Chapter5  損益分岐点


Chapter5-3 タンスの中の二人


 最初の頃、母は何も教えてくれなかった。
 父などは尚更だ。食卓では、父は最近の労働党の政策や国際問題について弁を奮うことに忙しかったし、母はそれに相槌を打つのに忙しかった。ベンジャミンはスープをすすりながら二人のやりとりをただ聞いているだけだった。
 うっすらとしか覚えていない少年の頃の日常である。
 ある日、朝食後にベンジャミンは思い切って聞いてみた。母の腹が日に日に大きくなってきている理由を、である。
 あなたに弟か妹が生まれるのよ。と母は教えてくれた。
 ふうん、とベンジャミンは言った。彼はもう13才だった。赤ん坊をコウノトリが運んできてくれたり、キャベツの中から取り出したりするのではないことをとっくに知っていた。
 きっと、弟だよ。
 彼はそう言って、家庭教師が待っている自室へ向かう。驚いた母が呼び止めても聞こえない振りをして走り去った。
 かくして、彼が予言した通りになった。
 シェリンガム家の二番目の男子として、ジェレミー・ナイジェル=シェリンガムが生まれた。
 ベンジャミンは赤くて皺くちゃでギャアギャア泣く弟を見て、とても可愛いとは思えなかった。それに両親が喜んでジェレミー、ジェレミーと赤ん坊に付きっきりでも、特に何とも思わなかった。
 彼はもっともっと早い時期に、弟──遊び相手であり自分の子分が欲しいと思っていたのだった。赤ん坊は彼にとって、生まれてくるのが遅すぎたのだ。あの様子では一緒にフットボールができるようになるまで、何年もかかるだろう。何でもっと早く生まれなかったんだ。
 僕は、早く大人になって一人で生きるんだ。
 ベンジャミンは勉強も嫌いでは無かった。要領よく、手際よくこなしていくことは得意だったし、そうすることも気持ち良かったからだ。

 そして繰り返された日常の中に、あの夜がやってくる。

 いつもの何でもない日だった。
 その夜はどういうわけか寝付けなくて、ベンジャミンは起きだした。喉が乾いたのだ。乳母のボーモント夫人に内緒で何か飲み物をもらおうと歩いていて、彼は廊下のカーペットに広がっていた染みに気付く。
 それが何であるのか、少年はすぐに気が付いた。
 当のボーモント夫人がそこに倒れていたからだ。助け起こせば、胸や腹を刺されてすでに事切れていることが分かる。床の染みは彼女の流した大量の血液だったのだ。
 恐怖のあまり、ベンジャミンは悲鳴すら上げることが出来なかった。
 喉の奥がつぶれたように縮こまって、息が出来ないほど苦しくて少年は両手で喉を押さえる。
 どういうことなのだろう。
 しかし少年である彼にも分かった。誰かがこの屋敷に侵入して、自分たちを殺そうとしているということを。
 両親を探さねば。母は──そうだ、ジェレミーのところだ!
 駆け出すベンジャミン。彼は弟のいる部屋まで暗い廊下を駆け抜けた。心の中が不安で押しつぶされそうになっても少年はただひたすら走った。
 やがてドアの前につく。ドアを開けば驚いたように振り返ったのは髪を振り乱した母だった。
「ベンジャミン」
 彼女は恐怖に囚われたままの顔で、長男を見た。
「何があったの?」
「ジェレミーを」
 母には疑問に答える時間は無かった。彼女はベンジャミンの胸に抱き上げていたジェレミーを押しつけるように渡した。弟は眠ったままだった。抱き抱えるようにすると、むにゃむにゃと何か寝言を言う。
「早く、そこに隠れて!」
 母に促されるままにベンジャミンは大きなタンスの中に隠れた。間髪入れず母が扉を閉めた。
 真っ暗である。かかっていた多くの衣類を顔から押し退けた時、外で悲鳴が聞こえた。母のものだ。
「ここの扉が開いてたぜ。見つけちゃった」
 誰の声なのだ。父でもない男の声だ。
「逃げれるかなァ」
 次に続く母の悲鳴で、ベンジャミンは嫌でも悟ることになった。相手は強盗なのだ。家に忍び入って自分たち家族を襲っている。
 助けなくては──
 そう思った時、母が一際大きな悲鳴を上げ、ジェレミーが身動きした。いけない! 彼は弟の頭をぎゅっと抱きしめた。声を上げたら見つかってしまう。
「お願い、殺さないで」
 震える声。殴られたのか、刺されたのか。母の声は弱々しい。それに重ねて同じ言葉を強盗が口にした。
 オネガイ、コロサナイデ。そうして男は声を上げて笑う。
 ベンジャミンの中で怒りが爆発する。この強盗は、この状況を楽しんでいるのだ。自分の母を傷つけながら。
 その後に起こったことは、分からなかった。しかしベンジャミンには聞こえた。何もかも。強盗は母を痛めつけ楽しみながら時間を掛けて殺している。
 母の絶叫が何もかも物語った。
 ベンジャミンはジェレミーの頭を、耳を塞ぐようにして抱きしめた。そのせいで自分は耳を塞ぐことが出来なかった。でもそれは仕方のないことだった。自分は母を助けなかったのだから。
 
