Chapter4  彼女の悪夢


Chapter4-4 彼女の中の彼女


 ベンジャミンは、ストランド街に立っていた。
 1888年の街頭である。昼だが、空は曇っている。周りには誰も居ない。
 ぐるりと視線を巡らせるベンジャミン。彼は一人だった。
 自分はここで何をしていたんだっけ? 一瞬、そんなことを思った彼は、半ば慌てて自分の頬を叩いた。パシッ。意識をハッキリさせる。
 ここはストランド街に見えるが、現実のストランド街ではない。
 ここは──夢の中だ。
 夢の主は、黒ノ女王こと、メイベル・ヘレナ=カールトンである。彼女が見ている夢の中に、ベンジャミンは単身入り込んでいるのだ。
 彼は、自らがここに来た目的を思い出し、改めて周囲を見回した。まずはメイベルを──夢を見ている当人を探すとしよう。
 そうして、ベンジャミンは他人の夢の中をゆっくりと歩き出した。

 話は数分前にさかのぼる。
 深夜。シェリンガム兄弟と、カーマイン。そしてアナ・モリィの四人は馬車でカールトン邸の外まで赴いていた。
「メイベルの無意識を探る。それが今回の“スニーキング”の目的だ」
 カーマインが、目の前に座っている兄弟二人の目を代わる代わる見ながら言う。
「おい、そんな言い方はよせよ。“盗み入る”(sneaking)だなんて、人聞きが悪い」
「“スティーリング”は?」
「同じだろ」
「なら“ダイビング”で、どうだ」
 兄弟のやりとりに口を挟んだのは、アナ・モリィだ。彼女はカーマインの隣りに座り、ゆったりと足を組んでいる。
「夢の中に潜るのは、水中を泳ぐのと似ているからな」
「息が出来ないってこと……ですか?」
 と、ベンジャミンが問い返す。相手は曾々祖母だというのに、ついつい他人行儀になってしまう。
「ある意味その通りだ」
構わずアナ・モリィは答えた。「他人が自由に思い描く世界に身を投じるわけだ。自分のルールが通用しなくなるときもある。たまに“息継ぎ”しながら潜るのがいいだろう」
「息継ぎって……?」
「わたしに任せろ」
 それきり、彼女は黙ってしまった。あまり説明してくれる気も無いらしい。
「分担を決めよう」
 代わりに口を開いたのはカーマインだ。
「我々四人は、彼女の寝室にまで行く必要がある。レディの部屋に盗み入る──失敬、気付かれないように入らなくてはならないが、これはジャムが得意なはずだ。そうだろう?」
「まあな」
 渋々うなづくベンジャミン。確かに彼の言霊術(スペル・キャスティング)を使えば、空を飛んで彼女の部屋の窓まで行くのも簡単だし、自分の姿を見られないように周囲に溶け込ませることも容易い。
「モリィは、メイベルの夢の中への通路を開き、そして可能な限り彼女の夢を制御するという役目を担う。──ジェル。君は、彼女のやり方を隣りで見て覚えるといい」
 うん分かった、と、ジェレミーはうなづく。
「見て覚えればいいんでしょ。了解! よろしくね」
 アナ・モリィの顔を見てそう言うと、彼女はフンと鼻を鳴らして目を伏せた。──どうも彼女はあまり機嫌が良くないようだ。先ほどからずっとそうなのだが……。
 ジェレミーは目をパチパチやったあと、寂しそうにそれを見つめた。相手に明らかに好かれていないという態度をとられると、さすがに彼も意気消沈してしまう。が、兄も曾々祖父も、会話に集中していてジェレミーの様子に気付いてはいなかった。
「僕は、見張り役、だな」
 カーマインはそう言って苦笑する。貴族であり、政府高官であり、法廷弁護士(バリスター)でもある彼は、その役目があまりに自分にふさわしくないと自嘲したのだろう。
「さて、それでは話を戻そう。今回の目的について、だ」
 そのままカーマインは話を続けた。
「彼女の無意識を探って、彼女に力を与えている謎の存在を探すんだよな」
「そうだ」
 ベンジャミンの答えに満足そうにうなづくカーマイン。
「彼女の夢の中には“無意識の領域”が存在する。そこに、外から入り込んだ君と同じように、彼女が認識していない人物がいるはずなのだ。その正体を暴くのが今回の最大の目的だ」
 ベンジャミンの脳裏に、黒いドレスの貴婦人の姿がよぎる。
 メイベル──いや、彼女の中の別人格であるパメラが、あの黒ノ女王になりえた理由を、夢の中で探るのだ。
 ジェレミーとレベッカの前で、生きた人間を腐らせるほどの瘴気を放ったパメラ。いくら言霊師といえど、あんな強大な力は例がない。──だというのに、彼女の残した女の手記には、どこで誰に言霊術を習ったかなどの情報が一切抜けているのである。

