*** ──親愛なるサラへ。 ***
最初の1ページには、ただその一文だけが書いてあった。 ベンジャミンが、ついと目を上げると、マクシーンは目でうなづいた。 そのまま、次のページをめくるように促しながら、彼女は──ベンジャミンの義母にあたる初老の女は言った。サラとは、わたくしの祖母のことです、と。 ほのかにカビの匂いのする書斎に義母と二人。ベンジャミンは、秋の弱い日光の差し込む窓際に立ったまま、手にした古い手記のページを、ゆっくりとめくる。 レディ・メイベル・ヘレナ=カールトン──あの“黒ノ女王”が残した手記である。約120年の年月を生き残った本は、紙は黄ばんでいたが保存状態は良い方だった。 夫にも見せたことがないのですよ、と付け足しながらマクシーンはベンジャミンにその本を渡してくれたのだ。 彼がこの数日の出来事を話した後に、である。初老の婦人は微笑みながら、全てを聞いてくれた。 ──わたくしには何が起こっているのかよく分かりませんが、貴方が“風”をまとって現れたのが何よりの証拠です。 マクシーンは目を細め、ベンジャミンに先を読むように促した。 濃い青色のインクで書かれた筆跡が生々しくて。ベンジャミンは脳裏にあの黒衣の貴婦人をまざまざと思い浮かべながら文字を追う。
*** サラ、この本は貴女だけが読みなさい。 そして、クロエとダドリーに話すかどうかは貴女が判断して決めなさい。貴女が必要でないと思えば、この本の内容を妹たちに話すことはありません。 ***
「祖母は、16才の誕生日の日に、この手記を見たのだそうです」 マクシーンが静かに口を開いた。「メイベルに、そう言い含められていたのだと聞きました。彼女の死後、祖母はこの手記の内容を初めて目にしたのです」 ベンジャミンは小さくうなづいた。そして、かさりと乾いた音をさせながら、次のページをめくった。
*** もしかすると、この本を手にする頃、わたくしは貴女の母親ではなくなっているかもしれません。メイベル・ヘレナ=カールトンではない別の人物──。悪魔に身体を乗っ取られ魔女のような女になっているかもしれません。 ですから、わたくしの意識がしっかりしている間に、貴女にわたくしの身に何が起こったのかを正確に記しておきます。
わたくしが自分の身に起こった異変に、はっきりと気付いたのは半年ほど前になります。
正確に年月を記せば、1888年の5月22日。チェルシー・フラワー・ショー ※ (毎年5月にチェルシーにあるロイヤル・ホスピタルの庭で行われる園芸祭。王立園芸協会の主催で行われ、薔薇などのコンクールなどもある。もちろん現代まで続いており、開会式には女王も来るほどの由緒正しい式典。) に夫と共に出向いた日のことでした。 園芸祭に出品された色とりどりの薔薇や蘭を楽しんだ後、夫は隣りのロイヤル・ホスピタル ※ (イギリス陸軍の元兵士の隠居所。65才以上の元軍人が500名ほど入所している。軍人向けの老人ホームみたいなもの。) に友人を訪ねるということでしたので、わたくしは彼と別れ、ゴームリー夫人と一緒にお芝居を観に行ったのです。 ですが、わたくしが覚えているのは、劇場へ向かう馬車の中で、夫人と他愛もない話をしていたところまでなのです。 気が付くと、辺りは暗くなっていて、わたくしは自分の部屋の窓のところに立っていました。煌々と照る月の下、窓も開け放したままです。 そして、見ればドレスの裾がボロボロに裂けているのです。まるで荊(いばら)の中を歩いたかのように。もちろんわたくしにはそんな記憶は全くありません。 メイドは、わたくしが部屋にいるのを見て非常に驚きました。彼女はわたくしが館に戻るのを見ていなかったというのです。 どうやら、わたくしは彼女に気付かれずに、館に戻ったようなのです。
次に、わたくしはフラワー・ショーから劇場まで付き添っていたはずの使用人のロジャーを呼びました。彼ならわたくしに何が起こったのか分かるはず……。そう思ったのですが、彼は青ざめて首を振るだけで、何も答えません。 それでもわたくしは根気強く尋ねました。彼が職を失うことを畏れているのではないかと思い、その心配がないことも伝えました。すると彼はようやく心を開き、話してくれました。 ロジャーはこう言うのです。 ──奥様ご自身が、このことを誰にも言わないように強く言いつけて、私の前から姿を消されたのです。 姿を消した? わたくしはロジャーに尋ねました。わたくしが貴方に追いつかれないように走り去ったということですか? ……彼は首を横に振りました。
