいんじゃありませんか?」
「む、それもそうだ」
二人とも納得したように、やっと奇妙な男の方を振り返った。
「それで、どうなのかね? 君」
「えっ? あっ? もう喋ってもいいんですか?」
男はきょとんと二人を見て、そしてケイトを見た。彼女は彼に優しくうなづいてやった。
「あなたがどういう職業で何をしていたところだったのか、お話してあげてくださいな」
「は、はあ……」
言われて、彼は落ち着かなげにもぞもぞしながら口を開いた。
「ぼ、ぼくはそのう……とくに定職には就いてないんです。お芝居も実は見たことすらないんです」
「な、何?」
今度は蒸気公が驚く番。
「じゃあ自分が下院議員だと思ってるのか?」
「そんなこと思ってるわけないじゃないですか。僕は別にアタマはおかしくないです」
ちょっと憤慨したように男は答えた。
「僕は元々インドに住んでて、つい昨日ロンドンの叔母を頼ってこっちに来たんです。それでさっき道を歩いていたら馬車に泥水をひっかけられてしまって、困っていたところ、通りすがりの下院議員のヒューズさんという人が、僕を哀れに思ったのか親切にもこのジャケットをくれたんです」
「ヒューズ、そうか!」
教授が半ば腰を浮かせて言った。「彼は今、貧民問題を扱っているから……!」
「待て、それならなぜブツブツ呟きながら歩いていたんだ?」
焦ったように蒸気公。
「僕の叔母は厳格な人で、僕がキチンとしたクイーンズ・イングリッシュを喋らないので怒るんです。それで練習しながら歩いていたんです」
「その笛は?」
「これは叔母に渡しそこねたお土産です」
 そう話し終えた青年は口をつぐんで、教授と蒸気公を代わる代わる見つめた。
 ふと訪れる静寂。
 教授はうちひしがれたように、どっかと椅子に身をうずめ、蒸気公にいたっては、ポカンと口を半開きにして男を見つめている。
 ケイトはどうしたものだろう……と思案顔だったが、ふと思いついたように男が使用したタオルを片付けに奥へ戻ってしまった。
 男はそれを見やってから、最後に一言つぶやくように言った。

「それで、僕の10ポンドはどこでしょう??」


■■■

お読みいただいてありがとうございます
以下の「読んだよ、ボタン」押していただけると幸いです


   
   
↓↓↓
もっと詳しく、ご感想をいただける場合はこちらから

お名前■  

 


 この作品について 

 トップページに戻る 

※このページの素材は、フリー素材集から使っていますので、
ダウンロードはご勘弁ください。

Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2003