まじまじとベンジャミンの顔を見つめた可憐な少女は、突然プッと吹き出した。そしてげらげらと笑い出す。身体をくの字に折って腹を抱え、少々品の無い声で笑い続けた。道を歩きながらで、ある。
「……何がおかしいんだ?」 夕方のハイドパークは、人通りはまばらである。ベンジャミンとレベッカは公園の中の道を二人で歩いていた。 隣りで大笑いしている少女の様子を見て、さすがの彼もムッとした様子で言い返した。 ちょっと気になっていたことを聞いただけなのに。こんなに大笑いされる筋合いもない、それが彼の言い分だ。 「だってさ、それ」 レベッカは──王立闇法廷の構成員にして、アボット家に仕えるメイドの豪腕少女は、クルとベンジャミンの方を向く。 「お前“ホモ野郎”って言われたんだよ、その売女に」 「何だって?」 途端に顔をしかめるベンジャミン。「マンドレイクってのは男色家のことなのか?」 「そうだよ」 レベッカはようやく笑うのをやめて、答えた。黙っていれば、すべすべした白い肌に綺麗な黒い瞳を持つ、人形のように可愛らしい少女なのに。その口から飛び出してくる単語は“ホモ野郎”だとか“売女(ビッチ)”だとか、全く彼女に似合わないものだ。 「他にもいろんな言い方あるけど、知りたいか?」 ベンジャミンはため息をついて、首を横に振った。最初にトリップした夜に、売春宿で聞いた耳慣れぬ言葉。その正体はひとまず分かった。まあ──大方想像通りだったわけだが。 あっそう、とレベッカは笑ってまた足早に歩き出した。目的地に向かって。 「じゃ急ぎなよ、マスターに会えなくても知らないよ」
さて、また状況を整理しなければならない。
なぜ、ベンジャミンがこの夕方という時間帯に1888年にまたトリップして、カーマインのメイドと一緒にハイドパークを歩いているのか。そして彼らは何をしに、ここにやって来たのか。 時は、ベンジャミンがランチタイムにサッカーの試合を見た数十分後にさかのぼる。
『……だって、面白そうな試合してたんだもん』 弟のジェレミーは受話器の向こうで、のんきな声を上げた。スコットランドヤードの目の前で拾ったタクシーの中。ベンジャミンが唾を飛ばすような勢いで、携帯電話に怒鳴り散らした数分後である。 「だからって、現地の試合に飛び入りすることないだろ! お前が試合を邪魔したことで──イングランドの代表チームのユニフォームの色が変わっちまったんだぞ」 そうベンジャミンが大声で言うと、じろり、とタクシーの運転手がバックミラーの中でこちらを見た。 『……大丈夫だよ。そのジャムの部下の人が物知りなだけじゃないの? 俺の友達たちにも聞いてみたけど、みんなアウェーのユニフォームが白い理由なんて知らなかったよ』 「本当か?」 咄嗟にベンジャミンは携帯電話から耳を離し、バックミラーを見て運転手の視線を捕まえた。ふと身を乗り出して、彼は運転席と客席を隔てている透明プラスチックの壁をコンコンと叩く。 「なあ、ちょっと、運転手さん。イングランド代表チームのユニフォームの話なんだけど」 タクシーの運転手は、突然話し掛けてきたベンジャミンを見て眉を潜めた。しかし当の本人はそんなことにはおかまいなしだ。 「連中がアウェーの時しか白いのを着ない理由、知ってるか?」 「知りませんよ」
即答である。
「ご友人、何かのクイズ番組にでも出てるんですか?」
