ベンジャミンは夜のロンドンの街を歩いていた。 自宅マンションの洗面所で、突然めまいを感じて倒れたはずだった。しかし、彼はいつの間にか外を歩いていた。目を落とせば、石畳に彼自身の影が映っている。煌々と明るい満月の夜。 一体、いつ、外に出たのだろうか。そんなことを思いながら、あてもなく足を運ぶ。彼の靴がカツカツと硬い音を立てている。ベンジャミンが歩いているのは、夜の路地裏。狭い迷路のような道だ。 どこを歩いているのかもよく分からなかった。それよりも、ひどい頭痛が彼を苦しめていた。ベンジャミンはその痛みと戦うのにかかりっきりだ。 こめかみのあたりの血管がドクンドクンと波打って、頭痛を脳に送りつけてくる。ドクンドクン。ベンジャミンは顔をしかめた。 古ぼけたパブの前を通りかかり、店からこぼれる明かりと中の喧騒を聞くころになって、ベンジャミンの頭痛は治まってきた。そして彼は、ようやくここはどこだろう、と思い始めた。 密集する家々の間から時々見える青いオペラハウスの屋根からすると、どうせストランドの劇場街のあたりだろう──などと、彼は見当をつけた。自宅マンションからそう遠くない場所だ。 しかし、この街並みといったら。このあたりに、こんなに整備の行き届いていない地区があっただろうか。道はデコボコ、道の脇には泥とも何ともつかないものが貯まっており、なんともいえない匂いを放っている。 今歩いている通りが、あまりお上品でないところであることは明らかだった。早く大きな通りに出なくては……。ベンジャミンは足を速めた。
二軒目に通りかかったパプの前には、女が所在無さげに立っていた。が、ベンジャミンの姿を見ると女は顔を上げてニンマリと笑いかけてきた。襟ぐりを大きく開けた赤茶色の古風なワンピースを着ている。袖は大きく膨らんでおり、スカートも骨組みを入れて膨らませている。新手のコスプレか? まるでヴィクトリア時代の売春婦のようだ。などと思いながら、ベンジャミンはその脇を通り過ぎる。 「ちょっとォ、待ちなよ。旦那ァ」 少しも色気のないハスキーな声を張り上げると、女は足早に追いかけてきてベンジャミンの腕を掴んだ。 「遊び相手、探しにきたんだろ? ウチに寄っていきなよ」 「何だって?」 険しい顔になって、ベンジャミンは女を振り返る。 「若いのから年増まで、ウチならよりどりみどりサね。旦那が、ちょっとそっちの方を好みなら目が見えないの、口が聞けないのだって居るよ。“お人形さん”だってOKさ。安いのだったら60ペンスから……」 「待て。売春の話をしているな」 ベンジャミンは、女の腕を逆に掴み、相手を睨みつける。今どきこんなに堂々と、売春宿まがいの呼び込みをしているとは。驚きを通り越して呆れてしまう。 「誘いこむ相手を間違えたな。俺は警察官だ。売春斡旋の容疑で現行犯逮捕してやる」 言いかけて、ベンジャミンは、ハッとした。「──60ペンス? 60ポンドの間違いじゃないのか ※ (11月現在、60ペンスは約130円、60ポンドは約13000円です。) ?」 女の方もぽかんとしたが、途端に顔を赤くして烈火のごとく怒りだした。言葉の意味を理解するのに時間がかかったのだろう。女は髪を振り乱し、力まかせにベンジャミンの手を振り払おうとする。 「ケーサツカン? だから何サ? ピーラーごときが何だッてのサ!」 「ピーラー?」 ベンジャミンは手を離さなかった。ただ、女が使う言葉にいちいち違和感を覚えていた。60ペンスじゃ、紅茶を一杯飲めるか飲めないかぐらいだ。いくらなんでも安すぎる。それに、ピーラー? 何だそれは。下町訛り(コックニー)にそんなスラングがあるのだろうか。 「畜生! 変な恰好しやがって。離せよ、このマンドレイク野郎!」 ベンジャミンは腑に落ちないまでも、女の腕を掴んだまま、胸ポケットから携帯電話を出した。近くの署に応援を頼むことにしようと思ったのだ。
