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ねえ、ジャム。 起きて。
***
明るい光の中、ふっと目が覚める。 身体を起こせぱ、ベンジャミンは椅子に座っていた。膝がきしむようにわずかに痛んだ。どうやら座ったまま居眠りをしていたらしい。 どうにも意識がはっきりせず、彼は無意識に目を瞬く。二回、三回。光の多さに目を細め、軽く頭を振ってみる。 見れば、目の前には白いシーツの膨らみがあった。ベッドだ。 ええと俺は、ここで何を──。そう思考を始める前にベンジャミンはすぐに自分が何をしていたのかを思い出す。 「ふふっ」 誰かが笑った。 しかし、彼はそれが誰の声だか知っている。 「やっぱり疲れてる。ずっと寝てたわよ、ジャム」 白く輝くような光の中で、そよ風に揺れるカーテンに乗って花の匂いが届いた。知っている。それは花の匂いでなく、女の匂いだ。 それもたった一人の。
「アイリーン」
ベッドから半身を起こし、一人の女性がこちらを見て微笑んでいる。 よく知っている灰青色の瞳。 ああ、そうだ。俺は居眠りをしてしまったんだ。病気の妻を見舞いにきて──。ベンジャミンは、ううとかああとか、唸るように返事をしてから、居住まいを直した。その次に浮かべるのは照れ笑いだ。 「君はよく寝られた?」 「あなたの身体が重くて、ぜんぜん」 アイリーンは笑顔のまま肩をすくめると、ベッドの脇のテーブルに目を向ける。肩の上で短く切りそろえられた黒髪が艶やかな光を放ちながら、さらさらと揺れた。 「ジャム、林檎でも食べる?」 「ああ、うん」 ベンジャミンがうなづくと、彼女はゆっくりと手を伸ばして赤い林檎を一つ取って、ナイフで剥き始めた。 その仕草を、彼はじっと見つめている。 この上なく安らかな時間だった。目を細め、ベンジャミンは愛する妻の姿に見入っている。
***
「わたしは違うと申し上げたのに。こちらの殿方が会場はノースウィンドではない、と」 澄ました口調で、その若い女性は続けた。 「ですから、このような時間に」 「まあそう言うな。誰にだって間違いはある。ちょっと聞き間違えたんだ」 困ったように返すのは、モジャモジャパスタ頭のデブだ。連れの女性にやりこめられそうになり、必死に弁明している。 ここは、夜会が始まる直前のクラブ「ノースウィンド」である。 正装したジェレミーはカーマインとともに“友人”を出迎えていたところだった。カーマインは彼をギルバートと呼び、笑顔になった。 そのデブ──太った男の影で見えなかったのだが、彼はきちんと若い女性を連れていた。白いすべすべした肌の小柄な金髪の女性である。彼女はワアワアとわめき立てて、周囲の注目を浴びていたが、ジェレミーはじっと太った男を見つめていた。 彼がそっくり、だったからだ。 兄の部下である、刑事のクライヴ=コルチェスターに。でっぷり太った身体に突き出た腹。小さな頭に小さな目。古風な眼鏡……。違うところは髪形と服装ぐらいである。 クライヴは“現地で待ち合わせ”と言っていたが、彼はそもそも生身でこの時代に来ることはできない。パソコンを使ってアクセスする、と言っていた。それはつまり、こういうことなのだろう。 尋ねて確認するまでもなかった。彼がクライヴだ。ジェレミーは確信した。 「オホン」 時代がかった咳をし、ようやく女性をなだめた男──ギルバートはジェレミーに目を向けた。いかにも、マクドナルドのハンバーガーが好きそうな顔つきだ。 「君が、ジェレミー君かな?」 「そうだよ」 手を差し出され、ひょいと手を出し握手するジェレミー。 「CCとベルフォード男爵夫人との子孫だという?」 「うん」 さすがに話が早い。ジェレミーは頷き、逆に質問を返した。 「おじさんはギルバートっていうんでしょ? そんでクライヴの先祖なんでしょ?」 「なぬ?」 モジャモジャデブは古風な疑問符を発しながら、首をかしげた。 「クライヴとは、誰のことかね?」 「おじさんの子孫。同じぐらい太ってるよ」 と、ジェレミーが言うと、ギルバードは気持ち悪いぐらいにニタァッと笑った。本当か、と言うとニヤニヤと、まるで嬉しくてたまらないほどに笑顔になっている。 不思議そうなジェレミーをよそに、カーマインに目配せをしたギルバートは嬉しそうに両手を揉んだりしている。 「???」 「──自分が結婚して子孫を残せるって思ったんだよ」 脇から低い声で、例の若い女性が言った。 その声に聞き覚えがあり、ジェレミーは眉を寄せる。 「バァカ、レベッカだよ」 すると女性が、片目をつむって見せながら小声で答えてくれた。合点がいってジェレミーはパッと笑顔になる。 彼女はカーマインのメイドのレベッカだった。変装をして、駆けつけてくれたのだろう。彼女は高い戦闘能力を持つ、頼もしい味方だ。 「それはそうと、ギルバート。少しいいかな」 今までずっと黙っていたカーマインが、ようやく口を開いた。貴族らしい忍耐力を見せ、彼は友人が落ち着くまで待っていたのだった。 ギルバートは、急に真面目な顔になり、無言でうなづいた。 その顔を見てさすがのジェレミーも気持ちを引き締めた。そうだ。これから兄を助けるのだ。あの“黒ノ女王(ブラック・クイーン)”を待ち伏せして、彼女の夢の中に囚われているはずの兄を助け出さねばならない。 「例の件なのだが……」 ギルバートは回りを気にしながら話し始めた。声色が変わっている。カーマインも神妙な顔をして頷いた。 「そう、君に言われた人相の男について、だ。調べてみたが、情報は見つからなかった」 「見つからなかった?」 意外そうな顔をして、カーマインが言う。何の話かと、首をかしげるジェレミー。 「何も、載っていなかったと? それは君の結社の、あの“暗赤色の御大”にも載っていなかったという意味か」 「そうだ」 神妙な顔をしてうなづくギルバート。その横でジェレミーが、暗赤色の御大ってなーに? と聞いていたのだが黙殺されている。 「情報はゼロだ。しかし、そのことが逆に証拠とも言えるぞ」 眉間に皺を寄せるカーマインに、ギルバートが指を立ててみせる。「我が結社の、生ける辞書である“月妖百科事典”にも載っていないということは、例の男がこの世の理と別のところで生きている者だということを表す。すなわち──」
「【第四の刻印】(ザ・サイン・オヴ・フォース)か」
そう、カーマインが低い声で言った途端、小さなベルの音が鳴り客が大ホールへと動きだした。どこからともなく、ヴァイオリンとフルートの静かな曲が流れてきた。 夜会が──始まるのだ。
***
ねえ、ジャム。 今日は仕事はいいの?
