アナ・モリィ・グウェンドリン=シェリンガムとは、二人の兄弟の曾々祖母にあたる人物である。 120年前ほどにシェリンガム家の当主を務めていた女性であり、家を継いだ当時はベルフォード男爵位も保持していた。いわゆる女男爵だ。 男子の兄弟に恵まれず仕方なく跡目を継いだアナ・モリィだったが、彼女には一つの才能があった。 文章の才である。彼女は小説と評論を得意としていた。 そして才能と資産に恵まれた彼女は文学界を通して、痛烈に上流社会を批判することに人生を捧げた。ジョージ・バーナード・ショーをはじめとするフェビアン協会 ※ (1884年にロンドンで設立された社会主義団体。ジョージ・バーナード・ショウや、ウェッブ夫妻などが所属していたことでも有名。イギリス労働党と現在でも密接なかかわりを持つ。ちょっと「変わり者」の中産階級の若い知識人集団とでも思っておいてください。) の面々とも交流があり、彼女の名はその著作よりも文壇の世界における良きパトロンとして名高い。今でもシェリンガム家の親戚には労働党の関係者が多く、二人の兄弟の叔父にあたるダニエル=プレスコットなど最たる者で、彼は労働党の議員である。 ただし、アナ・モリィは少々革新的過ぎるきらいがあった。ガーディアン紙 ※ (中道左派と言われる日刊新聞。現在でも労働党の機関紙かと言われることしばしば。日本だと……毎日新聞みたいな位置づけでしょうか。) に連載した小説に実在の人物を模した様々なキャラクターを登場させたおかげで、中産階級の友人には恵まれたが、貴婦人としての上流社会の居場所を失った。あげくの果てには、新大陸で新しい事業を興すと息巻いた事業家に自分の男爵位を売り払ったりもした。 すなわち彼女は、男性との付き合いよりも創作とその支援活動を優先したのである。シェリンガム家随一の女傑、アナ・モリィは生涯結婚をしなかった。 にもかかわらず彼女には一人息子がいた。それが曾祖父のアーサーである。 アーサーの父親が誰なのか、アナ・モリィは口を閉ざしたまま最後まで語ることはなかった。それは彼女の著作の中でも同様である。
ベンジャミンは、弟をちらりと見る。──そのアナ・モリィの話が何だって? ジェレミーは、兄をきょとんと見る。──ジャムはどうしてあの話を知らないの?
兄の後ろに着いて部屋に足を踏み入れたジェレミーは、ぐるりと首を巡らせた。 そこは、椅子とテーブルと様々な凝った調度品が置かれている部屋だった。暗いランプの光の中に浮かび上がるのは、大理石か何かで出来た大きな暖炉。中で炎が赤々と燃えていた。そのマントルピースの上には陶器製の置物と、古くて高価そうなパイプが数本飾ってある。暖炉のすぐ横には分厚い本の並んだ壁付けの本棚があって、部屋の主役の座を暖炉と二分していた。 これは客間だな。と、ジェレミーは思った。彼らが子供のころ住んでいたロンドン郊外の邸宅に雰囲気がとてもよく似ている。 横目にチラリと見ると、ベンジャミンは難しい顔をして二人を部屋に招きいれた張本人、カーマイン=アボットを鋭い目つきで見ている。いや、睨みつけていると言ってもいいだろう。 「まあ、座りたまえ」 道端で自分たちを呼びとめ、ここまで連れてきた青年紳士は、にこやかに二人を長椅子に座るように促した。館の主人らしい優雅な振る舞いを見せながら。 「今、飲み物を用意させよう」 そう言うと、ドアのそばに立っていた黒いスーツの男に目配せをする。おごそかに一礼した執事はドアを開け、明かりの届かない暗闇の向こうへと姿を消して行った。 カーマインはステッキをつきながら長椅子とは反対側の椅子に腰掛けた。ロココ調の細足の椅子である。ベンジャミンも無言で長椅子に腰掛けた。ジェレミーが入口のすぐ横にあったウォールナット製(胡桃)のキャビネットの中に飾ってある人形に気を取られていると、おい、ジェル、ここに座れ、と声を掛けて呼びつける。 ジェレミーは、戸棚を開けたい気持ちをひとまず抑えて、おとなしく兄の隣りに腰掛けた。 ──結局、シェリンガム兄弟は馬車に乗ってからまともな会話をしていない。というより、カーマインが常にそばにいるため、兄弟はお互いが持っている彼に関する情報をやりとりする時間をとることが出来なかったのだ。