 彼女の中に、誰がいるのか。
 それが、問題なのだ。

 そして、ベンジャミンは全ての段取りを整え、メイベルの夢の中にいた。
 ──気をつけろ、ジャム。
 路地裏を歩きながら反芻(はんすう)するのは、カーマインから聞いた言葉だ。
 ──人が見ている夢の中は不条理と非論理性に満ちた空間だ。自分を保てなければ、夢の中に飲み込まれてしまう可能性がある。
 ベンジャミンは、閉まっているパブの看板の下を通り過ぎた。そこから垂れていたリボンの飾りが彼の額に触れ、看板は揺れて壁にぶつかったが、音は全くしなかった。
 その事実が、ここが奇妙な夢の中であることを認識させてくれる。
 ──自分が、今、どこで、何をしているのかを常に意識しておくことだ。
 ──それから、危険を感じたらすぐに助けを呼べ。分かったな?
 ぼりぼりと頭を掻きながら、ベンジャミンは少し広い通りに出る。この時代のロンドンは現代と違って、スラム街とそうでない場所がパッチワークのようになっている。ここは後者の方だ。すこし傾斜のある石畳の道を、誰もいない道を、彼はゆっくりと歩いていく。
 ──最後に、ジャム。念を押すようだが。
 ──夢の中で何かが起こったとしても、それには干渉をするな。
 ──君の目的は、彼女を惑わせている謎の存在の正体を確かめることなのだからな。
 記憶の中のカーマインの言葉が終わると同時に、ベンジャミンはある建物の前で足を止めた。看板には“ザ・ノースウィンド”とある。
 意外に早く見つかるものだ。件の吸血鬼たちが集うという紳士クラブである。建物自体は石造りで、現代にも残っていそうな重厚感あるゴシック様式の三階建てだ。現代に戻ったとしても位置を特定することが出来そうだ。
 ベンジャミンはそう思いながら、場所を記憶にとどめようと辺りに視線を巡らせた。
 と、その時だ。視界に白いものがよぎって、彼はそちらに注意を向けた。
 人だ。女性がこちらに向かって走ってくる。
 目をこらし、すぐにそれがメイベルであることに気付き、ベンジャミンは逡巡した。姿を隠すべきか、このままここに残るべきか──。さらに彼女の姿が、彼の心を小さく針で刺し判断を遅らせる。チクリ。それは幾度となくベンジャミンが受けてきた痛みだ。何度、彼女を見ても慣れることが出来ない。
 真実がどうであれ、その姿は亡くした妻にしか見えないのだから。
「──待って!」
 すると別の方向から女の声が上がった。ベンジャミンはギョッとしてそちらを見る。この聞き覚えのある声は──。
 黒いレースのドレスを着た女が、道の脇から飛び出してきた。想像した通りの人物の姿を見て、うろたえるベンジャミン。同じ人物。同じメイベルだ。ただ衣装が違うだけだ。
 黒いメイベルは、白いメイベルの正面に進み出て、両手をバッと広げた。ここから先には行かせない、という意思表示である。だが、白いメイベルは止まらなかった。
「パメラ、どいてちょうだい!」
 脇を走り抜けようとするメイベルに、黒いメイベルは両手を伸ばし、彼女を捕まえた。
 あっ、そうか。ベンジャミンは小さく声を上げた。なるほど、彼女はパメラだ。
 メイベルとパメラ。この夢の中では、別々の人格を持った二人がそれぞれ別に存在しているのだろう。彼女たちは、道の真ん中でもみ合うように押し退きしている。ベンジャミンのことに気付いている様子もなかった。
 ここまで見れば分かる。メイベルは“ザ・ノースウィンド”に行きたがっており、パメラはそれを押し留めようとしているのだ。──あの手記の中にあったやりとりのように。
 さて、しかし。ここは夢の中だ。“ザ・ノースウィンド”に役立つものがあるとも限らないだろう。そう思い、ベンジャミンは視線を建物の方へとゆっくりと移していく。建物の中に何かがあるのであれば、この隙に調査をしてもよいが──。
 ふと、彼の視界に一瞬だけ、窓から外を見る人物の姿が映った。
 チャコールグレイのツイードのスーツを着た男だった。金色の髪はきちんと撫で付けられており、年齢は50才前後か。非常に上品な雰囲気の人物である。左の眼窩には、赤みがかったレンズの片眼鏡(モノクル)をはめており、彼はカーテンに手を触れ、室内から外を見下ろしていた。