***
カーマインがギルバートに調べさせていたのは、あの黒ノ女王──メイベル=カールトンの夢の中に出てきた、チャコールグレイのツイードのスーツを着た男のことだった。50才前後の赤い片眼鏡(モノクル)をかけた男だ。 ジェレミーも、カーマインもアナ・モリィも。そしてベンジャミンの四人が同じ男を目撃していた。 だからカーマインは、友人のギルバートにあの謎の男のことを調べさせたのだ。 そして二人は、あたりを付け始めた。【第四の刻印(ザ・サイン・オヴ・フォース)】という謎の結社の者ではないかというのだが──。 もう少し詳しい話を聞こうとしたところで、夜会が始まりジェレミーの質問は中断された。 大きなホールに集まった招待客たちを前に、先ほど会った若いヴァンパイアの当主アイヴォリー=ストレットが何事か挨拶を始めたのだ。 「今宵はお集まりいただきましてありがとうございます」 彼の声は、りん、と会場に響いた。 「若輩者であるこのアイヴォリーめにご厚情を賜り厚く御礼申し上げます。本日はわたくしめが現世の身体を手に入れてから19年目を迎える日でもあります。ささやかな祝い事とはなりますが、どうぞ皆様おつくろぎください」 集まっている客は、おおよそ60人ぐらいだろうか。ふざけることもなく真面目に彼の話を聞いていた。ジェレミーは野次を飛ばしたくて仕方がなかったが黙っていた。それぐらいの良識は持ち合わせていたからだ。 やがて話は、昔の話──今の彼が生まれる前の話になった。いわゆる前世の話である。やれナントカいう結社と戦っただとか、魔術を使ってどうしただとか、高名な誰それとどうしただとか。丁寧な口調で叙事詩のように語られてはいるものの、要は血なまぐさい抗争の話である。 現代のロンドンの街で繰り広げられているギャングの抗争と同じだな、とジェレミーは思った。そんな話を、見た目は紳士淑女の方々が時には談笑しながら聞き入っているのである。彼は思わず肩をすくめずにおれなかった。 「──昨今は、正体不明の殺人者が、下街に住む若い女性たちをナイフで切り裂いて殺害するという残忍な事件が多発しておりますが、今宵は満月です。月の明るい光が、その謎の殺人者の影を映し出してくれることでしょう。決して、我々はあのような下劣な犯罪を犯すことはない、と」 最後のアイヴォリーのセリフは、まっすぐにカーマインに向けられていた。客の数人がそれと気付いてこちらに目線を送ってきている。 アイヴォリーは、後世に絶大な知名度をもって知られる“切り裂きジャック”事件のことを話題に出し、わざわざ無関係だと述べたにすぎない。彼は、まだカーマインのことを勘ぐっているようだった。 対するカーマインは涼しい顔で当主を見ているだけだ。 そして挨拶が終わると、食事が用意され“ご歓談”の時間となった。 ジェレミーが違和感を感じたのは、その食事を用意する給仕たちの姿である。奇妙なほど若い者たちばかりだったからだ。少年少女といってもいいぐらいだ。しかも男性よりも女性の方が多い。白い肩を見せたシンプルな黒いドレス姿の若い女性たちが、食事やワインを運んでいるのである。 いわゆる立食式パーティであるわけだが、見ていると料理に手をつける者はほとんどいなかった。 食べないのかな? と、彼が回りを見ていると、レベッカが肘をつついてきて顎をしゃくってみせた。 彼女の視線の先を追うと、一人の紳士が、若い女性給仕の手を引いて暗がりに引き寄せている。女性は何か催眠術でもかけられているかのように抵抗もしない。二つの影が重なり、そこでじっと動かなくなった。 「連中は、料理よりも好きなものがあンのさ」 テーブルの上のサクランボをつまんで食べながらレベッカ。合点がいって、ジェレミーも彼女にならって、サクランボをつまみあげた。 「そっか。俺も食べよっと」 カーマインは、何人かと一言二言挨拶を交わしている。彼の態度から見て、本当によく知っている相手もいるようだった。中でも、ひときわ目立つ扮装の男がいる。若い少年を連れた恰幅の良い男性である。スーツの色は薄いピンクだ。ジェレミーの感覚で言うと、まるでテレビに出てくる芸能人である。 「オスカー・ワイルド先生 ※ (このころは、『婦人世界』という雑誌をつくって、奥様がたに絶大な人気を得ていたり、と、作家というよりプロデューサーとして脚光を浴びていたころなのでした。) だよ」 ジェレミーの視線の先を見て、今度はギルバートが教えてくれた。彼は、ローストビーフの付け合せのヨークシャー・プディング ※ (シュークリームの皮だけのような食べ物です。ローストビーフなどの肉料理の付け合せとして出されることが多いです。) の方だけをつまんでいる。やっぱり油っこいものが好きらしい。 「誰?」 「知らんのか。君の時代には彼の作品は残ってないのかな?」 「ん……」 「男色家の作家先生だよ。彼もヴァンパイアだが、こういう集まりは好かんはずだ。珍しいな」 「へえ」 後世に絶大な影響を残し、数々の作品が映画化されている文豪のことも、ジェレミーにとっては“どこぞのテレビタレントのような人物”でしかなかった。彼の興味は、時代の寵児であるオスカー・ワイルド氏からテーブルの上の名もなきサクランボに戻った。
「──ヒャヒャヒャ、兄弟。今日はいい日だなァ!」
その時、背後から大きな笑い声とともに誰かがホールへ足を踏み入れてきた。 ジェレミーたちは振り返り、何人かも驚いて入口を見る。ホールの真ん中にいて客と話していたアイヴォリーもそちらを見た。 入口に立っていたのは、真っ白い髪を耳の下まで伸ばした若い男だった。 すらりとした身体をツヤツヤの黒いスーツで包んでいる。握りに髑髏のついたステッキを持ち、見た目は立派な青年紳士だった。 しかし、奇妙なところがいくつもあった。室内だというのに手袋をはめたまま。男性だというのに首に幅広のビロードの首飾りをつけているのだ。ぴったりと首をそのまま覆い隠すような暗赤色のチョーカーである。 もっとも異彩を放っていたのは、その瞳だった。 色素が抜けた赤。まさに血の色をした瞳には、何らかの怪しい光が宿っていた。 「外はいい月だってのに、こんなとこに閉じこもってると身体に毒だぜェ? アイヴ。外でもっといいワインを飲まねェか?」 何者なのだろうか。無遠慮に向けられる視線をものともせず、ずかずかとホールに足を踏み入れこちらへ向かってくる。ジェレミーが彼の進路から退くと、まっすぐにアイヴォリーの元に進んでいく。 すれ違う時にハッと思い出した。 この男は、確かメイベルの夢の中に出てきた──。 「やあ、デニス。君も来てくれたのか」 明らかに回りの空気が変わっていたというのに。何事もなかったかのように、アイヴォリーは来訪者を迎えた。この男はデニス=カールトンである。ジェレミーはその背中を凝視した。 黒ノ女王ことメイベルの実兄であるデニスは、にやにやと笑いながらこの館の当主の肩を抱き、まるで親友のように話しかける。 「飼いならされたブタよりも、自由に放し飼いにしたブタの方が美味いのさ。知ってるだろ?」 彼は回りのヴァンパイアに聞こえるように大きな声で言う。「ウヒャヒャ、そうさ。ワインだって同じさ。飼いならしたワインよりも、放し飼いにしてあるワインの方が美味いに決まってるだろゥ?? なあ、アイヴ。オマエもそう思うよなァ?」 その時、アイヴォリーの近くにいた給仕の一人が身を乗り出した。デニスの馴れ馴れしい態度に腹を立てたのであろう。彼の腕をむんずと掴む。 「貴様、ご主人様(マスター)から手を離せ」 「ァア?」
──パシャッ。