「さて」 カーマインは、ゆったりと足を組んだ。「お茶は、しばらく時間がかかるだろうが、僕は非常にせっかちでね。さっそく質問をさせてもらっていいかな、ベンジャミン」 「構わんよ。俺たちのターンを用意してくれてるんだろうからな」 きちんと背筋を伸ばしたまま、答えるベンジャミン。 「もちろんだ。有り難う。では、僕の方から先に聞かせてもらおう」 二人の視線が真っ直ぐにぶつかった。その場の空気がみるみるうちに緊迫していく中で、間に入れないジェレミーはそわそわと落ち着かない様子を見せ始めた。長椅子の艶やかな袖木を撫でてみたり、首を伸ばすなどして窓の外へ視線をやったりする。 「一つ、君たちはどこから来た?」 カーマインはベンジャミンだけを見据えながら言った。 「二つ、君たちは何故、あの人狼と戦っていた?」 ふーっとスコットランドヤードの警視は長く息を吐いた。 「俺たちはイングランド人だし、れっきとしたロンドン市民だ。それからあの女は、未解決の殺人事件の容疑者だ。だから逮捕・拘束を試みていただけだ」 ……アイリーンの話はしないのかな? ジェレミーは二人の顔を代わる代わる見ながら思った。 「いい答えだ。君は優秀だな」 カーマインは微笑んだ。言いながら、どうぞ、と手の平をベンジャミンに向け、質問を促した。 ベンジャミンは、よどみなく言葉を発する。ジェレミーは知らなかったが、それはまさに彼が容疑者の取り調べの時に見せる顔つきそのままだった。 「今年は、西暦何年になる?」 「1888年だ」 ガチャリとドアが開いて、先ほどの執事がティーセットを持って入ってきた。二人が口を閉じ、シン、と静まり返った室内。テーブルに置かれるカップが立てる音がいやによく響く。 このティーセット、きっとマイセンか何かだ。ジェレミーは執事の顔を覗きこむようにして見る。ハロッズ ※ (ロンドンにある高級百貨店。日本にもありますよ。) で売ってるやつだ。……あ、執事のおじさん何か嫌そうな顔してる。 「では、次は僕の番だな」 ジェレミーの視線を受けながら執事が一礼し、扉を閉めて去っていく。それを目だけで見送ったカーマインはなぜかニッコリと微笑んだ。そして鋭く、次の質問を言い放った。
「さて、それでは教えてくれ。君たちは、何年後の世界から来たんだ?」
「──ええっ!?」 いきなり核心を突くような質問に、びっくり仰天とばかりに驚いてしまったのはジェレミーだ。彼はちょうどティーカップの細い取っ手に指をかけようとしていたところで、紅茶をこぼしそうになる。 「ど、どうして、それが分かるの!?」 思わず声を上げると、隣りでベンジャミンがジーザスと呻きながら額を押さえた。 しかしジェレミーは、途端に笑顔になって身を乗り出した。 「そうそう、そうなんだよ! 俺たち未来のロンドンから来たんだよ。いわゆる未来人ってやつ? 俺の持ってるドラッグと、ジャムの持ってる胃薬が反応して、つまり俺たちはラリッてるわけなんだけど、なぜか時間を越えてこの時代に……」 「あれは胃薬じゃなくて肝臓の薬だ」 面倒くさそうに突っ込むベンジャミン。しかしジェレミーの耳には届かない。 「スッゲー! やっぱり頭いいんだね。俺知ってるよ。カーミィは法廷弁護士(バリスター) ※ (要するに弁護士です。イギリスには二種類の弁護士が居て、裁判所における法廷弁論権を持つ法廷弁護士と、訴訟を行う権限を持つ事務弁護士というのがいるのです。あ、ちなみにモーツァルトみたいなかつら被ります。) なんだもんね?」 「え?」 他の二人は、驚いたようにジェレミーを見た。いきなりの弟の発言に、ベンジャミンなどは滑稽なほど目を見開いている。 「カーミィとは僕のことか?」 「うん」 「ジェレミー。君は、僕の何を知ってる?」 「待て! 俺たちが質問する番だぞ!」 二人の視線の間に身を乗り出すようにして、ベンジャミンはその言葉を止めた。振り返り、弟を睨みつける。お前は黙ってろ、と。 「ベンジャミン。君の方こそルール違反だ」 しかし冷静さを取り戻したのはカーマインが先だった。乗り出した半身を戻してまた笑顔になる。 「君たちは僕の先ほどの質問に答えていない。いいか、もう一度問う。君たちは今から何年後の世界から来たんだ?」 