そう、思い出した。 ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムは、スコットランドヤードの超常犯罪調査部(UCB)の自分のデスクで過去の事件報告書に目を通し、分類作業をしていたのだ。 ここに来てから二週間。彼は、たまに印鑑を押したり、たまに部下の話を聞いて、イエスかノーを言ったりする合間に、UCBの過去の膨大な事件報告書に目を通し続けていた。 今は夕刻。部下たちはほとんどが出払い、部屋の中は静かである。ときおり、ひそひそとお喋りに興じている婦警二人のどちらかが漏らす笑い声と、居残り組の刑事が苦情電話に対応している声。すぐ目の前のデスクで、巡査部長のクライヴ=コルチェスターがパチパチとキーボードを打っている音が聞こえてくるぐらいだ。 時は夕刻。ベンジャミンのデスクの上には書類の山が三つ、形成されていた。
ケース1。キャサリン=ベントリーは8月26日の夜20:00頃、家に侵入した何者かに金品を強奪された上、性的暴行を受けた。帰宅した夫が警察に通報。事情徴収によると、ベントリー夫人は、煙のように現れた夢魔インキュバスに被害を受けたと主張。UCBで再調査の結果、二階の窓から音もなく家に侵入したのはベントリー夫人の浮気相手、ジム=ベイツだと判明。彼の身柄を確保し、容疑を住居侵入と詐欺に切り替えて送検。
ケース2。園芸用品卸の株式会社ウォリック商会の社員が三名、帰宅途中に何者かに襲われ殺害される。凶器はスコップ。同じ場に居合わせた目撃者の証言によると、犯人は三ヶ月前に死亡したはずの元社員リサ=デービスだったという。リサは、社員間の陰湿な嫌がらせを苦に自殺しており、UCBにて再調査を実施。その結果、犯人はデービスの兄アランと判明。同社役員宅にて女装しスコップを振り回す犯人を、機動部隊(CTF)がやむを得ず射殺。自宅から証拠物件を押収。
この二件のような事件が、いわゆる大半を占める“よくあるケース”である。 ベンジャミンは読み終わった報告書を、一番右の山にポンと載せた。当然ながらこの山が最も高い頂を誇っている。 やれ夢魔が現れただの、吸血鬼に襲われただの、自殺した女が殺人鬼になって復讐しにきただの……。始まりが大仰な事件も、結果は尻つぼみに終わることが多かった。竜頭蛇尾というやつだ。 また、被害者にも、不愉快な共通点があった。彼らの社会的地位の高さである。“金持ちで偉い人たち”が被害者の大半を占めているのである。 つまり、「そんな馬鹿げたことが起こるわけがないでしょう?」などと、面と向かって言えない相手に対応するのが、このUCBの主な仕事だということだ。実際、動くときは他部署と連携し、主に被害者のケアを担当する。“奥方の苦情処理部”という蔑称まであるぐらいだ。
とはいうものの。 ベンジャミンは積み重ねた書類の山のうち、一番左の山に目を移す。 そこには件数は少ないものの、未解明な点の多い迷宮入り事件の報告書が積み重ねられていた。ごく少数だが、どうにも腑に落ちない事件が起きているのも事実なのだ。 単なる調査不足なのか、うまく証拠が集まらず未解決のまま時効を待つことになってしまった事件なのか……。例えば、次のような事件だ。
ケース3。フォード夫妻は、2004年3月14日未明のよく晴れた満月の夜、自宅に侵入した何者かに襲われる。夫妻は就寝中で、ケイト夫人はいきなり鉤爪のようなもので胸を切り裂かれ、ベッドの上で絶命。1階まで逃げ延びた夫ジョンはセキュリティ会社への直通電話をかけ、離婚した元妻のナンシーに襲われていると通報した。数分後、警備会社のスタッフが駆けつけたが、地下室のワイン蔵の中で心臓をえぐり出され死んでいるジョンを発見。地下室へと続く分厚い扉は、中央を真っ二つ割られ、物凄い力で破壊されていた。ワイン蔵に残されていたのは真珠のネックレス。ジョンがナンシーに送ったものだそうだ。そして、ジョンの心臓とナンシーの姿はどこにも無く、今でも見つかっていない。 ベンジャミンは、ため息をついて書類を机の上に置いた。──近隣の住民は銃声一つ聞いていない。武器を持たない女がどうやってこの写真のような分厚い扉を素手で壊したのか? こんな扉を壊せるような銃器に消音機をつけることは不可能だ。 UCBの当時の部長はこの事件の犯人に仮の名前を与えていた。狼女ナンシー。獣になる女、ナンシー。 馬鹿げていた。怪力、鉤爪、満月の夜。確かに三拍子揃ってはいるが、それじゃあ、まるで映画の世界じゃないか。
──カサッ。 物思いにふけっていたベンジャミンは、報告書の山から何か書類が一枚、床に落ちたことに気付いてふと我に返った。いけない、と手を伸ばして書類を拾い上げる。 それは何か古ぼけた一枚の書類だった。タイトルには「業務委託に関する覚書」と書いてある。 「何だこれは?」 思わず口に出してつぶやいてしまった。裏を見てみても何も書いていない。また表に戻って日付と末尾の署名二つに目を走らせる。 日付は1907年8月20日。100年も前の書類ではないか。ベンジャミンは小さな驚きをもって、インクで書かれた筆記体に目を凝らす。 連名になっている署名の片方は、当時のスコットランドヤード犯罪調査局(CID)局長、もう片方は── 「王立闇法廷ロイヤル・コート・オブ・ダークネス、事務総局長兼筆頭裁判官、カーマイン・クリストファー=アボット?」
奇妙な組織名だ。しかも……。ベンジャミンはその署名の横にある拇印に目を近づけた。茶色がかったその色は、どう見ても古くなった血液の色である。血判であろう。なんと古風な、と彼はその血判を指でなぞった。
「部長」 その時、名前を呼ばれてベンジャミンは書類から顔を上げた。電話の受話器を持ったヴィヴィアン=コーヴェイがこちらを見ている。 「お電話です。殺人捜査部東部地区課のコールマン警視です」 「コールマンか。いいよ、こっちにつないで」 ベンジャミンは相手の名前を反芻し、鳴り出した電話の受話器を取った。
|