まるで水風船が割れるような音だった。 一瞬にして、給仕の手が跡形もなく無くなっていた。目を瞬かせる間もなく、彼の手が弾け飛んでいた。 悲鳴が上がるの同時にジェレミーは気付いた。デニスがやったのだ。彼は一切手を触れなかったが、何か念動力のようなもので、給仕の手を吹き飛ばしたのだ。 「アレッ、オマエ手ェどこかに落としちまッたのか? ヒャヒャヒャ」 デニスは、うずくまり手を押える給仕を見下ろし下品な笑い声を撒き散らしている。どこぞの女性が小さな悲鳴を漏らし、近くにいた者はデニスという異物を様々な色のこもった視線で見つめ後ずさった。 「──デニス=カールトン。彼は斧で首を切られたが、死人のままこの世に舞い戻った」 「ああいうのを“死人返り(リビングデッド)”っていうんだ」 カーマインが低い声で解説するのを、レベッカが補足してくれる。 「デニスは殺されたときのショックで、あの力を身につけたといわれている。彼は彼自身の復讐のために、あの力を使って十数人の頭を吹き飛ばした」 「エッ、じゃあいわゆる容疑者?」 「そうだ」 カーマインは少しだけ悔しそうな顔をした。「王立闇法廷(ロイヤル・コート・オヴ・ダークネス)が拘束できずにいる重要参考人のうちの一人だ。奴は神出鬼没で、非常に手強い相手である上、すでに死んでいるからな。奴の通り名がなんというか知っているか?」 そう問われ、ジェレミーは首を横に振った。 「“ネックレス(首なし)”だ」 振り向き、彼はデニスを見た。そうだった。あのビロードの首飾りは……。 「──ビンゴだぞ、ジェレミー」 カーマインが低く呟き、ジェレミーはハッとして曾々祖父を見る。今の口調──まるでベンジャミンみたいじゃないか! 「デニスが現れたということは、黒ノ女王はこの場に必ず現れる。だが、忘れるなよ。我々の目的はデニスもしくは黒ノ女王を拘束することだ。殺すことではない。二人が顔を合わせれば周囲の者たちは無事では済まされないだろう」 二人は、アイヴォリーと話すデニスの姿を見つめた。 気に入らなければ誰であろうと平気で傷つける男と、月妖(ルナー)と見れば誰であろうと殺そうとする女と、憎みあう二人が顔を合わせるのだ。 華やかな夜会に血の雨が降るやもしれない──。 二人はこの後に起こるかもしれない惨事を想像し、沈黙した。
***
「大丈夫だよ」 繰り返し繰り返し、今日は大丈夫なのかと問う妻に対し、ベンジャミンは優しく言った。 外はいい天気だった。彼は妻が乗った車椅子を押しながら、病院の庭をゆっくりと歩いている。 穏やかな日だ。 今までの人生で、こんなに穏やかな日があっただろうか。 鼻をくすぐる妻の匂いとともにベンジャミンは安らかな気持ちでゆっくりとゆっくりと足を運んでいる。 「こないださ、上司があんまりグタグダ言うから、うっかり言い返しちまったんだよな。そうしたら変な部署に左遷されちまってさ」 「変な部署?」 アイリーンが不思議そうに聞いてくる。 「そう。変な部署。幽霊が出たとか吸血鬼が出たとか、そんなヨタ話に対応するんだ。苦情処理係みたいなモンだよ。だからヒマなんだ」 こうして君とずっと一緒にいられるよ。そうベンジャミンが言うと、しばらく返事がなかった。ふと、気になって顔を覗き込むと、アイリーンは心配そうな顔をしている。 「大丈夫なの? 危険なことはないの?」 「ないよ。ぜんぜんない。定時に帰れるし」 「でも……幽霊や吸血鬼だって、全く存在しないわけじゃないと思うの。わたしの母だってそう言って……」 「また、お義母さんから聞いた話?」 切り返すと、アイリーンは怒ったように口を尖らせて彼を振り返った。 「──馬鹿にしてるでしょ」 「ごめんごめん。してないよ」 「わたしはね」 アイリーンは言いかけて喉をつまらせた。ゴホッゴホッと咳をし始める。ベンジャミンはその背中を優しくさすった。すぐに落ち着くと彼女はその大きな瞳でじっと夫を見上げた。 わたしはね、ともう一度言ってから続ける。 「あなたのことが心配なの」 彼女はもう一度ゴホッと深い咳をした。 「わたしが居なくなったら、あなたちゃんとした食事とれる? 油っぽいものばっかり食べたりしない?」 「しないよ」 何をつまらないことを。ベンジャミンは妻が冗談を言ったかのように笑った。 ──それに、君は居なくならないだろ?
***
夜会が始まってから、すでに小一時間ほどが経過していた。 四人は二組に分かれて、これから起こることに供えることとした。ジェレミーとカーマイン組と、ギルバートとレベッカ組だ。 ギルバートたちが外から侵入してくるであろう黒ノ女王を警戒することになったので、ジェレミーたちはデニスの行動を見張ることになった。 彼はたまにワインを舐める程度に飲み、アイヴォリーの周りをぶらぶらと歩き回っていた。他の者と話をする素振りはほとんどない。 ──あいつ、友達いないんだ。ジェレミーは思った。 しかし不思議とアイヴォリーは、このデニスに対し嫌悪感は抱いていないようだった。招待客ではない彼を邪険に扱うどころか、むしろ厚遇している。彼の無礼な振る舞いに対しても寛大に接していた。 そして、デニスがこの場に現れてから、ジェレミーたちの回りにいる給仕の数が増えていた。明らかに自分たち“王立闇法廷の連中”を警戒しているのだ。 なるほど、アイヴォリーはデニスを本当に友人として扱っているらしい。 ジェレミーはその二人の様子を見ていて、何となく合点がいった。デニスは破天荒な人間に見えるが、たぶん本当にアイヴォリーを親友だと思っているのだ。彼に危害を加えるような者がいれば惜しみなく力を振るうだろう。 ……もっとも、若きヴァンパイア結社の当主の方は、デニスを有能なボディーガード程度にしか思っていないかもしれないが。 ふと、その時音楽が変わった。 ピアノが主の、短く切れるような音を繰り返すアップテンポの曲だ。まるで、現代のロックのような、軽快なリズムである。 見ると、いつの間にか、アイヴォリー自身がホールの真ん中に立っていた。そばにいたデニスは後方に退き、ニヤニヤと友人の姿を見つめている。 アイヴォリーは上着を脱ぎ、シャツのボタンを二つほど外している。すでに回りに人はおらず、彼はポツンと一人で立っていた。 何が始まるのか──。そう思った時。ツ、と若き当主は動いた。 腕と身体を動かし円を描くようにゆっくりと回る。何らかのダンスのようである。十本の指を複雑に動かしながらステップを踏み、跳ねるように踊る。ゆらりと回る。そして跳ねる。 「──今夜のメインディッシュを出すつもりだ」 突然始まったダンスに、思わず見入っているジェレミー。その彼に、脇からカーマインが教えてくれた。 「メインディッシュ??」 ジェレミーの疑問にカーマインは顎でその方向を指し示した。 見れば、人々の輪の中から、若い女が一人進み出てきた。アイヴォリーのダンスの輪の中に入ると、くるりくるりと不思議なステップを完璧にこなし、彼女も軽やかに踊り出す。 真っ赤な華やかなドレスをまとった若い女である。しかしその目は虚を見ているだけだった。全く表情もなく、ただ人形のように踊っているだけである。 もしかして……。ジェレミーは隣りのカーマインを見た。すると曾々祖父は、一つ厳かにうなづいた。 「そう。彼が魔術を使って、あの女性を踊らせているのさ」 「あの女の人、これからどうなっ──」 「──みなさま、グラスをご用意ください」 ジェレミーの言葉を、執事らしき男の声が遮った。招待客たち──ジェレミーたち4人を除くほぼ全員が、一斉に空のグラスを自分の前に片手で差し出した。それは鼻につくほど気取った仕草だった。 アイヴォリーは一礼し、女とともに人々の方へとステップを踏んだ。しかし人々の方へと手を伸ばしたのは女の方だった。彼女の両手から赤いリボンのようなものが、音もなく滑り出す。ギョッとするジェレミーを尻目に、そのリボンのようなものはゆらゆらと宙を泳ぎ、人々の掲げるグラスの中へと次々に入っていく。 ──血だ! 心の中で、ジェレミーはその正体に気付いて声を上げた。 アイヴォリーが、あの女の血を皆に分け与えているのだ。 「このアイヴォリーより、みなさまへ。