Chapter4  彼女の悪夢


Chapter4-5 豚の王様と変なオヤジ


 街には誰も人が歩いていなかった。
 あのトラファルガー・スクエアにも。混雑でまっすぐ歩けないほどで、いつも込み合っているあの広場にも、人っ子ひとり居なかった。冷たい秋の風が、石畳の上を通り過ぎていくだけだ。誰も居ない街の中を、風は我がもの顔で自由に吹き抜けていく。
 ジェレミーは、独り、その広場の真ん中に立ち尽くしていた。
 なぜ、自分はここに立っているのだろう──。ジェレミーは、ぼんやりと思いを馳せる。こないだまで何かを追いかけていて……とても大切なことに取り組んでいたような。ええっと、ええっと……。
 うまく──思い出せない。
 またドラッグをやりすぎたのかな。ふと見上げると、広場中心の脊柱の上にそびえ立つネルソン提督の姿が目に入った。ナポレオンを破ったあの英雄ネルソン提督だ。
 ギョロリ。突然、その像の石の目が動き、ジェレミーを見下ろした。
「何を恐れることがあるんだ」
 いきなり、提督がしゃべった。
「君はこの世界の王だろう。何も恐れることなどないんだ」
 ひっ。
 息を呑んで、ジェレミーは逃げ出した。

 ──どうしよう! どうしよう!
 ──あのネルソン提督が喋りかけてくるなんて!
 ──あんなエラい人に何て返事したらいいか分かんないよ!

 ジェレミーは恐怖におののきながら、走り続けた。
 気の利いたジョークを返せなければ、おそらく英雄ネルソン提督はスラリと腰のサーベルを抜いて、自分の首を“ちょんっ”とやってしまうだろう。首は宙を飛んでテムズ川に、ぼちゃん。誰にも知られずに川の底に沈むのだ。
 どこをどう走ったのだろう。
 路地裏から大通りへ飛び出そうとして、ジェレミーは二の足を踏んだ。

 何だ
 なにか
 背の低い丸っこいものが大通りをたくさん走っている

「ブタだ!」

 ジェレミーは声を上げた。
 すると、その場の空気が一瞬にして変わった。猛然と走っていたピンク色の豚たちは一斉に動きをとめる。
 じろり。
 豚たちも、提督と同じようにジェレミーを見た。
「いたぞ!」
 だれか(ブタ?)が叫んだ。
「おれたちをいつもうまそうにくってやがるやろうがいるぞ!」
「つかまえろ!」
 すっくと立ち上がる豚。二足歩行になったそれは、逃げだそうとしたジェレミーの動きに反応した。
 やばい。
 だが、振り返ろうとしたジェレミーの目前を、一匹の豚がきれいに壁を三角蹴りして着地した。まるで、「リーサルウェポン4」のジェット・リーみたいだった。
 豚が、豚という豚が、ジェレミーに飛びついてきた。ピンク色の肉の塊が次々と。腕を上げようとしたら蹄が絡みついた。背中には二、三匹が乗ってくる。足を取られ、ジェレミーは前のめりに倒れ、豚の海の中に落ちた。横を向いたら豚。上を向いても豚。
 気がつくと、彼は両手両足を縛られ棒にくくりつけられて運ばれていた。いわゆる、そのまま直火にかけられそうな、あの四つん這い丸焼きスタイルだ。
 いったいどうしてこういう展開に巻き込まれているのか、さっぱり見当もつかなかった。しかし、ジェレミーは悟っていた。
 ──ああ、オレこのまま、食べられちゃうんだ。
 観念して彼は目を閉じる。このまま自分は焚き火の火でちりちりと背中を焼かれて、あぶり肉にされてしまうのだろう。今になって初めて豚の気持ちが分かるような気がしてきた。ああ、これからは豚を大切にしよう……。
 ドサッ。
「──ギャッ!?」
 と、そんなことを思っていたら突然、背中に強い衝撃を感じジェレミーは小さく悲鳴を上げた。驚いて目を見開く。
 投げ出された? 彼は身体を起こそうとするも、痛みに顔をしかめた。
「イテテ……」
「──やっと見つけたぞ、この野郎」
 声をかけられ見上げてみると、そこにはひときわ大きな豚がいた。周りの豚より一回りも二回りもデカい豚だ。しかも眼鏡をかけている。すごい貫禄だ。
 そいつは腰を二つに折り、怖い顔でジェレミーを覗き込むように見下ろしていた。
 ──王様だ!
 ジェレミーは思った。この豚は、きっと豚の中の豚。豚の王様なのだ。
「ラリッてやがるな。早く立て」
 豚の王様は、怒ったように、蹄でジェレミーの足を蹴った。
「王様、許して。オレもう豚食べないから──」
「何言ってやがるんだお前は。目を覚ませ!」
 クソッ。王様は舌打ちし、もう一度ジェレミーの足を蹴った。手が伸びてきて、彼の襟首を掴む。
 次の瞬間、王様はいきなりジェレミーを殴った。
 ビンタではなかった。グーだった。
 しかも頬ではない。顔の真ん中。ちょうど鼻柱のところだった。
「フギッ」
 その強力な一撃に、何かが潰れたような声を上げてしまうジェレミー。今のは文字通りパンチが効いた一撃だった。
「ひどいよ、王様」
 抗議のために鼻を押さえ、ジェレミーは涙声を上げる。が、彼は自分の目を疑った。