と、彼が携帯電話のフリップを開いた時。一人の女がふらりと店から出てきたのが、視界に入った。白い幽鬼のような姿は、スーッと足音もさせずに路地裏の方へ歩いていこうとする。 どこかで……しかも、つい最近にその女の顔を見たことがあるような気がして、一瞬。ベンジャミンは携帯電話のディスプレイから顔を上げた。今の女は──! 「ナンシーだ!」 ベンジャミンは慌てて振り向き、女の姿を目で追う。すると、水色の花柄のネグリジェを着た女が、まさに路地裏の闇に溶け込もうとしているところだった。 「待て!」 売春宿の呼込女の手を離し、ベンジャミンはネグリジェ姿の女の後を追って闇の中に飛び込んでいった。 女は、ナンシー=ディクソンに酷似していた。昼間、UCBの自分のデスクで読んだ未解決事件の容疑者である。離婚した夫とその妻を残酷に殺害し、逃亡をはかった女だ。事件が起こってから2年も経っているというのに、スコットランドヤードは彼女の痕跡すら掴めていない。 この売春宿の場所は分かっているし、後回しだっていい。ナンシーは、今捕まえなければ逃げられ、また姿をくらましてしまうだろう。ベンジャミンは闇の中に白くぼぅっと浮き上がる女の後姿を必死に追った。 幸いにして、女は後ろに気付かなかった。ほどなくして追いつくと、ベンジャミンは後ろから声を掛けた。 「失礼。ナンシー=ディクソンさんですね」 言いながら、女の前に回りこむ。 顔を上げる女。足を止めて陰気な目付きで、ぼうっとベンジャミンを見上げる。目の下には真っ黒な隈(くま)。間違いない。昼間、写真で見たナンシー=ディクソン容疑者だ。 「ディクソン?」 ぽつり。ナンシーは口を開いた。 「あたしは、ナンシー=フォードです。ディクソンは旧姓です」 「ディクソンさん。私はロンドン首都警察、超常犯罪調査部のベンジャミン=シェリンガム警視です」 ベンジャミンは彼女の言葉を無視した。ゆっくりと名乗って続ける。 「2004年の3月14日に、貴女の元夫にあたるジョン=フォードさんと、その妻ケイトさんが殺害されました。この件についてお話を伺いたいのです。私とご同行願います」 「ジョン? 死んだ? 妻?」 ナンシーは、ベンジャミンの顔を見つめた。元々半開きになっていた彼女の青白い唇が、だらりと開いていく。 「あたしが……ジョンの妻です」 「詳しい話は、近くの署でお伺いしま──」 「あたしがナンシー=フォードよ! ジョンは何処なの?!」 いきなり、ナンシーはベンジャミンの胸倉を掴んだ。まるで病人のように骨ばったやせた手が月明かりに浮かび上がる。ひどく禍々(まがまが)しい光景だった。 「落ち着いてください。ディクソンさん」 ベンジャミンは自分の両手で、ナンシーの手を掴み離そうとした。しかし女は意外にも力が強く、なかなか手を離せない。 「あたしはフォードよ、ジョン! 何度言ったら分かるのよ!」 ナンシーは目を見開き、唾を飛ばしながらわめいた。ベンジャミンに顔を近づけ物凄い形相で彼を睨みつける。たじろいだベンジャミンは肘を上げ彼女の身体を遠ざけようとした。その途端。 彼の身体は宙を舞った。 ダンッと、脇の壁に叩きつけられ、背中をしたたかに打ち付けたベンジャミン。女が自分を投げ飛ばしたのか? 驚きと痛みに顔をしかめながらも、彼は咄嗟に顔をかばった。間一髪。ウァァと何か言葉にならない叫びを上げながらナンシーが飛びかかってきて、爪でベンジャミンを引っ掻いた。何度も何度も。 「あたしよ、アタシなのよ、ナンシーよ何で分かんないのよ、何で知らんぷりするのよ。二人で幸せになろうって言ったじゃないのよ、何でよジョン何でなんでナンデ……」 完全にナンシーは狂乱状態に陥っていた。防戦一方のベンジャミンのスーツの袖が裂け、腕に痛みが走る。ベンジャミンは仕方なく、狙いすまして足を上げて女の腹を思いっきり蹴り飛ばした。 ナンシーは吹っ飛ばされたが、しかし倒れなかった。よろよろと2、3メートル後方に立つと大きく足を開いてフーッ、フーッと大きく息を吐いた。まるで獰猛な肉食動物が息を整えているかのように。 ベンジャミンは素早く携帯電話を取り出して、スコットランドヤードの殺人調査部にコールをかけた。コール音を聞きながら、路地裏を見回して武器になるものがないか探す。 バッと右後方に向かって駆けたベンジャミン。低い位置にかかっていた短い物干し竿をひったくるようにして外すと、ぶるんと一振り。そこにかかっていたシャツや布切れやらを跳ね飛ばした。電話はまだつながっていなかったが、そのままポケットに落とし込むと、物干し竿を剣のように両手で持つ。 ナンシーは俯いていて表情は分からなかった。路地に差し込む月の明かりが、肩を怒らせたその姿を映し出す。 「ジョン、あたし、あんたのこと愛してたのよ、心の底から……」