感謝の気持ちを込めて」 カーマインたちの前を素通りし、足元をふらつかせながら女性は踊りながら両手首から鮮血を流しつづけた。最後の一人のグラスにまで血を注いだあと、彼女は糸を失った人形のように、床に崩れ落ちるように倒れた。開かれていた瞳が、ゆっくりと閉じていった。まるで死人のように青ざめた顔色。いったいどれほどの体内の血液を失ったのだろうか。 命を奪ってはいなかった。しかし──。 スッ、とカーマインが進み出でて、若い女を助け起こそうと大股で近寄っていった。だが、その前に大きな身体の下男が現れて、やんわりとカーマインを制すと女性を抱き上げて、ホールの奥の暗がりの方へと連れて行ってしまった。その動作は素早く、まさに数秒の出来事だった。 「これは、生娘ですな」 「やはり、貴殿もそう思われますか。この独特の舌ざわり。素晴らしい」 「ええ。昔が懐かしくなります」 「古き良き時代に乾杯といきたいところですな」 回りの客が談笑している中、ジェレミーは戻ってきたカーマインの顔を見た。彼は無表情だったが、すぐに分かる。カーマインは怒っていた。 「──どうかお許しください」 そんな中、涼しい声で踊りを終えたアイヴォリーが言う。彼は一礼し、大げさに両手を広げながら続けた。 「少しでも多くの方々に味わっていただきたく、少量のワインとなることをどうかお許しください。その代わりに、今宵は何種類ものワインを用意してございます」 朗々と語り、アイヴォリーはサッと両手を下げた。するとその両脇にまた新たな赤いドレスの女たちが並んだ。全部で四人である。 先ほどの女のように、皆、虚ろな瞳をして──。
「──ゲェッ!!」
ジェレミーはそこにいるはずのない女を見つけて、驚きのあまり虫を飲み込んだような声を上げてしまった。すぐに喉を押さえ咳き込んだ振りをする。 まさか、まさか、まさか。 もう一度、見る。 一番左にいる女。虚ろな瞳をして、長いプラチナブロンドの髪を結い上げて、白い肩と美しいデコルテを惜しげなく披露している女。あれは……。 あまりのことにジェレミーは隣りのカーマインを見た。 彼の曾々祖父は、今まで見たことがない表情をしていた。血の気が引いたとは、まさにこういう顔のことを言うのだろう。真っ白い顔に、目だけが異様に光を放っていた。もちろんその視線の先は、あの女だ。ステッキを持つ手がぶるぶると震えている。 どんな時でも冷静沈着であるはずのカーマイン=アボットが、傍目にもハッキリとそれと分かるほど動揺していた。 そこに彼女がいたからだ。
彼のアナ・モリィ=シェリンガムが、そこにいたからだった。
アイヴォリーが勝ち誇ったような笑みを浮かべながらこちらを見ている。だが、それに対抗することもできず、カーマインは視線を外し俯いた。 「……そうか、僕が……ああ……」 小声で何事か呟き、彼は左手を額にやった。 「僕のせいだ、ジェレミー。済まない」 やがて、聞こえるか聞こえないほどの声で、カーマインは口を開いた。 「モリィは、ジャムが居なくなったことを気に病んでいた。この夜会を彼女が無視するはずがない。きっと彼女は一人で何とか挽回しようと、このクラブに乗り込んだのだ。僕は……彼女の行動を予測できなかった。僕のせいだ」 「……そ、そんなことないよ」 ジェレミーは、とにかくなだめようとカーマインの背中を軽く叩いた。 「済まない、ジェレミー。僕は──」 そこで何か言いかけて、カーマインは続く言葉を無理に飲み込んでしまった。だがジェレミーには分かった。彼はこう言いたかったのだ。アナ・モリィを人質に取られては、自分には何もできない、と。 ──ヤバい、ヤバいぞ。どうする、ジェル? ジェレミーは自問しながら顔を上げた。彼の混乱をよそに、ヴァンパイアの血のダンスが始まってしまった。当然アイヴォリーは待ってなどくれなかった。4人の女性たちが複雑に踊り始め、アナ・モリィは最も後方で、踊っている。 カーマインは微動だにせず、その様子を見、そしてアイヴォリーを凝視している。 「どっ……」 どうすればいいのだ!?!? ジェレミーは、手の中にリボルバーを出し、そしてまた消した。これから兄を助けなければならないのに、曾々祖母を人質に取られてしまった。どうすればいいのだろう。 やっぱり、まずはアイヴォリーをトッチメるかな。ジェレミーは目をキョロキョロさせながら思う。いやいや、まてまて。それをしたらデニスが飛んでくるぞ。あいつとはどうケンカすればいいのかな。殴っても死んでるから効かなさそうだし、変な技で頭フッ飛ばされるらしいし。俺、どうやって脳味噌ガードすればいいのかな……。
──ダァン!!
ジェレミーが心の中で、もやもやしたものと折り合いをつけようとしていた矢先に、最悪のタイミングで大きな音がした。 後ろだ! と、振り返れば、やはりそこに黒い影が立っていた。 窓ガラスを割り、派手に登場した黒いドレスの貴婦人──“黒ノ女王(ブラック・クイーン)”だった。 「ヴァンパイアめ、一人残さず滅ぼしてあげますわ!」 ジェレミーの大好きなアメコミヒーローのように決め台詞を吐いた貴婦人。彼女が動くとその足元に、男が倒れているのが見えた。 大きく突き出た腹を天井に向けて、大の字に伸びている──ギルバートだった。 「やられてるし!」 ヴァンパイアたちの悲鳴や怒号が上がる中で、頭を抱えるジェレミー。 レベッカの姿は見えない。彼女も倒されてしまったのか。無事を祈りたいが、黒ノ女王がここにいるという時点で、ギルバートのように酷い怪我を負っている可能性が高い。 4人で作戦に望むつもりだったのに。突如として起こった喧騒の中、ジェレミーは目をギュッとつむった。人質が1人増えて1人が動けなくなり。1人はやられて、もう1人も動けないらしい。と、するならば残るは……。
──俺しか、居ないじゃん。
ひとりジェレミーは下唇を噛み、身体をゆっくりと黒ノ女王へと向けた。 その両手に、銀色に光るリボルバーがふわりと現れる。彼の両脇をヴァンパイアたちが逃げるように奥へと走り去っていく。ジェレミーの手に現れた銃に気付いた者は居なかった。 ジャムは居ない。CCも動けない。 ──ここは、俺がやらなくちゃならないんだ。 彼は、ゆっくりと両手の銃を黒ノ女王に向けた。
***
「大丈夫だよ」 繰り返し繰り返し、今日は大丈夫なのかと問う妻に対し、ベンジャミンは優しく言った。 外はいい天気だった。彼は妻が乗った車椅子を押しながら、病院の庭をゆっくりと歩いている。 穏やかな日だ。 今までの人生で、こんなに穏やかな日があっただろうか。 鼻をくすぐる、妻の匂いとともにベンジャミンは安らかな気持ちでゆっくりとゆっくりと足を運んでいる。
***
とりあえず当てないつもりで、両手のリボルバーを全弾撃ちつくした。 「──あなたは、この間の!」 黒ノ女王がジェレミーを見、眉を吊り上げて睨んできた。さすがの彼女も目の前に銃器をもった人間が立っていれば反応するし、それが最近ことごとく仕事を邪魔する相手だと知れば目くじらを立てもする。 「どきなさい!」 「やーだよ」 さて、足止めはできるがこれからどうすればいいんだ。ジェレミーは、弾を補充するために“画面の外”を撃ってリロードした。 しかし、考える必要などなかったのだ。 彼の背後から、底抜けに明るい声が黒ノ女王を突き刺したからだ。
「メェイベル!! メイベルじゃないか。久しぶりだなァ!」
振り返れば、手を広げるデニスの姿が目に入った。兄と妹の視線がジェレミーを挟んで交差する。 「──知ってるぜェ、メイベル。オマエが何しにここに来たか。ボクだろ、ボクが目当てなんだろ? ウヒャヒャ、知ってるぜェ。オマエのカワイイ顔に書いてある。アイル・キル・ユーってなァ!」
