Chapter3  王立闇法廷


Chapter3-3 彼女は悪夢


 アナ・モリィ・グウェンドリン=シェリンガムとは、二人の兄弟の曾々祖母にあたる人物である。
 120年前ほどにシェリンガム家の当主を務めていた女性であり、家を継いだ当時はベルフォード男爵位も保持していた。いわゆる女男爵だ。
 男子の兄弟に恵まれず仕方なく跡目を継いだアナ・モリィだったが、彼女には一つの才能があった。
 文章の才である。彼女は小説と評論を得意としていた。
 そして才能と資産に恵まれた彼女は文学界を通して、痛烈に上流社会を批判することに人生を捧げた。ジョージ・バーナード・ショーをはじめとするフェビアン協会  (1884年にロンドンで設立された社会主義団体。ジョージ・バーナード・ショウや、ウェッブ夫妻などが所属していたことでも有名。イギリス労働党と現在でも密接なかかわりを持つ。ちょっと「変わり者」の中産階級の若い知識人集団とでも思っておいてください。) の面々とも交流があり、彼女の名はその著作よりも文壇の世界における良きパトロンとして名高い。今でもシェリンガム家の親戚には労働党の関係者が多く、二人の兄弟の叔父にあたるダニエル=プレスコットなど最たる者で、彼は労働党の議員である。
 ただし、アナ・モリィは少々革新的過ぎるきらいがあった。ガーディアン紙  (中道左派と言われる日刊新聞。現在でも労働党の機関紙かと言われることしばしば。日本だと……毎日新聞みたいな位置づけでしょうか。) に連載した小説に実在の人物を模した様々なキャラクターを登場させたおかげで、中産階級の友人には恵まれたが、貴婦人としての上流社会の居場所を失った。あげくの果てには、新大陸で新しい事業を興すと息巻いた事業家に自分の男爵位を売り払ったりもした。
 すなわち彼女は、男性との付き合いよりも創作とその支援活動を優先したのである。シェリンガム家随一の女傑、アナ・モリィは生涯結婚をしなかった。
 にもかかわらず彼女には一人息子がいた。それが曾祖父のアーサーである。
 アーサーの父親が誰なのか、アナ・モリィは口を閉ざしたまま最後まで語ることはなかった。それは彼女の著作の中でも同様である。


 ベンジャミンは、弟をちらりと見る。──そのアナ・モリィの話が何だって?
 ジェレミーは、兄をきょとんと見る。──ジャムはどうしてあの話を知らないの?


 兄の後ろに着いて部屋に足を踏み入れたジェレミーは、ぐるりと首を巡らせた。
 そこは、椅子とテーブルと様々な凝った調度品が置かれている部屋だった。暗いランプの光の中に浮かび上がるのは、大理石か何かで出来た大きな暖炉。中で炎が赤々と燃えていた。そのマントルピースの上には陶器製の置物と、古くて高価そうなパイプが数本飾ってある。暖炉のすぐ横には分厚い本の並んだ壁付けの本棚があって、部屋の主役の座を暖炉と二分していた。
 これは客間だな。と、ジェレミーは思った。彼らが子供のころ住んでいたロンドン郊外の邸宅に雰囲気がとてもよく似ている。
 横目にチラリと見ると、ベンジャミンは難しい顔をして二人を部屋に招きいれた張本人、カーマイン=アボットを鋭い目つきで見ている。いや、睨みつけていると言ってもいいだろう。
「まあ、座りたまえ」
 道端で自分たちを呼びとめ、ここまで連れてきた青年紳士は、にこやかに二人を長椅子に座るように促した。館の主人らしい優雅な振る舞いを見せながら。
「今、飲み物を用意させよう」
 そう言うと、ドアのそばに立っていた黒いスーツの男に目配せをする。おごそかに一礼した執事はドアを開け、明かりの届かない暗闇の向こうへと姿を消して行った。
 カーマインはステッキをつきながら長椅子とは反対側の椅子に腰掛けた。ロココ調の細足の椅子である。ベンジャミンも無言で長椅子に腰掛けた。ジェレミーが入口のすぐ横にあったウォールナット製(胡桃)のキャビネットの中に飾ってある人形に気を取られていると、おい、ジェル、ここに座れ、と声を掛けて呼びつける。
 ジェレミーは、戸棚を開けたい気持ちをひとまず抑えて、おとなしく兄の隣りに腰掛けた。
 ──結局、シェリンガム兄弟は馬車に乗ってからまともな会話をしていない。というより、カーマインが常にそばにいるため、兄弟はお互いが持っている彼に関する情報をやりとりする時間をとることが出来なかったのだ。