「本当か? 本当に知らない? 世界最古のフーリガンの話」 「……クイズ番組で、何か事件でも起こったんですか?」 疲れたように運転手は答え、会話を早く切りたいと言わんばかりに首を伸ばし前方を見た。「刑事さん。もうすぐ、そのスポーツ・バーに着きますよ」 「ああ、そう」 『……ねえ、ジャム。そんなことより聞いてよ。ユニフォーム交換しちゃったんだよ。ダービー・カウンティ ※ (ダービー市に本拠地を置くフットボールチーム。世界最初のフットボールリーグに参加したチームのうちの一つ) の選手と。スゴクない? ジャムにもあとでそのユニフォーム見せてあげるよ。なんてゆうかプレミアつくかも……』 「分かった。分かったから、いいなジェル、そこを動くな。絶対に動くなよ。もうすぐ着くから。──ああそうだ。それから例のクスリを用意しとけ。あのカーマイン・ファッキン・アボットにこのことを問い正さなきゃならんからな。お前は飲むなよ、絶対に飲むな。クスリを飲むのは今日は俺だけだ。お前が飲むと何をしでかすか分からんからな」 受話器の向こうで弟が興奮した様子で何か言っていた。が、ベンジャミンはさっさと通話を切った。バックミラーを見ると、運転手と目が合った。 運転手は一瞬だけ哀れそうな色を浮かべて、車を止めた。 「刑事さん、着きましたよ」 と、ベンジャミンから運賃を受け取りながら、彼は小声で付け加えるように言った。「安心してください。さっきの、わたしは聞かなかったことにしますから」 ──え、何が? と聞き返す前に。スコットランドヤードの警視はタクシーから追い出されていた。 ぽかんと口を開けて、ベンジャミンはタクシーが走り去っていくのを見送った。
「──マスターはクラウドっていう男に会いに行ってるんだよ」
古風なデザインのユニフォームは見たが、すぐにジェレミーに返した。ここはバーのトイレ。白い壁には“ここに電話して!”という文字と電話番号。二種類のクスリを飲み込むのに使うのは、ビールジョッキに入った生ぬるいスタウトだ。イングランド人なら、ビールは生ぬるいスタウトに決まってる。マーガレット=サッチャーだってそう言ってたぐらいだから、たぶんヴィクトリア時代だってビールは生ぬるかったに決まってる。そんなことを思いながら便器に腰掛けているベンジャミン。トリップするときは着く場所を選べるんだろうか。だんだんとゆらめくような気分を味わいながら、もう一口スタウトをごくり。アボット邸はメイフェア地区にあるのだが、このバーのあるソーホー地区にトリップしたとしたら歩くには少し遠い。待てよ、ヴィクトリア時代にバスはあるのだろうか……。
「──だから、マスターは、クラウドっていうオッサンに遭いに行ってて、ここには居ないんだよ。何、同じこと二回言わせてんだよ、このマヌケ」
トリップするときは場所を選べるようだった。それは小さな発見だった。ベンジャミンはアボット邸の目の前にいつの間にか立っていた。 息せききってアボット邸のドアを叩いたベンジャミンを出迎えたのは、黒髪のメイドだった。あの、最初にカーマインに出会ったときに一緒にいた少女、レベッカである。 夜は鎖を振り回していた彼女も、昼間は館の掃除などをしているらしい。彼女の手には無骨な鎖ではなく、ホウキが握られていた。 頭がハッキリしないまま質問をしたので、同じことを二回も聞いてしまったようだ。レベッカは綺麗な眉を寄せて不機嫌そうにベンジャミンの顔を見上げている。 「ごめん。君は俺のこと分かるかい?」 「昨日、マスターが連れてきた兄弟の、何にもできない方だろ?」 かなり直接的にズバリと、レベッカは目の前の人物を評した。ベンジャミンは少し傷ついたが、それを取り繕おうとは思わなかった。 そんなことよりも、今はすぐにでもカーマインに会いたいのだ。 歴史が変わってしまったことを、2006年のロンドンに起こってしまったことの意味を問いただしたいのだ。──そして、出来ればその修正方法も。 「クラウドってのは誰だ? どこにいる? 頼むよ、すぐにでもカーマインに会いたいんだ」 ふー、と長く息を吐くレベッカ。仕方ないね、と口に出して言う。 「クラウドってのは、よく分からないオッサンだよ。マスターは定期的にそいつを訪ねてるんだ。