「どうしたの? ジャム」
ベッドに寝転がっていたジェレミーは、耳からイヤホンを外し兄の顔を見た。彼はお気に入りのイングランドの白いユニフォームレプリカ姿で、音楽を聴きながらサッカー雑誌を見ていたらしく、ベンジャミンが今言った言葉を聞いていなかったようだった。 ごくり。ベンジャミンは生唾を飲み込んだ。 「いや、何その……話があってな」 後ろ手にドアを閉め、そろそろとソファに腰掛ける。あの薬をくれ、と言いたい。言いたいのだが、どう切り出したものか。 ベンジャミンは視線を踊らせ、テーブル上のチョコレートの包み紙の切れ端を見つめるなどした後、おずおずと切り出した。 「あー、えーと。ジェル。お前は俺の弟だよな」 「なに、ジャム。改まっちゃってさ?」 ジェレミーは身体を起こし、ベッドの上に胡坐をかいた。兄の方をきちんと向く。 「お前が、ケンカして留置所にぶち込まれたときも、俺は何回も助けてやってるよな」 「う、うん。感謝してるよ」 「ソーホーのギャングに絡まれた時も……」 「──ストップ、ストップ! いいじゃないその話はもう。何なの? 早く本題に入ってよ」 足を解いて、ベッドの縁に腰掛けなおすジェレミー。身を乗り出し、きちんと話を聞こうという体制をとる。 「ああ、あのな……。ジェル。話があるんだ」 ベンジャミンは下唇を舐めてから、切り出した。 「それは分かってるよ」 「今から俺がする話に笑わないでくれ」 「うん」 「そんなの馬鹿げてる、もナシだ」 「うん」 「嘘だ、もナシだ。妄想だとか、有り得ない、とかもナシだ」 「うん、分かったよ。それで何なの?」 弟を混乱させてはならない。ベンジャミンは思った。自分は警察官だ。こういう時は、なるべく論理的に、詳しく、正確に、事情を説明せねば。 しばらく押し黙った後、ベンジャミンは思い切って口を開いた。
「お前の薬を飲んだら、アイリーンに会えた。彼女は化け物に追われていた。俺は彼女を助けなくちゃならん。だからジェル、あの薬をくれ」
その言葉を聞いて、ジェレミーは、目を見開いて瞬きもせずに兄を見た。 目をそらさずに、何か言いかけてパクパクと口を動かしたが、それは言葉にはならなかった。彼はそのまま無言で立ち上がると、兄が座っているソファの前までのろのろと歩いて来て、隣りに腰を降ろす。 「ジャム。ヤバいよ、それは」 彼はようやく──言うべきことを整理したかのように間を空けてから言った。兄の顔を見ながら、二の腕を掴んで続ける。 「どうしちゃったの? ジャム。イッてるよ、ブッ跳んでたよ。今の発言。俺をビックリさせようと思ってそんなこと言ったの?」 「いや、そういうわけじゃない」 ヤバい、イッてる、ブッ跳んでる……。ベンジャミンは弟の語彙の多さを呪った。 しかし、兄から否定の言葉を聴いたジェレミーは、混乱したように目を白黒させている。 「そういうわけじゃないって──。じゃあ、俺にあのクスリを捨てさせようとか思って、そんなオドロキ発言しちゃったの?」 「そ、そんなに、オドロキ発言かな?」 おそるおそる言うベンジャミン。 「あ、そうか!」 兄の姿を見つめているうちに何か思い至ったのか、ジェレミーは急に顔を曇らせた。 「分かったよ。ジャムは本当は、俺にドラッグをやめて欲しくてそんなこと言ったんだね。アイリーンの話まで出して……。本当にゴメン、俺ジャムに心配ばっかりかけて」 「え? いやその……」 じわりと緑の瞳を潤ませるジェレミー。 「俺、ジャムがアイリーンのことでどれだけ傷ついたのか知ってるよ。ごめんね、ジャム。俺まともになるよ。あのクスリも捨てるよ。一粒残らず捨てるよ」 「バカ、捨てるな」 逆に、ベンジャミンがジェレミーの腕を掴みなおす。 「捨てたら、ここから追い出すぞ」 ジェレミーはギョッとして目を瞬いた。口は半開き状態だ。 それを見て、ベンジャミンはマズイとばかりに手を離し、にっこり微笑んでみせた。優しい表情を作ったつもりだったが、それはしまりのない妙な笑顔にしかならなかった。 「ジェル、俺が悪かった。アイリーンに会ったってのは冗談だ。だから、早くあの薬をくれ」 「嘘だ」 キッと表情を硬くして、ジェレミーは口を尖らせた。 「ジャムがアイリーンのことで冗談を言ったことなんか、今まで一度もない」 「ジェル」 「ちゃんと話してよ」 次には泣き出しそうな目をして兄を見る。