「さて」
 カーマインは、ゆったりと足を組んだ。「お茶は、しばらく時間がかかるだろうが、僕は非常にせっかちでね。さっそく質問をさせてもらっていいかな、ベンジャミン」
「構わんよ。俺たちのターンを用意してくれてるんだろうからな」
 きちんと背筋を伸ばしたまま、答えるベンジャミン。
「もちろんだ。有り難う。では、僕の方から先に聞かせてもらおう」
 二人の視線が真っ直ぐにぶつかった。その場の空気がみるみるうちに緊迫していく中で、間に入れないジェレミーはそわそわと落ち着かない様子を見せ始めた。長椅子の艶やかな袖木を撫でてみたり、首を伸ばすなどして窓の外へ視線をやったりする。
「一つ、君たちはどこから来た?」
カーマインはベンジャミンだけを見据えながら言った。
「二つ、君たちは何故、あの人狼と戦っていた?」
 ふーっとスコットランドヤードの警視は長く息を吐いた。
「俺たちはイングランド人だし、れっきとしたロンドン市民だ。それからあの女は、未解決の殺人事件の容疑者だ。だから逮捕・拘束を試みていただけだ」
 ……アイリーンの話はしないのかな? ジェレミーは二人の顔を代わる代わる見ながら思った。
「いい答えだ。君は優秀だな」
 カーマインは微笑んだ。言いながら、どうぞ、と手の平をベンジャミンに向け、質問を促した。
 ベンジャミンは、よどみなく言葉を発する。ジェレミーは知らなかったが、それはまさに彼が容疑者の取り調べの時に見せる顔つきそのままだった。
「今年は、西暦何年になる?」
「1888年だ」
 ガチャリとドアが開いて、先ほどの執事がティーセットを持って入ってきた。二人が口を閉じ、シン、と静まり返った室内。テーブルに置かれるカップが立てる音がいやによく響く。
 このティーセット、きっとマイセンか何かだ。ジェレミーは執事の顔を覗きこむようにして見る。ハロッズ  (ロンドンにある高級百貨店。日本にもありますよ。) で売ってるやつだ。……あ、執事のおじさん何か嫌そうな顔してる。
「では、次は僕の番だな」
 ジェレミーの視線を受けながら執事が一礼し、扉を閉めて去っていく。それを目だけで見送ったカーマインはなぜかニッコリと微笑んだ。そして鋭く、次の質問を言い放った。