消えたのです。奥様。 貴女様は夜の闇に溶けるように、私めの前から姿を消されたのです。 わたくしは訳が分からなくなってしまいました。 ロジャーは正直な男です。彼が嘘をついていることは有り得ませんし、人間が消えるなどということがあるわけがありません。 彼は何かの幻を見たのだろうと、思い直しはしました。しかし、恐ろしいのはわたくしが全く身に覚えのない言葉を彼に言ったということです。 これはどういうことなのでしょうか。 わたくしはロジャーに、もう一度その日の様子を詳しく聞くことにしました。 フラワー・ショーの会場から、わたくしとゴームリー夫人は彼女の馬車に乗ってコヴェントガーデン劇場 ※ (中流から上流の人たち向けの劇場。現在は「ロイヤル・ハウス・オペラ」という名前になっています。) まで行きました。そのいきさつは、わたくしも覚えています。 しかしロジャーによると、わたくしは具合が悪いとゴームリー夫人に告げて、途中で中座したそうなのです。 そして劇場の外で、一人で帰るからと、ロジャーの前から消えたとのことでした。 あのストランド街の界隈は、華やかなところですが、一つ道を間違えば無頼漢がうろついているような場所です。わたくしのような者が夜に一人で歩くような場所ではありません。 一体、あの街でわたくしは何をしていたのでしょうか。 ***
「ストランド街」 口に出してベンジャミン。思い起こせば、最初にクスリを飲んでトリップした場所もストランド街ではなかったか。 客の呼び込みをしていた売春宿の女。場末のパブから出てきたナンシー。 確かに貴婦人が一人で歩くにはふさわしくない場所であり、非常に危険な場所でもある。奇妙な符号にベンジャミンはその情報を脳にしっかりと刻み込んだ。 そして、傍のマクシーンの顔を見る。 「実は、私もメイベルらしき女性に、ここで初めて会ったのです」 彼女に黒ノ女王に会ったという話はした。しかし彼女がアイリーンの瓜二つであるという話はまだしていない。 マクシーンはうなづいた。 「そうなのでしょうね。彼女は、あの街で死んだのですから」 「え?」 ぎくりとするベンジャミン。 「その先を読んでご覧なさい」 促され、ページをめくると、その先は別の日に書いたのか、インクの色あいが少し違っていた。
*** それから、こうして半年が経ちました。 しかし恐ろしいことに、最近、記憶の空白の時間が増えているように思うのです。 それが起こるのは決まって、夜間です。 真夜中であることもありました。不思議なことに、一緒に休んでいる夫に全く気付かれることもなく、わたくしは寝室を抜け出しているようでした。 そして、わたくしが意識を取り戻すのは、いつも自室の窓の傍でした。 いつもわたくしは窓の外の月を見上げているのです。それまで眠っていたはずが、外出着に着替えて、服の裾をボロボロにして。
このまま、わたくしは一体どうなってしまうのでしょう。 不安になったわたくしは、昨日もう一度、あのストランド街に行ってみました。ロジャーを伴い、昼間にあの界隈を歩いてみました。 何も手掛かりはありませんでした。 半年前は恐ろしくて、あの街に近寄ることすら出来なかったのです。でも、こうして自分が自分でなくなるような思いをするくらいなら。そしてサラ、貴女たちに不安な思いをさせてしまうのなら……。わたくしは勇気を出して、あそこへ行きます。 諦めずに、あの街で手掛かりを探してみようと思っています。
── およしなさい。 ── メイベル、貴女はあの場所に近寄ってはならない。 ***
「筆跡が……?」 最後に付け加えるように書かれた二行。ベンジャミンは驚いて顔を上げた。 そこだけが明らかに違う筆跡で書かれている。まるで、違う人物が書いたように。 「パメラ、ですよ」 「パメラ?」 マクシーンは無言で、次のページをめくるように促した。
*** ── メイベル、貴女は何の心配もしなくていいの。 ── 貴女は娘たちや夫の身を気遣って、平和な生活を過ごしていればいいの。 ── 何も心配しなくていいのよ。 ── きっと、すぐに終わるから。
あなたは誰なの!? どうやって、この本に書いているの?
