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席に座るなり、哲雄は先ほどの取締役会のことを話し始めた。仕方がなかったとか、多数決に勝てなかったとか、そういった類のことを。 私は私で、喫茶店のソファに座ったらまず最初にすることを実行した。すなわち、メニューをとって何を注文するか選ぶことだ。私は紅茶、哲雄はコーヒーそれもアメリカンを頼むのが定番であったから、私は哲雄に尋ねてやった。お前はコーヒーのアメリカンでいいのか、と。彼は、ああ、はい、うん、と生返事をした。 私がウェイターに注文をし終わると、彼はまた弁解じみた言葉を紡ぎ始めた。普段はあまり饒舌な方ではないから、今日はいつもの倍ぐらいの言葉を発しているのに違いない。私は非常に面倒になってしまって、窓の外に視線を移した。 山下公園とその向こうに氷川丸と海が見えている。観光資源としてはまあまあの出来。少々80年代的な白けた風景。それでも、つい先日みなとみらい21線が開通したばかりだから、人通りが若干増えたような気がする。 哲雄はやがて、私の顔色を伺うように言葉を止めた。おどおどした目つき。こういった表情を見せるときはいつも決まっている。 ──許してやるから、気にするな。哲雄は私にそう言って欲しいのだろう。それは重々承知していたし、言ってやるのは構わなかった。しかし言ったら最後、彼は2分で席を立ってこの喫茶店を出て行くだろう。 それならもう少し、話に付き合わせてやってもいいはずだ。 「哲雄」 彼をファーストネームで呼ぶのは久しぶりだった。 「お前さん、今年で──39になるんだっけ?」 「そう、です」 「一番若い取締役が“代表”か。日経に何て書かれるか楽しみだな」 ウェイターが運んできた紅茶のカップを手にとって、レモンをつまんで、中へと落とした。 「いや、ですから。僕は望月さんが留任するのが一番だと……」 「靖男の墓には、いつ行った?」 哲雄は、ミスを指摘された新人社員のような顔をした。われながら古臭い価値観を若い者に押し付けているように感じたが、父親の墓に行くぐらいの時間を割いたっていいはずだと思う。いくら忙しいとはいえど。 「まあ、いいさ。時間のあるときに行って報告してやれよ。親父さんは、いずれお前が跡をついでトップになることを望んでたわけだしな」 ……おれは、まだ早いと思うが。紅茶の琥珀色の水面に向かって、そんな言葉を心の中で付け足した。 哲雄は静かになって、はい、と俯いた。 「それで、さっきよく聞いてなかったんだが、おれは次どうなるんだ?」 「取締役会長です」 「会長か。取締役会にも出ないとならんのだろ? おっくうだなあ」 私は笑みを浮かべてみせた。 「取締役も解任してくれよ。どこか地方の店の店長に回してくれないか。もう一度現場に戻ってモノ売ってみたいよ」 「何を言ってるんですか。そんなこと出来るわけないじゃないですか」 飲みかけていたコーヒーのカップから口を離して、彼は身を乗り出した。 「それこそ日経になんて書かれるか。“サキヤでクーデター”なんて書かれたらどうするんです」 「クーデターなんて大げさな。お前は創業者の息子なんだから、別に不思議でもなんでもないだろ」 「僕は……僕は他の連中とは違います。僕は望月さんを排除する気はありません」 声のトーンが一段低くなった。さすがに私も笑顔を消す。 「僕は、望月さんに今まで通りそばに居て欲しいと思ってるんです。貴方だって創業者の一人だし、親父が一番信頼してたのも望月さんだったでしょう?」 語尾が少しだけ震えていた。彼が言葉の中に何かを隠しているのか、それを知りたくて私はじっと顔を見つめた。彼は視線をそらし、コーヒーをすする。 哲雄の言っていることは間違いではない。私と宮田靖男が伊勢佐木町の外れに「サキヤ洋品店」を開いたのは、今からざっと50年も前になる。