「さて、それでは教えてくれ。君たちは、何年後の世界から来たんだ?」

「──ええっ!?」
  いきなり核心を突くような質問に、びっくり仰天とばかりに驚いてしまったのはジェレミーだ。彼はちょうどティーカップの細い取っ手に指をかけようとしていたところで、紅茶をこぼしそうになる。
「ど、どうして、それが分かるの!?」
 思わず声を上げると、隣りでベンジャミンがジーザスと呻きながら額を押さえた。
 しかしジェレミーは、途端に笑顔になって身を乗り出した。
「そうそう、そうなんだよ! 俺たち未来のロンドンから来たんだよ。いわゆる未来人ってやつ? 俺の持ってるドラッグと、ジャムの持ってる胃薬が反応して、つまり俺たちはラリッてるわけなんだけど、なぜか時間を越えてこの時代に……」
「あれは胃薬じゃなくて肝臓の薬だ」
面倒くさそうに突っ込むベンジャミン。しかしジェレミーの耳には届かない。
「スッゲー! やっぱり頭いいんだね。俺知ってるよ。カーミィは法廷弁護士(バリスター)  (要するに弁護士です。イギリスには二種類の弁護士が居て、裁判所における法廷弁論権を持つ法廷弁護士と、訴訟を行う権限を持つ事務弁護士というのがいるのです。あ、ちなみにモーツァルトみたいなかつら被ります。) なんだもんね?」
「え?」
 他の二人は、驚いたようにジェレミーを見た。いきなりの弟の発言に、ベンジャミンなどは滑稽なほど目を見開いている。
「カーミィとは僕のことか?」 
「うん」
「ジェレミー。君は、僕の何を知ってる?」
「待て! 俺たちが質問する番だぞ!」
 二人の視線の間に身を乗り出すようにして、ベンジャミンはその言葉を止めた。振り返り、弟を睨みつける。お前は黙ってろ、と。
「ベンジャミン。君の方こそルール違反だ」
 しかし冷静さを取り戻したのはカーマインが先だった。乗り出した半身を戻してまた笑顔になる。
「君たちは僕の先ほどの質問に答えていない。いいか、もう一度問う。君たちは今から何年後の世界から来たんだ?」
「……」
 悔しそうな顔をするベンジャミン。仕方なく、のろのろと答えた。「118年後だ。俺たちは2006年のロンドンで生活してる」
「なるほど。では、あの人狼は2006年のロンドンにおいて殺人を犯した女なのだな」
 したり顔で、うなづく青年紳士。
 客観的に見れば、118年後のロンドンから来たなどという荒唐無稽な話を政府の役人が信じるはずがない。そんな話をすぐ信じるのは馬鹿かキ印だけだ。目の前の男を信用するのは危険だ、と、冷静なベンジャミンなら思っただろう。
「はい、次。俺が質問したい!」
 しかし彼はたび重なる弟の発言に判断力を失った。止める間もなく、ジェレミーは嬉々とした様子で質問を言い放った。
「カーミィは、アナ・モリィを知ってるよね?」
「何?」
 すると一転、カーマインは眉間に皺を寄せ、怪訝な目をしてジェレミーを見た。その後には不自然な沈黙が続く。
 カーマインが浮かべたのは、まるで、遊びに熱中していた子どもが、帰る時間を聞かされたような表情である。今までとは種類の違う表情だ。
「……知っているよ。ちょっとした有名人だからな」
 ようやく答える。その態度は動揺の表れだったのかもしれない。ベンジャミンは最初に名乗ったときのカーマインの反応を思い出した。
 シェリンガムと名乗った時に、何か知っている様子ではなかったか?
 なぜだ? なぜ、この男が俺たちの曾々祖母のことを話すときにこんな反応をするんだ? アナ・モリィは1859年生まれだから、今が1888年なら29才のはずだが……。
「知ってはいる。知ってはいるが、君たちは彼女の何なんだ?」
 まさか! ベンジャミンは一瞬にして恐ろしい考えに思い至った。
「曾々孫だよ」
 カーマインに、けろりとジェレミーが答える。
「曾々孫? ということは彼女が子どもを産むのか?」
「そうだよ。一人だけ」
カーマインは真剣な眼差しになった。
「待ってくれ。まさか、その父親というのは──」