 彼と、目が──合った。

 眉を寄せた男はサッとカーテンを引いて、室内の奥へと姿を消す。
「──!」
 考える前に身体が動いた。今の男だ、間違いない! ベンジャミンも身を翻し、建物へと走った。刑事らしい身のこなしで石階段を一足跳びに駆け上った彼は、正面玄関の扉を力一杯に押した。
 扉はびくともしなかった。中から閂(かんぬき)が掛けられているのか。
 身を退いたベンジャミンは脇の窓を見た。今、彼の頭の中には、謎の男を追いかけることしかない。この夢の中で自分の能力がどれほど制限を受けるのすら考えが及んでいなかった。
 右手を振るうベンジャミン。彼の口から口笛のようなヒュウッという囁きが漏れる。
 ガシャアンッ。
 突風が起こり、窓ガラスと木枠が吹き飛んだ。同時にベンジャミンは身を躍らせて、室内へと飛び込んでいる。
 磨き抜かれた木の床に着地してから、ようやくベンジャミンは自分の魔術がこの世界でも有効であることに気付いた。
 ──これはいい。あの男を捕まえてやる!
 迷う間もなく、ベンジャミンは視線を巡らせ、フロアの奥に二階への階段があるのを見つけた。ダッと駆け寄り、それを猛然と登っていく。
 バーガンディーの絨毯が敷き詰められた廊下に出た。立ち並ぶたくさんの扉。
 あの男がいた部屋は──どれだ?
 ベンジャミンは目星をつけた部屋のドアへと走った。


***

 ──あなたは誰?

 君の炎の色が視えるよ。やあ、なんて綺麗な色なんだ。
 君の炎はオニキスのように輝く黒だ。闇よりも深い色。
 君の魂に火をつけてあげよう。

 ──あなたは誰?

 教えてあげよう。
 君の兄さんは、デニスであってデニスではない。
 君の兄さんは前世で吸血鬼だったんだ。

 ──吸血鬼?