それはまるで、捨てられそうになった犬のそれだ。 「ジャムが、ちゃんと話してくれなきゃ、俺、嫌だ」 弟の様子を見て、さすがのベンジャミンも真面目な顔に戻った。……確かに少し、話を省略しすぎたかもしれない。 「分かった」 うつむいた弟の肩に手を置いて、ベンジャミンは静かに言った。 「悪かったな。何があったか、最初からきちんと話すよ」 うん、と小さくうなづくジェレミー。ホッとしたように表情を緩め兄をちらりと見ると、また自分の手元に視線を落とす。 そんな弟の様子を見ながら、ベンジャミンはふと思った。この年の離れた弟に対して、叱り付けたり、ああしろこうしろと言うことはよくあったが、自分がこうして頼みごとをすることは初めてになるのではないだろうか。
「家に帰ってきたら、お前の女友達が迎えてくれて“空とぶ宇宙ニッキーマウス”を視るからどうとか……」 「ジャム、そこは省略していいところだよ」 「ああそうか、すまん」
ベンジャミンはジェレミーに、自分が薬を飲んでから視た不思議な幻覚のことについて詳しく説明を始めた。ナンシー=ディクソンの件は、迷宮入り殺人事件の容疑者ということをかいつまんで説明した。そして最後に肩に出来てしまった痣を見せると、弟も驚いて真剣な表情になって、じっと話に聞き入っていた。 話が終わったころ、部屋の時計が時報を鳴らした。時刻は11時になっていた。
「それは変だ」 ジェレミーは至極まっとうな感想を述べた。 「なんでヴィクトリア時代に、ナンシーが歩いてるの?」 「幻覚だからだろう?」 「なんで怪我が、痣になって残っちゃうの?」 「それは分からん」 「ん……」 ジェレミーは、顔の下半分に手をやって考え込むような仕草を見せた。ふらりと立ち上がってベッドのマット下からごそごそと薬瓶を──あの、見覚えのあるヤツだ──取り出して、机の上に置いた。 「俺も似たような幻覚で怪我することもあるけど、痣なんかできたことないよ。それに、効き始める時間も変だ。このクスリはそんなに早く反応するはずがない。少なくとも20分はかかるはずだ」 「そうなのか」 普段の、冷静なベンジャミンであったなら。弟がこうもクスリの効果について詳しく、断言をもって話すことに違和感を覚えたであろう。しかし残念ながら、今のベンジャミンの頭の中を占めていたのは死んだ妻のことだけであった。彼の目線は、まるで薬物中毒患者のように机上の薬瓶に釘付けだ。 「今日、何か他に口に入れたものは?」 視線に気付いて、パッと薬瓶を手にしたジェレミー。注意深く兄に尋ねる。 言われて、ベンジャミンは今日一日の食事を思い出してみた。 アイリーンが死んでから、彼の食卓は非常に簡素化されており、朝はピーナッツバターを塗ったトーストとミルクティーと決まっているし、ランチは食べないことがほとんどだ。 「いつもの朝食と……、昼は食べなかったな。あ、そうだ。だから薬を飲み忘れたのか」 「薬?」 ジェレミーが反応した。 「γ−GDP値を下げるやつだよ。毎食後に飲めって渡されてて……」 「それだ!」 勢いよく立ち上がるジェレミー。そのまま飛び出すように部屋を出て行くと、すぐに戻ってくる。その手にはバスルームから持ってきたベンジャミンの薬瓶を持っている。 両手に同じような薬瓶を手にしたジェレミーは、ラベルに書いてある成分を詳しく読んでいるようだった。 「これを朝に飲んだんだよね?」 そこに目を落としたまま、兄に問う。ああ、とベンジャミンが生返事をすると、ジェレミーはようやく目を上げて兄を見た。そして二つの薬瓶から一つずつ錠剤を取り出すと、手の平に載せて、ん、と兄に差し出した。
「二つ一緒に飲むんだ。それでたぶん、また行けるよ。ヴィクトリア時代のロンドンに」
「え?」 「強く、念じるんだ」 ゆっくり、諭すようにジェレミーは言った。 「いい夢を見ていたときに、途中で目が覚めちゃうことあるだろ? でもすぐに寝ればまた続きを見ることができる。ジャムの念じる力次第だよ。ジャムが、強く、思えば、また同じ夢の途中から見ることができるはずだ。さあ、これを飲んで」
ジェレミーの手の平。二つの白い錠剤。 ベンジャミンは、ごくりと生唾を飲み込むと、そっと弟から錠剤を受け取った。
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