Chapter3  王立闇法廷


Chapter3-1 黒ノ女王


 ベンジャミンは、ハッと顔を上げた。

 空は漆黒。雲の切れ間から見えるのは満月。その微かな光が、スポットライトのようにベンジャミンを照らしている。彼は夜の路地裏に、ひとり立っていた。
 ここは? と、視線をめぐらせようとして、カラン。足元で転がったのは木の棒だった。何だろうと思い、彼はすぐにその正体を思い出す。棒は彼が“先ほど”武器として使用した洗濯用の竿であった。
「本当に……」
 そう言いかけてベンジャミンは、地面に広がる赤い血溜まりに気付いた。慌てて、自分の身体を確認する。が、異常は見つからなかった。
 というより、彼がジェレミーの部屋に居た時と全く変わらない格好でここに居ることこそが“異常”だと言えるだろう。何しろ、先ほどベンジャミンは狼女ナンシーに襲われて右肩にひどい怪我を負ったのだから。それが見た目にはどこにも残っていない。
 見た目には──。試しにベンジャミンは左手で右肩に触れてみた。途端に鈍い痛みが走る。痣だけは残ったままのようだ。
「本当に来たのか」
 ようやく、ベンジャミンは口に出して言った。
 怪我は痣になったが、地面の血溜まりは残ったままだ。妙な気分のまま地面を見下ろすのもつかの間。ベンジャミンは、突然、自分がここにいる理由を思い出した。
 彼女を──アイリーンを助けなくては。
 狼女と化したナンシーと、それに追われていたアイリーン。妻を助けなければ!
 ベンジャミンは足元の棒を拾い、闇に向かって走り出した。

 彼はパブリックスクール  (全寮制の学校。13才〜18才が対象なので、日本で言うと高校に該当しますが、イギリスの教育制度は6・3・3みたいに決まった年数が無いので(信じられないことですが)あまり関係がないかもしれません。ベンジャミンが通っていたイートン校は男子校で名門中の名門校です。ほかにもハロウ、ラグビー、ウェストミンスター、ウィンチェスターなどの名門校があります。) 、大学に通っていた学生の頃から刑事になるまで、随分長いことテニスをやっていた。通っていたイートン校ではベスト8の成績を残していたし、昔は体力に自信があったものだった。
 今は警視になり、現場には出ないし走ることもほとんど無い。しかしベンジャミンは昔のカンを取り戻すべく走った。急く気持ちを押さえながら。
 二度目の角を曲がったときだろうか。前方、暗闇の中から何かが空を切り裂く音や、重いものが地面にぶつかる鈍い音が聞こえてきた。
 ──近い! ベンジャミンは棒を構え直し、闇に向かって走りこむ。
 彼が、路地裏の小さな広場に踏み込んだ時。
 柔らかい月の光が広場をぼんやりと照らしたその一瞬。
 目の前に現れた二つの影がパッとぶつかり、弾けるように左右に飛んだ。
 ベンジャミンは慌てて、小さい方の影を目で追った。影は広場に面した家の二階の窓へ。その桟に足をかけて、体制を整えていた。
「アイリーン!」
 その姿は、黒いドレスをまとった貴婦人だった。左手に掴んだ黒い帯のようなものを煙突に絡み付かせて、自分の身体を支えている。
 キッと彼女は、反対側の壁に目を向ける。
 そこには、不自然に長い手足を持った女らしきものが壁にへばり付いていた。みっともない姿ではあったが、こちらは両手の鉤爪を壁にめり込ませて自分の体重を支えている。恐ろしいほどの怪力だ。
 狼女のナンシーであった。
「アイリーン!」
 ベンジャミンはもう一度、彼女を呼んだ。
 そこでやっと、貴婦人は彼の存在に気付いたようだった。こちらを振り向くと驚いたように目を見開く。
「貴方、なぜ!」
 逃げなかったの? と、彼女は言おうとしたが途中で口をつぐんだ。彼女の上空を、月の光から遮るような大きな影が一閃。ナンシーが飛んだのだ。
 貴婦人は窓から跳び、敵に向かって振り向くように両手から帯を放った。ナンシーの身体に帯が絡みつく。
 ──ガガガガッ。
 宙で狼女はバランスを崩し、石壁に叩きつけられた。壁を破壊しながら横転する。
 タンッ。
 間髪入れず、貴婦人は壁に足を着いて跳んだ。そのまま空中で彼女は両手を振り下ろす。すると帯が鞭のようにしなって、狼女の身体を地面に叩きつけた。
 ドォン、と重い音を立てて巨大な身体が石畳にめり込む!
「うわっ」
 ベンジャミンの目の前だ。彼は咄嗟に後ろに飛び退いた。
 もうもうと土煙が立ちこめている。あれだけの衝撃だ。普通の人間なら内臓が破裂して命を落とすだろう。しかし相手はどう見ても普通の人間ではないのだ。
 ナンシーがまた起き上がってくるかもしれないと、ベンジャミンは棒を構え、土煙が引くのを待った。