 そう。
 彼はその呪われた血を清めようと、そのためだけに、あの救貧院に通っているんだ。
 目当ては、あの人たちの生き血、さ。

 ──嘘。
 ──そんなこと信じられない。

 嘘じゃないよ。
 私は嘘などついてはいない。
 疑うのならば、聞いてごらん。あの人たちに。
 兄さんは、あの人たちを飼育しているのさ。
 兄さんは、あの人たちの血を吸って殺すために、あの場所に通っているんだ。

***


 ベンジャミンは、ドアを開けた。
 窓際に男が一人、こちらに背を向けて立っていた。
 ──違う!
 ハッと気付くベンジャミン。相手は先ほどの男ではない。しかも辺りはいつの間にか、夜に変わっていた。
 室内は薄暗く、窓の外から差し込む月明かりだけしか頼りは無かったが、それでも分かる。片眼鏡の男は姿を消していた。しかし──。
「ヒヒヒヒ、メェイベル。怖がってるのかい、ボクのメイベル」
 男が、ゆっくり振り返った。
 耳の下まで伸ばした白い髪。生白い顔に、くっきりと浮かび上がるのは紅い双眸だ。
「驚いたかい? メイベル。ボクも驚いてるのさァ。君がキミが、やっちまッたことにねェエエ? メ、メイベル、メイベルメイベル、ボクのメイベル」
 嗤っていた。奇妙なイントネーションで、彼は嗤っていた。
 そろり、と自分の首を絞めるように置いていた手を離していく。彼の首には黒いビロードの首飾り──チョーカーがあった。10センチもあろうか、太いものだ。
「ヒ、ヒヒヒ、うまく笑いたいのに、笑えないよ、メイベルルルゥ」
 デニスだ! ようやくベンジャミンは相手の正体に気付く。
 それと同時に、女の悲鳴が上がった。慌てて振り返るベンジャミン。少女が──幼いメイベルが恐怖の表情を浮かべて、廊下に立ち尽くしていた。
「キミのせいだよメイベル。キミがみんなに言ったからだよボクのことをヒヒヒ」
 二人の間に立っているベンジャミンは、彼らの視界に入っていないのか。デニスは一歩を踏み出し、メイベルは一歩後ずさった。
「デニス、違う──、わたし」
「メェイベル、食べ物も喉を通らないんだ。ヒヒヒヒ、どうしてだか分かるかいメイベル」
 スーッと、デニスは自分の首の前で手を水平に動かした。その仕草が意味するものは、すぐ分かった。
「ヒヒヒ、いいんだよ君の言葉はきっかけに過ぎなかったんだから。過は彼らの中にずっとあったんだよ。ボクがそれに気付かなかっただけさ。彼らはボクへの憎しみをずっとお腹の中で温めていたんだまるで身籠った女みたいに大事にね。だってそうだろボクが何を言っても彼らは聞いちゃくれなかったんだから。彼らはどこからかあの斧を取り出してきてそうだよあの斧ッたらすっかり錆びていて──」
「──やめてっ!」
 メイベルは震えながら首を横に振った。違う、違う、と小声で繰り返す。それを見て、デニスは舌足らずの口調で話すのをやめ、満足そうにニンマリと笑った。自分のメッセージが少女に伝わったのが分かったからだ。
 ようやくあのビロードのチョーカーの意味が分かった。ベンジャミンは、ごくりと生唾を飲み込む。あれは傷を隠すためのものなのだ。きっとあの布の下には、斧で斬られたという惨たらしい傷が──。
「お仕置きだよ、メイベル」
 ズッ、ともう一歩進むデニス。
「お仕置きしてあげるよ、ボクのメイイイイベル……」

「助けて!!」

 悲鳴を上げ、弾かれたように少女は走り去った。同時に獣のように飛び跳ね、床を蹴るデニス。彼は猛然と部屋を飛び出した──!
 それに反応し、ベンジャミンも身体を反転させた。助けなければ! 彼にとっては当然のことだった。
『──よせ! ジャム!』
 どこからか声がした。しかし、彼は動きを止めなかった。


***

 まずいよ。ジャムったら全然話聞いてないよ?
 仕方のない男だ。全く。
 まあ、そう言うなモリィ。そのまま彼の面倒を見れるか。
 構わんがね。しかしなんだって、あの男は冷静さを保てないのだ。