 あの時、なぜ外に飛び出さなかったのか。
 後日、ベンジャミンは何度も何度も思い出した。

 幼いジェレミーを守るためだった? 確かにそうだろう。ベンジャミンは母から弟を託されたのだ。
 しかし──。ベンジャミンは自分の中に本当の答えがあることを知っている。
 自分は怖かったのだ。
 母を助けるよりも、ただただ恐ろしくて、怯んで、タンスの中に縮こまっていただけなのだ。
 16才の少年なのだから無理もない。人はそう言うかもしれない。けれどベンジャミン自身がその行為を許せなかった。どうしても、だ。その気持ちは彼の中で大きな大きなしこりとなって残っていた。

「──アレ? 誰かいる?」
 
 強盗がぽつりと呟いた言葉にはっと我に返る。母の声が聞こえなくなってから数分経っていた。
 まさかこちらの存在に気づいたのだろうか。ベンジャミンは身体を硬く強ばらせた。もし相手にタンスの扉を開かれてしまったら、一巻の終わりだ。
「あっれ……?」
 強盗の足音が近づいてくる。
 おかしい。
 ベンジャミンはジェレミーを抱きしめながら思う。こんなはずじゃない。
 物音ひとつ立てなかったはずだ。相手には自分たちの居場所は分からないはずだ。ここが分かるはずがない。
 しかし、足音はどんどん近づいてくる。

 ──ここを目指している。
 ベンジャミンは目を閉じ、また開いた。
 その瞳には強い光が宿っている。

 暗闇が光の筋となって縦に割れ──扉が開かれる。
「いたぞいたぞ、子犬ちゃんが二匹だァ」
 男が言った。
 彼は血塗れのナイフをかざし、それを降りおろそうとした。
 ズザッ。しかしそれが斬り裂いたのは厚手のコートだった。驚いた男にブラウスが、コートが、スラックスが、マフラーが、ネクタイが、様々な衣服がまとわりつき、絡みついた。
 彼の目の前に目を爛々と輝かせた少年が立っている。ベンジャミンだ。彼は衣服を投げつけたのではなかった。衣服が風にあおられ、強盗にまとわりついたのだった。
「何だとッ!?」
 相手は衣服を引き剥がそうとして、よろけた。
「ジェレミー!」
 その時だ。ベンジャミンは弟を呼んだ。3才の幼児は目をぱっちりと覚まし、その二本の足で兄の脇にすっくと立っていた。
 後ろ手に取り出した何かを強盗に向ける。
 それは──

 ぴしゅん。

 吹き出た水が強盗の顔に直撃した。幼児の手にあったのは玩具の水鉄砲。ジェレミーは強盗の顔に中身をかけたのだ。
「ひぃぃい」
 強盗が目を押さえて悲鳴を上げる。水鉄砲の中身は、ただの水ではなかったのか。ベンジャミンは弟を振り返り、よくやったと頭を撫でてから抱き上げた。
 そのままドアを開け、暗い廊下へと飛び出す。

