街には誰も人が歩いていなかった。 あのトラファルガー・スクエアにも。混雑でまっすぐ歩けないほどで、いつも込み合っているあの広場にも、人っ子ひとり居なかった。冷たい秋の風が、石畳の上を通り過ぎていくだけだ。誰も居ない街の中を、風は我がもの顔で自由に吹き抜けていく。 ジェレミーは、独り、その広場の真ん中に立ち尽くしていた。 なぜ、自分はここに立っているのだろう──。ジェレミーは、ぼんやりと思いを馳せる。こないだまで何かを追いかけていて……とても大切なことに取り組んでいたような。ええっと、ええっと……。 うまく──思い出せない。 またドラッグをやりすぎたのかな。ふと見上げると、広場中心の脊柱の上にそびえ立つネルソン提督の姿が目に入った。ナポレオンを破ったあの英雄ネルソン提督だ。 ギョロリ。突然、その像の石の目が動き、ジェレミーを見下ろした。 「何を恐れることがあるんだ」 いきなり、提督がしゃべった。 「君はこの世界の王だろう。何も恐れることなどないんだ」 ひっ。 息を呑んで、ジェレミーは逃げ出した。
──どうしよう! どうしよう! ──あのネルソン提督が喋りかけてくるなんて! ──あんなエラい人に何て返事したらいいか分かんないよ!
ジェレミーは恐怖におののきながら、走り続けた。 気の利いたジョークを返せなければ、おそらく英雄ネルソン提督はスラリと腰のサーベルを抜いて、自分の首を“ちょんっ”とやってしまうだろう。首は宙を飛んでテムズ川に、ぼちゃん。誰にも知られずに川の底に沈むのだ。 どこをどう走ったのだろう。 路地裏から大通りへ飛び出そうとして、ジェレミーは二の足を踏んだ。
何だ なにか 背の低い丸っこいものが大通りをたくさん走っている
「ブタだ!」
ジェレミーは声を上げた。 すると、その場の空気が一瞬にして変わった。猛然と走っていたピンク色の豚たちは一斉に動きをとめる。 じろり。 豚たちも、提督と同じようにジェレミーを見た。 「いたぞ!」 だれか(ブタ?)が叫んだ。 「おれたちをいつもうまそうにくってやがるやろうがいるぞ!」 「つかまえろ!」 すっくと立ち上がる豚。二足歩行になったそれは、逃げだそうとしたジェレミーの動きに反応した。 やばい。 だが、振り返ろうとしたジェレミーの目前を、一匹の豚がきれいに壁を三角蹴りして着地した。まるで、「リーサルウェポン4」のジェット・リーみたいだった。 豚が、豚という豚が、ジェレミーに飛びついてきた。ピンク色の肉の塊が次々と。腕を上げようとしたら蹄が絡みついた。背中には二、三匹が乗ってくる。足を取られ、ジェレミーは前のめりに倒れ、豚の海の中に落ちた。横を向いたら豚。上を向いても豚。 気がつくと、彼は両手両足を縛られ棒にくくりつけられて運ばれていた。いわゆる、そのまま直火にかけられそうな、あの四つん這い丸焼きスタイルだ。 いったいどうしてこういう展開に巻き込まれているのか、さっぱり見当もつかなかった。しかし、ジェレミーは悟っていた。 ──ああ、オレこのまま、食べられちゃうんだ。 観念して彼は目を閉じる。このまま自分は焚き火の火でちりちりと背中を焼かれて、あぶり肉にされてしまうのだろう。今になって初めて豚の気持ちが分かるような気がしてきた。ああ、これからは豚を大切にしよう……。 ドサッ。 「──ギャッ!?」 と、そんなことを思っていたら突然、背中に強い衝撃を感じジェレミーは小さく悲鳴を上げた。驚いて目を見開く。 投げ出された? 彼は身体を起こそうとするも、痛みに顔をしかめた。 「イテテ……」 「──やっと見つけたぞ、この野郎」 声をかけられ見上げてみると、そこにはひときわ大きな豚がいた。周りの豚より一回りも二回りもデカい豚だ。しかも眼鏡をかけている。すごい貫禄だ。 そいつは腰を二つに折り、怖い顔でジェレミーを覗き込むように見下ろしていた。 ──王様だ! ジェレミーは思った。この豚は、きっと豚の中の豚。豚の王様なのだ。 「ラリッてやがるな。早く立て」 豚の王様は、怒ったように、蹄でジェレミーの足を蹴った。 