「……」 悔しそうな顔をするベンジャミン。仕方なく、のろのろと答えた。「118年後だ。俺たちは2006年のロンドンで生活してる」 「なるほど。では、あの人狼は2006年のロンドンにおいて殺人を犯した女なのだな」 したり顔で、うなづく青年紳士。 客観的に見れば、118年後のロンドンから来たなどという荒唐無稽な話を政府の役人が信じるはずがない。そんな話をすぐ信じるのは馬鹿かキ印だけだ。目の前の男を信用するのは危険だ、と、冷静なベンジャミンなら思っただろう。 「はい、次。俺が質問したい!」 しかし彼はたび重なる弟の発言に判断力を失った。止める間もなく、ジェレミーは嬉々とした様子で質問を言い放った。 「カーミィは、アナ・モリィを知ってるよね?」 「何?」 すると一転、カーマインは眉間に皺を寄せ、怪訝な目をしてジェレミーを見た。その後には不自然な沈黙が続く。 カーマインが浮かべたのは、まるで、遊びに熱中していた子どもが、帰る時間を聞かされたような表情である。今までとは種類の違う表情だ。 「……知っているよ。ちょっとした有名人だからな」 ようやく答える。その態度は動揺の表れだったのかもしれない。ベンジャミンは最初に名乗ったときのカーマインの反応を思い出した。 シェリンガムと名乗った時に、何か知っている様子ではなかったか? なぜだ? なぜ、この男が俺たちの曾々祖母のことを話すときにこんな反応をするんだ? アナ・モリィは1859年生まれだから、今が1888年なら29才のはずだが……。 「知ってはいる。知ってはいるが、君たちは彼女の何なんだ?」 まさか! ベンジャミンは一瞬にして恐ろしい考えに思い至った。 「曾々孫だよ」 カーマインに、けろりとジェレミーが答える。 「曾々孫? ということは彼女が子どもを産むのか?」 「そうだよ。一人だけ」 カーマインは真剣な眼差しになった。 「待ってくれ。まさか、その父親というのは──」
「待て! 言うな、ジェル!」
突然、ベンジャミンは机を叩き、叫んだ。その大声と剣幕に驚いたジェレミーは、ひゃあと情けない声を上げて縮こまった。 テーブルの上でガシャンとティーカップが騒動を起こした。が、それがやがて静まっていき、部屋の中にはまた静寂が訪れる。 無言のカーマイン。はあはあと息を付きながら弟を睨みつけるのはベンジャミンだ。ジェレミーは上目遣いになって、申し訳ないと身体全体で意思表示しながら兄を見る。 「大声は立てないでくれ」 十分な間を開けてから、静かにカーマインが言った。 「すまなかった」 「面白いな、君たちは」 真顔だった青年紳士は、フ、と笑い表情を崩した。 「そこまで言われれば分かるよ。彼女の子どもの父親は僕なんだな?」 「ちち違う。違うよ、そんな話は俺はひとつも聞いたことがない」 珍しくドモりながら言い繕うベンジャミン。さすがの彼も話の展開に動揺しまくっている。彼の中ではどうしてこういうことになってしまったのか全く分からないのだ。 「滅多なことを言うな、ジェル。可哀相じゃないか。彼が、お、驚いてるんじゃないか」 「動揺してるのは君だけだよ」 カーマインは兄に鋭く突っ込みを入れながら、片目を弟に向けてつむってみせる。「なあ、君もそう思うだろう? ジェル。君は僕とモリィのことを誰から聞いたんだ?」 「ダニエル叔父さん」 兄の方を恐々と見ながら言うジェレミー。ひるんだままのベンジャミンの様子を見て、視線をカーマインに戻し話し始める。 「アナ・モリィが付き合ってた男はカーミィぐらいしかいないんだって。カーミィは法廷弁護士(バリスター)で、アボット家は代々ウェントワース伯爵の称号を継承してる名門貴族だって聞いたよ。だから叔父さんは、シェリンガム家には優秀な血が流れているんだからお前もそうならなくちゃならんって」 「何だ、ゴシップの類か」 半ば安心したように、ベンジャミンが口を挟んだ。話の出所が叔父のダニエルだということが分かり、話の信憑性の程度を彼なりに把握したのだろう。 「俺たちの親父やお袋は、そんな話を一言もしてなかったぞ。叔父さんは、そういった話が好きだから、お前にそんなことを……」 「いや」 と、そこで言葉を挟んだのはカーマイン当人だった。 