接客と交渉ごとの上手い靖男を前に立てて、私は専ら経理関係を担当し、データを積み上げる後方支援に回った。店を増やし、総合スーパーに業態を変え、優秀な人材を多数招き入れ、関東随一のチェーンになった後、東証一部上場も果たした。その間、社長たる靖男が何をするにも必ず相談を持ちかけた相手は他でもない、私だった。 だから、彼が病に倒れた後に、私は仕方なく代表取締役を引き継いだ。私には靖男のようなカリスマ性はないし、一時的なものだと考えていたが、結局それが10年以上も続いてしまった格好だ。 世間でも、私は“妖怪”だの“データマシン”だのと後ろ指さされている。経営の第一線から退くことはやぶさかではない。哲雄が後を引き継ぐことにも全く異議はない。ただし、今がその時だとはどうしても思えなかった。 哲雄は靖男に比べて言葉数が少なく、押しが弱い。父親の人の良さを受け継いでいるのだろうが、それが裏目に出ているようだ。周りの人間に左右されすぎる。経営者には確固たる自信と一本の筋の通ったロジックが必要だ。 私が教えたかったことは、解任した元上司を呼び止めて、喫茶店に誘い弁解の言葉を並べることではない。 「サキヤのことを一番良く分かってるのは望月さんだと思うんです。今まで通り、僕にいろいろ教えてください」 「まあ……なあ」 気に入らないものだから、ついつい煮え切らない態度を見せてしまう。 「何がご不満なんですか?」 哲雄は、不安になったのだろう。眉をかすかに寄せて、問い詰めるような口調になった。 「社長の地位に未練はないって、いつも言ってたじゃないですか。あれは嘘だったんですか? それとも気になってらっしゃるのは例の役員報酬の件ですか? そのことだったら僕からも次の取締役会の議題にして……」
「──おれがそんなこと気にするわけないだろう」
思わず、頭に来た。 乱暴に置いたティーカップの大きな音が、私の怒りを代弁する。 「おれが金欲しさに、会社をここまで大きくしたとでも思ってるのか?」 哲雄に対して、怒りが込み上げてきた。これだけ行動を共にしてきたというのに、私という人間を何だと思っているのか。 鋭い視線を受けて、哲雄は大いに狼狽し目を見開いた。 「いや、僕はそんな……」 「おれを門倉みたいな薄汚い姑息な野郎と一緒にするな。おれは金のために働いてきたんじゃない」 そう言い放って、大嫌いな男のことを思い出し、さらに怒りが倍増する。 門倉洋平。取締役の一人で、傘下におさめた埼玉の食品店チェーンの出身である。靖男が生きていたころから、随分長いこと顔をつき合わせているのだが、私はこの男をどうしても好きになれなかった。 口から先に生まれてきたような男で、上の者には媚びへつらい、下の者には無駄に権威を振りかざす。自分の地位と取り分を守るためには何でもする卑小な人物だ。 そもそも、今日の“クーデター”も奴の差し金に違いない。言うことを聞かない私の代わりに、哲雄を口車に乗せて社長にして会社を牛耳るつもりなのだ。他の取締役連中にも念入りに根回しをしたのだろう。奴の頭の中には全社戦略も成長戦略も存在しない。代わりに存在するのは、自分の取り分をどうやって増やしていくかということぐらいだ。 「哲雄、何であんな奴の言うことを聞くんだ。あいつはウチをダメにするぞ」 「望月さん、そういうことは……」 「あんな、ビジョンも理念も何もない人間を経営に関わらせてどうする?」 「それは言い過ぎじゃないですか?」 明らかに不平を言うように、返してくる。 「あいつがお前をそそのかしたんだろう? 社長になってサキヤを建て直せ、とか言ってきたんじゃないのか」 「──違います。それ以上はやめてください。望月さん」 今度は、非常に強い口調で言われた。私は小さな驚きをもって言葉を止める。彼が、私にそんな態度を見せたのが初めてだったからだ。 「望月さん、そういう言い方はやめてください」 じっと目を見ながら、ゆっくりと言い聞かせるように、もう一度繰り返した。 