この時間ならハイドパークで物乞いしてるはずだ」 「物乞い!?」 なぜカーマインがわざわざ公園の物乞いに遭いに行くのかさっぱり分からなかったが、とにかくベンジャミンは彼にすぐにでも会って話をしたかった。 「ハイドパークのどの辺にいるんだ? 池の方か、宮殿の方か?」 「チッ、仕方ないね。いいよ。連れてってやるよ」 詳しいことを聞こうとしたら、レベッカは意外にも案内を申し出てくれた。え、いいの? と言うと、彼女は何食わぬ顔でうなづいた。 「あたしは新人には優しいんだ。……ちょっと待ってな」 笑顔も浮かべずにそう言うと、レベッカはそそくさと奥に引っ込んだ。奥で誰かと話している声が聞こえてくる。──今お越しになったお客様が、旦那様にお会いになりたいとおっしゃっているので、わたしがハイドパークまでお連れしようかと思います。つきましては、玄関の掃除についてなのですけれど──。 ああ、なるほど。 すぐに戻ってきたレベッカを迎えて、ベンジャミンは苦笑いした。
そんなわけで、ベンジャミンとレベッカは夕方のハイドパークを二人肩を並べて歩いていた。 会話が無いのも何かと気まずいと思い、ベンジャミンは彼女に“マンドレイク野郎”の意味を尋ねてみたのだ。結果、無愛想だった彼女は、とたんに大笑いして教えてくれた。 少々不愉快な思いをしたものの、その会話のおかげで、彼女は前よりもベンジャミンを身近に感じてくれるようになったようだった。お前、いくつなの? とか、100年後ってどんな感じになってんの? だとか、他愛のない質問をしてくるようになった。 ベンジャミンは彼女の質問に丁寧に答えてやった。彼女はなぜか、二人の年齢を正確に知りたがった。 「ふぅん、弟とは13才も離れてんのか」 「ああ。だから子供のころはあまり接点がなくってね」 「へええ、兄弟ってのはそういうモンなのかね──って、あ、アブねッ」 と、その時いきなりレベッカは目を見開いて、ベンジャミンの腕を引いて後ろに引き戻した。 「な、何!?」 少女と思えない強力で引かれ、驚いた彼の目の前をヒュッ。何か白く丸いものがよぎった。何だ? とその物体を目で追うと、それは放物円を描いて芝生の上に落ち、ころころと転がっていった。 ──ゴルフボール、だった。 「危ないじゃないか!?」 突然の災難に、ベンジャミンは声を荒げて、ボールの飛んできた方向に身体を向けた。 人が歩いているというのにゴルフの練習をするなんて、危ないにもほどがある。せめて人が居ない方向にボールを飛ばすべきではないか。 10メートルほど向こうに、身なりの良い老紳士がクラブを持ち立っていた。こちらを見ると、何食わぬ顔でまた新しいボールを芝生にセットしている。ベンジャミンの言葉が聞こえている様子は全くない。 「おい、聞こえてるのか!?」 「よせって」 腕を掴んだままのレベッカが、そのままもう一度ぐいと彼の腕を引いた。 「ほっとけよ。あたしも、思わず腕引いちまったけど、よくよく考えりゃあアイツの打ったボールなら、飛んできたって当たるわけねえし」 「何?」 少女の不可解な発言に、ベンジャミンはその顔をまじまじと見下ろした。ボールが当たらないとは一体どういう意味だ? と、彼が思った時だった。 カン! いい音をさせて白いボールが飛んできた。ゴルフボールはベンジャミンの目の前でレベッカの横顔にぶつかったと思いきや、そのまま飛んでいき、地面に落ちた。 まるで、レベッカがそこに存在しないかのように、ボールが彼女をすり抜けて飛んでいったのだ。 「えっ、ええッ!?」 驚いたのはベンジャミンだ。「ボ、ボールが、すり抜け……」 「バァカ、なに驚いてんだよ。あんなパンピーのボールがあたしらに当たるわけねえだろ」 「どうして?」 彼には、今の現象が全く理解できなかった。なぜ、ゴルフボールがレベッカをすり抜けたのか。しかし、彼女の方は彼女の方で、ベンジャミンが混乱している理由が分からないようだった。 「何だよ、お前、月妖(ルナー)だろ? 自覚ねえの?」 「俺も月妖?」 「そうだよ。だから、あのオッサンには、お前もあたしも見えてないんだよ」 「見えてない?」 ますます理解不能になってきた。ベンジャミンはこめかみに手を当てた。 「それは一体どういうことなんだ?」 「それは──」 レベッカが何か言おうとした。
