Chapter4  彼女の悪夢


Chapter4-3 ツッコミの悪夢


 本当のことを言うと、ひとつだけクライヴに話さなかったことがある。
 あの、ことだ。
 ベンジャミンは、緑のクッションの長椅子に腰掛けて、開いた両膝の上に手を置いていた。様々なことに思いを巡らせながら。
 いつもの──ヴィクトリア時代の夜である。
 正面にはカーマインが、隣りには弟のジェレミーがいる。そこはカーマインの私邸の応接室で。三人は遅すぎるティータイムを楽しみつつ、会話を楽しんでいた。

「……しかし、意外だな。百年経っても、クリケットが新大陸にまで広まらないとはね」
「うん、そうなんだよ。クリケットはイマイチなんだよね。でも、テニスにゴルフに、フットボールは世界中に広まるんだよ。フットボールはワールドカップだってあるしね」
「ワールドカップ?」
「世界中の人たちが、タマ蹴りを楽しむようになるってことさ」

 ……とは言っても、楽しんでいたのはカーマインとジェレミーだけだったが。

 ベンジャミンはずっと無言で、一人の世界に閉じこもっていた。話しかけても何も返事もしないので、他の二人は諦めて彼を放ったままにしていた。
 部下のクライヴに話さなかったこと。──それは、彼の妻からのメッセージのことだった。
 “黒ノ女王”こと、メイベル・ヘレナ=カールトン。彼女の手記の中にあった、筆跡の違う一文。その言葉。
 ──わたしが居なくなっても、身体には気をつけて。
 あれは、アイリーンの言葉だ。
 ベンジャミンは、そう確信している。そして、メイベルが多重人格者であることも分かっている。……ということは。おのずと答えは見えてくる。
 
 アイリーンは、きっと、そこに居る。

「ジャム」
 先ほどから、ベンジャミンはそのことばかり考えている。
「……ジャム」
 自分が声を掛けられていることにようやく気付いて、彼はつと顔をあげる。カーマインが、いつの間にか窓際に立っていて、彼を見つめていた。
「来たぞ」
「なに?」
 首をかしげるベンジャミンに、法廷弁護士はひとつ嘆息しながら、言い添える。
「モリィだ。アナ・モリィ=シェリンガム。君たちの曾々祖母だよ」

 ──そうだった。

 ベンジャミンは、黒ノ女王が残した手記の内容をカーマインに話した。もちろん妻の言葉がそこにあったことは言わなかったが、他のことは全て話した。
 そうしたら、カーマインが言ったのだ。──君たちのご先祖たる、あの女傑の力を借りよう、と。
 アナ・モリィは、他人の夢の中を覗くことができる“夢魔(ナイトメア)”の力を持っている。だから、黒ノ女王ことメイベル=カールトンが眠っている間に、アナ・モリィの力で夢の中に入り込んでしまえば、“心の中を直接”調査することができる。
 夢の中なら、彼女の深層心理を覗き、彼女が具体的にどんな事件に巻き込まれているのかを探ることができる。メイベルの手記に痕跡すら残していない、彼女の“謎の協力者”。その相手の正体を突き止めることも可能だろう──。
 それが、カーマインの提案だった。
 そして彼はしたり顔で付け加えた。時間をうまく合わせれば、アナ・モリィに会うことは簡単だ、とも。
 問題は、どう頼むかだが。
 まあ、それもどうにかなるだろう。王立闇法廷のトップは、そう言って微笑んだのだった。
「……」
 ベンジャミンは、弟をチラリと見る。ジェレミーは目をキラキラさせて期待に満ち満ちた顔をしている。無理もない。
 アナ・モリィ。この時代でのシェリンガム家の当主にしてベルフォード男爵の称号を持つ。作家であり活動家であり、辛らつな評論家でもあった女性である。貴族を嫌い、中産階級の友人とばかり付き合い、あげくの果てには男爵位を売り払ってしまうような豪胆な貴婦人だ。
 そして、彼女は写真や肖像画の類を嫌い、自分の姿を後世に一枚も残さなかった。
 ……つまり、二人の兄弟は、この名の売れた先祖が外見を持っているのか全く知らなかったのだ。
 ジェレミーのように顔には出さなかったものの、ベンジャミンもそれなりの期待感を持っていた。どんな女性なのだろうか。美人なのだろうか。背は高いのか低いのか。髪の色は金だろうか、目の色は──。

