海辺のみかん
 


 こんなにクソ暑いのに、どうしてこんなところにまで来てしまったのだろう……。
 わたしは後悔と苛立たしさではちきれんばかりになりながら、みかん園の横を歩いている。砂利にパンプスのヒールを取られる上に、紺色のスーツは信じられないほど熱を溜めつつある。タクシーを降りてからまだ10分も経っていないというのに、汗でメイクも流れてしまいそうだ。
 前方に車道が見えている。あそこまで出たら帰ろう。手帳に控えたタクシー会社の番号を思い出しながら、ハンカチを出して汗をぬぐった。
 そもそも夜までに東京に戻らなければ、明日の朝の会議に差し支えてしまう。わたしには時間がないのだ。少なくとも愛媛のみかん園などに立ち寄っているヒマはない。
 ハンドバッグを持ち直し、足を運んでいると、後ろから車の音が聞こえてきた。車一台通るのがやっとの狭い道であったから、わたしは足を止めてみかん園の柵に身体を寄せた。
 立ち止まるついでに、ハンドバックからバレッタを取り出して髪を後ろで結びながら、やってきた車を見やる。白い軽トラックだった。運転席に乗っているのは若い男で──。
 目が合って、途端に冷や汗が吹き出した。
 軽トラックは、すぐ横で止まる。窓が開いて、運転席の男がこちらを見た。その目がみるみると驚きで見開かれていった。
「た、竹中じゃん、マジで? 何でこんなところに居んの?」
 こうなったら、もう観念するしかない。わたしはグッとハンドバックの紐を強く握った。
「久しぶり。元気してるか、と思って」
と、言った後に、間髪入れずに続けた。「あの、広島のパナソアって会社、覚えてる? 今度ウチと一緒に決済システムを作ることになったの。それでわたしが一応責任者ってことで、打ち合わせがあったからこっちに来て。それが昨日のうちに終わっちゃって。飛行機の時間もまだ余裕があったから……」
「つまり、ついでってこと?」
言葉を途中で遮られた。わたしは言葉を途中で飲み込み、そう、と答えた。
「ふぅん。まあいいや。とにかく乗れよ」
「え、わたしは、そんな……」
「いいから、いいから。ウチのみかん園、見に来たんだろ?」
彼は手を伸ばし、助手席のドアを開けた。
 かすかな汗の匂いと柑橘類の香りがわたしの鼻腔をくすぐった。

「元気そうで良かったよ。少し太ったんじゃねえの?」
「そんなことないわよ」
 わたしは手にしたハンカチを握り締めながら、軽トラックの助手席に座っている。
 隣の男はニコニコしながら、大きなハンドルを操っている。
 彼の名前は奥田一彦。年はわたしと同じ28才だ。黄色いTシャツにバミューダパンツというラフな格好をしているが、わたしは今までスーツ姿しか見たことがなかった。
 東京の王子にあるソフトハウス系の会社で、わたしと彼は同期入社だった。ずっと同じ部署で仕事をともにしていたが、彼は二年前、突然会社を辞めた。
 実家の父親が体調を崩し、家業のみかん園を継ぐために会社を辞めたのだが、社内ではわたしが辞めさせたのだと噂になった。
 実際、彼との間に言い争いが絶えることはなく、それほどわたしたちはウマが合わなかった。
「高橋くんも、柳沢くんも元気にしてるよ。こないだまで一緒のプロジェクトやってた」
「へえ。その面子じゃあ、お前がプロジェクトリーダーだったんだろ?」
「まあ、そうだけど」
 車がガタガタと揺れる。窓の外ではみかんの木の濃い青い葉がまぶしく日の光を反射している。遠くの方に小さな小屋と駐車場らしきスペースが見えてきた。
「良かったなあ、順調に出世してんじゃねえの」
 何か返そうとして言葉に詰まる。こういった時、どう言っていたのか思い出せない。
「みかん園の経営もけっこう楽しいよ。ホラ、着いた。降りて降りて」
 言われるがまま車を降り立った。彼は車のカギもかけず、傍に立つとニッと笑った。大学のころアメフト部だったという彼の身体は大きく、わたしより頭一つ分背が高い。
「辞めてから……三ヶ月ぐらいだったかな。親父が死んでさ」
 歩き出しながら、彼が語りだした。
「今はいちお俺がここ経営してる。経理は母ちゃんがやってて、俺はもっぱら現場ってやつ。でも従業員も雇ってるし、それなりにやってるんだぜ」
 そうなの、大変ね。彼の後ろをついて歩きながら、無難な言葉を返した。
 