 目の前にいるのは豚の王様ではなかった。

 それは人間だった。古風な丸眼鏡をかけた、くたびれたスーツ姿の──太った男ではないか!
「ジェレミー・ナイジェル=シェリンガム、だな」
 この人誰? と思っているうちに、太った男はジェレミーの襟足を掴んだ。
「このジャンキーが、いい加減にクスリをやめねぇか!」
 彼は自分たちを取り巻いていた人々──よく見たらパブの店員か何かみたいだ──に、何か簡単な言葉をかけ、金を渡すと、男はジェレミーを引きずるように乱暴に引っ張る。
 ジェレミーには抵抗する気力が出てこなかった。そのまま、引きずられるように男に連れていかれていく。
 ほどなくして男は、近くにあった広場の噴水の縁にジェレミーの身体を投げ出すように座らせた。

 彼はようやく、周りを見回した。

 そこは豚の世界でも何でもない。現実のロンドンの街並みだった。たくさんの人々が街を行き来している。いつもの、何てことない光景だ。豚なんかどこにも居やしない。ああ、自分はまたドラッグで何かの幻覚を見ていたのだな。ジェレミーは、ぼんやり思う。
 しかし──何がどうなってこうなったんだろう。
 ジェレミーは恐る恐る男を見上げた。彼の方は座ろうとせず、ジェレミーを見下ろしている。
「えっと……?」
「部長はどうした?」
 男は鋭い口調で言った。
「ぶちょお?」
「ベンジャミン・シェリンガム。お前の兄貴だよ」
 ──!
 その問いに、ジェレミーは凍りついたように目を見開いた。
 自分の兄。ベンジャミン。
 愛称はジャム。年齢は38才でスコットランド・ヤードの警視で、男やもめ。これといった趣味は無く──というより、事件の捜査が趣味の、仕事好きな真面目人間で、亡くなった妻のアイリーンを心から愛していて……。

「ジャム」
 
 兄が突然、自分の部屋にやってきて「お前のクスリをよこせ」と、耳を疑うような台詞を口にしたのはいつの日のことだったか。
 兄の薬と自分の持っていたドラッグを併せて飲むと、120年前にタイムスリップ──実際には少しだけ違った世界に──トリップできるのだ。
 兄は、その世界に、自分の亡くした妻アイリーンを見た。
 ジェレミーもその貴婦人と会った。“黒ノ女王”と呼ばれる貴婦人で、本名はメイベル・ヘレナ=カールトン。正確にはアイリーンの先祖にあたる女性だった。
 しかし兄は、そのメイベルが自分の妻のアイリーンだと言い張った。

「ジャムは、アイリーンを……」

 何からどう話したら良いのだろう。ジェレミーは言い淀み、口をつぐむ。
 ──兄は、狂ったわけではない。兄はアイリーンの実家に行って、メイベルが残した日記を読んだのだった。
 メイベルは多重人格者だった。たくさんの人格が彼女の中に存在するのだという。
 パメラというのが“黒ノ女王”で、アイリーンもメイベルの中に……存在している……と、兄は主張した。
 しかもその、パメラが大事件を起こすと、日記にあったのだ。
 だから、曾々祖父であるカーマインと、曾々祖母のアナ・モリィも動いた。皆で計画を立て、アナ・モリィの力で、兄がメイベルの夢の中に侵入することにした。
 兄は、夢の中に潜り深層心理にダイブして、事件の真相を掴もうとした。
 しかしその途中で事件が起こったのだ。動転したアナ・モリィが兄を見失い、メイベルが目を覚ましてしまって──。
 兄は──。