「──先ほどの怪我は、どうなさったの?」

 するとすぐ隣で声がした。アイリーンだ。ベンジャミンは嬉しそうに目を輝かせて振り向いた。
 果たして、黒いドレスの貴婦人が、手の届きそうなところに立っていた。その姿は彼の死んだ妻そのものだった。
「アイリーン」
近寄ろうとして、ベンジャミンはハッと前方に意識を戻した。「待って。まだコイツが起き上がってくるかもしれないから」
「わたくしの質問に答えてください」
 土煙は晴れた。狼女ナンシーは変に捻じ曲がった奇妙な格好のまま地面に倒れている。
「質問って?」
「先ほど、貴方がその人狼(ワーウルフ)に受けた怪我をどうしたのかと聞いたのです」
「分からない。直ってた」
 狼女がピクリとも動かないのを見て、ベンジャミンはそこでやっと貴婦人に視線を戻した。
 予想に反して、彼女は険しい目をしていた。警戒心とわずかな敵対心を青灰色の瞳に込めて。
「月妖(ルナー)の命を助けてしまうとは。──わたくしも、無駄なことを」
「アイリーン?」
「どなたと間違えているのか存じませんが、わたくしはそんな名前ではありません」
 突然、彼女は口笛のようなものを吹いて、手を上げた。するとその腕から黒い帯のようなものがシュッと夜空に飛び、闇に溶けた。
 近くで見て初めて、ベンジャミンはその帯のようなものが布ではなく、何か黒い粒子のようなもの──影そのもので出来ていることに気付いた。
「わたくしは──」
 言いかけて、彼女はベンジャミンを睨んだ。
「名乗る名前がありませんが、同業者たちは、わたくしのことを“黒ノ女王(ブラック・クイーン)”と呼称しています。あなたのような月妖(ルナー)に知り合いは一人もいません」
「黒ノ女王? 月妖?」
 何のことを言われているのか分からなくて、戸惑ったようにベンジャミンは相手を見た。しかしすぐに部下の刑事、クライヴから聞いた言葉を思い出した。まさに電撃のように。

 ──当時、いわゆる魔物や化け物の類は“月妖(ルナー)”と呼ばれていたらしい。まあ、つまりは隠語の類だな。実際はほとんどが人間だよ。

「俺が、化け物だって言ってるのか?」
 驚くベンジャミン。
 ツン、とそっぽを向いた貴婦人、黒ノ女王は、地面に倒れたナンシーに一瞥をくれるとベンジャミンに背を向けた。
「今日のところは見逃してあげます」
 白い横顔を見せながら、「次に会ったときは、貴方の命もありませんよ」
「何を言って……」
「そこの人狼(ワーウルフ)のように成りたくなければ、貴方もおとなしくしていることですわ」
 そう言い終えて、タンッ。黒ノ女王は飛び上がった。信じられないほど高いところで、姿は闇に溶け、そして消えた。


「アイリーンじゃ、ない、のか?」
 ベンジャミンは、手に棒を持ったまま。呆けたように貴婦人が消えていった闇を見つめていた。
 確かにアイリーンがヴィクトリア時代にいるはずがない。彼は今さらながらにそのことに気付いた。
 加えて、あの謎の貴婦人──黒ノ女王。確かに言われて見れば、あのひどい怪我が一瞬で治ってしまったのだ。月妖(ルナー)呼ばわりされても当然かもしれない。
 自分は何をするつもりだったんだろう……。ベンジャミンは手にした棒に目を落とす。
 自問したものの、答えは分かっている。自分はアイリーンを助けたかっただけなのだ。彼が今ここにいるのは弟のドラッグと、自分の薬を合わせて飲んでしまったことによる副作用で、薬物トリップに過ぎないのだ。ただの幻影に過ぎないのである。それは分かっている。しかし──。
 どうして、あの黒ノ女王はあんなにアイリーンに瓜二つなのだろう?
 あんなに似ていては……別人に思えないではないか。
 