「邪魔をするぞ」

 と、思ったら、居た。
 いつの間にか、居た。

「うわあ!」
 ジェレミーがオーバーアクションで驚いてみせる。空いた椅子に、いつの間にか一人の人物が座っていたからだ。
 扉は開いていない。何の物音もしていない。それなのに、唐突に降って沸いたように、一人の女性がこの部屋のメンバーに加わっていた。
「モリィ」
 窓から振り返り、カーマインが言った。
「今夜ぐらいは、玄関を通ってくれ」
「ああ、済まん。面倒だったんで跳ばしてきた。だが、どうせ、この二人も月妖(ルナー)なんだろう?」
 答えた声は、澄んだ女性のものだった。
 ベンジャミンは、ぽかんと口を開けて、その相手を見つめている。
 この人物が、アナ・モリィ・グウェンドリン=シェリンガム、なの、か。
「何だ?」
 目が合った。
 瞳はグリーンだ。ジェレミーと同じである。耳の下で短く切り揃えられた髪の色も、ブロンドで、これもジェレミーと一緒だ。肌の色は白くて、涼しげな目元をしている。銀縁の眼鏡を掛けているところも実に作家らしく、彼女の知性を端的に現していた。つまり一般的に言って、彼女は美女といって差し支えなかった。クール・ビューティといった感じだ。
「ええと……」
 だが、問題は、その服装だった。
 彼女はほとんど黒に近い濃赤色のスーツを着ていた。もちろん下はスカートではなくスラックスだ。トップハットは被っていないものの、襟元にはリボンタイを付けており、手には白い手袋をはめている。
 まるで──男性の格好じゃないか。
 パンツスーツ姿の女性を見ることは珍しくない。だが、ここはヴィクリア時代であって、現代ではないのだ。こんな格好をした女性など、皆無に等しいのではないか。
「じろじろ見るな、不愉快だ」
 ベンジャミンがそう思ったとき、その女──アナ・モリィが眉間に皺をつくりながら言った。
「わたしのことはCCから聞いてるんだろう? 驚くことじゃなかろうに」
「いや、その──」
「スッゲェ!!」
 失礼を彼が詫びようとした時、隣りで歓声を上げた者がいた。
 言わずもがな、ジェレミーだ。
 ブロンドの青年は、まるでマンUのロナウドがヘディングでゴールを決めた時のように飛び上がって、はしゃぎだした。兄の肩を叩き、スゲエを連発し、足をドタドタと踏み鳴らす。
「ウワァ、本物だ。スッゲェ! ジャム、スゴイよ、本物のアナ・モリィだよ」
 当のアナ・モリィが片眉を上げる。
「俺、カンドーしたよ! 神サマにだって感謝しちゃうよ。ドラッグやっててホントに良かった。まさか、あのアナ・モリィに直に会えるなんて!」
「君」
 男物のスーツを着た女は、顎を引き、真っ直ぐにジェレミーを見た。
「君は、わたしのファンなのか?」
「違う違う、そうじゃないよ」
ジェレミーは大きく手を振りながら言う。なぜか照れたような笑みを浮かべながら、「俺たちは、未来からやってきたんだよ。俺、ジェレミーっていうんだ。ジェレミー・ナイジェル=シェ……」
 はっ、と顔を上げるベンジャミン。まずい、その先は──!