「夢の中に、変なオヤジがいたんだよ!」

 思わず立ち上がりながら、ジェレミーは叫んだ。
「赤いモノクル付けた、変なオヤジが──」
 ──パカッ!
 いい音をさせて、太った男が持っていた新聞でジェレミーの頭を、引っぱたいた。
「まだラリッてんのか、この野郎」
「ち、違っ……」
「兄貴がどうなったか早く言え。次に関係ねぇ話しやがったら、更正施設の特級コースにブチ込むぞ!」
 それを聞いて、ジェレミーは一気に震え上がった。ドラッグ中毒患者用の特級コースの恐ろしさは、仲間から聞いていた。毎日毎日、丸く円を描くように並んだ椅子に座って「楽しいこと」を百個言わないといけないのだ。それが一個でも足りないと“道徳的なアニメ”を一日中見せられるという恐ろしいお仕置きが……。
 彼の頭の中から、変なオヤジ──メイベルの夢の中に現れた謎の男──グレーのスーツを着た赤いモノクルの男の姿は、一瞬にして消え去っていた。
「やめて、やめて。話すよ、ちゃんと話す!」
 頭を押さえて、ジェレミーが懇願すると、男はフンと鼻を鳴らしただけだった。座れ、とばかりに顎をしゃくる。
 ジェレミーが座ると、ようやく彼もその隣りに座った。恐る恐るその様子を伺うジェレミー。
 男は、おそらく兄の仕事の関係者だろう。
 と、すると、太っているが、この男も刑事なのだろうか。
 彼は相手をよく観察した。──太っているから、犯人を追いかけるのも大変そうだな。何しろ、ちょっと座るぐらいで、大変そうだし。汗かいてるし。銃撃戦になったら、けっこう弾が当たりやすいんじゃないかな。
「……あの、ちゃんと話す前に一つだけ聞いてもいい?」
 ふと、ジェレミーは尋ねてみた。すると男は、許可するとばかりに一つ面倒くさそうに頷いた。
「名前は?」
 クライヴだ。と、相手は答えた。

***

何?
シェリンガム警視が行方不明?

マジかよ。俺ァ初めて聞いたぜ。
嘘じゃねえよ。こないだ、たまたま街で会って少し話したけどよ、元気そうだったぜ。
俺は知らねえ。
少なくとも、奴は俺のダチだからな。
……本当だぜ?

なあそんなことより、兄ちゃんよ。
警視のことだったら、ビッグ・モスに聞いてみなよ。
知ってるか? 
奴の小劇場でよ、最近、客の女が数人姿を消すらしいんだ。
女は数時間後に戻ってくるらしいけどよ。怪しいと思わねえか?

シェリンガム警視もさ、奴に監禁されてんじゃねえの。
俺は、そう思うね。

***

「分かった。じゃあ今すぐクスリを飲め」

 長い長いジェレミーの話を聞き終わるなり、クライヴが言った。
「エッ、だってさっきクスリやめろって言ったじゃん」
「それとこれは別だ。飲め」
 眼鏡の奥の小さな瞳が、ギロリとジェレミーを睨んできた。早くしろ、と眼光が命令を発している。
 言い訳は一切受け付けない、と、じっと睨みをきかせてくる。
 弾かれたように動き出し、自分の服のあちこちのポケットを探るジェレミー。しかしドラッグは見つからなかった。
 半ばホッとして彼はクライヴに首を横に振ってみせた。彼は、まだ、心の準備が出来ていなかったのだ。
 今、ヴィクトリア時代にトリップしたら──きっと、怒られる。
 ジェレミーは、曾々祖父カーマインのことを思い出していた。自分の発言のせいで、アナ・モリィが動転し、ベンジャミンは行方不明になった。それで、あの上品なカーマインが激怒し、自分を怒鳴ったのだ。彼はまだカンカンに怒っているに違いない。
「今は持ってねえのか。しょうがねえな」
 青年の様子を見ると、太った男はため息をついて立ち上がった。たるんだ腹を揺らし、難儀そうに背中を伸ばす。
「なら早く家に帰って、クスリ飲め。俺もすぐに追いかけてやるぜ」
「う、うん。分かったよ」
彼に促され、渋々とジェレミーも腰を上げた。頭を掻きながら、ふと今の発言の意味に気づく。「──って、エエッ?」
 すぐに──追いかける???
「えっ? まさかクライヴも俺と一緒にクスリ飲むの?」
「飲まねえよ」
 間髪入れず、そう返してくるクライヴ。が、最後に彼はニヤッと笑ったのだった。
「──向こうで待ち合わせ、だ」

 
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Talking Rabbit with Shovel
by Kanae Fuyushiro Copyright (C) 2010