「王様、許して。オレもう豚食べないから──」 「何言ってやがるんだお前は。目を覚ませ!」 クソッ。王様は舌打ちし、もう一度ジェレミーの足を蹴った。手が伸びてきて、彼の襟首を掴む。 次の瞬間、王様はいきなりジェレミーを殴った。 ビンタではなかった。グーだった。 しかも頬ではない。顔の真ん中。ちょうど鼻柱のところだった。 「フギッ」 その強力な一撃に、何かが潰れたような声を上げてしまうジェレミー。今のは文字通りパンチが効いた一撃だった。 「ひどいよ、王様」 抗議のために鼻を押さえ、ジェレミーは涙声を上げる。が、彼は自分の目を疑った。
目の前にいるのは豚の王様ではなかった。
それは人間だった。古風な丸眼鏡をかけた、くたびれたスーツ姿の──太った男ではないか! 「ジェレミー・ナイジェル=シェリンガム、だな」 この人誰? と思っているうちに、太った男はジェレミーの襟足を掴んだ。 「このジャンキーが、いい加減にクスリをやめねぇか!」 彼は自分たちを取り巻いていた人々──よく見たらパブの店員か何かみたいだ──に、何か簡単な言葉をかけ、金を渡すと、男はジェレミーを引きずるように乱暴に引っ張る。 ジェレミーには抵抗する気力が出てこなかった。そのまま、引きずられるように男に連れていかれていく。 ほどなくして男は、近くにあった広場の噴水の縁にジェレミーの身体を投げ出すように座らせた。
彼はようやく、周りを見回した。
そこは豚の世界でも何でもない。現実のロンドンの街並みだった。たくさんの人々が街を行き来している。いつもの、何てことない光景だ。豚なんかどこにも居やしない。ああ、自分はまたドラッグで何かの幻覚を見ていたのだな。ジェレミーは、ぼんやり思う。 しかし──何がどうなってこうなったんだろう。 ジェレミーは恐る恐る男を見上げた。彼の方は座ろうとせず、ジェレミーを見下ろしている。 「えっと……?」 「部長はどうした?」 男は鋭い口調で言った。 「ぶちょお?」 「ベンジャミン・シェリンガム。お前の兄貴だよ」 ──! その問いに、ジェレミーは凍りついたように目を見開いた。 自分の兄。ベンジャミン。 愛称はジャム。年齢は38才でスコットランド・ヤードの警視で、男やもめ。これといった趣味は無く──というより、事件の捜査が趣味の、仕事好きな真面目人間で、亡くなった妻のアイリーンを心から愛していて……。
「ジャム」 兄が突然、自分の部屋にやってきて「お前のクスリをよこせ」と、耳を疑うような台詞を口にしたのはいつの日のことだったか。 兄の薬と自分の持っていたドラッグを併せて飲むと、120年前にタイムスリップ──実際には少しだけ違った世界に──トリップできるのだ。 兄は、その世界に、自分の亡くした妻アイリーンを見た。 ジェレミーもその貴婦人と会った。“黒ノ女王”と呼ばれる貴婦人で、本名はメイベル・ヘレナ=カールトン。正確にはアイリーンの先祖にあたる女性だった。 しかし兄は、そのメイベルが自分の妻のアイリーンだと言い張った。
「ジャムは、アイリーンを……」
何からどう話したら良いのだろう。ジェレミーは言い淀み、口をつぐむ。 ──兄は、狂ったわけではない。兄はアイリーンの実家に行って、メイベルが残した日記を読んだのだった。 メイベルは多重人格者だった。たくさんの人格が彼女の中に存在するのだという。 パメラというのが“黒ノ女王”で、アイリーンもメイベルの中に……存在している……と、兄は主張した。 しかもその、パメラが大事件を起こすと、日記にあったのだ。 だから、曾々祖父であるカーマインと、曾々祖母のアナ・モリィも動いた。皆で計画を立て、アナ・モリィの力で、兄がメイベルの夢の中に侵入することにした。 兄は、夢の中に潜り深層心理にダイブして、事件の真相を掴もうとした。 しかしその途中で事件が起こったのだ。動転したアナ・モリィが兄を見失い、メイベルが目を覚ましてしまって──。 兄は──。
「夢の中に、変なオヤジがいたんだよ!」