 どうせ小さなみかん園だろう、と思っていた。
 東京で毎日パソコンと向かい合い徹夜で仕事をする。そんな生活を続けていた彼に、田舎のみかん園の経営が勤まるとは正直思っていなかった。
 わたしは彼の何を見に来たのだろう。
 田舎で腐りかけている彼をせせら笑いに来たんじゃなかったのか。
「そうそう。聞いてくれよ。最近、ネットショップ開いたんだ」
 みかんの木の種類や収穫の時期の話をしていた彼が、突然パッと顔を輝かせて言った。
「ネットショップって……みかんでも売るの?」
「そう。無農薬みかん。1コ90円なんだけど、売れるんだなコレが」
 みかんの木の枝をグッと掴んでみせる。サワサワと葉が歌うような音を立てた。
「お前と一緒にやってたこととか、役立てようかな、なんて思って。ちょっとヒマ見つけてホームページ作ってさ。ショッピングカートとかも自前だよ。こないだの冬に始めて、月40万ぐらいの売上になったよ」
 何て楽しそうな顔をするのだろう。
 わたしと仕事をしていたとき、彼がこんな笑顔を見せたことはなかった。
「どうかした?」
 きょとんとした様子で彼が言った。自分が彼を凝視していたことに気づいて、わたしは恥ずかしさに顔が熱くなった。慌てて目をそらす。代わりに見つめたのは地面の小石。
「帰る。もう時間ないから」
「えぇ? そうなの? もっとゆっくりしていけよ。駅まで送るから」
 彼は残念そうな声を上げて、一歩わたしに近づいた。わたしは後ろに下がりたくなるのをぐっとこらえ、拳を握った。
「いい。アンタだって仕事あるんでしょ」
「俺はもう大丈夫だよ。今、夏だし。仕事は午前中で終わっちゃうんだから……あ、そうだ」
彼はもう一歩、わたしに近寄った。
「駅まで送る途中にいいトコ連れてってあげるよ。東京じゃなかなか見れないところ」
断ろうと声を上げようとしたら、手を握られ引っ張られた。
 強い力で手を引かれるまま、わたしは彼の後をついて行かざるを得なかった。

「な、誰も居ないだろ?」
 彼はサンダルを脱ぎ捨て、白い砂浜に裸足で飛び出しわたしを振り返った。
 青い海に砂の白さがくっきりとしたコントラストを成している。わたしは自分の足元を見下ろし、パンプスを脱ごうかどうするか迷い、結局履いたまま彼の後を追った。
「みかん園の仕事が終わったあと、いつもここで一人でサーフィンするんだ」
「ふぅん」
 白い砂浜には確かに誰もいない。海は、南国の写真などでお目にかかるあの綺麗な青い色をしている。なんだか現実離れしているような気がした。車の音も都会の喧騒もここには存在しない。
「けっこう楽しそうにしてるのね」
「まあね。いつも一人で寂しいっつっちゃあ寂しいけど。わずらわしい人間関係があるよりはマシかな」
 わたしはハタと歩を止める。
「いいわね。わたしのところも良くなったわよ。わたしの意見にケチつけるのも居なくなったし」
「なんだよ」
 彼がまた振り返った。
「歯向かう奴が居なくなったってか? 女王様気分じゃねえか」
「何よそれ。どういう意味?」
 わたしは眉を寄せて彼をにらみつけた。
「何だよ、噛み付くなよ」
「アンタが先に言ったんじゃないのよ」
「俺はただ、一人で気楽だって言っただけだろ」
「わたしだって気楽よ、アンタみたいなのが居なくなって。ほんとに清々してるんだから」
 ふつりと会話がとだえた。
 彼が真顔になって、わたしの顔を見つめている。
 しまった。冷水を浴びせられたような気分になって、わたしは何か言わなくてはと口を開く。しかしすぐに言葉が出てくるわけでもなく、ただ口の端が細かく震えただけだった。