 逃げるのだ。
 そして生き残る。

 ベンジャミンは後ろを振り返らなかった。ジェレミーは兄にしっかりと抱きついていた。
 今だ強盗が潜んでいるかもしれぬ館の中は、暗く光が行き届かない。何も分からない、判別の付かない、闇の世界だ。
 しかしそこにしか未来は無いのだ。
 生きるためには走り続けねばならない。闇の中から未来を見つけ出さねばならない。
 兄弟は幼くとも知っていた。走り続けなければならないと。
「しっかり掴まってろ」
「うん」
 ベンジャミンが小さく声を掛ければ、ジェレミーもうなづいた。
 そして彼らは臆することなく、その暗闇に溶けるように消えていったのだった。
 

 ***


 呼ばれる声に、ベンジャミンは目を覚ます。
 起きろ、もう朝だぞ!
 何だろうと、はっきりしない頭をぶるぶると振る。ひどく気分がはっきりしない。ジャム、ジャムと呼ぶ声も聞こえる。これはジェレミーか?
 起き上がりたいのだが、身体がついてこない。もうトシかな。最近何度かこんなことを体験しているような気がする。
「部長! おい!」
「ジャム!」
 揺り動かされ、ようやくベンジャミンは目を開くことが出来た。焦点が定まると、自分を二人の人物が覗き込んでいることに気付いた。
 ジェレミーと、それから部下のクライヴだ。
「あれ……?」
 身体を起こしてみると、そこは彼が住んでいるマンションの弟の部屋だった。散らかっている部屋の床でベンジャミンは寝ていたらしい。
 今の今まで見ていたもの。子供の頃のこと、両親が殺された夜のこと。今のは、夢、だったのか?
「やったな、部長」
 クライヴが、目の前でちらちらと小さなビニール袋を振ってみせる。そこには二種類の薬が入っている。
「作戦成功だよ」
 ジェレミーも言った。
 ああ、そうか。ようやくベンジャミンは合点がいって、床の上に座り直して苦笑いをしてみせた。
「俺らの勝ちか」
「そうだよ」
 微笑むジェレミー。
 ベンジャミンの脳裏に、あの“虹炎(カラード・フレイム)”イグニスの姿が、少年時代の新しい記憶と共に鮮明に蘇った。あの夜、イグニスはとうとうベンジャミンとジェレミーを殺害するために強盗を突き動かしたのだった。
 操作された因果律により、両親と共に殺されるところを、兄弟は自らの力で運命を変え、そして生き残った。
「全部見てたぜ、よくやったな」
 クライヴが小さな目をパチパチやりながら言った。
「もう、奴が現れることはねえだろう」
「そうか、ありがとう」
言いながらベンジャミンは立ち上がった。「チームワークの勝利だな」
 クライヴは照れ隠しなのか、フンと鼻を鳴らす。
 二種類の薬を使って、少年時代のあの夜に行く──。クライヴの思いついた作戦だった。ジェレミーのドラッグとベンジャミンのγ−GDP値を下げる薬を同時に呑むと、ヴィクトリア時代の1888年に行くことが出来る、となれば、その1888年に薬を持参して呑めば、もう一度違う時代に行くことが出来るのではないか。
 かくして兄弟はそれを実行し、まんまと成功させたわけだった。
「クライヴってスゴイよね。超頭イイ」
「うるせえな」
 ジェレミーまでもが褒めるので、クライヴは照れているようだった。
 ベンジャミンは弟に視線を移し、安堵したように微笑んでみせる。
「ジェル、水鉄砲の中身は何だったんだ?」
「ああ、アレ?」
問われて、クスッと笑うジェレミー。「トウガラシ水だよ」
「催涙スプレーみたいなもんか」
「そうそう」
 兄弟は声を上げて笑った。二人は新しい少年時代の記憶を共有していた。不思議な感覚だったが、それが彼らの為したことなのだった。
「ジャム、もうオレはっきり覚えてるよ。ジャムがオレのこと助けてくれたこと。手の中から水鉄砲出したこと」
「ああ。お前はやっぱり凄いな。あんなに小さかったのに」
「まあね」
 照れたように笑うジェレミー。
 ありがとう、ともう一度言って、ベンジャミンは弟の肩を叩き、クライヴの肩にも触れた。
「よせよ。礼を言うなら、もう一人いるだろうが」
「もう一人? でも──」
「リビングで待ってるぜ?」
 クライヴは顎で部屋のドアをしゃくってみせた。
「何だって?」
 驚いたベンジャミンは、ドアを開けて足早にリビングルームに向かった。
 廊下を抜けると、きゃっ、きゃっ、とはしゃぐ子供の声も聞こえてきて、どういうことなのだとベンジャミンは先を急ぐ。
 彼が、リビングに足を踏み入れると、ソファのところに3人の人物がいるのが見えた。
 大きな窓から降り注ぐ光が、幼い男の子と女の子の二人と、若い男の姿を浮かび上がらせていた。誰なのだとベンジャミンは目を細め、そして静かに驚愕する。
 子供たちと彼は、遊んでいるのだろう。彼は──群青色の古風な礼服を着た若い男は、テーブルに置いてあった新聞を折ってつくった紙飛行機を子供たちに見せ、それを飛ばしてみせた。
 紙飛行機はひらひらと部屋の中を舞って、ベンジャミンの足元に落ちた。
「カーマイン」
 男は彼の曾々祖父。ヴィクトリア時代で王立闇法廷の筆頭裁判官を務めているはずの、カーマイン・クリストファー=アボットだった。
「やあ、ジャム」
 陽気に手を挙げられても、ベンジャミンは反応できない。彼がなぜ現代にいるのだ。どうやってこの世界に──

