Old Fashioned/時代遅れ
   
   観葉植物に頬を撫でられ、男は露骨に顔をしかめた。
 不快そうに鼻を鳴らし歩を進めると、突然、パァッと視界が開けて青い空と水をたたえたプールが目に飛び込んできた。クリーム色の床は太陽の光を反射してギラギラと輝き、プールの揺らめく水面も強い光を辺りに撒き散らしている。
 彼はその光景を見て初めて、自分がこの場に全くそぐわない恰好であることに気付いた。長めの黒髪はボサボサ。ブルーの瞳にはそっけない銀縁眼鏡。少しくたびれたグリーンのシャツにジーパン。……少なくとも、ジーパンはやめた方が良かったかな。そうは思ったがもう遅い。
 彼の名はケネス・マクラクラン。プールサイドに現れた野暮ったい三十路男。最先端のファッションで身を固めていたころの名残りは、今やダンヒルの靴だけだ。

 前を歩いていた白いシャツの男、フレデリック・バーンズが振り返った。有能で無口なベテラン秘書は、絶妙な間合いをもって彼をじっと見つめる。マクラクランは、どうやら知らず知らずのうちに立ち止まっていたようだった。
「いかがなされましたか?」
バーンズの声は低く心地よく、計算し尽くされたものだ。
 何でもない、と軽く手を上げて見せたマクラクラン。眼鏡を直し、クセのある長めの黒い髪を手早く撫で付けて整えると、バーンズの横をすり抜けプールの方へとダンヒルの靴を踏み出した。 
 前にここに来たのはいつだったか。思いを馳せながら、プールサイドの脇にそびえ立つ白いモルタルの建物を見上げる。まるで城のように豪奢でレストランかコンサートホールのようにも見えるが、それはれっきとした“住居”であった。
 この城の主の名前はラリー・ファーガソン。マイアミ・シティにビルを3つと、ビーチのレジャー施設を一つ。それからレストランチェーン「アデリー」系列の店を16店。それが彼の領地だ。

「──ケン」
 プールの向こう側で長身の男がこちらに向かって手を挙げた。この家の持ち主であり、マクラクランの元“上司”でもある。そして、このマイアミ・シティの裏社会を知る人間なら、必ず名前を耳にする人物だ。
 ファーガソンは、白木の椅子から身体を起こした。大きなパラソルの下。テーブルの上の青いカクテルのグラスに手を伸ばし、飲みながらこちらに向かって手招きをする。
 マクラクランも軽く手を挙げてから、白いコンクリートの上を歩いて相手の方に向かった。
 テーブルの脇に立つと、男はマクラクランを見上げて破顔した。──笑ったのだ。
「よく来たな、まあ座れ」
 色白の顔に撫で付けた銀色の髪。年齢は五十代後半ぐらいか。グリーンの瞳は少し落ちくぼんでいるものの、今だ鋭い眼光を放っている。その頬骨の張りは、彼を近寄りがたい凄みのある風貌の男に仕上げていた。
 しかし、マクラクランは、彼が見た目ほど恐ろしい男ではないことを知っている。軽い挨拶を交わした後、勧められるままに白木の椅子に浅く腰かけた。
「ケン、急に呼び出して悪かったな」
「いや」
「最近、景気はどうだ?」
「まあまあ、だよ」
マクラクランは、ゆっくりとそう答えた。するとファーガソンは上目遣いになって、こちらを覗き込むようにして笑った。
「何だそれは。目、悪くなったのか?」
言いながら、目の縁を軽く指で叩く。眼鏡のことを言っているようだ。
「俺は前から近眼だよ。前はコンタクトにしてたんだ」
「ハン? そうだったか? どっちにしろ、今のお前、まるでショボくれたサラリーマンみたいだぜ?」
「何だっていいさ。今の俺は、ただのレンタカー屋だからな」
ぼそりと言うマクラクラン。眼鏡を直しながら目線をそらす。ファーガソンは一瞬、言葉を止めた。唇を軽く舐めながら自分のカクテルを手に取った。
「ケン、何を飲む?」
「いや、いい」
「遠慮するな。ジム・ビームでいいか」
そばに立つ秘書のバーンズに軽く手を挙げて、近くに呼ぼうとする。それを見て、さすがにマクラクランも声を上げた。
「ラリー、すまない。本当に酒はやめたんだ。飲み物はアルコールの入ってないものにしてくれ」
「マジで言ってんのか?」
ファーガソンは驚いたように目を見開いたが、すぐに悪戯っぽい目付きになる。
「悪い冗談みたいだな。あんなに浴びるように飲んでたお前が」
「俺だって変わるさ」
その言葉に、鼻を鳴らして笑うファーガソン。バーンズを呼び寄せ、ジンジャーエールを持ってくるように言いつけると、マクラクランの顔を見ながら、ゆっくりと椅子の背もたれに身体を持たせかける。