***
「君はよく寝られた?」 「あなたの身体が重くて、ぜんぜん」 アイリーンは笑顔のまま肩をすくめると、ベッドの脇のテーブルに目を向ける。肩の上で短く切りそろえられた黒髪が艶やかな光を放ちながら、さらさらと揺れた。 「ジャム、林檎でも食べる?」 「ああ、うん」 ベンジャミンがうなづくと、彼女はゆっくりと手を伸ばして赤い林檎を一つ取って、ナイフで剥き始めた。 その仕草を、彼はじっと見つめている。 この上なく安らかな時間だった。目を細め、ベンジャミンは愛する妻の姿に見入っている。
***
「デニス!」 叫ぶように相手の名前を呼んだ黒ノ女王は、大きく振りかぶった手を前へ突き出した。するとシャァッと音を立てて彼女の両手から細く黒い影が伸びた。 彼女の武器である黒い刃だ。言霊師である彼女は魔術で自分の影を刃に変えて恐るべき凶器に変えて相手を切り裂くのだ。 「わっ」 ちょうど二人の間に立っていたジェレミーは慌てて手を上げた。──間一髪! 彼のジャケットの裾を切り裂いて、その影は蛇のように唸りながらデニスの両腕に絡み付いていた。目にも止まらぬ早業とはまさにこのことだ。 危ない危ない、と胸をなでおろし、さてこれを切らねばと銃の代わりにハサミを出そうとすると──。 「メイベル! これはおイタかい?」 ハッと殺気を感じて、咄嗟にしゃがみ込むジェレミー。その頭上をキラキラ光るたくさんの何かが音も立てずに通過した。 黒ノ女王が腹立たしそうに、ええいと声を漏らしながら手を払った。彼女の黒い影によって床に落とされたのは無数のナイフやフォークだ。デニスが念動力を使って彼女に投げつけたのだ。 「ァッ!」 背中にナイフなどが突き刺さるところだったよ、と、立ち上がったジェレミーは黒ノ女王が驚いて目を丸くするのを見る。何? と、つられて振り返れば、縛られていたはずのデニスが一瞬で姿を消すのを見る。 次には、黒ノ女王の悲鳴だ。 慌てて首を返せば、瞬間移動をしたのだろう──デニスがそこにいて、黒ノ女王の身体をがしりと後ろから押さえ込んでいた。 「メイベル。ボクの可愛い妹ォ。さてさて、今日は何をして遊ぼうか?」
「──嫌ァッ!」
叫んだ彼女の身体が黒く光ったような気がして、ジェレミーは本能的に危険を察知した。また床に倒れこむように身を伏せると、何かが彼の髪の毛を数本飛ばしながら後方へ──ヴァンパイアたちがいるホールの方へと恐るべき速さで伸びていった。 黒ノ女王は自分の身体から放射状に、あの凶器をメチャクチャに放ったのだった。 今の勢いは、まずいぞ──。 ジェレミーは、跳ねるように立ち上がって状況を確認した。 黒い影が伸びて、数人の給仕の胸を突き破っていた。明らかに絶命している者がほとんどだ。だが、真ん中の客が最も集まっていたエリアには二人の男が無傷のまま立ちはだかっていた。 ステッキを構えたカーマインと、素手のアイヴォリーだった。 よし! ジェレミーは安心して黒ノ女王とデニスを振り返った。と、そこに広がっていた光景に思わず息をのんだ。 窓枠に──デニスが磔にされていたのだ。 身体中に無数の黒い影を突き刺され、がくりと首を垂れている。彼の身体からは何かの液体が流れ出し、ポタリ、ポタリと床に垂れ落ちていた。血なのだろうか。ジェレミーは目を凝らした。血にしては黒い。まるで油か何かのような──。
「──ヒャヒャヒャハハハハ! やるじゃねェかメイベル」
ゴキ、と音を立てて、デニスが顔を上げた。彼が笑い声を上げるたびに頬の肉が裂けて何か白いものが覗く。その凄惨な光景にさしものジェレミーも目を背けた。 「危うく首がまた取れそうになっちまったぜヒヒヒヒヒ」 と、彼が二言目を発した途端に、その顔に黒い影が刺さった。 ──が、違った。影は虚空を刺し、デニスはいつの間にか床に降り立っていた。ボロボロになってしまった上着の裾を引っ張り、気取った仕草で右手の平をひょいと上に翻してみせた。 「な……ん度でも……」 小声で何かを言いかけた黒ノ女王はステップを踏み、背中を守るように壁際に立った。 「何回でも殺してあげますわ! 今日は必ず、あなたを……わたくしはあなたを止めてみせる!」 「俺を殺すって、今みたいに? ワァォ! そりゃスゴイ。次はもっと酷い殺し方見せてくれよ? ウヒャヒャ。ギャラリーだって大喜びだ!」 デニスは余裕の態度で、ズボンのポケットに両手を突っ込んだ。口笛すら吹き始める。 ──ヤバい、ヤバいぞ。 ジェレミーは思った。二人とも俺のこと全く無視してる。全く目に入ってないぞ。 ──いや、まてよ。 ふと彼は考え直した。これはサッカーの試合みたいなものじゃないか? デニスと黒ノ女王の二人がボールを取り合ってる状態だ。そう考えれば……答えは一つ。 俺もボールを取りに行けばいいんだ。 タッ、と軽やかな音をさせて、ジェレミーは床を蹴って跳んだ。
***
「わたしはね」 アイリーンは言いかけて喉をつまらせた。ゴホッゴホッと咳をし始める。ベンジャミンはその背中を優しくさすった。すぐに落ち着くと彼女はその大きな瞳でじっと夫を見上げた。 わたしはね、ともう一度言ってから続ける。 「あなたと一緒にいられるのは、とても嬉しいわ」 ふふんと得意そうにベンジャミンは微笑んだ。 「でもね、あなたは仕事に行かなきゃいけない」 「どうして?」 「そこがあなたの生きる世界だからよ」 視線を外さず、アイリーンは低い声でハッキリと言った。その声には何か強い力が込められていた。 「そんなことないよ」 しかしベンジャミンは笑って妻の言葉を否定する。 「俺さ、自分がいかに仕事人間だったかを痛感したんだ。ヒマな部署に移って、早く帰ってこられるようになった。君が病気になったんだから、俺は君のための自分の時間を使う。誰にも文句なんか言わせないさ」 「ジャム……」 ゴホッと深い咳をし、アイリーンは悲しそうな目で夫を見上げた。 「わたしだって辛いの」 「何が?」 「あなたと別れなくちゃならないことが」 ははは、とベンジャミンは笑った。彼は、それでも妻の言葉にまともに取り合おうとしなかった。 「ずっと一緒にいるって言ったろ。君は何も心配しなくていいんだ」 「ジェレミーはどうするの?」 「ジェレミー?」 妻の口から突然弟の名前が出てきて、ベンジャミンは困惑した。 「ジェレミーは、あなたが居なかったらきっと困るわ」 「そんなことない……よ」 何故こんな話をしているのだろう。彼はゆっくりと言葉を紡いだ。 「いい大人なんだからさ。あいつもそろそろ自立しないと。そもそもあいつは健康そのものじゃないか。君は病人なんだぞ。どう考えたって──」 「ジャム」 アイリーンは両手で顔を覆ってしまった。ジャム、ともう一度夫の名前を呼び、俯く。声が震えていた。 自分が何か酷いことを言ってしまったのか。ベンジャミンは狼狽して、車椅子から手を離してしまった。おろおろと妻の姿を見、彼女に目線を合わせようとその隣りにしゃがみ込んだ。 「ジャム──わたしは戦うべきなの?」 「? 何が?」 「わたし医者なのよ。わたし全て分かってるのよ」 「アイリーン」 「聞いて、ジャム」 アイリーンは両手を膝に降ろし、潤んだ目で夫を見た。まっすぐに。「全て分かってるのに、わたしは、あなたの前では戦うって言わなくちゃならない。ねえ、駄目なの? わたしは休んじゃ駄目なの?」 ベンジャミンは弾かれたように立ち上がった。 ようやく妻が言いたいことが分かったからだ。彼女は──。 「君は、俺に居なくなって欲しいのか」 アイリーンはゆっくりと首を横に振った。そうじゃない、そうじゃない、と。 「俺にどうしろっていうんだ!」 思わずベンジャミンは叫んでいた。「俺は君を愛してる。君を失いたくない。誰もいない家で一人で過ごすなんて真っ平だ! 誰もいない家で一人で──」 言いかけて、舌がもつれ彼は口ごもった。