「あながちゴシップとは言えんな。残念ながら」 「えっ、じゃあやっぱりアナ・モリィと付き合ってんの?」 間髪入れず、質問したのはジェレミーだ。 すると、彼はニヤリと笑った。何か悪戯を仕掛けるときのような、そんな笑みだ。二人の兄弟の顔を代わる代わる見ながら続ける。 「紳士と淑女の関係で交際しているのかという意味の質問だったら、答えはノーだ。しかし、そういう意味でないのなら、答えはイエスだ。僕も彼女のことは嫌いじゃないし、彼女も僕のことを好いているようだ」 「ど、どうしてそう言い切れるの?」 「僕が彼女の身体のどこに触れても、彼女が嫌がらないからだよ」 また額を押さえるベンジャミン。ジェレミーは、スゲーを連発した。 「確かに、僕以外に彼女とそういった関係になれる男はまず居ないだろう。あの風体に加え、彼女は“悪夢”だからな。並の男じゃあ歯が立たん」 「あの風体?」 「おい。悪夢(バッド・ドリーム)とは、どういう意味だよ」 ムッとしたように言い返したのはベンジャミンだ。本当にカーマインが曾々祖父なのかどうかは分からないが、アナ・モリィのことまで悪く言われるのは非常に心外だったからだ。 彼の様子を見てカーマインは自分の失言に気付いたのか、なだめるような口調になった。 「そうじゃない。“夢魔(ナイトメア)”だと言ったんだ。彼女には他人に白昼夢を見せたり、眠ってる人間の夢に潜り込んだりできる能力があるんだよ」 「そんなバカな!」 ベンジャミンは怒ったように言葉を荒げた。半ば尊敬すらしている先祖、シェリンガム家の誇るアナ・モリィに対して、妙な言いがかりをつけるなんて。 「俺たちの先祖を化け物扱いする気か!? いくら何でも──」 「──ベンジャミン!!」 しかし、彼を上回るような恐ろしい声音を放ったのは、カーマインだった。
「そういった言い方はやめろ」
それは彼には珍しい強い言葉だった。さすがのベンジャミンもその剣幕に押されて口をつぐむ。言ってはいけないことを言ってしまったようだったが、そもそもアナ・モリィを侮辱するようなことを口走ったのはカーマインではないか? 釈然としないベンジャミンの様子に、カーマインも怒りを抑え、自分が声を荒げたことを恥じたようだった。気持ちを落ち着けるように、長く息を吐いてしばらく。 少しの間を開けてから、彼は静かに顔を上げた。 「いいか? 人間が誰しも道を踏み外し犯罪に手を染める可能性があるように、人間は誰しも月妖になる可能性があるんだ。それを化け物だとかいう短絡的な言葉で片付けて欲しくない」 鋭い目をベンジャミンに向ける。 「君も、そして僕も、人々の恐怖の対象に成り得るということだ。それを忘れるな」
「──じゃあ、俺は?」
にらみ合っていた二人は、ふと視線を解いた。横ではジェレミーがニコニコしながら自分の顔を指差している。 「俺も月妖なんでしょ? さっきそう言ってたよね」 ジェレミーはその場の雰囲気などおかまいなしに、右手の掌を開いて見せた。その上にティーカップがパッと現れる。テーブルに載っていたはずのマイセンだ。 「ね? これが夢を見せてるってことなんでしょ」 一瞬の間があった。そんなジェレミーを見て、フッと最初に頬を緩めたのはベンジャミンだった。それにつられてカーマインも表情を和らげる。 「そうだな」 椅子の背に背中をつけて、この館の主は最初のときのように微笑んだ。ジェレミーの他愛のない一言で、一瞬にして雰囲気が和んでしまった。ベンジャミンも自分の膝を掴んでいた両手を弛めて、背を伸ばしながら弟を見て微笑む。 「せっかくの紅茶が冷めてしまう。アボット邸では冷めた紅茶しか飲めないと言われたら僕の恥だ。さあ、口をつけてくれたまえ」 と、カーマインはニヤりとしながら付け加える。 「そうそう、少しばかり毒を入れてあるが、君たちなら耐えられるさ」 「参考までに、どういう毒が入ってるのか聞いてもいいか」 言いながらベンジャミンもティーカップを初めて手にした。もう態度に険はない。 「飲むと月妖になるんだよ」 「アハ。それなら、もうなってるから大丈夫だね」 三人は声を上げて笑った。
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