「実は最近な、爬虫類にハマッてるんだ」
「爬虫類? ペットの話か?」
唐突に何を言い出すと思えば。マクラクランは相槌を打ちながら眉をひそめる。……実用的で価値のあるモノにしか目をくれなかった男が、爬虫類?
「子亀を人にもらってな。アルダブラゾウガメっていうリクガメなんだ。今は12インチぐらいなんだが、ゆくゆくは5フィートぐらいまでデカくなるらしい。5フィートだぞ? このテーブルよりデカくなるっていうんだぜ? 見てるとなかなか愛嬌があってな。ついついイグアナやらヘビにも手ェ出しちまった」
バーンズが持ってきたジンジャーエールを受け取りながら、マクラクランは静かに話を聞いている。
「そいつはゾウガメだから野菜しか食わねえんだが、今じゃキャベツ一個分ぐらいぺロリさ。奴には家の中の部屋を一つ与えて、そこで放し飼いにしてるんだ。俺が緑のスリッパを履いてると餌と勘違いして寄ってくるんだよ」
マイアミの黒社会を震え上がらせていた男が、目を細め楽しそうに微笑んでいる。
「世話は俺かバーンズがやってるんだが、家の中が水槽だらけになっちまってな。ヘザーが“この家はガラパゴス諸島じゃないのよ!”って、怒り出す始末さ」
「……ヘザーか」
久しぶりに聞いた女性の名前だった。
「彼女は、元気にしてるのか?」
「ああ、相変わらずさ。つい昨日、お前の話をしたら、いつでも手料理を食いに来いとか抜かしてやがったぞ」
「そりゃ遠慮しとくよ。亀や爬虫類を食わされるんじゃ、胃袋がいくつあっても足りない」
「ハハ、お前も相変わらずだな。俺のワイフをそこまでコケにしやがるのもお前ぐらいのもんだ」
ファーガソンは、声を上げて笑った。マクラクランの固かった表情も、ここに来て初めて緩んだ。微かに微笑みながらブルーの瞳を細める。
「そうそう、ダイアンが──雌のシェパードが居ただろ。あいつがこないだ死んじまってな」
体を反らしながら、上機嫌で話を続けるファーガソン。
「ああ、あの犬か。ずいぶんバァさんみたいだったからな。老衰か?」
「そうだ。庭先で丸くなって冷たくなってたんだ。18歳だ。人間なら100歳ぐらいの計算だぜ? 眠るように死んだんだろうが、その日は悲しくて仕方が無くてな。何年ぶりかに教会に行ったよ。心がまぎれるかと思ったんだが、神父がこう抜かしやがった。──人は自分が自分の主でないことを知らなければならないんだとよ。連中によると、人間には自由意志というものは存在しないらしい。つまり、絶対的な神には逆らえないんだとさ」