「つまり、あの紳士の世界に、君たちが存在しえないということさ」
その時、ふいに脇から聞こえてきた男性の声。 ギョッとしたベンジャミンは周りを見回した。一体誰が声を発したのか、慌てて探すと──居た。前方の椎の木の下に男が一人座っており、その背中が見えていた。 襤褸(ぼろ)を着ているところを見ると、浮浪者のたぐいなのだろうが……。本当に、彼が今の言葉を発したのか? 「あ」 レベッカが口をぽかんと開ける。何? とベンジャミンが小声で訪ねると、彼女が答えた。 あれが、クラウドのオッサンだ、と。 「アボット卿は帰ったが、彼に君のことを聞いたよ。ベンジャミン=シェリンガム君」 横顔を見せ、浮浪者は朗々たる声で言った。 「こっちへ来たまえ。一緒に話をしよう」 その口調には溢れんばかりの知性と品格が備わっていた。外見はともかくとして、一角(ひとかど)の人物であることは明らかだった。 相手の雰囲気から一瞬にしてそれを見抜いたベンジャミンは、思わず襟を正した。そして、ゆっくりと彼──クラウドの方へと向かった。
クラウドは木の根元のところに座っていた。手にした古新聞を膝に置き、ベンジャミンを見上げた。初めて目が合う。
白髪の混じった短い髪。よくよく見ると六十才手前くらいの初老の男だった。目はくすんだグリーン。冬の公園のくすんだ芝生の色をそのまま映しているようだった。
短い間。男は、かすかに微笑んだ。 「私はクラウドと名乗っている者だ」 言いながら、彼はベンジャミンに芝生に座るように促した。ベンジャミンはカーマインを探していたことを忘れ、素直にその場に腰を下ろした。そして自分からも礼儀正しく、きちんと名乗った。 「ベンジャミン・ハロルド=シェリンガムです」 「知っているよ。アボット卿から君のことを託されたばかりだ」 「──託された?」 クラウドはニッコリ微笑んだが、その問いには答えなかった。所在無さげに立っていたレベッカにも手招きをして、やはり近くの芝生に座るよう促した。さすがの彼女も逆らわず、おとなしく芝生に腰掛ける。 それを見てから、クラウドはまたベンジャミンに視線を戻した。 「ベンジャミン。君は道端に落ちている石を気に掛けることがあるかい?」 「……え?」 突然の質問にまごつくベンジャミン。 「同じさ」 クラウドは構わず、ゴルフの練習にいそしむ老紳士の方を見やる。涼しい視線だ。 「彼にとって君の存在は、君にとっての道端の石と同じなんだ。──取るに足らない。どうでもいい。自分とは関係のないことなんだ」 と、視線をベンジャミンに戻し、「だから、彼にとって君は存在しないのと同じこと。彼と君の世界は重なり合ってはいるが交差しない。多次元的世界(パラダイム)にあるのさ」 ベンジャミンは眉をひそめた。彼の言っていることが理解できなかったのだ。 「失礼。貴方の言っている話の意味がよく分かりません」 「そうか」 クラウドは破顔した。 「すまないね。私は、このお嬢さんにゴルフボールが当たらなかった理由を説明しようと思ったんだよ」 「いえ、こちらこそ申し訳ありません」 真っ直ぐに相手を見つめるベンジャミン。「私は、まだこの時代に不慣れなものですから。理解力のない私にも分かるように、お話していただければと思ったのです」 「君は、誠実な男だな。