Chapter2  ザ・ファースト・トリップ


Chapter2-3 女の匂い


 王立闇法廷(ロイヤル・コート・オブ・ダークネス)か──。
 ベンジャミンは、大英博物館近郊のオールドグロスター通りにある自宅マンションのエレベーターから降り立ったところだ。時刻は20時半ほど。青い絨毯の敷き詰められた廊下を歩きながら、物思いにふけっている。
 先ほど、部下の刑事、クライヴに聞いた話は興味深い話だった。
 100年以上前のロンドン。スコットランドヤードは存在したが、MI5(国防情報局保安部)やMI6(国防情報局諜報部)が無かったころの話だ。
  当時のロンドンは世界の中心。凶悪犯罪の発生率も世界第一の大都市だった。スコットランドヤード、ロンドン市警、中央刑事裁判所(オールドベイリー)でも裁ききれない不可解で魔術的な凶悪犯罪。それを文字通り“裁く”ために、1888年に設立された内務大臣直轄の組織、それが王立闇法廷だというのだ。
 王立闇法廷は、司法権を併せ持っていたという。対象は言うまでもなく、超常的な犯罪を起こしたとされる“化け物”なのだが、それは魔女裁判を政府が支援しているのと同じことだ。罪のない人間が、吸血鬼や人狼呼ばわりされて断頭台に送られたことも珍しくないのだろう。
 ──当時、いわゆる魔物や化け物の類は“月妖(ルナー)”と呼ばれていたらしい。まあ、つまりは隠語の類だな。実際はほとんどが人間だよ──。クライヴは生半可でない知識を惜しげもなく披露する。
 ヴィクトリア朝末期のロンドンは、空前のオカルトブームに沸いていた。1888年は、あの切り裂きジャックが娼婦の腹をナイフで切り裂いた年でもある。
 あらゆるものがロンドンの霧と闇に隠されていた時代。ひとたび夜になれば、その闇を照らすものは微かなガス灯の光だけだ。いったいどれだけの無実の人間の血が流されたのか……。想像するだけでゾッとする。

 物思いにふけりながら、ベンジャミンは自宅の451号室のドアの前までたどり着いた。21時になる前に、このドアノブを握ることは稀だったのだが、最近はそうでもない。UCBへの異動は、ほど良い休息になるかもしれない。
 さて、弟は。ジェレミーはどうしているかな、そんなことを思いながらベンジャミンは鍵を使ってドアを開けた。
 すると、向こうから顔を出したのは二人の女だった。
 玄関前。開いたドア。ベンジャミンは、2人の若い女と鉢合わせした。クラブに踊りに行くような派手なルックスの10代後半の娘たちが、驚いたような顔をして彼を見ている。
「え? あ、失礼」
 ベンジャミンは、咄嗟に部屋を間違えたと思い、身を引いた。しかしすぐに思いなおす、今、鍵を使って扉を開けたのは俺じゃないか。
「あ」
 驚いたように目を見開いたのは鼻にピアスをしている方。ベンジャミンの顔を指差し言う。
「お兄さんだ」
「ジェルのお兄さんだよね? ……おかえりなさぁーい」
 二人の娘たちは、安心したように目配せし合うと、次にはニカッと微笑んだ。サッとベンジャミンに近づいてきて、左の腕に鼻ピアス娘。右の腕にはヘソ出し娘がまとわりついた。彼女たちは口々に歓迎の意を表明し始める。
 お兄さん、ミルクティー飲む? テレビ見る? チョコレートもあるよ? 娘たちは彼の両方の腕をぐいぐいと引っ張り、リビングルームに連れ込もうとした。
 面食らったベンジャミンだが、さすがにその頃になると、状況を把握することができた。彼女たちは弟の女友達だろう。
「ジェレミーは? 出かけてるの?」
「そー。近くに買い物にでも出かけてるんじゃなーい?」
「あたしたちも一緒にいこうと思ったんだけどォ。“空飛ぶ奥様SOS 宇宙ニッキーマウスの大暴走”が始まっちゃうからお留守番してることにしたのー」
 とりあえず、ベンジャミンに分かったことはそのケッタイなタイトルが最近人気のコメディアン、ニック=ウォルターズが一人コントを繰り広げる番組だということぐらいだ。
 ベンジャミンが失礼でない程度にやんわりと、彼女たちの腕から自分の腕を引き抜くと。彼女たちは親しげにというか、馴れ馴れしく話しかけてきた。
「お兄さんさァ、アレだね。あんまりジェルと似てないねー。髪の色違うし」
「ねえねえ、お兄さんスパイなんでしょ。殺しのライセンスは持ってないけど、すごいエライ人だってジェル言ってたよ」
「俺が働いてるのは、スコットランドヤードだ」
「マジでー、庭師なの?」
「違うよ、ロンドン首都警察だよ!」
 ムッとしたベンジャミンはすかさず言い返す。
「キャハハ、スゴイ! ボケたらツッコんでくれたよ」
「お兄さん、ヤルじゃん。ツッコミのセンスあるッて」
 すると娘たち二人はけたたましく笑い始めた。う、と言葉につまるベンジャミン。これはいわゆるイジられているというやつでは?
「あのさ、君たち。俺は自分の部屋にいるから、ジェレミーが帰ってきたら教えてくれる?」
「いいよ」
「了解しました!」
 ヘソ出し娘の方が、敬礼のフリをして言う。
 ベンジャミンはため息をついて、じゃあ頼むねと言い残した。彼女たちに背を向けて、自分の部屋の方へ向かう。
 やれやれと口に出して言いながら、指でネクタイを緩めて外し廊下を歩いていく。
 今日はジェレミーをどこかレストランに連れていってやろうと思ったのだが。友達が来ているのなら一緒でもいい。しかし当初行こうと思っていたところでは、あの二人は納得しないだろうし、店員も納得しないだろうから、もっと若者向けのレストランにしないと……。
 などと思いながらベンジャミンは、弟が帰宅する前にシャワーでも浴びようかとバスルームのドアを開けた。