 確かに邪魔な奴だと思っていた。
 いつも彼は、わたしの企画に真っ向から反対した。悔しくて夜眠れなくなったこともあった。
 でも彼が居なくなって、わたしは信じられないようなミスを連発した。それは、明らかに企画段階での見通しの甘さからくるものだった。
 わたしは仕事のやり方を根本から見直した。そしてやっと弱点を克服することができたのだった。もうミスはしない。
 だからわたしは、それを。 

「いいじゃない。アンタも会社辞めて良かったんじゃないの? ここで楽しくやれてるワケだし。わたしはわたしで東京で好きにやれてるし、ほんと良かったわよね」
 そんなことを口走る。自分の口が憎らしかった。
 彼は言葉もなく、ただ目を伏せた。わたしたちが沈黙する代わりに、波が打ち寄せ音をたてた。言ってしまったことを深く後悔したところで後の祭りだ。彼のことを見ることもできずに、わたしは視線をあちらこちらへと泳がせた。
「また来いよ」
長い長い間のあと、彼がぽつりと言った。顔を上げると、彼の視線がまっすぐに目に飛び込む。
「俺に、わざわざ会いに来てくれたんだろ? 来てくれて、俺、すげぇ嬉しかった」
 心臓がどくんと跳ね上がった。
 彼の腕が動いて、わたしの身体を引き寄せる。一瞬のことで抵抗する間もなかった。ひるんで身体を強張らせたわたしの頬に、大きな右手が触れた。そのまま彼は強引に、わたしの唇に自分の唇を重ねてきた。
 そこでやっとわたしは我に返った。あまりのことに思考よりも先に手が動いて、彼の顔を渾身の力を込めて引っ叩いていた。
 腕を振り解いて、わたしは砂浜を駆けた。しかしすぐに砂に足を取られて派手に転んでしまう。
 砂まみれになって、転んだ足も痛くて、わたしは溢れ出てくるような感情をこらえることができなかった。涙が後から後から零れ出てきた。
「ご、ごめんよ」
 彼の前で泣いたことなど一度もないのに。涙が止まらなかった。
 肩に手を触れられたが、振り払った。ハンカチを捜す。涙を、涙を拭かなくちゃ──。
「ごめん。つい……。なあ、これあげるから、許してよ」
 彼がしゃくり上げるわたしの前にしゃがみ込んで、何かを差し出した。
 夏みかんだった。
 わたしは夏みかんを見、そして彼を見た。
 彼はしゃがんだまま、また後ろに手を回してもう一つ、夏みかんを出した。
 わたしは涙を流したまま、吹き出してしまった。
「やだ、どこから出したのよ」
「変なとこじゃないよ、あげようと思って隠してた」
「うそ、アンタどこにも持ってなかったじゃない。嫌よ、パンツの中のみかんなんか」
「違うよ、パンツの中じゃないよ。ホラ、匂い嗅げばわかるよ」
くんくんと彼は手にしたみかんの匂いを嗅いで、わたしに差し出した。
 わたしはみかんを受け取って、同じように匂いを嗅いだ。
 そして、笑った。
「匂った?」
「ちょっとね」
 砂の匂いが。みかんの匂いが。彼の汗の香りが。

 ふいにわたしの口から礼の言葉が滑り出た。
 彼は一瞬だけ目をそらして笑みを浮かべた。照れくさかったのだろうか。それ、美味しいからさ、と小さく応えた。
 そのまま打たれた頬をさすりながら立ち上がり、こちらに手を差し出してきた。
「もう少しゆっくりしていくかい?」
 その時になって、心の中からモヤモヤしたものが消え失せているのに気付いた。彼の大きな手をそっと掴んで立ち上がる。
「ううん、飛行機の時間に遅れちゃうから」
 わたしは夏みかんを二つ小脇に抱える。服についた砂も両手で払った。
「また来るかも。いつになるか分かんないけど」
「そうか」
 彼も寂しそうな顔はしなかった。笑みを絶やさないまま、目を細めて眩しそうに海を、砂浜を見つめた。
「忘れ物は大丈夫かい?」
 彼の視線を追って振り返った。するとそこには、履いていたパンプスが両方とも脱げて砂浜に転がっていた。

 

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「第4回うおのめ文学賞」で、新人賞と、掌編小説ランキングの第三位をいただきましたです


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こちらの写真は、写真フリー素材サイト「アルカディア」さんからいただきました。

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Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2003