気に入ったよ」 初老の男は笑みを浮かべたまま、視線を広場の噴水の方へとやった。 「あのアボット卿とベルフォード男爵夫人の子孫なら、それも当然うなづけるがね」 ベンジャミンは微かに顔をしかめた。ベルフォード男爵夫人というのはアナ・モリィ=シェリンガムのことである。そう言われると、どういう顔をしてよいか分からない。 クラウドは彼の様子を見て、声に出して笑った。 「そんな顔をするな。彼らはとても似合いの二人だぞ。──さて」 彼は居住まいを直し、きちんとベンジャミンの方を向き直った。 「では君に、この世界の摂理を教えてあげよう」
***
太陽はいつでも照っているわけではない。知ってのとおり、太陽が隠れれば昼は夜に変わる。
都会の人間は「時間が経過した」ことで、地球が自転し、夜になると理解している。ある意味これは当然のことだ。
しかし、アフリカのとある民族の解釈は違う。彼らは、昼と夜が交互にくることを、自分たちの存在している場所が変わったと解釈しているのだ。彼らは、時間の経過によって昼と夜が切り替わるのではなく、「昼」という場所と「夜」という場所を自分たちが行き来しているのだと信じているのである。
***
また、古代ギリシアの哲学者ゼノンは「飛んでいる矢は静止している」と言った。いわゆる有名なゼノンのパラドックスである。飛んでいる矢は、瞬間をとらえれば静止している。矢は静止の連続で飛んでいるように見えるだけである。ゆえに実際には矢は静止していると、彼は主張したのだ。
***
こういったことと同じなんだよ。と、クラウドは言った。
彼曰く、実際にはこの世界に“時間”は存在しないのだそうだ。時間の代わりに存在するのは無限に重なり合う世界──“次元”である。この細切れにされた“次元”が無限に連なって、時の流れを作っているだけなのである。 そしてそういった次元を意識し、感じるのは知覚者たる人間である。それぞれの個人が感じ、知覚している世界が無限に重なり合っているのが、この多次元的世界(パラダイム)なのだという。 つまり、ゴルフの練習をしていた老紳士の知覚する世界の範囲には月妖は存在しない。だから彼は吸血鬼に襲われることもないし、舞台や三文小説で吸血鬼に襲われる人間を見て、おお怖いと肩をすくめるだけで済む。 反対に、ベンジャミンのような異なる時代からやってきた存在も同じなのである。彼が知覚している世界にも、あの老紳士は存在しないのだ。 だから、老紳士とベンジャミンは互いに干渉しあうことが出来ない。ゴルフボールも当たらないし、ベンジャミンが彼に触れたとしても、すり抜けてしまうのだそうだ。
しかし実際には、このように全く干渉できないという関係の方が珍しい。 個人個人は、それぞれの世界の一部分を共有していることがほとんどなのだという。家族や恋人であれば、たくさんの共通認識を持つのだと聞けばうなづける事象である。個人の世界は、その人物自身の体験や思いにより形成されるのだ。
「すなわち、吸血鬼の存在を信じる人間が多いから、この世界に吸血鬼が実在するわけだよ」 クラウドは、厳かにそう結んだ。 「そして、彼らは実際に強力な力を持っている。……そういう風に、信じられているからね」 「お聞きしたいことがあります」 恐る恐る、ベンジャミンは言った。 何だね、と相手が自分に目を向けるのを待って、彼は疑問を口にする。 「あそこでゴルフの練習をしている男性と私が、存在している世界が一致しないから、お互い干渉できないということは理解できました。しかし、なぜ私は彼の姿を見ることができるのに、彼は私の姿を見ることができないのですか?」 「いい質問だね」 初老の男は、ゆったりと腕を組む。どうも静かだと思ったら、彼の向こう側でレベッカが木の幹を背にして、すやすやと居眠りをしているのが見えた。 