***


 ベンジャミンは、デニスの後を追いかけた。
 廊下に飛び出して、背後から追いついてタックルをかけたが、うまくすり抜けられてしまった。デニスは笑いながら、メイベルを追い続ける。
 クソッ! と、ベンジャミンは悪態をついた。
 ヒュッと口笛を吹くように魔術を使って、デニスの足を狙うが──今度は駄目だった。彼は何事もなく前へと走っていく。
 デニスは、彼を認識しているのかどうなのも分からなかった。とにかく彼は奇妙な笑い声を上げながら、曲がり角の向こうへと走っていったメイベルを追って、姿を消す。
 半ば慌てて、ベンジャミンが角を曲がった時には、デニスの姿がある一室に吸い込まれたところだった。
 あんな足の速さは有り得ない! ベンジャミンは既にここが夢の中であることを忘れかけている。
 息を切らしながら、ドアの前に駆けつけると、中から少女の悲鳴が上がった。
 そしてそれを打ち消すような、狂った男の笑い声。バタン、ドタンという物音。また悲鳴。
「やめろ!」
 ドアノブを捻ったが、ドアが開かない。
 ベンジャミンは堪らず、ドアを両手で叩く。ドンッ、ドンッと重い音をさせるそれはビクともしない。
 やめて、許して──!
 その時、少女の悲鳴の声色が変わった。一段階、高いものにだ。男の笑い声は続いている。物音がやみ、声だけが部屋の外に漏れ出している。絶叫、そして、意味を成さない男の声。

 ドアの外で、ベンジャミンは背筋に冷たいものを感じた。

 ここを破らなければ。
 彼女を助けなければ。

 彼は思った。道義の問題ではない。とにかく、止めなければならない。
 少女の悲鳴が、彼の心の柔らかいところに直接突き刺さった。もはや彼にとって、ドアの向こうにいるのはメイベルではなくなっていた。彼女はアイリーンだ。生涯かけて守り抜くと誓った、愛する妻、アイリーン。
 妻が襲われている。助けなければ。5年前救えなかった妻を、今、ここで、助けるのだ。彼女を襲うものを排除するのだ。全ての苦しみや悲惨な現実から彼女を助けるのだ。それが自分が果たせなかった役目だから──。

 自分は、妻を、助けねばならないのだ。

 強く、そう念じたベンジャミンは身を翻した。口を真一文字に結ぶと、ドアに向かってタックルをかけた。
 一回、二回、三回……。
 大きな音がして、ドアがきしむ。三回目の一撃で、蝶番がひしゃげた感覚を得る。
 次で開く──!
 ベンジャミンは足を踏みしめ、ドアに自分の全身の力を叩き付けた。

 向こう側へ倒れるように、扉が──開いた。


***

 どういうことだ、この男。わたしたちの言葉にも全く耳を貸さないではないか。
 まあそう言うなモリィ。ジャムには、彼なりの事情があるのだ。どうか大目に見てやってくれ。
 フン。お前がそう言うのなら従うがね。
 不満か?
 別に。ただ、彼が本当にお前の子孫なのかどうかと思ってな。
 ……。モリィ、なぜ疑う?
 CC、お前──何かわたしに隠し事をしてはいないか?
 隠し事? どうしたんだ急に。何も有りはしないよ。
 本当か? 今日のお前は、どうも奇妙な──
 ──ほっ本当だよ!!
 何だッ? いきなり大声を出すな!
 信じてよ、俺たち本当に子孫だよ!
 分かったから黙れッ。なんなんだ、お前は、集中が途切れるだろうが!
 でも、信じてよ。本当だよ、俺たちは、君の子孫なんだよ!
 ──ジェル!
 な……んだと?
 シェリンガムだよ! 俺たち、シェリンガムなんだよ。
 ジェル、駄目だ、言うな!
 俺たちはCCとモリィの子孫なんだ。嘘じゃない、俺たちの姓はシェリンガム──
 
***


 扉が開いた途端、まぶしい光が目に飛び込んできて。
 ベンジャミンは反射的に足を止めた。眉を寄せて顔の前に手をかざす。一体何が起きたのだろう。自分は少女を助けるためにドアを力づくで開けたのではなかった──か?