「確かに、門倉さんは即物的で近視眼的なところがあります。でも、彼はウチの会社に必要な人材です。それは間違いないと思います。──こないだ綾瀬にクドーグループと一緒に出店できたのも、門倉さんがクドーと交渉の先頭に立ってくれたからじゃないですか」 私は、ただただ哲雄の顔を見つめた。語尾はもう震えてはいないし、視線も揺るがなかった。 「完全に善い人や完全に悪い人というのは世の中に存在しないと思うんです。どんな人も善い面と悪い面がある。だから経営者は、部下の善い面をどれだけ引き出せるかに神経を注ぐべきだと思うんです。僕は門倉さんの善い面をもっと引き出させていきたいと思っています。難しいかもしれないですけど……」
「それは、お前自身の言葉か?」
穴のあくほど哲雄の顔を見つめながら、問うた。すると彼は我に返ったように、こちらを見た。 フッと緊張の糸が切れたように表情が緩む。それから、哲雄は照れたように苦笑いして、コーヒーカップを持った。 「いや、違います。やっぱり望月さんには、すぐにバレちゃいますね」 「まあな」 私もぎこちなく微笑んだ。私も紅茶のカップを口に運ぶ。 「親父がね、死ぬ直前に言ったんです」 コーヒーのカップを両手で包みこむようにして持つ。 「実を言うとその時はピンとこなかったんですよ。僕は、世の中には悪人しかいないと思ってましたから。親父はお人良しなんだなあと思ったぐらいでした」 目を伏せた哲雄は、温かく微笑んでいた。 「でも、最近になって、やっとその言葉の意味が分かってきたんです。人を生かすも殺すも“人次第”なんですね。悪いところがあるからといって、人をいちいち捨てているようでは、本当に良い組織を作れないんじゃないかと思って」 「そうだな」 私は、ゆっくりとうなづいた。 「そういう考えに至ったんだな」
そうか。これが潮時ということか。 やはり私はロートルと化していたのだろう。自分の老いをここまで意識したことはなかったが、それがもう苦痛ではない。むしろ爽やかな気分にすらなってくる。 靖男は死ぬ直前に、私にも言葉を残していた。それは頼みごとだった。私はその場で約束し、今日まで実現に向けて努力してきたつもりだ。 しかし、いつの間にかそれはもう必要なくなっていた。腹の中に溜まっていた何かがスーと消えていくのが分かった。 私は紅茶を飲み干し立ち上がった。そろそろ行こうか、と声をかける。 哲雄は私の笑顔を見て、安心したようだった。悪戯っぽい目つきになり私を見上げる。 「もう、怒ってないですか?」 「馬鹿言え。最初からおれは冷静だよ」 「さっき、かなりムッとしてたじゃないですか」 「そんなことはないさ。ただキレかかっただけだよ」 コートを着ながら冗談を返す。伝票を取ろうとすると、哲雄がサッと先に取った。僕が払います、そう言いながら屈託のない笑みを浮かべてみせる。 「門倉さんとも仲良くやれますか?」 「そうだな。まずは一緒にメシを食いにいくところからスタートだな」 そう言って、二人で笑った。
ちょうど桜が咲く前の、今ぐらいのときだった。 関西から大手流通業社が雪崩れ込むように進出してきた時代。企業の身売りや、提携が相次ぎ、靖男はサキヤを守るため、疑心暗鬼に陥っていた。 だから、言ってやったのだ。経営者なら、周りの人間が自分に光を向けてくるように仕向けてみろ、と。相手の善い面をいかに引き出せるかが勝負を分けるのだと。 彼は覚えていたのだ。その言葉を。 そして言葉はちゃんと生き続けていた。哲雄の中で。もし、これから何らかの失敗をしても、哲雄はそこから何かを学びとることができるだろう。 外に出て、目前に迫った春の空気を感じながら、私は空に向かって言う。私の、死んだ親友にだけ聞こえるように。他の誰にも聞こえないように。 もう、お前の息子は馬鹿じゃないし、ちゃんと一人前になってるよ、と。
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