一歩、踏み出した彼女の身体が、奇妙に波打つように躍動した。
得体の知れない異臭がムッと鼻をつく。ナンシーの背中が不自然に盛り上がり、彼女の背がむくむくと増していった。だらりと下げた両手の爪は、長く長く伸び続けて鉤爪のような凶器に変わっていく。 ベンジャミンは自分の目を疑った。 骨ばった痩せた女の身体はみるみるうちに2メートルを越した。まるで風船を膨らませるようにパンッ、パンッと音をさせて両手の筋肉が盛り上がる。骨ばった手は刃渡り30センチほどの鉤爪に変化していた。 一人の女だったモノは、凶暴な目をギラリとこちらに向ける。それはどうひいき目に言っても人間には見えなかった。まるで──そう、“狼女”だ。 ナンシーは、もう一歩踏み出し一瞬、わずかに腰を落とした。 「あんたのことを愛してたのに、愛してたのに愛してたのにィ……許せないわァッ!!」 まずい! そう思ったが、異様な光景のあとで反応が遅れた。 獲物を狙うかのように飛び掛ってきたナンシー。ベンジャミンは咄嗟に棒で、横殴りに彼女の腹を狙った。ドンッと、にぶい音をさせて棒は彼女の腹部にめり込んだ。……しかし、ただそれだけだった。 狂った女はバランスを崩すこともなく、左手の鉤爪を真っ直ぐにベンジャミンに見舞った。凶々しい凶器は、彼の右肩に深く突き刺さる。 「ぐっ」 ベンジャミンは身体の均衡を失って、後ろに倒れた。棒も手から離れ、地面を転がっていってしまった。彼よりも大きな身体に膨れ上がっていたナンシーは、犠牲者を逃さんとばかりに、馬乗りになってくる。 倒れながらも、ベンジャミンは女の腕を掴んだ。自分の身体から凶器を引き抜こうとしたのだが、その怪力といったら! ナンシーの腕はビクともしない。 女はベンジャミンに苦痛を味わわせようと、鉤爪をメチャクチャに動かした。 「死ね死ね死ねッ」 悲鳴も上げることが出来ないほどの苦痛が、ベンジャミンを襲った。一瞬、意識が白みかけたが、彼は女の手を外そうと手に力を込めた。このままでは本当に殺されてしまう──。
「おやめなさい!」 その時、凛とした女の声が暗闇に響き渡った。
あまりの苦痛に歯を食いしばり耐えていたベンジャミンだったが、闖入者の声に我に返った。──女? こんな場所に女? ナンシーの背後に見えていた満月。それを遮るように一瞬、何かが上空を通過した。シャッと風を切る音がして、狼女がグゥと喉を詰まらせるような声を上げる。 最後にベンジャミンの肩の組織を破壊しながら、ナンシーは鉤爪を抜くと、ガバッと身体をのけ反らせた。 狼女は、苦しそうな唸り声を上げながら、自分自身の首のあたりに鉤爪を這わせる。 「はぁっ」 声を上げまいと、ベンジャミンは血まみれになった自分の肩を押さえた。全身、汗だくで片目に汗が流れ込んできていたが、片目でだけで何が起こったのか見届けようとする。 狼女ナンシーの首に何か黒い布のようなものが巻きついていた。狼女はそれを取ろうと躍起になって、足元のベンジャミンのことには見向きもしない。 鉤爪の届く範囲から、逃げ出すチャンスだった。ベンジャミンは荒く息をしながら、肩を押さえ後ろに這うように後ずさった。 すると、またもや驚くべき光景が目に飛び込んできた。 ナンシーの首に巻きついた黒い帯状の何かを手に、狼女の首をぎりぎりと締め付けていたのは一人の若い女だった。 数メートルほど向こうに立ったその姿は、まさに秀麗な貴婦人だ。黒髪を結い上げて目が少し隠れる程度のベールを身に着けている。ドレスは全てが黒かったが、レースなどで装飾された華やかなものだ。それは先ほど出会った売春宿の呼込み女のように、大きく襟ぐりを開けたドレスではあるが、肩から黒い羽飾りのついた長袖のケープをまとっている。決して下賤ではない、上品でエレガントな貴婦人の出で立ちそのものだった。 ベンジャミンが手の甲で汗をぬぐい、両目を開けた時。ちょうど月光が謎の貴婦人の顔を照らした。ベールの下の白い顔が浮かび上がる。 ──!!