 すると、一転。ふわりと甘い香りがした。彼は思わず足を止める。

 あのジェレミーの女友達が、ここを使ったのだろう。きれいに片付いてはいるが女特有の残り香が、まだそこに漂っていた。この家のシャワールームに女の匂いが漂うのは何年ぶりのことになるのだろうか。
 リビングルームで笑っている若い娘の声が、遠くの方で聞こえる。 
 ベンジャミンは、今はもう居ない妻のことを思い出して目を伏せた。彼女のことを思い出すと、5年経った今でも胸を針で突付かれるような痛みを覚える。
 
 彼女の名前はアイリーン。黒い宝石(オニキス)のように艶やかな黒髪に青灰色の瞳を持つ美しい女だった。彼女の職業は医師で、ベンジャミンが彼女に初めて出会ったのもセント・バーソロミュー大学病院の集中治療室の前だった。
 その時治療を受けていたのは彼女の父親で、強盗事件の被害者だった。ベンジャミンは捜査の過程で、彼女と彼女の父親に話しを聞きにきたのだ。
 アイリーンは、ガラス越しに病室の様子を見ていた。またたきをすることも忘れてしまったかのように。青灰色の瞳に強い光を宿しながら。
 ──父はあと2時間ももたないでしょう。わたしは医師ですから分かります。
 それがベンジャミンが聞いた、彼女の最初の言葉だった。

 彼は思い出す。たぶんあの瞬間、自分は彼女に一目惚れをしたのだと。

 アイリーンは笑顔を見せることはほとんど無く、病院でも看護婦たちに“氷の女”(アイス・レディ)などとあだ名されるような無愛想な女だった。しかし、ベンジャミンは、すぐにそれが表だけにしか過ぎないことを見抜いた。
 彼女はとても寂しがり屋なくせに、物凄くシャイで、男性に対して傍にいて欲しいなどと、口が裂けても言えない女性なのだった。それが分かってから、ベンジャミンは自分が事件の捜査で使っている粘り強さや根気を駆使して、彼女にアプローチを続けた。
 そして二人は結婚した。
 彼女の職場に近いマンションに移り住み、二人は何の邪魔の入らない生活を始めた。
 外では“氷の女”でも、ベンジャミンの前ではアイリーンはよく微笑んだ。──もう、からかわないでよ、ジャム。どうしてそんなに毎日おかしなことばかり言って笑わせるの? 
 ベンジャミンは、そんな彼女の笑顔を見るのが、何よりも好きだった。