寝室にあった大きなベッドを処分した。 新婚旅行で行った南フランスの写真をクローゼットの奥に隠した。 彼女が誕生日にプレゼントしてくれたコートは屋敷の方に持っていってもらった。 彼女と初めて食事したレストランのある道を避けるために10分早く家を出るようにした。 怪我をした時にはあの病院だけには行きたくないとダダをこねた。
あれはみんな夢だったんだろ。
ベンジャミンは、たぶん、口に出してそう言った。 「ジャム、ごめんなさい。あなたがとても傷ついていること、わたしは知ってる」 囁くようにアイリーン。ベンジャミンはその横顔を見つめた。伏せたまつげが、揺れている。頬だってピンク色だ。 彼女は生きている。こうして俺の隣りで呼吸をして、一緒に生きているじゃないか。 そのアイリーンが、スゥッと大きく息を吸い込んだ。 「ジャム、わたしを一人にさせて欲しいの。あなたは自分のいるべき場所に戻って」 「嫌だ。俺は──君をそんな見捨てるようなことはできない」 「そうじゃないわ」 アイリーンは優しく、ベンジャミンの手を握った。その手はしっとりと温かかった。 「見捨てるんじゃないわ。わたしを信じて」 「俺は──」 「わたしはあなたが居なくても一人で戦える。だから、あなたも本当のことを見て。あなたとわたしの間にあった現実を」 現実。ベンジャミンは心の中で妻の言葉を反復した。ほんとうのこと。俺とアイリーンの間にあったほんとうのこと。 彼女は5年前に死んだ。死因は子宮ガンだ。半年間苦しんで死んだ。 「あなたはこの──アイリーンに囚われているの。わたしは一人でやれる。わたしは一人で大丈夫。だから」 「アイリーン」 ベンジャミンは妻の顔を見た。視界は涙でかすみ、彼女がどんな表情を浮かべているかも分からなかった。 「ジャム」 彼女も彼の名前を呼んだ。静かな優しい音楽のような旋律だった。 「わたし、あなたを助けたいと思ってたの。あれから──5年前から、ずっと」 袖で目をぬぐえば、アイリーンは微笑んでいた。 そうか──ああ。ベンジャミンは嘆息した。あれから5年も経っていたのだ。
それは、アイリーンが言うはずのない言葉で。 でも、アイリーンならば言うはずの言葉だった。
ようやくベンジャミンは、ほんのわずかだけ微笑むことが出来た。 「アイリーン」 自分の声は、意外にもしっかりとしていた。まるで他人が話しているような声だったが、彼は知っている。それが自分のものであると。 「俺は……俺は、君のいない世界を5年も生きちまってたらしい」 そうよ、と彼女がうなづく。 「君を助けなきゃと思っていた。でも、違ったんだ。逆だったんだ。俺は──」 アイリーンは、もういいのよ、と言わんばかりにベンジャミンの頬に手を伸ばし、そっと触れる。 「あなたとゆっくり話せて良かった」 そうだね。ベンジャミンも答えていた。
──本当に、良かった。
***
「なんだテメェ、邪魔すんな!」 ジェレミーはホールの中を走りながら、とにかくデニスを狙い撃ちにした。当の相手はようやく参戦者に気付き、不快感を顕わにしている。 サッとテーブルの下に隠れれば、その上に乗っていたワインの瓶が四散した。 よし、イケる! 手ごたえを感じるジェレミー。デニスは見えるものでないと、超能力で吹き飛ばせないのだ。 黒ノ女王が攻撃した隙に、ジェレミーは銃を手に、隣りのテーブルの影へと駆け抜ける。 彼は決めていた。まず、デニスを殺してしまおう、と。 何回も生き返ることはできないらしいが、まだ数回は“持ちそう”だったからだ。人間誰にでも当てはまることだろうが、デニスは死ぬと“隙”ができる。その時に、黒ノ女王をなんとかする、のだ。
「これが目的か、カーマイン卿」 一方、冷たい口調で、吐き捨てるように言ったのはアイヴォリーだ。傷一つ負わずに、黒ノ女王の一撃を完全に防いだのは見事だったが、彼は激怒していた。 「あの汚らわしい売春婦を招き入れ、パーティを台無しにして私の顔に泥を塗るつもりか」 「僕たちは確かに、あの黒ノ女王がここに現れることは予想していた」 その隣りで、カーマインはステッキを降ろし淡々と答えた。 「しかし誤解があるようだ。僕たちは彼女も、君の友人も保護するつもりでいる」 「何を白々と!」 憎悪で溢れんばかりの視線を向け、アイヴォリーは手をサッと上げた。カーマインを打ち据えるかのように見えたそれは、何らかの合図だった。 生き残っていた給仕たちが立ち上がり、彼ら二人の手の届かない箇所に散らばったのだ。後方にいる招待客たちに被害が及ばないようにするものであった。しかし──人数が少なく明らかに守備が足りていない。 「どういうことだ?」 アイヴォリーは低く呟き、近くにいた執事風の男に目をくれた。男は、短く首を横に振った。夜会の主がさらに眉を寄せた時、窓側で声が上がる。
「外の警備の連中は、全員やられたよ」
猫のように軽やかに窓から飛び込んできた、小さな影。それは若い女──メイドのレベッカだった。 にわかに信じがたいように、窓の外に目をやったアイヴォリー。彼は、執事風の男がうなづくのも見る。 「──皆さん。申し訳ありませんが、このクラブから避難してください」 夜会の主が判断を決めかねているうちに、声を上げたのはカーマインだった。彼は後ろを振り向き、ヴァンパイアたちに向かって穏やかに説明するように話した。 「私は王立闇法廷のカーマイン=アボットです。当法廷の重要参考人であるデニス=カールトンと、その妹である通称“黒ノ女王”の二人を保護いたします。見ての通り二人は戦闘状態にあります。大変危険ですので、速やかに避難してください」 アイヴォリーも何も言えず黙り込んだ。数人の招待客もそわそわと動き始めている。皆、隣りにいる者同士顔を見合わせるなどしている。アイヴォリーの許しを得ずに退室してよいものかどうか、迷っているのだ。 デニスが飛んだ。黒ノ女王は床を走りそれを追いかける。 遠くの方で、俺の妹スゲェだろうとかデニスの狂ったような笑い声が聞こえる。 「──ハッハッハ! 面白いじゃないか」 しかし、ざわついた雰囲気を破ったのが、誰かの浪々とした声だった。 「アイヴォリー卿、我々のためにこんな刺激的なショーを用意してくださるとは。私はとても嬉しいですよ」 進み出たのは、ピンク色のスーツの男。文豪オスカー・ワイルドだった。 ムッとした顔でそれを見るアイヴォリー。 「まさか、これを最後まで見ずにお帰りになる方はおらんでしょうな」 彼は大きく手を広げ、客の方を隅々まで見通すように首を巡らせながら言った。「死んでまでこの世に執着を残す男と、その男を倒すために月狩人になった女。月の夜の死闘。素晴らしいシチュエーションです。私はどちらが勝利するのか、ぜひ見届けたい」 「オスカー、しかし」 カーマインが声を上げるのを、ワイルド氏は手を上げて制し続けた。 「我々は誇り高きヴァンパイア。まさか、自分の身を守れぬ者はおりますまい。うら若きレディたちは、この場の無数の騎士たちが守ってくれることでしょう」 彼の言葉が、場の雰囲気を変えてしまっていた。 立ち去ろうとしていた者も、居住まいを直しワイルド氏と、繰り広げられている死闘に目をやり始める始末だ。 ぐっと拳を握りしめるカーマイン。ワイルド氏にこんなことを言われてしまっては、退室できる者は一人もいないだろう。内心、恐々としていてもプライドが邪魔して彼らは逃げることができないに違いない。アイヴォリーも全く何も言わない。 こうなったら──。カーマインはちらりとホールの奥を見た。そこには、魂を抜かれたように虚ろな表情で立つアナ・モリィの姿がある。 とにかく、彼女だけは守らねば。
***
ふと、気付くと中庭の噴水前に立っていた。 妻のアイリーンも一緒だ。 「ねえ、見て」 彼女の視線を辿ると、子供が二人遊んでいた。 小さな男の子と女の子である。5、6才ぐらいだろうか。キャッキャッと嬌声を上げながら遊んでいる。噴水の水を掛けたり、追いかけっこに夢中な様子だ。
誰だろう……。 ベンジャミンは、ただその二人の子供たちが遊ぶのを見つめている。