「パパ!」
 
 と、彼の思考は、とんでもない意味を含んだ言葉によって引き裂かれた。
 二人の子供がベンジャミンを見るなり、そう言って駆け寄ってきたのである。驚いている彼を全く意に介さず、子供は二人とも父親に向かって猛烈なタックルを繰り出したのだった。
 思わず後ろに倒れれば、男の子も女の子も大笑いして彼の顔をぴたぴたと手の平で叩いた。
「パパは、お寝坊さんだね」
「CCがずっと待ってたのに」
 ああ──そうか。
 ベンジャミンは微笑み、ゆっくりと身体を起こした。両方の手を伸ばして、二人の子供の頭を撫でてやる。
 ぼうっとして彼らの存在を忘れていた。しかしそれも新しい記憶なのだから仕方ない。
 彼らはベンジャミンとアイリーンの双子の子供だった。男の子の方はミルディン、女の子の方はモーガン。共に6才で、太陽のように元気で明るい子供たちだった。
「君がなかなか目を覚まさないものだから、少し心配したよ」
 ヴィクトリア時代の法廷弁護士(バリスター)は、落ち着いた仕草で紙飛行機を拾い、テーブルの上にきちんと置いた。
「一度ぐらいは、こちらの世界を覗いてみてもいいかなと思ってね」
 何か問おうとしたベンジャミンを手で制して、カーマイン。
「ミルディンとモーガンの件に関しては、僕が少しだけ手を入れた」
「手を入れた?」
「因果律とやらに、少々、な」
 カーマインは、片目をつむってみせた。
 彼の言葉は、ベンジャミンが言おうとした質問に先回りしたものだった。苦笑するベンジャミン。カーマインはそういう男だ。
 独りで考え、思考を重ね、決断力を持って実行する。
 今回のこともそうだった。クライヴから持ち込まれた計画を聞き、情報を集め思考を重ねてから、彼は自分の知識と神秘魔術を行使したのだ。カーマインの力が無ければ、ベンジャミンたちは強盗に襲われるあの夜にトリップ出来なかったということだ。
 ベンジャミンは立ち上がり、カーマインの前に立つ。以前から、そうではないかと思っていたこと。それを認めざるを得なかった。
「あんたは俺に似てるな」
「ようやく気付いたのか? 僕は出会ったときからずっとそう思っていたがね」
 二人は同時に口を歪めて笑う。
 ありがとう、とベンジャミンが右手を差し出せば、カーマインはしっかりとその手を握り返した。
 光が二人の姿を照らす。

 それは兄弟が闇の中から選びとった、未来でもあった。

 
■■■
 

 

Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2013