 その時、雲の切れ間から月明かりがベンジャミンの背中を照らした。彼は、ぼんやりと石畳に映る自分の影を見た。そして、その後ろで、むくりと盛り上がる黒い影も。
 ──! 振り返るベンジャミン。

 ガツッ。

 棒が、洗濯竿が、めり込んでいる。顔だ。毛むくじゃらの、とても人間とは思えないような女の顔。爛々と輝く金色の瞳のすぐ下に、ベンジャミンの一撃がヒットしていた。
 ベンジャミンの手から、するすると棒が離れていった。
 ゆっくりと、狼女は身体を起こしていく。顔に棒をめり込ませたまま。ベンジャミンは息を飲む。次の瞬間。
 ベンジャミンは見事なスタートダッシュで広場から逃げ出した。

 猛然と駆けながら、彼は出来るだけ遠くに逃げようと路地裏の出口を探した。狼女ナンシーは、死んではいなかったのだ。
 あんな物凄い勢いで地面に叩き付けられても死なないような化け物を相手に、ただの人間の自分が勝てるとは思えなかった。狼女の怪力や、鉤爪の威力は先ほどすでに実体験済みである。
 あれをくらうのは、二度とごめんだ──。ベンジャミンは現実主義者だ。だから現在自分が最大限に出来ることを実行したのだ。
 すなわち、逃げること、である。
 背後で、クァァッと、何か唸り声のようなものと、足音が聞こえた。当然、ナンシーも彼のあとを追いかけてくる。
 ベンジャミンは脚力には自信があった。テニスにのめり込んでいた時は、ボールに追いつくその足の速さと瞬発力を自慢に思っていたものだった。
 しかし、テニスボールを追いかけることと、化け物に追われるのはワケが違う。
 力の限り走ったが、みるみるうちに足音が近づいてくる。背中に生臭い息の気配を感じた。すぐ後ろに、ナンシーが迫っている!
 あの角を曲がったら──! ベンジャミンは目の前の角を曲がったら身を伏せて彼女をやり過ごそうと、そう思った。しかし。

 パッ、と物陰から白い影が飛び出した。

 影はベンジャミンとすれ違い、彼の背中をポンと物陰に押しやると路地裏にすっくと立った。
 ニッと笑う、その顔は──。

「ジェル!」

 見間違えるはずもない、イングランド・オフィシャルチームの白いユニフォーム姿の弟ジェレミーは、兄から狼女へと視線を移す。
 呆然とした顔の兄を尻目に、ジェレミーは一瞬だけ腰を落とした。もう一度、弟の名前を叫ぶベンジャミン。弟がどうしてここに? と、彼は混乱した頭で思った。しかし答えにたどり着く前にジェレミーが動く。
 後ろで一つに結んだ長いブロンドの髪を揺らし、フッ。その身体が一瞬消えた。
「ジェル!」
 ──ズシャァッ。
 狼女が地面に投げ出されるように、倒れこんだ。当然、石畳を破壊しながらである。
 サッと立ち上がるのはジェレミー。
 彼は、あの狼女ナンシーに対して、それこそウェイン・ルーニーも顔負けの強烈なスライディングを放ったのだった。
 砂埃の中、パラパラと落ちる小石の音が静まりかえった路地裏に響く。
 ジェレミーは振り返って、兄の姿を確認すると、グッと親指を立ててみせた。
「ジャム、大丈夫?」
「お、お前どうして!?」
「……面白そうだったから」
 ペロリと舌を出して、弟は微笑んだ。「俺もクスリ飲んじゃった」
「何だって!?」
 ベンジャミンは、思わずジェレミーを睨んだ。
「何が起こるか分からないのに……」
「固いこと言わないの。ジャムだって危ないところだったでしょ」
 言いながら、ジェレミーは涼しい顔で、両手の指を組み合わせてポキポキと鳴らしている。
 弟までもがヴィクトリア時代にトリップしてきてしまうとは。一体どうなっているのだ……。ベンジャミンがそう思った時、黒い影が弟の背後に立ち上った。
「ジェル、後ろ!」
 ザザァッ、と繰り出された鉤爪は宙を空振りした。
 ジェレミーは身を屈め、ナンシーの一撃をやり過ごしたのだ。
 間髪入れず、彼はステップを踏むように死角に入り込むと、がら空きになったナンシーの右肩を踏みつけるように蹴った。
 それはまさに、チンピラ蹴りだった。狼女はバランスを崩し、またも路地に横転する。
 どうよ? 見てよ、これ。と言わんばかりにジェレミーは誇らしげに兄を振り返る。ぽかんとそれを見つめていたベンジャミンは遅れて思い出す。
 バーやパブでケンカばかりしていたジェレミー。ベンジャミンは留置場に弟を何度も迎え行っているのだが、確かに……弟はいつも軽傷で、怪我などしているところなどほとんど見たことがない。
 ひょっとして、ジェレミーはケンカに強かったのか? ベンジャミンは思った。