***
ジェレミーはレベッカの声を聞き、笑顔になって振り返り──目をみはった。 バランスを崩したような格好で窓際に立つ彼女。その左腕の肩から先が全く無かったからだ。 「レベッカ! う、うで!」 「大丈夫だよ」 ジェレミーの声に、彼女は低く答え、そっと彼の隣りに立った。 「うっかり街灯に縛りつけられちまったんで、自分で腕を切り落としてきたんだよ」 ジャラ、と彼女は右手で武器の鎖を構える。「そんなことより、ヤバいぞ、あの女。こないだよりも力が強くなって──」 「──い、痛くないの!?」 目を丸くしたまま、ジェレミーはレベッカに迫っていた。 「え、痛いって何が?」 「……腕!」 「おい、危ねぇぞ!」 ドン! ふいに二人は突き飛ばされ、床に身を投げ出された。 身を起こそうとすると、黒い影の刃が頭上をかすめて飛んでいった。黒ノ女王だ。宙を浮いて逃げるデニスを追い、放った刃が数人の給仕を串刺しにする。 「レベッカは人造人間だ。彼女には痛みは無ぇんだ。心配無用だ」 ぬっ、と立ち上がる大きな影。モジャモジャデブだった。二人を突き飛ばしてくれたのは、意識を取り戻したギルバートだった。 しかし口調が変わっている。何かふてぶてしいような──。 「も、もしかして、クライヴ?」 「ああ、そうだ。遅くなって済まん」 きょとんと彼を見ているレベッカを尻目に、ギルバート=クライヴはモジャモジャの髪を掻き、両袖の埃を払うような仕草をした。 そんな間も、ホールにはデニスの笑い声と、殺される給仕の悲鳴。アイヴォリーが上げるヒステリックな罵声が響いている。 「早口で言うから、よく聞け。一度で覚えろ」 クライヴはジェレミーに向かって言った。 「俺の武器は、小型ボウガンの矢だ。これを使って、死角からデニスを奥の壁に磔にしちまうことができる。今から10秒後。必ず当たるから俺を信用しろ。デニスが動けなくなったら、お前は黒ノ女王を眠らせろ。眠らせたら彼女の夢の中に入って兄貴を引っ張り出して来い」 「おい、何言ってンだよお前」 「レベッカ、お前はコイツのサポートだ。黒ノ女王を牽制しろ」 いきなり命令され不服な顔をしたレベッカが声を上げたが、彼はそれをぴしゃりと黙らせた。言われたことが的確だったので、不精不精彼女はうなづく。 1、2、とクライヴがカウントを始めた。 ジェレミーは、言われたことは理解したが、まだ展開に頭が追いついていなかった。10秒後? 小型ボウガン? そんなこと言ってるけど、クライヴは丸腰で武器など何も持っていないように見える。しかも、黒ノ女王を“眠らせる”? 俺にそんなことが出来るのか。子守唄でも歌えばいいのかな。 「5」 クライヴは両手を上げた。まるで鳥が羽ばたくようなポーズだった。何を? と思った瞬間に彼の両袖から何か細いものが数本飛び出した。それは一瞬のうちにホールの暗闇へと消えていった。 「い、今のは?」 ジェレミーの問いに、クライヴは答えなかった。彼は手を下げ、後ろに下がりまた壁の方に向かって両袖から何を発射した。 その様子を見ていると、何となくジェレミーにも分かってきた。クライヴは両袖に何かボウガンのようなものを隠し持っているのだ。それを使って矢を放っている。 「2、1」 クライヴは矢を放つをのをやめ、ホールの奥へと走った。ジェレミーは、その動きを横目で見つつ、レベッカと目を合わせた。そして次に目で追ったのは黒ノ女王の姿だ。 黒ノ女王は、部屋のシャンデリアに影を引っ掛けその上に乗っている。デニスが放っているナイフやフォークが、そのガラスを割り、ホールにはガラスの雨が降り注いでいる。 「ウヒャヒャ、追いかけっこ、追いかけっこ。子猫ちゃんはどこかなァ!?」 デニスが手を挙げ、テーブルの一つを念動力で持ち上げた。 その時だった。 彼の身体を真っ二つにするように、何かが彼の身体に縦一列に突き刺さったのだった。 「ウヒギャッ」 笑い声が途中で虫をつぶしたような声に変わった。デニスは後方に吹っ飛ばされ、奥の壁に背中を叩きつけられる。ダンッ! という大きな音をさせ、彼の身体が壁に半ばめり込むと、第二弾の小さな矢が彼に襲い掛かった。 今度は横一列だった。まるで十字架を描くように、クライヴの放った矢が容赦なくデニスの身体を貫いたのだ。 ハッとして、シャンデリアから身を乗り出す黒ノ女王。クライヴがジェレミーの名前を呼んだ。ジェレミーはとにかく彼女を睨んだ。しかし──。 ──バリバリッ! ギャギャドギャッ! 物凄い音がしたかと思えば、一瞬にして黒ノ女王は自分が乗っていたシャンデリアを黒い影でグルグル巻きにして大きな塊を作り上げていた。自分の倍はあろうかと思われるその凶器を、彼女は怯むことなく、壁のデニスに向かって投げつけた。 完膚なきまでに叩き潰す気なのだろうが、その動きを見てジェレミーはアッ! と声を上げていた。 シャンデリアの進路に、黒いドレスの女が立っていた。それは見間違うはずもなく、アナ・モリィ──彼の曾々祖母だったのだ。 ま、間に合わない! 彼が心の中で悲鳴を上げた時、黒い影がアナ・モリィの前に立ちふさがった。
カーマインだった。
「CC!」 ジェレミーが悲鳴に近い声を上げるのと、大きなシャンデリアが彼ら二人を巻き込むのは同時だった。 その塊は、デニスに直撃し、轟音を上げた。 ぎゅっと目をつぶるジェレミー。 嘘だ、こんな。
こんなこと、起こっていい、はず が ない
***
あの二人はね、と、アイリーンが教えてくれた。 「あれは、幼い頃のメイベルとデニスなの」 言われて、ベンジャミンは噴水の近くで遊ぶ二人の子供を、じっと観察した。 確かに、メイベルに──アイリーンに似ているところもある女の子だ。そして、デニスの方は今の姿とは比べようもないほど、明るい笑顔の快活な少年だった。 「二人はとても仲の良い兄妹だったのよ」 キャッキャッ、と笑い声が、ベンジャミンの身体の中を通り抜けていくようだった。 「ジャム、よく聞いて」 アイリーンはゆっくりと諭すような口調になった。 「メイベルは大好きなデニスにひどいことをされて、分裂してしまった。新しく生まれた人格はパメラ。もし、パメラがデニスを殺してしまったら。あの二人の兄妹も死んでしまうの」 意味をよく理解しようと、ベンジャミンは妻の顔を見る。 「メイベルは、デニスとの楽しい思い出と自分自身を殺すことになる。メイベルとパメラの魂はひとつ。“彼女たち”はメイベルの中に残っている最後の愛を殺してしまう」 彼女は一息ついてから、続く言葉を静かに紡いだ。
「デニスを殺したら──彼女の魂は闇に落ちてしまうの」
「そうか」 短く答えるベンジャミン。 「俺は、メイベルを止めなければならないんだな」 彼の妻は無言でうなづいた。
***
その一瞬。 ジェレミーは不思議な体験をした。
もう一度目を開けると、黒ノ女王がシャンデリアをグルグル巻きにするところだった。時間が巻き戻っている。……ああ。また俺がアレをやったのかも。ぼんやりと思うジェレミー。彼は自分が少しだけ起こってしまったことをやり直す(キャンセル)ことができるのを自覚していた。 ほんの一瞬前に見たのと同じようにアナ・モリィが巻き込まれそうになり、カーマインがそれを庇うように立った。 すると耳元で誰かが囁いたのだ。
「お前はがんばったよ……ありがと、な」
最後だけ、先ほどと違っていた。 シャンデリアはアナ・モリィたちの前で弾かれデニスには当たらずに壁を破壊して終わった。 アナ・モリィをしっかりと抱きしめるカーマイン。 二人を守るように立っていた金属の──鎖の壁。 それが崩れ落ちると、そこに身体中から血を流したレベッカが静かに倒れたのだった。
***
ジェレミーは、黒ノ女王を振り返った。
***
誰かが叫んだ。 大丈夫。ジェレミーは、心の中で答えていた。 もう、やり方は分かってる!