「どうしたの?」

 目の前にいた人物の声を聞き、彼はようやく光に慣れてきた目をそちらに向けた。
 室内は、もう夜ではなかった。
 デニスもメイベルも、そこにはいなかった。
 そこは病室だった。白い壁に窓は一つだけ。クリーム色のカーテンが、わずかな風に揺れており、窓際のテーブルの上には青いガラスの花瓶に入った小さな水色の花が飾られていた。そして室内には一つだけのベッド。シーツを触るわずかな衣擦れの音。

 ああ、これは。
 5年前に、いつも見ていた光景じゃないか。

「ジャム、今日は早いのね」
 その人物が、言った。
 ベンジャミンは全身の力が抜けていくのを感じる。
 考える前に心が震えた。アイリーン、と彼の唇が自然に言葉を紡いだ。相手はニッコリと微笑む。
 医師だった妻。病院では同僚や看護婦から“氷の女”と呼ばれるほどに表情に乏しかった彼女。しかし、彼女はベンジャミンの前でだけ微笑みを見せるのだ。彼はそれが嬉しかった。まるで、彼女の笑顔を独占しているような気がしたから。
「アイリーン」
 雲の上を歩くように、そっと。ベンジャミンは彼女に近づいていった。


***

「いいかげんにしろ!」
 まるで雷のような声で怒鳴ったのは、カーマインだった。
「今はそれどころじゃないだろうが!」
 ビクッ、とアナ・モリィは肩を震わせ両手で口を押さえた。ジェレミーの目からしても、それは非常に女らしい仕草だった。
 だがカーマインに怒りの目を向けられ、ジェレミーは、きゅっと喉を締められるような思いがした。付き合いは短かったが、彼がこれほど怒るのは稀なことだと、すぐ分かる。
 動物的な勘でそれを察したジェレミーは、アナ・モリィと同じように怯えた目になってカーマインを見つめた。彼は怒鳴った反動か、大きく息を吸ったり吐いたりしながら、二人の様子を代わる代わる見ている。
 だが、その瞳から、なかなか怒りの色は消えなかった。
「す、済まない、CC」
 自分の唇に指を触れたまま、アナ・モリィがおずおずと口を開いた。
「急に、驚いてしまって。その、わたしが──」
 何か続く言葉を飲み込んで、今度は頬を赤く染めていく。恥ずかしさのあまり言葉が出てこないといった様子であり、理由は明白だ。その証拠に彼女はカーマインの顔をまともに見ることができないでいる。
 どうにか怒りを納めたカーマインは、歯噛みしながら自分の頭を乱暴に掻いた。いつも上品な彼がこのような態度を見せるのも珍しい。
 遠くで、奥様? と女の声がした。忘れてはいけない。ここは婦人の寝室なのだ。メイドか誰かがカーマインの怒声を聞きつけたのに違いない。
 時間が無かった。
 カーマインは、室内で寝ているメイベルの姿に目をやった。彼女は寝返りをうった後、小さく呻いた。すぐにでも目を覚ましてしまいそうな様子である。
「モリィ、ジャムは」
 短く尋ねる。アナ・モリィは、ようやく顔を上げ──目をつむり、申し訳無さそうに首を横に振った。
「えっ」
 ジェレミーはそれを見て、まさか、と思った。
「ちょっと待って。ジャムは──ジャムは、どうなっちゃったの!?」
 返事は無かった。カーマインもアナ・モリィも、眉間に皺を寄せたまま、黙っている。
「──彼女は、あと数秒で目覚めてしまうだろう。出直そう」
 やがて、カーマインがぽつりと言った。
 それを聞いて初めて、ジェレミーは事の重大さに気付いた。
 嘘でしょ、と、彼の口から空虚な言葉が漏れる。

 回りを見回しても、どこにも。
 彼の兄の姿は、どこにも、無かった。

 
■■■
 

 

Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2008