「ケン。トニー・アルヴァレスのクソ野郎を覚えてるか」

 突然、ファーガソンの口から飛び出た“クソ野郎”という言葉は、マクラクランの心に懐かしさと、血なまぐさい情景を思い起こさせた。胸の中に複雑な思いがじわりと広がる。
「ペドロ・アルヴァレスの跡取りだろう?」
ゆっくりと、尋ねた。
「ああ、そうだ。5年前、ピアーズ通りでお前が仕留め損ねたアルヴァレスの子せがれだよ」
言われて、マクラクランは眉を寄せた。その言われようが不本意だったからだ。
「あれは──」
「いやいや。ケン、悪かった」
相手の気配に気付き、ファーガソンは声を和らげた。
「あいつを見逃してやれと言ったのは俺だったな」
声を潜めて、「あの時は“目撃者”が必要だと思って、目をこぼしてやったんだが、とんだ禍根になりやがった」
「ラリー。何があったんだ?」
静かに、マクラクランは問いを発した。覚悟を決めたような、そんな声色だった。
 ファーガソンは、面白くなさそうな口調で続けた。
「あの野郎は、この俺を法廷に引っ張り出す気らしい」
「どうやって?」
「昨日、“モランデル1986”っていうクラブでな、黒人系ギャングのブラックボゥラーの連中が16人、皆殺しにされたのさ。馬鹿げた話だが、居合わせた警察官がそこに俺の運転手が居たと証言しやがった。数ヶ月前に雇ったばかりの、アスパラガスみたいに細い男なんだが。そいつが黒人を16人、アサルトライフルで蜂の巣にしたんだとよ」
そう、言い終えて。ファーガソンはじっとマクラクランの顔を見た。何かを言わせようとしているような目つきだ。
 だが、マクラクランは黙っていた。じっと相手の目を見つめ返して。無言のまま。
 やがて、痺れを切らしたように元マフィアのドンはため息とともに言葉を漏らした。
「……分かってくれ、ケン。俺はもう兵隊を持ってないんだ」
「だからと言って、退役軍人を引っ張り出すのはどうかと思うがな」
間髪入れずに返す。
「ケン、何か勘違いをしているようだが、俺はお前に人殺しをしろ言ってるわけじゃない」
 言いながら、ファーガソンは指でバーンズに合図した。
 バーンズはゆっくりとテーブルに近づいた。懐から一枚の写真を出すと、テーブルにぴちりと置き、もったいぶった仕草で、ススーッとマクラクランの目の前にまでスライドさせる。
 そこに写っているのは黒人の死体を見下ろす一人の少女。ワンピースにサンダルを履いた、ヒスパニック系の少女だ。恐怖に目を見開き、立ち竦んでいる。斜め上からのアングルからして、防犯カメラから取り出した写真であろう。映像は不鮮明だが、彼女の人相を確認するには十分だ。
 マクラクランは写真を手に取り、たっぷり五秒ほど見つめた。
「この娘が目撃者か」
「そうだ」
 話の要点は分かっている。
「今、どこに居るんだ?」
「分からん」
言いながら、ファーガソンは肩をすくめてみせた。
「アルヴァレスの連中も必死になって、その娘を探してる。まあ、見つかるのも時間の問題だろう。連中にザックを張り付かせてある。アルヴァレスの連中が娘を見つけたとき。それがお前の出番、さ」
「ザックか」
マクラクランはようやく、写真をテーブルに置いた。
「アイツはミュージシャンになったんじゃなかったのか?」
「正確には、ザックはクラブ専属のDJだ」
片目をつむってみせるファーガソン。
「ただし、今週だけはマフィアに再就職ってやつさ。……ケン、頼む。お前の力が必要だ」
 付け加えられた言葉は、低く、強い響きを持っていた。
 ひたと相手を見据えるマクラクラン。次にはゆるゆるとかぶりを振った。
「俺も、もう一度マフィアに再就職か?」
「一週間ぐらいいいだろ?」
「笑えないジョークだぜ、ラリー」
マクラクランは、きっぱりと言った。
「俺はレンタカー屋になったんだ。もう殺しはやらない。銃も捨てた」
「……そう言うとは思ったよ」
また、指でバーンズに合図を送るファーガソン。バーンズはス、と身を退くと母屋の方に歩いて行った。すぐに戻ってくるが、その手には銀色の小さなアタッシュケースがぶら下がっている。その銀色が太陽の光を反射して鈍く光った。
「ラリー」
その中に何が入っているのか。一瞬のうちに思い至ったマクラクランは、非難するような声を上げた。元上司を軽くにらむ。
「そうじゃない、ケン。これを見ろ」
しかしファーガソンは、ニッと笑ってそのアタッシュケースを受け取り、手をかけた。
 カチ、と鍵を外して開いたケース。
 そこには黒光りする拳銃が一丁、鎮座していた。
 中に大金が入っているとばかり思っていたマクラクランは拍子抜けして、その拳銃を見た。それは──
「デザート・イーグルだ」
ファーガソンは、なぜか誇らしげに言った。
「今じゃコレクターアイテムになったアンティークだが、お前にはやっぱりこれが一番似合うと思ってな」
言葉が出ないマクラクラン。視線は銃に釘付けだ。
「お前が、もはや金で動かないことぐらい知ってる」
そこで、ようやくファーガソンは顔から笑みを消した。