「それは、光の見え方の現象と同じなんだよ。あの老紳士が“光”で、君が“闇”だ。……夜間に、外の暗がりから明るい窓を見ると中の様子がよく分かるだろう? しかし、その明るい部屋の中からは外の暗闇は伺い知れない。それと同じさ。世界の核に近い方からは、核から遠い──君や、私のような存在は“希薄”だから、うまく認識できないのだよ」 「なるほど、分かりました」 ベンジャミンはクラウドの答えに納得して、頷いた。正直言って、分かったような分からないような気分だったのだが、こういったことには馴れて、感じとるしかないのかと思ったのだった。 「さて、それを君が理解したのなら、お次は、君が飲んだという薬の話だ」 「え? あの薬のことまでご存知なのですか?」 慌ててベンジャミンは、身体を起こした。恐らくクラウドは、カーマインに“自分の子孫にいろいろ教えてやってくれ”と頼まれたのだろうが、あの薬のことまで話題に上がるとは。 一体、この男が何を知っているというのか。 俄然、興味が沸いてベンジャミンは身を乗り出した。あの薬なら、何錠かずつ持っているはずだ。彼はごそごそとポケットに手を入れ薬を出そうとする。 「……少し待ってください。何錠か今、持っています」 「出さなくていいよ」 苦笑してクラウド。「私は、ちょっとした推測から、一言君に注意をしてあげようと思っただけだ。私だって、その薬のことはよく分からないんだ。むしろアボット卿の方が専門だろう」 「カーマインが? 何故です?」 「知らないのかい。彼は神秘魔術家(オカルティスト)だぞ。法廷弁護士(パリスター)にして神秘魔術家という、世にも奇妙な才能の持ち主が、君の祖先だ」 そう言われて、ベンジャミンは最初にカーマインに会ったときに、彼が魔術の知識がどうのと言っていたことを思い出した。とはいえ、オカルトと言われて彼が咄嗟に思い出したのは、暗い部屋で霊媒師と称する女が、口から何か妙な白い物体を吐き出している写真ぐらいだったが。
「──まあ、それはともかく、その薬のことなんだがね。だいたいのところはアボット卿から聞いたよ。君と、君の弟は、その薬を飲んでこの1888年に具現化しているのだそうだが、それに間違いはないかね?」
構わず、クラウドは話を続けた。ベンジャミンがうなづくと、ふむ、と一言。 「その薬を、君一人で飲まない方がいいと、私は思う」 「……と、言いますと?」 「弟と行動を共にした方がいい」 ベンジャミンは首をかしげた。それは何故と、訪ねようとすると、先手を打つようにクラウドが言った。 「弟と、離れ離れになりたくないだろう?」 「どういうことですか」 クラウドは少し間をおいて、未来からの来訪者(ビジター)を見つめた。 「君たちは、その薬を飲むたびに新しい異次元に移動(シフト)しているんだよ。……いや、越境(オルタネイト)していると言い換えた方が正確だな。決して、1888年と2006年を行き来しているわけではないのだよ」 一度、言葉を切って、「……つまり君は、2006年αから1888年αに行き、1888年αから2006年βに越境しているのだ。元のαの世界に戻っているわけではない。君は、薬を飲むたびに新しい次元に飛んでいるということなのだよ」 その言葉に驚いて、ベンジャミンはすぐさま質問を返した。 「と言うことは、今、この薬の効果時間が切れて、2006年に戻ったらジェレミーに遭えないということですか?」 「いや、そうとまでは言わない。しかし、無数に重なり合う次元のうちどれかに行くわけだから、何かが少しだけ違っていることが大いに有り得る。例えば、弟がこの1888年のことを知らなかったりするかもしれない」 何かが少しずつ違った世界。 一緒に薬を飲まないと認識のズレが生じる。
──アッ!