思わず立ち上がりながら、ジェレミーは叫んだ。 「赤いモノクル付けた、変なオヤジが──」 ──パカッ! いい音をさせて、太った男が持っていた新聞でジェレミーの頭を、引っぱたいた。 「まだラリッてんのか、この野郎」 「ち、違っ……」 「兄貴がどうなったか早く言え。次に関係ねぇ話しやがったら、更正施設の特級コースにブチ込むぞ!」 それを聞いて、ジェレミーは一気に震え上がった。ドラッグ中毒患者用の特級コースの恐ろしさは、仲間から聞いていた。毎日毎日、丸く円を描くように並んだ椅子に座って「楽しいこと」を百個言わないといけないのだ。それが一個でも足りないと“道徳的なアニメ”を一日中見せられるという恐ろしいお仕置きが……。 彼の頭の中から、変なオヤジ──メイベルの夢の中に現れた謎の男──グレーのスーツを着た赤いモノクルの男の姿は、一瞬にして消え去っていた。 「やめて、やめて。話すよ、ちゃんと話す!」 頭を押さえて、ジェレミーが懇願すると、男はフンと鼻を鳴らしただけだった。座れ、とばかりに顎をしゃくる。 ジェレミーが座ると、ようやく彼もその隣りに座った。恐る恐るその様子を伺うジェレミー。 男は、おそらく兄の仕事の関係者だろう。 と、すると、太っているが、この男も刑事なのだろうか。 彼は相手をよく観察した。──太っているから、犯人を追いかけるのも大変そうだな。何しろ、ちょっと座るぐらいで、大変そうだし。汗かいてるし。銃撃戦になったら、けっこう弾が当たりやすいんじゃないかな。 「……あの、ちゃんと話す前に一つだけ聞いてもいい?」 ふと、ジェレミーは尋ねてみた。すると男は、許可するとばかりに一つ面倒くさそうに頷いた。 「名前は?」 クライヴだ。と、相手は答えた。
***
何? シェリンガム警視が行方不明?
マジかよ。俺ァ初めて聞いたぜ。 嘘じゃねえよ。こないだ、たまたま街で会って少し話したけどよ、元気そうだったぜ。 俺は知らねえ。 少なくとも、奴は俺のダチだからな。 ……本当だぜ?
なあそんなことより、兄ちゃんよ。 警視のことだったら、ビッグ・モスに聞いてみなよ。 知ってるか? 奴の小劇場でよ、最近、客の女が数人姿を消すらしいんだ。 女は数時間後に戻ってくるらしいけどよ。怪しいと思わねえか?
シェリンガム警視もさ、奴に監禁されてんじゃねえの。 俺は、そう思うね。
***
「分かった。じゃあ今すぐクスリを飲め」
長い長いジェレミーの話を聞き終わるなり、クライヴが言った。 「エッ、だってさっきクスリやめろって言ったじゃん」 「それとこれは別だ。飲め」 眼鏡の奥の小さな瞳が、ギロリとジェレミーを睨んできた。早くしろ、と眼光が命令を発している。 言い訳は一切受け付けない、と、じっと睨みをきかせてくる。 弾かれたように動き出し、自分の服のあちこちのポケットを探るジェレミー。しかしドラッグは見つからなかった。 半ばホッとして彼はクライヴに首を横に振ってみせた。彼は、まだ、心の準備が出来ていなかったのだ。 今、ヴィクトリア時代にトリップしたら──きっと、怒られる。 ジェレミーは、曾々祖父カーマインのことを思い出していた。自分の発言のせいで、アナ・モリィが動転し、ベンジャミンは行方不明になった。それで、あの上品なカーマインが激怒し、自分を怒鳴ったのだ。彼はまだカンカンに怒っているに違いない。 「今は持ってねえのか。しょうがねえな」 青年の様子を見ると、太った男はため息をついて立ち上がった。たるんだ腹を揺らし、難儀そうに背中を伸ばす。 「なら早く家に帰って、クスリ飲め。俺もすぐに追いかけてやるぜ」 「う、うん。分かったよ」 彼に促され、渋々とジェレミーも腰を上げた。頭を掻きながら、ふと今の発言の意味に気づく。「──って、エエッ?」 すぐに──追いかける??? 「えっ? まさかクライヴも俺と一緒にクスリ飲むの?」 「飲まねえよ」 間髪入れず、そう返してくるクライヴ。が、最後に彼はニヤッと笑ったのだった。 「──向こうで待ち合わせ、だ」
|