「──アボット、だな?」

 そこで口を挟んだのはカーマインの方だった。
 いつの間にか、ジェレミーの後ろに回りこんでいたカーマインは、片手を青年の肩にしっかりと置いていた。
「モリィ。紹介が遅れて済まなかった」
 と、彼は女の方を見て、微笑んでみせる。自分の姓を言いかけたジェレミーをフォローするように、カーマインは滑らかに説明を続けた。
 取り繕っている様子など微塵も見せずに。
「この二人は、ベンジャミン=アボットと、ジェレミー=アボット。兄弟だ」
「アボット?」
 アナ・モリィは、いぶかしげな様子で友人に目を向けた。ジェレミーは、きょとんと背後のカーマインを振り返る。
「そう。僕の子孫だよ。珍妙な格好をしているが、目をつむってやってくれ」
「子孫? ハン、“来訪者(ビジター)”ということか」
 ふぅんと、納得したように腕を組んでみせるアナ・モリィ。
 そこへ、おい珍妙とは何だよ、と声を上げるベンジャミンに、アボットアボットと呪文のように繰り返すジェレミー。
 カーマインはニコッと微笑んだ。
「そして彼らは、ロイヤル・コーツ・オブ・ダークネス・イレギュラース、すなわちCDIの一員でもある」
「はぁ?」
 さも当然のことのように話を進める彼に、ベンジャミンが慌てて待ったをかけた。
「待て。なんの話をしてる?」
「ああ。君たちはイレギュラースとして扱われることになったから、そのつもりで」
「何だよそれ! 聞いてないんだけど」
「それはそうだ、当然だよ。だって僕が今、決めたんだから」 
王立闇法廷のトップは、涼しい顔で言い放った。「CDI、悪くないだろ?」
「また勝手に──」
「──おい、君」
 そこで、ふいに口を挟んだ者がいた。
 ベンジャミンは前方へ視線を戻す。アナ・モリィだった。彼の先祖が、彼のことをじっと見つめていた。冷たいグリーンの瞳である。何か非難をするような、そんな色が浮かんでいた。
「経験者かと思ったら、違うのか」
 エ? と、ベンジャミン。
「遅いんだよ。決定的に遅い。“今、決めたんだから”ときたら、間髪入れずに“今かよ!”と返すべきだ。単純なツッコミだからこそ、間が命になるんだからな。ネタじゃない、間こそがコントの全てと言っても過言ではないのに」
 彼女は淡々と言い、残念だとばかりに深くため息をついた。
「もう遅い。まったく笑えんな」
「アハハ、言えてるー」
 先祖の言葉に、ジェレミーが手を叩いて喜んだ。その傍ら、ベンジャミンはポカンとだらしなく口を開けていく。
 ──え、何で俺、ダメ出しされてるの? しかも先祖に。しかも、俺って、ツッコミなんですか? 経験者って何って、ツッコまないといけなかったの、もしかして?
 まさかの仕打ちに、彼はがっくりと頭を垂れた。
「笑えんコントほど、惨めなものは無い」
 が、そんなベンジャミンをよそに、アナ・モリィは膝に手をおき、腰を浮かせ立ち上がろうとする。話はもう終わったと言わんばかりである。
「CC。用件はこれだけか? 本題に入らないのなら、わたしはこれで失礼する」
「まあまあ。モリィ、君は相変わらず忙しないな」
 早々に帰ろうとする彼女をなだめるように、カーマインが声を掛ける。
「手紙で少し用件を説明しただろう? ある女性の夢の中を探りたいのだ。君の力が必要だ」
「ふん」
 尊大な態度を見せながら、女流作家はもう一度、椅子に身体を預けた。
 眉間に眉を寄せたまま、目の前の兄弟をじろじろと見る。
「子孫か。似てないな。ただ、そっちの方」
と、ベンジャミンの方を顎でしゃくり、「CCとは目と髪の色が同じだな。それぐらい、か」
「モリィ、その女性というのは──」
「──子孫を伴っているということは、お前の個人的な案件か?」
 カーマインが説明をし始めているというのに、彼女はおかまいなく自分のペースで質問を浴びせた。本業が作家であるからか、彼女は二人が未来人であるという事実を疑っている様子は無かった。しかし。
 ──なんで、そんなに不機嫌そうなんだろう?
 ジェレミーは話を聞きながら、珍しく顔を曇らせていった。彼にとって、会いたくてたまらなかったアナ・モリィ=シェリンガム。その容貌には少なからず驚かされたし、カーマインが気を使って自分の言葉を遮ったのも、今では理解できる。
 でも──。なぜ、彼女は不機嫌なままなのだろう?
「個人的な案件、か。まあ、そういうことになるかもしれないな」
 眉を上げて答えるカーマイン。
「お前にしては煮え切らない言い方だな。しかも、女の夢の中を探れときたか」
 アナ・モリィは顔の前で手をひらひらさせながら、相手に冷たい視線を放つ。
「わたしが何故、お前を手伝わねばならんのだ」
「その女性が大きな事件を起こしかねないからだ」
「ハン?」
 不機嫌なまま彼女は相槌を打つが、カーマインにはそれに頓着した様子は無い。