── わたくしはパメラ。 ── わたくしはずっと貴女の傍にいた人間。そして貴女の味方です。 ── ストランド街には行ってはいけない。 ***
かなり、メイベルの文字が乱れてきている。 こらえきれずにベンジャミンは素早くページをめくった。
*** サラ。 今日もわたくしはストランド街に行きました。 そして見つけました。ある紳士クラブです。名前をN……というところで、わたくしはその建物を一目見ただけで、何か胸が跳ねるように不快な気分になりました。 あそこに、何かがあります。 サラ、わたくしがわたくしで無くなったのなら、きっとあそこに手掛かりがあります。 ***
紳士クラブの名前のところは、ペンで黒く塗りつぶされている。 かろうじて、“N”らしき頭文字が見えるぐらいだ。 ここまで読めば、さすがのベンジャミンもなんとなく推測がついた。 パメラだ。謎の女パメラが、メイベルの娘のサラがクラブの名前を特定しないように、この部分を黒く塗りつぶしたのだろう。
*** ── メイベル。親愛なるメイベル。 ── どうか、このパメラの言うことを信じて。
── 貴女はあのクラブに二度と行っては駄目。 ── そして、あの黒いビロードの首飾りをつけた男を見たら、逃げるのよ。 ── 貴女の身に危険が迫っている。 ***
そこからは、数ページの空白があった。 空白の次からはパメラの筆跡で書かれていた。
*** サラ。 わたくしはパメラ。貴女の母親、メイベルの友人であり、味方でもあります。 メイベルの代わりにわたくしがこの先を記します。 辛いことだけど、貴女もメイベルの身に何があったのかを知るべきだと思うの。 だから、わたくしもここにメイベルのことを書いておきます。
メイベルには、幼い頃、兄がいたのです。 貴女たちは初耳かもしれないけれど、本当の話なの。メイベルには実の兄がいた。 聞いたことがないのも当然かもしれないわ。 彼女の兄は、死んだことになっているから。
兄の名前は、デニス。彼女や貴女のように黒髪と青い瞳を持った美しい青年でした。 彼は少し変わったところがあって、恵まれない人たちといつも一緒にいようとしたの。メリルボンにあるような救貧院に出向いて、彼らに仕事を教えようとしたり、彼らをどうにか貧しさから助け出そうしていた。心優しい青年だったのよ。 両親や同じぐらいの年齢の友人たちは、彼のことを、やり過ぎだと言って馬鹿にしたわ。 でも、メイベルはこの8才年上の兄のことが好きだったし、尊敬していた。 さすがに一緒に救貧院にいくことは無かったけれど。彼女は兄と、彼の行いをとても好いていたのよ。
だけど、ある日。その救貧院の庭でデニスの死体が見つかった。 服はボロボロにされ、身体中は傷だらけ。そして首を斧で切断されていたの。 犯人はすぐに分かったわ。その救貧院で、デニスがいつも仲良くしていた人たちよ。 彼らとデニスの間で何があったのか、わたくしもよく知らないの。でも、彼らはすぐに名乗り出て告白したの。 大勢で無抵抗のデニスを殺したことをね。 彼らは涙を流してデニスを殺したことを悔いた。もちろん殺害に関わった全ての人間がニューゲイト監獄に送られたわ。 でもね。 その人たちが絞首刑になることは無かった。 全員が、監獄の中で殺されたの。デニスの手によって。
そう、デニスよ。 メイベルの兄は生き返って、自らの復讐を遂げた後、彼女の前に現れた。 生き返ったデニスは、もう以前の彼ではなかったのです。 デニスは、もう誰も愛せない人間になっていました。
そして、デニスはメイベルにとても酷いことをしたの。
だから、メイベルは兄のことを忘れることにしたのよ。 いい思い出だけを胸の中にしまって。 サラ。親愛なる、サラ。 わたくしはデニスを止めなければ、ならないの。 メイベルは非力だけれど、わたくしには力があります。 魔術と、そしてこの力。 力は永久に使えるものではないけれど、でもわたくしはやらなければならないの。 もしかすると、貴女の母親は貴女のもとに帰ってこないかもしれない。 でも、メイベルは心から貴女のことを愛しています。
── わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。
***
「……」 最後のページを読み終え、ベンジャミンは眉間に皺を寄せた。 「お義母さん、メイベルはどのような最期を遂げたのですか?」 目を伏せたまま。静かな質問だった。 「彼女が見つかったのは、ストランド街の路地裏です」 マクシーンも義理の息子を見ようとはせず、ただ自分が組んでいる手をじっと見下ろしているだけだった。 「仰向けに倒れた彼女の身体には、胸に──ちょうど心臓のところに大きな穴が開いていたのだそうです。そこから床のレンガが見えるほどにね。どんな凶器を使ったのかは分かりません。しかし、その傷が彼女への致命傷になったことは明らかです」 ベンジャミンは、ゆっくりと息を吐いた。想像したくはなかった。しかし、彼の脳裏にはあの黒ノ女王が。死んだ妻アイリーンに瓜二つのあの貴婦人が、レンガの上に倒れている姿が浮かび上がっていた。 ゆるゆると、彼は首を振ってその幻影を追い払おうとする。 そして、一つの推測を口にした。
「メイベルと、そしてパメラは同時に命を落としたのですね」
マクシーンは厳かにうなづいた。 「ええ、そうです。厳密に言うならば、言霊術(スペルキャスティング)を駆使して、月妖と戦ったのはメイベルではなく、パメラ。彼女はメイベルと身体を共有する、もう一つの人格だった、とも言えます」 「サラが、そのことを?」 「ええ」 しゃんと背筋を伸ばしたまま、初老の婦人は、ようやくベンジャミンの顔を見上げた。 「サラはその手記を読んで、母親の身に何が起こったのかを調べたのです。娘としては当然ですわね。そして、彼女はある言霊師(スペルキャスター)の老人から、彼女の顛末を聞くことが出来たのです」 「ある言霊師の老人、ですか」 と、おうむ返しにベンジャミン。 「その方によると、パメラは吸血鬼(ヴァンパイア)の結社の本拠地に乗り込み、彼らと刺し違えるようにして命を落としたということでした」 淡々と語るマクシーンの顔には、これといった表情が浮かばない。 「おそらく、デニスがそこにいたのでしょうね。想像するしかないことですが、彼女との戦いでそこにいたほぼ全員のヴァンパイアが命を落としたということですから。おそらくデニスも、その時に死んだのだとわたくしは思っています」 「……そうですか……」 うなづきながら、ベンジャミンは頭の中で情報を整理した。 一つの身体に二つの人格。現代でも、たまに存在が取り沙汰される二重人格というやつだ。少し難しい言葉で言うなら“乖離性同一性障害”。ベンジャミンも職業上、そういった事例に遭遇する機会は多く、ヴィクトリア時代といえど、存在していてもおかしくはない症例ではある。 彼は法廷の聴講をしているときに、弁護士やエセ精神科医が口にしていた言葉を思い出しながら考えをまとめていった。 パメラはメイベルの存在を知覚しているが、メイベルはパメラを知覚していない。そしてパメラの方がより多くの情報を持っている。この場合、パメラの方が“上位人格”と言える。 そしてパメラは、自らの兄を倒すために言霊術(スペルキャスティング)を身に着けた。 しかし、そうだとしてもいくつかの謎が残る。
疑問一、なぜパメラが突然、現れたのか。何かのきっかけがあったのか。 疑問二、パメラはどうやって半年であそこまでの言霊術を身につけたのだろうか。この手記のメイベルの記録が正しければ、パメラが現れたのはたった半年前。ベンジャミンの目からしても半年であれほどの力を身につけるのは難しい。 疑問三、手記にある“力”とは、カーマインが言っていた悪魔から得た力なのだろうか。だとしたらパメラに良からぬ力を与えた者とは一体誰なのか。文脈からすると、彼女に言霊術を教えた人物とイコールとも読み取れるが……?