「待て! 言うな、ジェル!」

 突然、ベンジャミンは机を叩き、叫んだ。その大声と剣幕に驚いたジェレミーは、ひゃあと情けない声を上げて縮こまった。
 テーブルの上でガシャンとティーカップが騒動を起こした。が、それがやがて静まっていき、部屋の中にはまた静寂が訪れる。
 無言のカーマイン。はあはあと息を付きながら弟を睨みつけるのはベンジャミンだ。ジェレミーは上目遣いになって、申し訳ないと身体全体で意思表示しながら兄を見る。
「大声は立てないでくれ」
 十分な間を開けてから、静かにカーマインが言った。
「すまなかった」
「面白いな、君たちは」
 真顔だった青年紳士は、フ、と笑い表情を崩した。
「そこまで言われれば分かるよ。彼女の子どもの父親は僕なんだな?」
「ちち違う。違うよ、そんな話は俺はひとつも聞いたことがない」
 珍しくドモりながら言い繕うベンジャミン。さすがの彼も話の展開に動揺しまくっている。彼の中ではどうしてこういうことになってしまったのか全く分からないのだ。
「滅多なことを言うな、ジェル。可哀相じゃないか。彼が、お、驚いてるんじゃないか」
「動揺してるのは君だけだよ」
 カーマインは兄に鋭く突っ込みを入れながら、片目を弟に向けてつむってみせる。「なあ、君もそう思うだろう? ジェル。君は僕とモリィのことを誰から聞いたんだ?」
「ダニエル叔父さん」
 兄の方を恐々と見ながら言うジェレミー。ひるんだままのベンジャミンの様子を見て、視線をカーマインに戻し話し始める。
「アナ・モリィが付き合ってた男はカーミィぐらいしかいないんだって。カーミィは法廷弁護士(バリスター)で、アボット家は代々ウェントワース伯爵の称号を継承してる名門貴族だって聞いたよ。だから叔父さんは、シェリンガム家には優秀な血が流れているんだからお前もそうならなくちゃならんって」
「何だ、ゴシップの類か」
 半ば安心したように、ベンジャミンが口を挟んだ。話の出所が叔父のダニエルだということが分かり、話の信憑性の程度を彼なりに把握したのだろう。
「俺たちの親父やお袋は、そんな話を一言もしてなかったぞ。叔父さんは、そういった話が好きだから、お前にそんなことを……」
「いや」
 と、そこで言葉を挟んだのはカーマイン当人だった。
「あながちゴシップとは言えんな。残念ながら」
「えっ、じゃあやっぱりアナ・モリィと付き合ってんの?」
 間髪入れず、質問したのはジェレミーだ。
 すると、彼はニヤリと笑った。何か悪戯を仕掛けるときのような、そんな笑みだ。二人の兄弟の顔を代わる代わる見ながら続ける。
「紳士と淑女の関係で交際しているのかという意味の質問だったら、答えはノーだ。しかし、そういう意味でないのなら、答えはイエスだ。僕も彼女のことは嫌いじゃないし、彼女も僕のことを好いているようだ」
「ど、どうしてそう言い切れるの?」
「僕が彼女の身体のどこに触れても、彼女が嫌がらないからだよ」
 また額を押さえるベンジャミン。ジェレミーは、スゲーを連発した。
「確かに、僕以外に彼女とそういった関係になれる男はまず居ないだろう。あの風体に加え、彼女は“悪夢”だからな。並の男じゃあ歯が立たん」
「あの風体?」
「おい。悪夢(バッド・ドリーム)とは、どういう意味だよ」
 ムッとしたように言い返したのはベンジャミンだ。本当にカーマインが曾々祖父なのかどうかは分からないが、アナ・モリィのことまで悪く言われるのは非常に心外だったからだ。
 彼の様子を見てカーマインは自分の失言に気付いたのか、なだめるような口調になった。
「そうじゃない。“夢魔(ナイトメア)”だと言ったんだ。彼女には他人に白昼夢を見せたり、眠ってる人間の夢に潜り込んだりできる能力があるんだよ」
「そんなバカな!」
 ベンジャミンは怒ったように言葉を荒げた。半ば尊敬すらしている先祖、シェリンガム家の誇るアナ・モリィに対して、妙な言いがかりをつけるなんて。
「俺たちの先祖を化け物扱いする気か!? いくら何でも──」
「──ベンジャミン!!」
 しかし、彼を上回るような恐ろしい声音を放ったのは、カーマインだった。

「そういった言い方はやめろ」

 それは彼には珍しい強い言葉だった。さすがのベンジャミンもその剣幕に押されて口をつぐむ。言ってはいけないことを言ってしまったようだったが、そもそもアナ・モリィを侮辱するようなことを口走ったのはカーマインではないか?
 釈然としないベンジャミンの様子に、カーマインも怒りを抑え、自分が声を荒げたことを恥じたようだった。気持ちを落ち着けるように、長く息を吐いてしばらく。
 少しの間を開けてから、彼は静かに顔を上げた。
「いいか? 人間が誰しも道を踏み外し犯罪に手を染める可能性があるように、人間は誰しも月妖になる可能性があるんだ。それを化け物だとかいう短絡的な言葉で片付けて欲しくない」
 鋭い目をベンジャミンに向ける。
「君も、そして僕も、人々の恐怖の対象に成り得るということだ。それを忘れるな」