***
目を開くと、そこは病院の中庭のようなところだった。 薄暗い廊下を抜けて歩いていくと、庭に出ることができた。 どこかで小鳥が鳴いている。季節は春のようだった。暑くもなく寒くもなく穏やかな晴れの日だった。いつか来たことのあるような場所だったが、でも、そこは彼の知らない場所だった。 歩いていくと、噴水の前に二人の人物がいた。 彼のよく知っている二人だった。 片方が、彼に気付いて振り返った。そして微笑む。
「俺──行かなきゃ」
ベンジャミンは、そう言うとゆっくり立ち上がった。愛する妻の手に、自分の手を重ね、彼は自分の弟がやってきたのを見る。 「ジャム」 「ジェル」 近づくと、何も変わらない彼の──ジェレミーの兄であるベンジャミンがそこに居た。 屈託ない笑顔を浮かべながら。 「よく、ここが分かったなあ」 「うん。ちょっと苦労した」 兄は安らかな顔をしていた。ジェレミーは、ここから行こうと言い出せずに逡巡した。ここは夢の中の世界。ここならいつまでも死んだ妻と一緒にいられるのだから。 「あの、ジャム、その」 「ああ。俺は大丈夫だよ」 だがベンジャミンは、晴れやかな表情でそう言うのだった。「さあ、行こう」 「さよなら、ジャム」 アイリーンが顔を上げて別れを告げた。ベンジャミンは一度だけ両目をつむってから、妻を見た。
「さよなら、アイリーン」
二人の手が離れた。 「久しぶり、でも、えっと……。バイバイ、アイリーン」 ジェレミーが言うとアイリーンはパタパタと手を振った。彼女は目に涙を溜めながら、それでも笑顔だった。 ベンジャミンは……。 ふと気になったものの、ジェレミーは兄の顔は見ないことにした。 人には誰だって、辛いときがあるのだから。
***
「わたくしの邪魔ばかりしてッ!!」 ジェレミーの意識が戻ったとき、黒ノ女王は貴婦人らしからぬ金切り声を上げて、後ろに飛びずさっていた。 すぐには状況が把握できなかった。 先ほどから数秒しか経っていないのか。夢の中から連れ出したベンジャミンはどこにいるのか。 見れば、カーマインが傷ついたレベッカを助け起こしている。デニスは、まだ壁でもがいていた。 「ジェレミー、もう一度彼女を眠らせろ!」 声はクライヴだった。その指示がジェレミーを反射的に動かしていた。 彼は、キッと視線を黒ノ女王に向けた。先ほどのように強く念じて──。
「ジェル」
が、ポンと肩を叩かれジェレミーは集中を乱された。 ふと見ればそこに兄が居た。ベンジャミンはゆっくりと黒ノ女王に近づいていく。 「ジャム!」 「ありがとな」 彼の兄は、静かに言った。 「俺の代わりに、彼女がデニスを殺すのを止めてくれた。お前は本当にすごいやつだ」 驚くジェレミー。目をパチパチやりながら、通り過ぎていくベンジャミンの背中を見る。兄が自分を褒めてくれた? こんなことは初めてじゃないだろうか。嘘みたいだ。 「助けが必要なのは、俺の方、か。アイリーンが教えてくれた」 背中を見せながら、ベンジャミンはゆっくりと黒ノ女王に近づく。 「来ないで!」 半ば恐怖を感じて黒ノ女王が影の刃を放ったが、ベンジャミンの前では見えない壁に弾かれたように、脇へと逸れていった。 「──ありがとう、ジェル」 もう一度弟に礼を言うと、ベンジャミンは狼狽したままの黒ノ女王の元に辿り着いた。そのまま彼女を抱きしめる。放して、と、もがく彼女。 「メイベル、聞いてくれ」 彼女に、ベンジャミンは優しく幼い子どもに対するような口調で話しかけた。 そして、いきなりつむじ風のようなものが巻き起こって兄と貴婦人の姿がそれに飲み込まれてしまった。 「ジャム!」 叫ぶジェレミー。
いいえ、いいえ、いいえ。 いいえ、わたくしが彼をあんな姿にしてしまったの。わたくしは彼を止めなければ。 そうよ。わたくしは……メイベルは、デニスが大好きだった。 いいえ! わたくしは違います。わたくしは彼を止めたら、一緒に死ぬのです。まだ、この世に留まっている彼の魂とともに最後の審判の日を待つのです。 そ、そんな。わたくしには──。
──君は、メイベルを殺すのか? 彼女の心を殺すのか。 「!」 ひときわ強く風がホールを吹き荒れた。 テーブルクロスを巻き上げ、ガラスの破片を吹き飛ばし、貴婦人たちのスカートの裾を無遠慮に持ち上げた。会場のそこかしこで悲鳴が上がり、ジェレミーは思わず腕で顔を庇った。
──よく聞いてごらん。二人が、庭で遊んでいるよ。
もう一度、ジェレミーが兄の名前を呼んだ時。一瞬にして風がやんだ。まるで初めから風など吹いていなかったかのように。 しかし彼の前には、誰もいなかった。ベンジャミンと黒ノ女王は、風とともに消えてしまったのだった。 「消えた……」 呆然とその様子を見ていた招待客たちは、必然的に壁に叩きつけられていたデニスの方を見た。もし彼が生き残っているならば、ワイルド氏のいう死闘の勝者は彼となるからだ。 しかし、そこにも誰も居なかった。 デニスも、壁に多大な血痕を残したまま姿を消していたのだ。アイヴォリーの姿も無かった。このパーティの主だというのに、だ。デニスを逃がすために彼が自ら尽力したのかもしれなかった。 ホールに、ふって沸いたような静寂が訪れていた。 というわけで、対戦者が二人とも消えるという結末を迎えて、招待客たちは釈然としないままお互いの顔を見合わせたのだった。今夜の出来事は一体なんだったのか。確かに危険でエキサイティングな経験はできたかもしれないが……。
ジェレミーは、カーマインとレベッカのところに駆けつけていた。 「レベッカ……」 主人に抱きかかえられ、傷ついたメイドはうっすらと目を開けた。目をそむけたくなるようなひどい怪我だった。これは助からない、とジェレミーは直感で悟った。 人造人間、と言えど見た目は全く人間と一緒なのだ。そこにいるのは死を迎えようとしている一人の少女の姿でしかなかった。 彼女は、ジェレミーの姿を見ると、ほんの少しだけ微笑んだ。 「頑張って、レベッカ。きっとCCが助けてくれるよ」 レベッカは、ゆるゆると首を横に振った。彼女は自分の運命を受け入れてしまったのだろうか。呻きもせず、何も喋らなかった。カーマインも何も言わず、そっと彼女の額を撫でた。寂しそうに少女の姿を見つめている。 「駄目だよ、そんなの……」 レベッカの横顔がぼやけて見えて、ジェレミーはゴシゴシと目をこすった。 「まだ、一緒にお茶飲んだりさ、美味しいものいっぱい食べたりしてないじゃん。サッカーの試合だって行ってない。ゼンゼン遊んでないよ、レベッカ。もっともっと楽しいこと、いっぱいあるのに……」 プッと吹き出すようにレベッカが笑った。 「ダービーは観たことあるし、クリケットだってやったことあるよ」 「そうなの?」 ジェレミーは彼女が笑ってくれたことが嬉しかった。「でも、これからはサッカーの時代がくるよ。本当だよ、嘘じゃないよ。だから一緒に観に行こうよ」 彼女は答えなかった。少しだけ身体を起こしてジェレミーをじっと見つめた。 「──お前、変なやつだなあ」 それが、彼女の最期の言葉となった。 レベッカは眠りにつくように目を閉じる。ジェレミーがその名前をもう一度呼んだが、彼女の瞳が世の中を見ることは二度となかった。 カーマインは、少女の脈を取り首筋を触るなどしていたが、ジェレミーの顔を見上げ、ゆっくりと首を横に振った。 ギュッと目をつむり、ジェレミーは声もなく拳を握り締めたのだった。
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