しばらく押し黙った後、ベンジャミンは一つ一つ噛み締めるように切り出した。 「メイベルは、きっとその5月22日に、ストランド街でデニスの姿を見かけたのでしょうね。それがきっかけとなって、彼女の奥底に眠っていたパメラが現れた」 「そうですね。わたくしもそう思います」 疑問一は、ひとまず推測が成り立つ。 「そして、パメラは誰からか言霊術を学び、デニスを倒そうとするわけですよね。つまり、サラにメイベルの顛末を話してくれたという言霊師の老人が、彼女に言霊術を教えたということになるのでしょうか?」 「いいえ。それが違うようなのです」 彼の予想に反して、マクシーンはかぶりを振った。 「実は、パメラがどこでどうやって言霊術を学んだのかは誰も知らないのです。サラに話をしてくれたのはギブソンという方で、当時の言霊師たちの中でも最高齢で、長老のような位置におられた方なのですけども、その彼もパメラの師匠が誰であるかを知らなかったそうです」 「そうですか」 「サラは、そのギブソン氏から言霊術を習いました。当家の言霊術は、そこから継承されてきたものなのです」 ベンジャミンは嘆息した。有り得る話ではある。メイベルとパメラとデニスの愛憎劇。彼らの関係は完結しているようでいて、何か欠けているところがある。 そう。パメラに力を与えた者の存在である。 こうした手記の中でも存在を悟らせないところが、逆に不審さを強めるのだ。用心深く身を隠した謎の人物──。 あとは過去の時代で調べるしかないのだろうか。 「何か、役に立つことは分かりましたか?」 ベンジャミンが黙っていたので、マクシーンが尋ねてきた。彼は思考の中から義母に意識を戻すと、半ば慌てて、すみません、と謝った。 「もちろんです。こんなに貴重なものを私のような者に見せていただいて、本当に感謝しています」 「いいえ」 マクシーンは、そこでうっすらと微笑みを浮かべて見せた。この部屋に入ってからは初めての笑みだったのだが、それは少し寂しげなものでもあった。 「まあ、歴史は変わらないのでしょうけど。わたくしはデニスやメイベル、そしてパメラの魂が少しでも安らかでいられるように願うだけです」 「そうですね」 うなづきながらベンジャミン。 しかし彼は知っていた。歴史は変えられるのだ。今なら、パメラを破滅から救うことができる。他でもない自分が、ヴィクトリア時代にトリップして彼女を助けることによって。 ベンジャミンはもう一度、手記のページをめくり、内容を読み直してみた。何か気付かなかったことはないか。重要な情報を見落としてはいないか。刑事らしい慎重さを見せて、彼は一枚一枚のページを丹念に見直していった。 確かにパメラとメイベルは明らかに筆跡が違う。 言ってしまえばメイベルの方が流れるような筆記体で書かれており達筆だ。パメラは少し幼い感じも匂わせたブロック体である。ただしインクは同じものを使っているようで、色も匂いも変わらないように思える。 そして、ベンジャミンは最後の文章を読み終えて、手記を閉じようとした。
── わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。
──! その時、身体中に電撃が走ったような感覚がして、ベンジャミンはカッと目を見開いた。 まさか、そんな馬鹿な! あまりの衝撃の強さに本を取り落としそうになったが、手を伸ばし、かろうじて落とさずに済む。 マクシーンが彼の異変に気付いて、何か気遣うような言葉を口にしたが、ベンジャミンはそれをまともに聞き取ることすら出来なかった。
わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。
この文章だけ、筆跡が違っていた。 パメラの筆跡に似せてあるが、別人が書いたものであった。 ベンジャミンには二つの筆跡の区別が明らかに見えた。筆跡というより、言葉そのものに聞き覚えがあったからだ。 あの病室。 病気の進行が止まらず、白いベッドに横たわったアイリーン。 やせ細った彼女の手を握ったとき、彼女が口にした言葉だ。 医師であった妻。アイリーンはベンジャミンの身体を気遣って、そう言ったのだ。 続く言葉も覚えている。 ──大丈夫よ、ジャム。わたしはここに、あなたとずっと一緒にいるから。 そう言って、彼女は彼の胸を指差したのだ。
マクシーンが何かを言っている。 しかし、彼の耳には届かなかった。 ベンジャミンは自分の手の震えをしばらく抑えることが出来ず、まるで魅入られたかのように手記の文字を見つめていた。
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