「──じゃあ、俺は?」

 にらみ合っていた二人は、ふと視線を解いた。横ではジェレミーがニコニコしながら自分の顔を指差している。
「俺も月妖なんでしょ? さっきそう言ってたよね」
 ジェレミーはその場の雰囲気などおかまいなしに、右手の掌を開いて見せた。その上にティーカップがパッと現れる。テーブルに載っていたはずのマイセンだ。
「ね? これが夢を見せてるってことなんでしょ」
 一瞬の間があった。そんなジェレミーを見て、フッと最初に頬を緩めたのはベンジャミンだった。それにつられてカーマインも表情を和らげる。
「そうだな」
 椅子の背に背中をつけて、この館の主は最初のときのように微笑んだ。ジェレミーの他愛のない一言で、一瞬にして雰囲気が和んでしまった。ベンジャミンも自分の膝を掴んでいた両手を弛めて、背を伸ばしながら弟を見て微笑む。
「せっかくの紅茶が冷めてしまう。アボット邸では冷めた紅茶しか飲めないと言われたら僕の恥だ。さあ、口をつけてくれたまえ」
 と、カーマインはニヤりとしながら付け加える。
「そうそう、少しばかり毒を入れてあるが、君たちなら耐えられるさ」
「参考までに、どういう毒が入ってるのか聞いてもいいか」
 言いながらベンジャミンもティーカップを初めて手にした。もう態度に険はない。
「飲むと月妖になるんだよ」
「アハ。それなら、もうなってるから大丈夫だね」
 三人は声を上げて笑った。