「あっ! しまった!」
 すると突然、ジェレミーは声を上げて兄を見た。
「俺、もうケンカしないって約束したんだった!」
 グゥゥとうなり声を上げて、ナンシーが立ち上がる。地面に転ばされてばかりで逆上しているのだろう。血走った恐ろしい目つきでジェレミーの背中を睨みつけている。
「ゴメン、ジャム、咄嗟だったから……。俺、もうケンカしないよ。平和主義者だもん」
 ウォォォーンと、狼女は吼えた。裂けたような口からヨダレがぽたり、ぽたりと地面に落ちた。
「ジェル!」
 ベンジャミンは走った。弟を助けなければ!
「それはもういいんだ!」
「えっ? ケンカしてもいいの?」
「──いいから、伏せろ!」

 しかし、弟は兄の言うことを聞かなかった。
 手を上げてベンジャミンを制すると、くるり。ジェレミーは狼女の方を向いた。
 彼の目の前に何か黒光りするものが現れた。虚空に現れたそれは──。

 ダンッ、ダンッ。

 二発の銃声がした。
 狼女は身体をくの字型に折り曲げて、フッ飛ばされた。路地裏に仰向けに転がる彼女の身体に二つの銃痕。細い煙が二本、うっすらと立ち昇っている。
 ジェレミーの手にはリボルバー式の拳銃が。彼はおどけたように、銃口から昇る煙をフッと吹いて見せた。
「ヤッといた方がいいんだよね、コイツ」
「ジェル」
 今度こそ本当にあっけにとられたベンジャミンだったが、彼はやっとのことでは弟の隣にまで来て、その手にある拳銃を見た。
「ジェル、それは何だ?」
「え? スタームルガー・ブラックホーク
 きょとんとして答えるジェレミー。
「そうじゃない! お前それどこから出したんだ」
「どこからって……」
 兄の詰問をものともせず、ジェレミーはしょうがないことを聞くなあと言わんばかりに肩をすくめて見せた。
「どっかからだよ」
「どっか?」
「驚くようなことじゃないでしょ、俺たちトリップしてんだから。ジャムにだって出来るよ」
 ジェレミーは言いながら、地面に倒れたナンシーを顎でしゃくる。
「ほら、早くヤッちゃわないと、また起き上がってくるよ。どうすんの? アレ」
「待て、ジェル。──あれは容疑者で」
 混乱したままのベンジャミン。数多くの刑事事件に関わってきた彼だが、こんな状況に遭遇することは生まれて初めてだ。しかも実の弟が虚空から拳銃を取り出して、犯人射殺の許可を求めてきている。この事態をどうしろというのだ。
「出来れば逮捕したいが、やむを得ない場合は射殺……」
「うーん。でも、あれどう見ても、やむを得ないよね?」
 二人は地面に倒れた狼女を見る。ナンシーは、またもむくりと身体を起こして立ち上がろうとしていた。その腹からポンッ、ポンッと鉛弾が零れ落ちる。先ほどの銃弾であった。
 ため息をつくベンジャミン。仕方なく弟に向かってうなづいて見せた。
「オーケー。さすがに頭を撃ち抜きゃ、イクよね」
 親指で撃鉄を起こして、ジャキッ。信じられないほどキレイなフォームでジェレミーは拳銃を構える。
「なあジェル、お前それどこで覚えたんだ?」
「“バイオ・ハザード”だよ」
 狼女は身体を起こし、唸った。今すぐにでも飛びかからんと体制を整えた。
 ジェレミーは相手の頭に狙いを付け、拳銃の引き金に指をかけた。


「そこまでだ!」


 まさに、ジェレミーが引き金を引く直前。背後から男の声が響いた。
 驚いた二人はパッと後ろを振り返った。そこに居たのは──。

 
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Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2006