「彼女はきちんとした家柄の貴婦人なのだが、どうやら月妖による犯罪の被害者らしい」
 被害者? 何の話をしている? ベンジャミンは口を挟もうとしたが、やめた。ここはカーマインに任せるのが得策だろう。彼は二人の先祖を代わる代わる見、黙って話の行く末を見届けることに決めた。
「彼女は吸血鬼(ヴァンパイア)に襲われたのだ。そして復讐に命を賭けようとしている」
「──だから?」
「彼女が、か弱き女性ならまだ良かった。だが、事実は違う」
 コツ。カーマインは手にしたステッキで床を叩く。
「そして相手の吸血鬼が単体ならまだ良かった。だが、それも違った」
「吸血鬼が、たくさん殺される、ということか」
「そうだ。恐るべき力を身につけた女性が、ある場所に乗り込んで大勢の吸血鬼を血祭りにあげるのさ。にわかには信じがたい話だが、この事件が実際に起こってしまえば、数十人単位の人死にが出るだろう。──それが、ベンジャミンが調べてくれた未来の書物に載っている事実だ」
 じっとアナ・モリィは相手を見た。その顔に自分の質問の答えが書いてあるかのように。
「ある場所、とは?」
「ザ・ノースウィンドさ」
「ノースウィンドか! なるほどな」
 ふむ……。彼女は思案するように床に目を落とした。「あそこには、オスカー・ワイルド  (アイルランド出身の劇作家。著作には『サロメ』や『ドリアン・グレイの肖像』など。同性愛の傾向があり、この数年後にその罪で逮捕されることになる。) ですら顔を出している。何人かの大物が事件に巻き込まれかねないというわけか」
「そうだ」
 うなづくカーマイン。
 一方、ベンジャミンは心の中でアッと声を上げた。“ノースウィンド”。例のメイベルの手記に出てきた“N”のつく建物のことだ! なるほど、カーマインは彼が話した手記の内容から、これから起こりうる事件を大方察知していたのだ。ノースウィンドとは、おそらくは紳士クラブの類だろう。手記によれば、それがストランド街にあることもすでに分かっている。
「分かったぞ」
 やがて、アナ・モリィがしたり顔で声を上げた。
「その貴婦人が、誰にどのような恨みを抱いているのかを知りたいというのだな。──だから、わたしの力で彼女の夢を覗き見ようと?」
「ああ」
 にっこり微笑んで、カーマインは頷いた。
「どうも、この件には不審な点が多々あってね。少し荒療治が必要なのだ。はっきりした証言が欲しい」
 証言、と繰り返して笑うアナ・モリィ。
「ノースウィンドに、たむろする紳士淑女は個人的にいけ好かない連中ばかりだ。だが、そこまで聞いて知らぬ振りをする道理も無い、な」
仕方ないといった様子で、女流作家は嘆息した。「吸血鬼といえど、“人”だ。──その女性が受けた具体的な被害を知り、犯人を断罪してやるつもりだな? CC」
「そうだ。大英帝国は法治国家だ。私刑(リンチ)は文明人のすることではない」
 アナ・モリィは相手がうなづくのを見て、もう一度嘆息した。髪に手を触れ頭に撫で付けている。眉間の皺は消えていたが、それでも何か困ったような顔をしている。
「話は分かった。だが気が進まんな。胸糞の悪くなる──」
コホン、と彼女は一つ咳をした。「いや、少し気分の悪くなりそうなものを見せられそうなのでな」
「ああ、その件なら、心配ない。──ジェレミー」
 カーマインは頷いて、急にジェレミーに話を振った。エ? と彼が自分の方を向くのを待ってから続ける。
「彼も、君と同じ“夢魔(ナイトメア)”だ。それに兄のベンジャミンは“言霊師(スペル・キャスター)”でもある。二人がその女性の夢を探りに行ってくれる。君の代わりにな」
「ほう。なら、君たちだけで行けばよいだろうに?」
 アナ・モリィは、少し興味を持った様子で、ジェレミーをひたと見据えた。当のジェレミーは、おどおどしたように先祖二人に視線を走らせる。
 カーマインが、安心しろと言わんばかりに彼に微笑みかけた。
「いや、彼はまだ新米なんだ。夢への入り方をよく知らない。だから教えてやって欲しいんだ」
「新米、ねえ……」
 そうして彼女は三度目の溜息をつく。
 女流作家の眉間に、また縦皺が二本。くっきりと現われていた。

 
 そんなわけで、4人はその日のうちにカールトン邸に出向くことになったのだった。
 1名を覗いた3人は「早っ!」と思ったが、その当人が具体的な能力を振るう人物なのだから反論しようが無かった。
 ──そういうことなら、今夜のうちに、さっさと行って、さっさと済ませよう。
 “夢魔(ナイトメア)”アナ・モリィ。
 さすがの行動力。男爵位を売り払ったのも伊達じゃないな、と、ベンジャミンは改めて、先祖をスゴイと思ったのだった。

 
■■■
 

 

Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2008