いきなり心臓を冷たい手で触られたような感覚がした。ベンジャミンは息を呑んで、呆然と、女の顔を穴の開くほど見つめた。 「何をしているのです! 早くお逃げなさい!」 貴婦人が狼女の首を絞め上げながら、叫んだ。しかしベンジャミンは動けなかった。彼女の言葉が自分に掛けられたものだとは分かっていた。だが、彼は動くことが出来なかった。 月の下で、貴婦人は形の良い眉をひそめた。 彼女は身体の向きを変えると黒い帯を両手で持った。何か聞き取れないほど小さな声で何か呟くと、サッと右手を挙げる。 すると、黒い帯は貴婦人の手元に戻った。その勢いで狼女の身体も反転させられて、ベンジャミンに背を向けた格好になる。そこへ貴婦人はもう一度鞭のように黒い帯をナンシーの顔に当てた。ピシッといういい音がした。 「こっちへおいでなさいな。ワンちゃん」 狼女がウウウと唸った。ピシッ、もう一度、貴婦人はナンシーの鼻面に帯を見舞う。 「ほらほら、こっちよ」 言いながら、彼女は軽やかに駆け出した。ナンシーはもう前後の見境が無くなっている。背後のベンジャミンを放っておいたまま、ダンッと石畳を蹴って跳んだ。 貴婦人の姿が闇に溶け、それを恐ろしい勢いで追いかけていった狼女の姿も闇に消えた。ベンジャミンは身体を起こし、よろけながら立ち上がった。
「アイリーン」
喉が枯れて声が出せなかった。唾を飲み込んで、ふらつきながら一歩踏み出し、ベンジャミンは死んだ妻の名をもう一度口にした。今度は強く、呼び戻すように。 ベンジャミンの肩からは大量の血が溢れ出て、地面に血だまりを作っていた。しかし彼はそんなことには構わず、よろよろと歩きながら、何度も何度も妻の名前を呼んだ。 暗闇の中から現れ、ベンジャミンを助けてくれた貴婦人。彼はその顔をハッキリと思い出しながら思う。あの貴婦人はアイリーンだ。あんな服装をしているところは見たことがないが、この俺が見間違えるはずがない。彼女はアイリーンだ。彼女は自分に気付かなかったが、あれはアイリーンだ。絶対に間違いない……。 だが幾度呼んでも、暗闇は口を利かなかった。ベンジャミンただ一人を残して、辺りは静まりかえっている。まるで最初から何事もなかったかのように。まるで、先ほど起こったことが夢であるかのように。
「──そんな馬鹿なことがあるか!」
長い回想を終え、ベンジャミンはソファに座ったまま声を上げた。 そこは、オールドグロスター通りにある自宅マンションの、彼の私室である。大通りを走る自動車のエンジン音が遠くからかすかに聞こえてくる。現実世界のロンドンだ。もう夢の中ではない。 左手に脱いだシャツを握り締めたまま、ベンジャミンは顔を上げて窓の外に目をやる。見えるのは自分が暮らしていたロンドンの街だ。普段となんら変わることのない光景がそこにある。 自分は、今朝スコットランドヤードに出勤して書類の整理をし、部下のレスターが起こした暴力沙汰を片付け、クライヴと話をし、そして帰宅し、バスルームで弟の薬を間違えて飲んで昏倒した。ただそれだけのはずだった。 それなのに、これは何だ? ベンジャミンは、自分の右肩に目を落とす。そこには鉤爪でやられたひどい傷は無いが、その代わりに醜い痣が点々と出来ていた。 化け物のようなナンシー=ディクソンに襲われていた自分を助けてくれたのは、アイリーンだった。自分を助け、狼女の気を引いて闇に消えた貴婦人。その後姿を思い出し、ベンジャミンは目を見開いた。
彼女が危ない!
ベンジャミンは、意を決して立ち上がった。 一度脱いだシャツをもう一度着て、ボタンをはめながら部屋を出る。 自分に何が起こったのか全く分からなかった。何も分からなかったが、一つだけやらなくてはいけないことがあることは分かっていた。 ベンジャミンは廊下をつかつかと歩いて、弟ジェレミーの部屋の前まで来た。 コンコン、とノックはしたが答えは待たない。入るぞ、と言ってベンジャミンは勢い良くドアを開けた。ベッドに寝転がって雑誌を読んでいたジェレミーが顔を上げた。きょとんと目を瞬きして、兄の顔を見る。 ベンジャミンはその弟にすかさず言った。
「ジェル、さっきの薬をもう一度くれ」
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