 「さて、そろそろもういいだろう。改めて、僕のことを話させてくれ」
 紅茶を飲み終えたジェレミーが、棚の中の人形を見たいと言うのを許可したあと、カーマインはゆっくりと組んでいた足を解いた。息をつきながら袖木に寄りかかりベンジャミンの顔を見る。
 もはやその態度は完全にリラックスしている。まるで身内に対して話しているような口調だ。
「この際、君たちと僕が血のつながりがあるのかどうかといったことは脇に置いておこう。僕が君たちを招待したのは、何かの繋がりのようなものを感じたからだ」
「繋がり?」
 触れたくない話題を避けてくれるのは、有難かった。ベンジャミンは静かに問い返した。
「文学的に言うなら“運命の糸”だ」
片目をつむってカーマイン。「要するに君たちの顔にピンと来たんだよ」
「ん、俺も感じたよ。なんかピンと来たね」
 そう言われても……、と返事に窮しているベンジャミンの代わりにジェレミーが椅子に戻って来ながら言った。手にはロシア風の服装をした木彫の人形を持っている。
 ジェレミーの手から、ごく自然に人形を取り返すカーマイン。
「僕が何の仕事をしているか知っているだろう?」
「王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)。月妖を見張る機関だと、さっき自分で言っていた」
「そうだ。こういった話はジャムの方が良いようだな」
「おい、気安く呼ぶなよ」
「その王立闇法廷なんだが」
 カーマインは、ベンジャミンの抗議を全く意に介さず続けた。手にしていたロシア風人形をテーブルの上に丁寧に置く。
「この組織は、月妖が絡んでいる凶悪犯罪に対し、政府として対策に乗り出すために三ヶ月前に設立されたばかりなんだ」
 彼は上品な仕草でカップの紅茶を手に取ると、一口飲んだ。
「確かに僕に与えられた権限は絶大でね。僕と、王立闇法廷の構成員には逮捕権と司法権を与えられている。説明しなくても分かるな? 問題を起こした対象をその場で裁いても構わんということだよ。法の外に生きる月妖たちであっても、国民であることには代わりはない。だから政府は、王立闇法廷を設立して、月妖を必要最低限の──オンボロで穴だらけの法の傘の下に入れてやろうと考えたのさ。だがな」
 皮肉めいた言葉のあとには、ひょいと肩をすくめて見せる。
「僕たちは、今だに専用の法廷すら持っていない。中央刑事裁判所(オールドベイリー)を夜間だけ間借りしているんだよ。信じられるかい? とはいえ問題はそこではない。一番の問題は、優秀な人材が慢性的に不足しているということだ。仕事は危険を極めるし、行方不明になる者や任務から逃亡するものも珍しくない。最初に集めた100人強の構成員が、今や半数近くに落ちている。これは僕の予想を完全に上回っていたよ」
 そこで言葉を止め、二人の兄弟を見る。
「さて、僕が何を言いたいか分かるんじゃないか。賢明なるベンジャミン?」
 ジェレミーは兄の顔を横目で見た。ベンジャミンは紅茶のカップをソーサーに置き、だんだんと嫌そうな顔になっていく。
「待てよ」
 チラと弟の顔を見る。
「俺たちは暇じゃない」
「時間については、君たちの余暇を使ってくれれば構わないと思っている」
「その余暇がないと言っているんだ」
 さすがのジェレミーも話の流れがわかってきた。しかし彼は、別にいいんじゃないの? というように二人の顔を見比べている。
「断るのか?」
「断る」
 愉快そうに余裕の笑みを浮かべながら尋ねるカーマインに、ベンジャミンははっきりと答えた。
「そうか。なら、アナ・モリィを拒絶してやる」
「エェッ!」
 そこで驚いたように声を上げたのはジェレミーだ。
「アナ・モリィが僕を訪ねてきても、もう二度と会わない。手紙の返事も出さんぞ」
「そんな! さっきその話は脇に置いておくって……」
「ああ。だから今、手元に戻した」
「困るよ、カーミィ」
「困るなら、僕の仕事を手伝ってくれ」
「俺はいいよ」
「君だけじゃ駄目だ」
 と、ゆっくりと視線を兄に戻す。ベンジャミンは歯軋りでもせんがばかりに相手の顔をにらみつけている。先ほど和んだ雰囲気は、すでに台無しだ。
 この辺りになって、彼はようやく自分がどういった性格をした相手の家に招かれたのかを知った。王立闇法廷の事務総局長兼筆頭裁判官とは、なかなかどうしてこしゃくな男ではないか。
「それは脅迫か」
「そうとも言う」
「あんたがアナ・モリィの子供の父親だという証拠はない」
「確かに。証拠は無いな」
 そう言い終えると、言葉を切り沈黙するカーマイン。ただ無言で、相手の顔を見ながら微笑んでいる。自分から続きを言う気はないのだ。しばらく相手の目を見ていたベンジャミンは、観念したように大きく息を吐いた。
 憎々しげにカーマインに尋ねる。
「俺たちに報酬はあるのか?」
「シェリンガム家が滅びないで済む」
 その言葉を聞いてベンジャミンが抗議しようとする前に軽く手を挙げて、「まあまあ、それだけじゃない。何でもいいから君たちの望みを言ってみろ。あのモリィの子孫なら金には困っていないだろう? 知りたいことがあればいくらでも教えてやろう」