ベンジャミンは、あることに思い至って、声を上げた。霧が晴れたように、今までクラウドから聞いたことが理解できたのだ。 「わ、分かりました! やっと貴方の言っていることが分かりました」 息せききってベンジャミン。 「イングランドのオフィシャルチームのアウェーのユニフォームが“赤い”世界と、ユニフォームが“白い”世界が同時に存在するのですね。それで、私や弟は薬を飲むことによって、ユニフォームが赤の世界から、白の世界に来てしまったというわけなんですね?」 クラウドはうなづいた。 「薬を飲むだけではなくて、君たちが何をしたかということも影響するはずだよ」 「ああ──そうなんです。弟はフットボールの試合に乱入して、それで目立ってしまったようなんです、だから2006年でユニフォームの色が白に」 「ふむ。君たちは来訪者(ビジター)で、月妖だから、知覚できる人間は少ないはずなのだけどね」 「戻れるんですか? ユニフォームが赤の世界に」 ふと、ベンジャミンは尋ね──ふるふると自分で首を振った。 「──いや、愚問でした。戻れないのですね。だから、弟と行動をともにした方がいいと、貴方はおっしゃってくれたのですよね」 「そうとも言い切れないよ、ベンジャミン」 空を見上げ、初老の男は優しく言った。夕焼けはとうに消え、そろそろ夜の帳が下りてくるころだ。ランプが必要になる時間である。 「この世界が無限に重なり合った次元で構成されているように、可能性も無限だからね。多次元的世界(パラダイム)を形作る原動力は、可能性に他ならない。何が起こるかなんて誰にも分からないのさ」 そう言い終えて。さて、とクラウドは居住まいを直す。 「もうそろそろ夜が来る。私も他に用事があるからね。君にアレを教えてから、失礼するとしよう」 「??」 「──言霊術(スペルキャスティング)だよ」 「呪文、ですか?」 きょとんとしてベンジャミン。薄暗くなる中で、相手の顔をまじまじと見つめる。また今度は一体何を言い出すのやら、と、不思議そうな表情を浮かべた。 それを見て、クラウドはため息をついたようだった。おもむろに左手を上げて、手のひらをベンジャミンに見えるように開いてみせる。
そこには、鳥が羽ばたくような紋章の刺青があった。
「これは……あッ!」 ベンジャミンは、それが自分の胸にある刺青と──アイリーンが入れてくれた刺青と同種のものであると気付いて声を上げた。 理由は無かった。形も色も違う刺青だというのに。ベンジャミンは何故か、それが何か同じ種類のものだということに気付いたのだった。 「君も、こういった刺青を入れているんだろ」 「はい」 素直に彼はうなづいた。「妻が、左胸に入れてくれたんです。これを入れていると、災難に遭わないお守りになるんだと言っていて」 「君の奥方は、どんな職業を?」 「医師です」 「なるほど」 クラウドは左手を見せるのをやめて、かぶりを振った。「奥方は、私のように言霊術師(スペルキャスター)の家系の出身なのだろうな。君が暮らす世界では言霊術(スペルキャスティング)が廃れ、刺青の神秘性だけが残ったのだろう。──複雑な気分だよ」 と、彼は気を取り直したように顔を上げ、「いいかね、ベンジャミン。その刺青はお守りではない。“力源(パワー・ソース)”と言って、魔術を使うために編み出された特殊な刺青なんだよ」 「魔術、ですか?」 またもや、ベンジャミンの脳裏を、先ほどの口から白い物体を吐き出す女性の像がよぎる。 「アボット卿が使うような神秘魔術とは少し趣きの違うものだよ。言うなれば即興魔術、かな。……ほら、こうして使うんだ」 と、言い終えたクラウドの左手がポゥッと光った。驚いてベンジャミンは目をみはる。何も手にしていないのに、手が光っている。 「これは?」 「そんなに驚くな。君にだってすぐに出来る」 笑顔になったクラウドは、片目をつむってみせる。 そういえば弟ジェレミーも、何もないところから銃を取り出したりできる。あれに似たようなものなのだろうか。ベンジャミンは半信半疑で、クラウドの顔と、光っている手を交互に見た。 するとクラウドはパッと光を消し、尋ねてきた。 「──そういえばアボット卿から聞いたが、君は“黒ノ女王”のことを調査しているのだったな」 「! そ、そうです」 とにかくこの男の口からはベンジャミンをドキリとさせる言葉ばかり飛び出てくる。アイリーンの話が出たらと思ったら、次は彼女の瓜二つの謎の貴婦人“黒ノ女王”の話である。 ベンジャミンは彼女の顔を思い浮かべながら、うなづいた。 「人探しだな。それなら、まずは、風の読み方を教えてあげよう。私が得意なのは“風”と“水”を操ることなのでね。風を感じ、風を読み、風に溶け、風を操る……。君ならそう難しいことではないだろうさ」
刺青が魔術用のもので、自分に素質がある? ベンジャミンには、もう何がなんだか分からなかった。しかし彼は信じることにした。 アイリーンとしか思えないようなあの貴婦人に会うために魔術が必要であるならば。 魔術を覚えることで、彼女に早く会えるのであれば。 「よろしくお願いします」
公園が闇に覆われるその時。ベンジャミンは、目の前の男に頭を下げていた。
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