「ケン、頼む。俺のために、もう一度命を捨ててくれ」

 マクラクランは、ゆっくりとブルーの瞳をファーガソンに移した。彼の顔からも表情は消えている。ただ、相手の顔を見つめた。
 ファーガソンも全く視線を動かさなかった。ただ、無表情で元部下を見つめている。
 間。
 ジンジャーエールのグラスの中の、溶けた氷がコロンと澄んだ音をさせた。
 そうして、10秒ほど経っただろうか。突然、マクラクランは吹き出すように笑い出した。
「分かったよ」
表情を和らげるファーガソンを見、「OK、ラリー。やっぱりあんたには勝てないな」
「ケン」
「何か飲むものはあるか?」
「もちろんだ」
ニッと笑ったファーガソン。すぐに秘書に向かって、「バーンズ、“オールドファッションド”だ。ジム・ビームのライで作ってきてくれ」
「レモンやオレンジは付けなくていいぞ」
そう付け加えたのはマクラクラン。
「ラリー。その代わりと言っちゃあなんだが、条件がある」
「何だ、言ってみろ」
「スゴ腕の運転手が一人必要だ」
「構わんが、運転手ならザックがいるぞ?」
「ザック? あんなイカレ野郎に、この仕事は無理だよ」
「何をさせるんだ?」
「そいつに、俺の代わりにレンタカー屋のオヤジになっててもらうのさ」
ファーガソンも吹き出すように大声で笑った。
「OK、OK。そういうことなら、スゴ腕のスマイルの達人を一人用意してやろう」
「おいおい、俺よりスマイルが上手い奴はよしてくれよ」
「任せておけ、お前の店の客を増やしてやる」
バーンズからカクテルを受け取るマクラクラン。ロックグラスの中の琥珀色の液体に目をやったあと、ごくりと一口飲む。

 その味が、その香りが。
 マクラクランは突然5年前に戻ったような感覚に襲われた。
 目を閉じれば思い出す。恐怖にガタガタ震える男。壁の落書きには“豚どもをベンツから引きずり出せ”と書いてある。真っ赤に染まったTシャツを握り締める男の手。悲鳴を上げて逃げる若者。その背中、肩に照準を合わせ──
 ああ、そうか。マクラクランは目を開く。
 こういった光景を忘れるために、飲んでたんだっけな。結局、全部、残っているんじゃ、全く意味がないじゃないか。

 マクラクランは、皮肉な笑みを浮かべながら、拳銃に手に取る。
 その黒いボディの冷たさが、妙に馴染んだ。

 

 

 

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TalkingRabbitwithShovel
byKanaeFuyushiroCopyright(C)2006