 短い数年の結婚生活の後に、アイリーンを殺したのは、子宮ガンという名前の病魔だった。人殺しや強盗は逮捕できても、病魔は逮捕することができなかった。痩せ細っていく彼女を前に、ベンジャミンは何もすることができなかったのだ。
 しかし、彼女は医師だった。だから自分の病気のことを一番よく分かっていた。恐れず、悲しまず、ただ自分の死を受け入れたアイリーンの脇で、ベンジャミンは悲しみと絶望に打ちひしがれ、何を憎めばいいのか、何と戦えばいいのか分からない状態に陥った。
 それは彼女がこの世からいなくなってからも、しばらく続いた。セラピストと職場の間を行き来する毎日。酒にも頼った。そう、頼り過ぎたぐらいだ。

 わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。

 彼女の遺言ともいうべき言葉を思い出して、ベンジャミンは苦笑する。食事は一日30品目。メニューは出来るだけ野菜中心にすること。一日の運動は20分程度。わたしが居なくなってもジョギングはやめないで。
 ──大丈夫よ、ジャム。わたしはここに、あなたとずっと一緒にいるから。彼女はそう言って、ベンジャミンの胸を指差した。
 彼は自分の左胸に手を当てる。
 確かに、ここには彼女の残したものがある。しかし彼女はもう居ない。

「よせ、ジャム」
 口に出してつぶやくベンジャミン。いくら思い出しても胸が痛くなるだけだ。
 彼は気を取り直して、洗面所の前に立つ。金色の蛇口をひねって水を出すとそれでバシャバシャと顔を洗った。
 タオルで顔を拭きながら、ふと脇に置かれた薬ビンに気付く。
 例のγ−GDP値を下げる薬だ。ああ、そういえば昼に飲み忘れたような気がする。
 ベンジャミンは薬ビンを手に取った。
 毎食後に飲めと言われたが……さて。仕方ないので今飲んでおこう。彼はキュルキュルと音をさせて薬ビンを開けて中の白い錠剤を手にとった。
 時間が時間だから、1個だけにしよう。
 そう思い、彼は錠剤を一粒だけ口に含み、コップの水を飲んだ。

 アイリーンと結婚するとき、彼女に頼まれたことがある。
 ベンジャミンは鏡に映る自分の左胸の辺りに視線をやりながら、また彼女のことを思い出していた。
 身体のどこでもいいから、ある刺青を入れて欲しいと言われたのだ。それは、彼女の母方のカールトン家に代々伝わる“お守り”なのだそうで、アイリーンも自分の左胸にその小さなコイン大の刺青を入れていた。
 彼女曰く、その刺青を入れれば事故や災厄から逃れられるのだという。彼女の父はその刺青を入れなかったので、強盗事件に巻き込まれた。ベンジャミンはただでさえ業務に危険を伴う警察官だ。彼が刺青を入れてくれないのなら、自分は心配で、恐ろしくて結婚できない。
 そうまで言われてしまうと、嫌だとは言えなかった。
 彼女自身の手で入れてもらった刺青は、今もベンジャミンの左胸にある。曲がりくねった何かの草のような文様で、彼女の生家の紋章にも似ていた。
 確かに、アイリーンと結婚してから事故や災厄に遭ったことはない。しかし彼女の死がきっかけで、健康そのものだったベンジャミンはアルコールや不摂生によりたびたび薬や医師の世話になるようになってしまった。
 今の俺を見たら──。ベンジャミンは苦笑する。たぶんアイリーンは真っ赤になって怒るだろうな。身体には気をつけろって言ったのに! って。
 彼は、死んだ妻の顔を思い出しつつも、ブルブルと顔を振ってようやくその思いを断ち切った。気合を入れるかのようにパンと頬を両手で叩く。
 さて、じゃあ部屋に戻って着替えるか。そう思い、身体を反転させたとき。

  ぐらり。世界が歪んだ。

 慌てて、ベンジャミンはタイル壁にぶつかるように寄りかかった。何だ? ひどいめまいがする──。
 グッと拳を握って、意識を保とうとするが無理だった。泥酔したときのように目の前がぐらぐらと揺れて平衡感覚を保てない。今、飲んだ薬がまずかったのか。薬ビンを確認しようと洗面台を見ようとした、その目が霞んだ。
 身体が力を失っていく。倒れる、とベンジャミンは思った。
 そうして彼に出来たのは、床で頭を打たないように腕で顔をかばうことぐらいだった。

  ここで、ベンジャミンの世界は暗転した。

 
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Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2006