 ──知りたいこと?
 視線を床に落とすベンジャミン。知りたいことならいくらでもある。しかしそれはカーマインのような男に聞いて良いこととはどうしても思えないのだ。
「ねえ、ジャム」
 ジェレミーはジェレミーで、そんな風に物思いにふけった兄の横顔をじっと見つめていた。
「アイリーンのこと、聞いてみたら?」
「ジェル!」
小声だが叱咤するようにベンジャミンは言った。眉間に寄せた皺を撫ぜるようにして、下を向く。「その話はよせ」
「アイリーンとは誰のことだい?」
 カーマインはそっと尋ねた。するとジェレミーが兄を指差し、小指をチョイと立てて見せた。兄は剣呑な目つきになって弟を睨むが、時すでに遅し。その前でカーマインは、ああと声を上げていた。
「恋人か」
「妻だよ」
「失踪したのか?」
「死んだんだよ」
 ──死んだ。
 その言葉を使うたび、ベンジャミンの心に痛みが走る。アイリーンが死んだと言うたびに彼女と離れていくような気がして、辛い気持ちになるのだ。
「それなら、なぜ探す必要が?」
 とは言え、カーマインはそんな彼の心の内を知らずに、顔を伏せたままのベンジャミンに尋ねた。
 ベンジャミンの脳裏に蘇るのは、夜空を駆けた黒衣の貴婦人の姿だ。黒ノ女王と名乗ったあの女性は一体何者なのだろう? それを知りたいとは思っていたが、このカーマインという男に聞くつもりはなかった。
 自分たちが絞首台に送られる可能性は低くなった。しかしあの黒ノ女王もそうとは限らないのだ。ベンジャミンはここはシラを切ろうと決めた。
「あのね、ジャムはそっくりさんを見たんだよ」
 しかしいきなり、ジェレミーが口を開いた。
「さっきの狼女、ナンシーって言うんだけど、彼女と戦ってたらその女の人が助けてくれたんだって」
「ジェェェェルゥゥ!」
 ベンジャミンは弟を絞め殺したくなった。なぜ余計なことばかりベラベラと! 怒りのあまり片手でガッと首を捕まえ押さえつける。たまらず、苦しいヤメテヤメテと叫ぶジェレミー。
「何でお前はそうやってスグ喋っ……」
「よしたまえ」
 まさにもう一方の手を添えてやろうとベンジャミンが手を挙げたとき、グッとステッキの先でカーマインがそれを弾いた。
「人が力になってやろうと言っているのに、見苦しいな君たちは。紳士らしく振舞えよ」
「力になってやるのは俺たちの方だろうが!」
 ベンジャミンは弟の首から手を離し、顔を紅潮させながら続けた。
「警戒するのはもっともだが、少しは信用してくれ。身内だろう? ジャム」
「ベンジャミンだ!」
「誰か探しているのなら言ってみろ」
 カーマインは両手を広げて、彼に続きを促した。涼しい顔である。
「──黒ノ女王と名乗っている貴婦人を探したいんだ」
 もはや観念したように、ベンジャミンは言った。隠したところで、何だ。この男ならジェレミーを使うなりしてこの程度の情報ならいくらでも引き出してしまうだろう。
「探してどうする?」
「話をする」
「なぜ」
「アイリーンに瓜二つだからだ」
 ふん、とカーマインは鼻を鳴らした。
「黒ノ女王か、いいね」
「知っているのか?」
 その口調に、ベンジャミンは身体を起こした。
「要注意人物の一人だよ」
カーマインは淡々と話し始めた。「ああいう風に月妖を退治することを生業にしている連中のことを月狩人(ムーンハンター)と言うんだが、彼女の場合は同業者ともほとんど付き合わないし、身元も分からず、意図も不明なんだ。ただ一つ分かっていることは、彼女は自分が戦った月妖をいつも確実に殺す。それも残酷にな」
 そう言い終えて、パン、と彼は手を鳴らした。
「よし、いいだろう。決まりだ。ジェルはあの人狼を。ジャム、君は黒ノ女王のことを調べたまえ」
 カーマインは打った手を合わせて揉みながら、まずはベンジャミンの顔を見た。
「君の報告次第で、彼女をどうするか決める。もし、君が捜査を嫌がるならそれでも構わんよ。その場合は僕の部下が、彼女を捕まえてニューゲイト監獄かベツレヘム癲狂院  (セント・メアリ・オヴ・ベツレヘムが正式名称。通称べドラム。ロンドンで一番大きな精神病院。) に収容するだけだ」
「何だと?」
 ベンジャミンは歯を軋らせ、恐ろしい目つきで相手をにらみつけた。あの貴婦人に、死んだアイリーンにしか見えない黒ノ女王に危害を加えるつもりか。彼は怒りに拳を握り締め、ぶるぶると震わせた。
 隣りでジェレミーが恐れをなしたように、そそ、と兄から数センチ離れた。
「それも脅迫か」
「違うよ。これは提案だよ」
 何食わぬ顔をしてカーマイン。ベンジャミンの態度など歯牙にもかけないという様子で微笑みすら浮かべている。
「さあて、やるのか、やらないのか」

 クソッ、とベンジャミンは吐き捨てた。
「そういったセリフは選択肢を用意してから言え!」

 
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Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2006